このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、 「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に 送付させていただいています。 □━□━□━□━□━□━□━□━□━□━□━□━□━□━□
場の研究所 定例勉強会のご案内
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ホームページ:http://www.banokenkyujo.org/
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「〈いのち〉を居場所に与贈して〈いのち〉の与贈循環を生み出そう」
〈いのち〉とは「存在を続けようとする能動的な活き」である。
(清水博)
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■2020年2月のメールニュースをお届けいたします。
◎今年最初の勉強会は1月17日(金曜日)に開催しました。
場の研究所の勉強会は従来通り、15時からワイガヤ的に推進し、哲学カフェのような雰囲気で議論がすすみました。
推進役のこばやしさんからの提案で下記のように進めました。
以下、こばやしさんのコメントです。
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今回、(参加の)皆さんが、場の理論の勉強会にどう言った自身の問題(問い、課題…)を持って来られているのか、それを話し、共有することから始めてみようと思いました。勉強会には、そう言ったことを言葉にしていく時間があってもいいんじゃないかと思ったからです。また、どんなことを思ってここにいるのか、他者の考えを知るということも大事なことなのではないかと考えました。
そして、できれば、場の研究所として、問いの共有ができたらいいなと思ったわけです。
・Aさんの話。「村を作る」という表現をされていましたが、ただの仲良しということではなくて、普段は距離をおきながらも、困ったときは協力できる、安心して肩の荷が下ろせる、そう言った、町においての新しい集まり方が出来ないものか、考え、実行しているそうです。その為に、場の理論の話は助けになるとおっしゃっていました。
・Bさんは、「場が開かれている」と言うのはどう言うことなのか分からないと言います。地元の共同体は、歳をとり体が不自由になると、地域のルールのノルマがこなせなくなります。その事でトラブルとなり、関係がギクシャクし、その地域を離れることになってしまった。結果、一人、アパートに移ったが今度は孤立した生活となった。「一人暮らしにおいて、場が開かれているとは?」どう言う事なのか、自立的に生きるために場の研究所で学んでいる。
おおごとではなくて、普段の生活にある小さな問題ではあるけれど、「考えるほど行き止まりになってしまうような問題」、「どの答えも矛盾した状況を生んでしまうような問題」、こういったことに、日々どのように向き合っていけば良いのか、といった問題や課題が話題となりました。
場の研究所では、この話し合いから、次のようなことを訴えていく必要があると考えています。
場と言うものを居場所にくっつけて、もっと具体的に、生活に密着した形で作っていく必要があるのではないだろうか。そういった意味で、居場所の研究をしよう、と呼びかけた方が良いかもしれない。
居場所とは何であるか?
居場所がどうすれば出来るのか?
居場所の無い人にどうすればいいのか?
「何々の問題がある」という見方だけで見るのはなく、やはり「居場所がない」という見方をしていく必要があるのではないか。また、生活と言うレベルで、 居場所が抱え込む問題を話し合っていかないといけないのではないか。
ヘーゲルの言う、「矛盾にぶつかり、それを超えて進歩がある」と言う考えじゃなく、もう、矛盾と言うものから抜けられないという現実があって、その矛盾とどう向き合っていくか…、矛盾のかたちをどういうふうに変えていくか、矛盾をどう小さくして、向き合える矛盾にしていくか、ということに意識を向ける必要があるのではないか。
また、もしかしたら居場所というものを誤解し始めているのではないか、そういう思いもあり、”居場所論”をみんなで考えることが必要なのではないか。
最後に、清水先生が終わりにコメントされたことばを書いておきます。
「今までの居場所は、今ここで、こちらへ行くか、あちらへ行くか、という分岐点にある訳ですが、どうも間違った方へ動いている感じがします。こっちへ行っちゃまずいという方向へ行っているような…。
もしかすると、今、居場所自体が大きく変わるという認識が無いのではないだろうか(そこが一番大事なことなのに)、とも思います。居場所というものが、もう、根元から変わったのだ、と、将来振り返って見た時、「そういう時代であった」というくらいに…。
そして、今、問われているのではないでしょうか、ここで、私たちがどちらに舵を切っていくかを…。」
===
以上
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17時からは、清水所長の資料ベースの勉強会となりました。
勉強会は「場のモデルと存在の分水嶺」というテーマで進められました。4ページの資料でしたが一部を抜粋して掲載いたします。
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個体とは、一個の生き物として生きていくことができる存在者のことです。その個体にとって居場所とは、そこで〈いのち〉の主体的な活きを発揮して存在できる場所のことです。複数の個体が同じ一つの居場所に存在しているときには、
