情報がありすぎるのは情報がないことに等しい。そのことを実感させるのは大きな書店で本の洪水を目の前にしたときである。もう知識を集める時代ではない。「真理とは何か」を求めた哲学は旧き良き時代を思い出させるだけである。それは哲学的な真理を知識としてもっていても、それはざわざわとした心を一時は鎮めるほどの気休めにはなるだけで、地球を覆い尽くすほどに巨大化した人間の生臭い欲望が一風吹けば、どこかへ飛んでいってしまう。
今、地球における人類を含めた生きものの存続のために必要なことは、この人間の欲望を抑える知恵だ。この地球に生き残るために必要なものは知識ではなく、生きものの生存に役立つ「現場における実践の知恵」なのである。それには人から人へと伝えられている職人の知恵のように、情報化できないものが含まれている。
日本の出版社にとって、この時代は特に厳しく、事業の先細りの感を否めない。それは自らを知識を社会に送り出す業務に限定して、その先で求められること──人びとが生きていくために求めている知恵を発見したり、創ったりすることを業務から外してきたからである。しかし出版社がこの時代に生き延びるためには、現実に即してその知恵を送り出していく以外には、方法がないのではないだろうか?
同じことが大学についても言えるわけであるが、幸いなことに、知識を与えることをもって教育とするという国の方針によって、知恵をつくり出すことの困難にあまり悩むことなく有り難い月給をいただけることが保証されている。そこで、卒業していく学生のことを別にすれば、出版社ほどの悩みを感じることはないかも知れない。だが、その幸せは政治的な制度に支えられた仮想的なものであり、資本主義経済の崩壊の風と共に消え去って行く可能性がある。
企業や大学のあり方として問題になっているのは、事業の公益性である。売り手と買い手の間だけで関係が終わるのであれば、このようなことを問題とする必要はない。しかし、売り手と買い手の間の関係を、競争原理によってどこまでも押し広げていこうとすると、この両者とは全く関係のない生きものや環境が大きな打撃を受けてしまう。そのために人間を含めた生きものの持続可能性が、現に、危機にさらされているのである。
真っ先に犠牲になるのがいわゆる「弱者」である。この「弱者」には、企業において弱い立場にあるために、生きていくことができないほどの過酷なノルマを押しつけられて喘いでいる人びとも含めなければならない。しかし「弱者」が消えれば、「強者」もまたこの地球の上で生きていくことはできず、すべてが消えてしまうということが「生存の公理」である。そこで「弱者」を犠牲にしないばかりでなく、すでに大きな被害を与えられて苦しんでいる「弱者」を救う活きを含めることが事業の公益性である。
出版社の問題に戻ると、「売らんかな」と、公益的な意味も価値をほとんどもっていない本を次々と社会に送り出してきたために、大量の本が社会に溢れて大切な本を覆い隠してしまっている。社会をこの情報洪水の被害から守るために、出版事業にも久しく公益性が求められている。それが出版事業を知恵と結びつけていくことなのである。情報の洪水は、何も出版社だけの問題ではない。それはマスコミを含めて資本主義社会の構造的欠陥でもある。情報の渦をつくりつつその渦中に存在していることもあり、最近の大学には事業の公益性が厳しく問われなければならないと、多くの人びとが思っていることであろう。
2015.5.24