東日本大震災から七年が過ぎ、八年目の春を迎えようとしています。
津波によって大きな被害を受けた被災地は、かさ上げや防波堤の復旧工事や、高台移転事業などが進み、荒れ果てて空疎だった海辺の風景も様変わりしてあの日のかたちを留めるものも殆どと言って良いほどに見つからなくなってきています。確かに“見えるところ”では復旧、復興が進んだということも言えるでしょう。しかし、それは私たちの心の内側に映る居場所の復興と同じとは決して言うことは出来ません。「あの頃と何も変わっていない」「あの頃よりも複雑である」という“見えない”声は今になってより大きなものになってきているようにさえ感じることもしばしばです。福島の原発事故はさらに深刻です。もちろん、津波による被害に加え、除染がなかなか進まないということも一つにはあると思います。しかし、それ以上に深刻なのは、失われた居場所の未来を描くことが出来ないということではないかと思います。ほんとうの居場所は、人々が未来への希望を持って、そこに生きていくことの出来る居場所であるはずです。除染によってその空間の安全性をいくら示されても到底、納得をすることなど出来ないと思います。戻ることの出来るはずの〈いのち〉の故郷は、未だに失われたままなのです。
今回の「福島からの声」は、前回に引き続き南相馬の短歌会「あんだんて」の合同詩集(第九集)の中の根本洋子さん(これまで掲載を頂いてきたみうらひろこさんの本名です)の作品集「ふるさとの六年(むとせ)」からの短歌「我らの町」とコラム「ぬけない楔」をご紹介させて頂きます。
根本さんの心からの声は、この失われたものの本質を私たちに伝えてくれています。まだまだ何も終わっていないのです。私たちはそれが何かということをこれからも問いかけ続けていかなくてはなりません。この問いかけを更に深めていかなければ、新たな〈いのち〉の居場所を創り出す力を生み出していくことは出来ないのではないでしょうか。
本多直人
我らの町
哀しみに 遺恨・怒りも重なりて 大川小の訴訟記事読む
自主避難・自己責任と復興相 誰が汚した我らの町を
「#」 つけて東北で良かったと 逆手の発想ありがとツイッタ-
家解体の 跡地に残る花々は 春の盛りに侘しげに咲く
家解体の 多き集落通り抜け 我が集落の墓地へと向かう
鼻歌を うたいて孫は湯に浸る 初勝利の美酒はサイダ-なれど
特売の キャベツがゴロリと真夜中に 寝返り打つは震度1かも
ぬけない楔
最近の新聞コラムで読んで知ったことである。
沖縄県の元知事は、回想録である省に陳情に行った時、「いつまで戦争の事を言っているのですか」と、若い職員に言われたという。同じことが、福島県に対しても起こるのではないかと、そのコラムニストは心配していた。
原発事故は収束していない。現在進行形のまま、帰還困難区域を除く町村で、避難解除がはじまった。私の故郷浪江町でもそうである。困難区域は、未だ除染はされていない。そこから風が吹きおろし、川の水が流れてくるのである。住めますよと定められた区域を除染した汚染物は、黒いフレコンバッグに入れられ、黒い袋は山積みされ、田畑に累々と並べられている。こんなところへは、いくら解除されたからといっても、帰りたい気持ちにはなれない。
あの忌まわしい原発事故から、六年も過ぎ七年目に入ってさえこれである。
事故を引きずっているのではない。穏やかで幸せだった日常へ、あの日に突然楔のようなものが打ち込まれたのである。その楔を抜いて歩きだした人もいる。しかし、未だにあがきつづけている人もいる。
ある人の家は、解体せざるを得なくなるほど雨漏りし、朽ち、動物に入り込まれた。(放射能さえ無かったら、六年前にすぐにでも手入れが出来た。)避難先でやむなく家を求め、生活にも慣れたが、苦渋の選択であったろう。
墓参りに帰ると、友人、知人の大きな家は更地になっていたり、解体中であったりと、見るかげもない。土台まで浚われた津波の跡地とちがうことは、屋敷内の樹木などが、淋しそうに残されているのである。家人に愛でられる事もなく、季節の花々が侘しく咲いている。これが七年目の春の姿であり、大地震の後の、原発事故さえ無かったら、被災者なら誰でもが思っている事である。
忘れてはならない。詠んだり、詩ったりして語り部となりたい。七年目の今もまた。
*コラムは昨年書かれたものですが、八年目の春を迎えるにあたって、読者の皆さまにもこの福島からの声を、さらに心に近づけて〈いのち〉の居場所とは何かを問いかけて頂きたいとの思いで掲載させて頂きました。(編集者 本多)