時間というものは、生成してすぐ消えていくものではないか。だとすれば、その生成する時間は暗在的で
あり、時計で計ることができるような明在的なものではない。そうだとすれば、時計で計っているのは一体
何ものだろうか。
走っている一台の自動車を見る。どれだけの間動いているか、その時間を時計で計ることはできる。その
間は自動車が時間軸の上を移動しているだけで、時間そのものを少しもつくり出しているわけではない。
本当は、過ぎていった時間を固定した空間を測っているから明在的になるのだ。
でも、その自動車を運転している者にとっては、未来は向こうの方から次々とやってきて、フロントガラ
スから自己を包んでは足早に過ぎ去っていく活きだ。運転している間、時間が生れ続けては、直ちに消えて
いるのだ。そして運転を止めれば、この時間の生成も止まる。刻々と生成しては未来から自己の方へやって
くる時間そのものを計ることはできない。何故なら、それは自己の〈いのち〉の活きであるために暗在的だ
から。感じることはできても、見ることはできないのだ。
植物たちは、その存在を未来へ続けようとする〈いのち〉の活きをもっている。だから、生まれる春を想
う力は未来の方からやってきて、植物たちを包んでいくのだ。その植物たちには、冬の間にも春を想う想像
力が活くのだ。そこで葉のない冬枯れのような細い木にも孤独な一輪の花を咲くこともある。「春よ来い」と、
植物の想像力が花をつけているのだ。植物たちにも〈いのち〉があるからこそ、暗在的な時間が未来の方から
春が迎えにくることを感じているのだ。
孤独というものは人間ばかりが感じるものではない。動物たちこそ、冬の日の寒く冷たい風の中でもっと
厳しい孤独に耐えて、未来の方からやって来る何ものかを、ひたすら待っているのだ。〈いのち〉があるか
らこそ孤独であり、この凍り付いたようになかなか過ぎていかない暗在的な時間の中で、未来に来る何もの
かとの出会いを待っているのだ。
若いということは、孤独に耐えて未来を待つことができるということなのだ。もしも未来を待つ心を失った
なら、それは老化したということなのだ。動物でも、また植物でも。
2016.02.04