冷たい風の中で細い小枝に小さなつぼみづくりを始めている梅の木は、大地との「〈いのち〉の約束」を果たそうと、懸命の努力をしているのではないだろうか。また藪の木が沢山つけた赤い実は、大地が果たした〈いのち〉の約束ではないだろうか。そしてどんな約束があって落ち葉は道いっぱいに広がって、こうして私に踏まれているのだろうか。カメラをもって歩くうちに、このようなことを考えた。
ふと使ってみた「〈いのち〉の約束」という言葉が懐かしく心に響いたのは、それが美しくそして豊かな未来を迎えるためにおこなうものだからではないだろうか。このごろ人の目に映るのは、競争している現在の世界ばかりで、出し抜くことだけが頭をいっぱい占めている。現在、現在、現在・・・・・・と、現在にしか生きていない人間には、よく考えてみると、約束する未来というものがないのだ。それは未来を迎えるための約束を何も大地としていないからだ。
「株というものは、少しも未来を保証するものではない」ということに、人びとが気づいたときに、昭和の初めのあの大恐慌がおきた。これから第二の大恐慌が世界におきるとすると、もっと酷いことになるだろう。なぜなら、それは「マネーというものは、少しも未来を保証するものではない」というこれほど確かなことはない事実を、人びとが真実として受け入れないわけにはいかなくなったときに、それはおきると思われるからだ。その時に人間の存在を支えるものは、もう何も残っていない。未来を保証するものは、畢竟、〈いのち〉の約束しかないと思う。
2014.12.31
経済活動の時間は外在的な時間であるために時計で計ることができ、世界中の人びとが共有できます。そのような時間は、ベルクソンによれば「現在」という点の一次元的な集合であって、現在、現在、現在・・・・と瞬間が切れている現在の集まりなのです。そのように切れていることによって、開始と終了の時を計ることができるので競争の勝ち負けを決めるために使うことができます。ですから、外在的時間は「競争の時間」でもあります。また、同じ理由によって利子の計算に使うこともできます。
一方、居場所において「生きていく」時間は内在的な時間であり、人間が、自分が生きていくことを「行く河の流れ」にたとえるときに意識される時間であり、ベルクソンの言葉を使えば、切れずに続いていること自体に大きな意味がある時間なので純粋持続と呼ばれました。その実態は、主客の二つに分離できない自己の〈いのち〉そのものを感じていることから現れるものですから、外に取り出して測定することはできません。それは居場所において生きているときに感じる時間、すなわち「生存の時間」なのです。
現在のように、どんな存在も経済成長に結びつけて解釈してしまう社会に生きていくことが苦しさを感じさせる理由は、「生きていく」という存在のために必要な「生存の時間」が「競争の時間」に置き換えられてしまい、前後が切れた「生きている」という状態に置かれるために、〈いのち〉が続きにくくなり苦しくなるからです。
「生存の時間」を取り戻すためには、どうすればよいでしょうか。それには、苦しくても、できる範囲で自分の〈いのち〉を、地球という〈いのち〉の居場所に与贈し続けることです。与贈を継続していれば、やがて〈いのち〉の「ドラマ」が生まれて「生存の時間」が広がっていきます。
2014.12.22
〈いのち〉に包まれている〈いのち〉という二重生命を撮ろうとしています。
人びとの〈いのち〉をつなぐ広い意味での「居場所づくりの技術」が次世代文明の技術としてクローズアップされようとしています。
2014.12.19