「分けることによって分かる」と考えて、つながっているものを分けていったのが西洋の近代です。しかし、つながっているものを分けることから、罪が生まれるのではないでしょうか。人間の原罪とは分けるという人間の習性から生まれてくるのではないでしょうか。イスラム国は、分けるという原罪が欧米とアラブの間でこだまし合いながら成長して現れたのではないでしょうか。
自然の中でみられるのは、個を越え、種を越えてつながることによって生まれる共存在です。その共存在を支えているのが、死と生がつながることによっておきる〈いのち〉の持続です。そのようにつながることか
ら、静かな時の流れが生まれてくることをあなたは感
じませんか。〈いのち〉の場とは、この〈いのち〉が
あなたの中に生み出す活きです。
2月3日の東京新聞の夕刊に、稲垣栄洋という雑草学の専門家が「雑草という言葉」という題で次のように書いていました。「雑草とは何か。この問いに対してアメリカの思想家エマソンはこう定義しています。『雑草とは、いまだ見出されていない価値をもつ植物である』すべてのものに価値があるはずなのに、それに気が付かないのは、私たちの方なのです」。
雑草は「油断しているとすぐ蔓延る」と、人間に嫌われてきました。でも、それは雑草が地球の〈いのち〉を維持するために、贅沢なことを少しも言わずに、懸命に活いているからではないでしょうか。冷たい風にさらされて生きている雑草を見ていると、この地球が雑草に救われるという気がします。
昨年の台風によって近所で一番高く大きな木の太い幹が折れてしまいました。次の日に市役所から車が来て木の枝を払い、幹を幾つかに輪切りにしました。それだけでなく、その木の近くの道のすぐ脇の木も何本か切り倒し、枝を払って幹を輪切りにして、払った枝だけを車に乗せて去って行きました。
それらの木々が涼しい日陰をつり、雨傘にもなっていた道が急に夏の太陽と雨にさらされ、その脇には輪切りにされた太い木の幹から〈いのち〉が次第に失われ屍となっていきました。それはまた人間の知恵をさらすことにもなっていました。
静かな時の流れが消えてしまった道に慣れてしまい、木々の死を悼む感情が次第に薄れていくうちに、いつの間にか木々の累々とした屍が雑草の〈いのち〉にすっかり包まれていました。雑草が生きものの〈いのち〉を受け入れて次に渡す〈いのち〉の居場所の活きをしているのです。歴史を振り返ると、これまで雑草は死者をその〈いのち〉で包み、その〈いのち〉を受け入れる〈いのち〉の居場所としての地球の活きをしていたのです。
もしも雑草が蔓延らなければ、人間の知恵だけでは地球の〈いのち〉を持続していくことはできないのではないでしょうか。地球から見ると、雑草の知恵よりも人間の知恵の方が勝っているとは言えないのではないでしょうか。いま、人間が困る質問は、「人間は地球のために何をしようとしているのですか」ではないでしょうか。上から目線の人ほど困るのではないでしょうか。
「私は『雑草』として地球に生きる」と言いきれる人、凡の意義に徹しきれる人が、これからの時代を背負っていく人だと思います。それは分ける人ではなく、包む人だからです。後藤健二さんは、そんな人だったかもしれません。
2015.2.6