【解説】清水先生から「Facebookの投稿を場の研究所の会員のみなさんにもみていただきたいのですが…」何か方法はありませんか、と相談を受けました。
そこで、先生の文章のみ取り出して、少し書き直しをしていただいたものを場の研究所のホームページに掲載することにしました。(ところどころ、文が抜けているように感じるところは、他の方のコメントを省いているせいです。)
以下は、その文章です。
2017/10/01 の投稿から
「存在の科学」
今、次のようなことを考えています。
この宇宙の営みのなかで、たった一度だけ与えられた短い自己の命を意義深く生きようと懸命に努力することが、宇宙への自己に〈いのち〉の与贈となって、自己は宇宙と共に生きることになる。
そのために、宇宙という「舞台」に自己という「役者」を位置づける(「鍵穴」と「鍵」の)相互誘導合致を助けるのが(本格的な)宗教である。
その相互誘導合致によって、宇宙は自己の死を受け入れていく世界であるとともに、自己の存在を包む永遠の生の世界にもなるのである。「〈いのち〉を与贈できる場所は、たとえ意識できなくても、実在する。」
祈りも、与贈ですね。
輪廻転生は、人の〈いのち〉が終わることなく、何時までも生きていたいという願望から生まれたイメージであって、それを事実として受け入れることはできないと思います。
釈尊も、それを方便として説明しただけであり、道元もはっきりと否定しています。
死ねば、再び生き返ることはありません。
真宗の近代化に力を尽くした曽我量深という人が「信に死して、願に生きる」と言っています。
病気になったときのことを思えば分かりますが、自分の死がそのまま宇宙における一つのドラマを支える役者というイメージは生まれません。
死というものは、永遠の生の否定ですから、誰も死にたくないわけです。
しかし自己の〈いのち〉の与贈によって、自己の存在に新しいイメージが生まれて、死に対する意識が変わるならば、自己は新しい存在の世界にいるわけです。
その様に信じて生き、信じて死ぬ存在のあり方が、自己にとって問題となるのです。
そして「願に生きる」と言うことは、宇宙との与贈循環に生きるということです。
それが私が言う「〈いのち〉を与贈できる場所は、たとえ意識できなくても、実在する」ということです。
その様に生きたときに、死の世界としての宇宙が自己を包む生の世界になるわけです。
しかし、どうすれば宇宙に与贈できるのかは簡単には分かりません。それを教えるものが(本格的な)宗教です。
宗教は、科学では取り扱うことができない問題を取り扱っています。
しかし宗教は、科学的に正しいことが証明されている問題を否定するものであってはなりません。
宗教の問題はあくまでも場所における個人の存在の問題が中心になるべきです。
輪廻転生の考えは、科学的に証明されている事実と矛盾します。
もしも宗教が考える死が科学的に証明されている死の事実と矛盾するならば、それは宗教の考えが間違っているのです。
今回、私が書いたことは、科学的に確立している死の事実と矛盾しない死と生の解釈です。