【解説】清水先生から「Facebookの投稿を場の研究所の会員のみなさんにもみていただきたいのですが…」何か方法はありませんか、と相談を受けました。
そこで、先生の文章のみ取り出して、少し書き直しをしていただいたものを場の研究所のホームページに掲載することにしました。(ところどころ、文が抜けているように感じるところは、他の方のコメントを省いているせいです。)
以下は、その文章です。
2017/11/22 の投稿から
40周年記念に限定復刊された黒田亮『続 勘の研究』(講談社学術文庫)を読んでいます。
30年以上も前に感動して読んだ本であり、それが契機になって柳生新陰流にも触れることができたのですが、当時の自分がこの本の何に感動したのかが、今はよく分かります。
それはこの本にはこれまでの認識論的な科学の枠を超えて存在論的な科学につながるものの見方が書いてあるからです。
今、私自身は「存在の科学」をつくりたいとその原理を考えていますので、黒田の考えの基盤にあって、まだ彼が気づいていなかったものは何か、そしてこの本にあることを、どのように発展させていけばよいかが私なりに分かります。
でも、現在の日本にそう言う日本の未来の創造に本当に興味をもつ人がどれほどいるでしょうか?
日本に伝統的に伝わってきた深い文化を、未来の科学につないで、情報の世界を越えていくはたらきを創造することにに興味をもつ方、そしてまたこれからの世代のために、その活動の創造に与贈して下さる方はおられませんか?
来月の場の研究所の勉強会では、この本のことを紹介したいと思います。
京城大学の教授として心理学の分野で活動し、戦後、岐阜県で50歳台で亡くなられたこの著者の学識と創造的な才能を心から惜しみます。
黒田亮の仕事は心理学の分野の仕事で、哲学における西田の仕事とは直接関係がないと思います。
道具(言語も含む)を外から鑑賞している静力学的な心の状態と、実際それを身体によって使いこなしているときの動力学的な心の状態の本質的な差を指摘して、後者について考察し研究をしているのです。
(西田の研究は静力学的です。)黒田の考えを参考にして、情報によって事物が表現されるのは前者の場合だけであることを、現在の私たちは理解すべきです。
(このことが自動運転に対するAIの限界に関係があります。)心の活きや身体の活きと行為が分離できない身近な範囲(黒田の言葉では「生命圏」)では、〈いのち〉の活きによって情報によっては表現できない広い豊かな分野が生まれること、その分野に近づくためには、東洋や日本の伝統的な知が大切な役割をすることを指摘することができると思います。
私はこのことを「情報の〈いのち〉への還元」と言ってきました。
これからの時代には、この分野を開拓することが非常に重要になると思います。