今月の「福島からの声」は、みうらひろこさんの詩集「渚の午後」連載第3回目です。
今回ご紹介させて頂く詩「粛粛と」、「月に祈る」からは、原発を受け入れてきた町で暮らしを営んできたがゆえの心の苦しみ、痛み、憤り、そして悔しさがより深く伝わってくるようです。
原発事故は、環境汚染の深刻さだけに留まるものではありません。子供達や孫たちの未来を思い、故郷をより豊かにしてきたいという人々の願いまでも奪い取るものであったのです。
居場所を失うということはどういうことなのか?
ほんとうの居場所の復興とはどういうことなのか?
みうらさんの詩から、問いかけをより深めさせて頂けているように感じます。
(本多直人)
粛粛と
「原子力明るい未来のエネルギ-」
双葉町の職場に通勤していたころ
毎日この広報看板のア-チの下をくぐった
原子力発電所を推進している町だった
小学校を通して標語を公募し
教育の中でも
原子力は推奨されていた
国道六号線からJR双葉駅に続く道路は
夜になっても看板の照明は輝やき
十二才の時標語が採用された男性の家まで明りが届いていたという
看板の近くには町の施設や
商工会館 大手地方銀行の支店が並び
道路を挟んで桜の大木が枝を広げていた
クリスマスの時期になると
桜はイルミネ-ションで飾られ
春はひとしきり美しい花を咲かせ
風に舞った花びらが
私の職場の窓ガラスに貼りついたりもした
今、原発事故のため
全町避難区域となり無人化した町に
皮肉な看板は建ちつづけているが
老朽化したため撤去の話しが持ちあがり
標語を考案した男性は
原子力発電所の建設に積極的だった
町の反省とその歴史を示す
負の遺産として残すべきだと望んでいる
原発に夢を託した標語であったが
四十年目にして事故をおこし
町の人々は不安と怒りと悲しみを
背負いながら避難している最中
中間貯蔵施設建設の話しがもちあがり
住民の心を揺らしているのだ
国では残された原発の再稼働を
粛粛と進めていきたいと言い
それは沖縄の辺野古への
米軍基地移転問題で
官房長官と沖縄県知事との会談でも
同じ文言を並べたて
居住権を強制的に排除され
私たちの古里に対する思いは無視され
国の都合を優先している政策なのだ
福島県民よ
沖縄県民よ
私ら日本国民よ
粛粛と叫びつづけようではないか
原発はいらない
基地移転反対
私たちは屈しない
外は春の嵐だ
*広報看板は平成二十七年六月十八日付地方紙によると将来的展示を視野に復元可能な状態で保管する考えを町で示した。
月に祈る-懺悔
それが罪だったというのだろうか
東京電力会社からの交付金で造った
建物の中に入って
芝居や音楽祭を楽しんだこと
直営のエネルギ-館に入って
孫や子供達を遊技場やゲ-ムの広場で
思いきり遊ばせてやれたこと
東電が催した映画鑑賞会や納涼祭に
友人達と連れ立って行ったこと
いや、もっとあった
東電の広大な敷地内のつつじの花巡りの
シャトルバスに乗り込んで
花の美しさに歓声をあげたこともある
あのころの原発施設は
まさにユ-トピアですらあった
片田舎に不釣り合いな施設や設備に
都会の文化に触れているという
満足感を味わせてもらった
あの地域の娘たちには人気が高かった
エネルギ-館の案内コンパニオン
洗練された制服と頬笑みで
マニアル通りに教え込まれた
原子力発電所の安心・安全を
見学者たちに繰り返し説明する仕事
それが罪だったというのだろうか
何も知らなかった
安心・安全と擦り込みされ
まやかしとなった文化・文明を植え付けられ
素直に信じ、誘なわれ
東電で働くことへの誉れと自慢のため
学校の授業を受け、進路指導され
地域経済の発展に貢献してきた
それらすべてが
罪だったと私語かれ
あの地域の先頭に立って旗振っていた
住民や団体の長と呼ばれていた人達の
悔やみきれない思いを
東電のイベントを楽しんだこともある
私達のいじましい気持を
どうぞ掬いとって下さい
皓皓と照り注ぐ十六夜の月を見上げ
手を合わせ懺悔を問う私の頬に
涙が伝わってくる
罪というのはどのようなことだったのか
どうぞ教えて下さい
*電源三法での交付金