主体性を発揮しようとして互いに衝突してしまう場合と、それぞれが主体性を発揮しながら互いに助け合って生きていく場合とがあります。
ここでは後の場合について考えてみることにします。
衝突することなく、複数の個体が同じ場に一緒に存在できるのは、各個体が自己の〈いのち〉を主体的に発揮できる位置をそれぞれ探してその場に存在しているからです。それぞれの存在は同じ一つの場と主客非分離の関係にありますから、各個体は場を媒介にして互いに自他非分離的につながっていることになります。存在者としての個体の生命が互いに独立しているということと、各個体の〈いのち〉(存在)が(場を媒介にして)互いにつながっているということは同時におきます。存在者として互いに独立していることは、その存在が互いに分離していることではないからです。このことは同じ家庭という居場所に、男女二人が人間として互いに独立して生きていて、同時に夫婦として存在して一緒に生活していくことに相当します。男性と女性は存在者としての個体であり、夫と妻が場としての家庭に位置づけられたその存在です。
この場における存在を(厳密性を犠牲にして)分かりやすく表現しようとしたのが、「自己の卵モデル」です(清水 博『場の思想』東大出版会)。これは複数の卵を同じ皿(居場所)の上に割った状態を示しています。白身は広がり重なり合いますが、黄身は互いに離れて混じらないまま存在します。皿という居場所のなかに広がって存在している白身が場を表します。
一方、存在者(自己)としての黄身は互いに独立して分かれた状態で存在します。そのために、互いの間の距離が近づき過ぎると、反発するような振る舞いをします。
場としての白身に囲まれた黄身の位置が場に位置づけられた自己の存在を表します。黄身は互いの存在がぶつからないように、白身としての場のなかに位置づけられた形で(居場所に)存在しているのです。主体性が発揮されるためには、存在者(自己)としての独立が必要ですが、その主体性が互いにぶつかること
なく多様性として発揮されるためには、あくまでも場(白身)に位置づけられた主体的な存在者(黄身)として自己の位置(存在)を維持することが必要です。
もともと存在者としての個体は黄身と白身を合わせたものです。人間の場合を例にとると、黄身の活きに相当するのは大脳新皮質の前頭前野の活きであり、また白身の活きに相当するのは身体の活きです。同じ居場所のなかで互いの身体の活きがつながった状態を、人びとは「同じ場に包まれている」と感知します。
正確には、たとえば「家庭という場に包まれている私がここにいて、あなたがそこにいる」と感知します。その時には、人びとは「場は居場所としての家庭に属している。そして自分はその場に包まれて家庭にいる」と感じています。自己という存在から観ると、存在者としての自分に属しているはずの白身が居場所に属していると感じられているのです。
居場所と一口に言っても、自己に対する影響力はさまざまです。自己の活きとその身体の活きが一体となった個体という存在者の活きをその内部で二つに分ける「存在の分水嶺」がどの位置にできるかによって、身体の活きが自己からどの程度離れて場として居場所に属するかが決まると考えられます。たとえば、
極端に狭い茶室の「居場所としての空間」とその雰囲気によって、自己が身体を動かすことが強く拘束されることから、身体の活きにおのずと支配されるように茶室に場が生まれます。そしてその独特の場を舞台にする「〈いのち〉の即興劇」として、茶道という藝術を生みだすものと考えられます。
場に存在しているときには、その場の状態によって様々な気持ちが生まれます。それを場によって生まれる「存在感情」と呼んでみることにします。場が互いに共有されると同じような存在感情がその場にいる存在者に生まれることから、「我々」という仲間意識が生まれてきます。そしてその我々には「我々
としての主体性」が生まれます。このことはスポーツのチームが競技に臨んでいるときにも、広く見られます。
多くの人々がただ同じ空間にいるだけでは我々という仲間意識は生まれません。たとえばデパートやスーパーの売り場でそれぞれが自分の買い物を探しているような状態では、自己の存在を位置づけることがほとんどできず、仲間としての存在感情もほとんど生まれません。それは人びとが同じ空間に存在していても、それぞれの存在の分水嶺が身体の活きを自己の側に引きつけているために———白身が黄身から離れて互いにつながる状態にならないので場が生まれないことから、それぞれの存在を同じ一つの場に位置づけることができないのです。福袋の売り出しの時などには、少しでもよい位置を占めようと互いに争っているために、独立的かつ自他分離的な状態になるのです。当然、存在感情の共有もありません
人びとが存在感情を共有して存在している場のことを「共感の場」(混同される可能性がなければ「場」)と呼ぶことにします。それぞれの卵の白身が切れ切れに空間的に広がっているだけでは、デパートの売り場にいる人びとの場合
のように、共感の場を共有する状態にはなりません。共感の場が生まれるためには、白身が互いにつながって共有されていること——身体の活きが居場所の方に属していることが必要です。
以上
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■2020年2月のイベント:「哲学カフェ」と「勉強会」について
なお、コロナウィルスの問題もあり、イベントスケジュールの変更の可能性があります。
ご参加予定の皆様は必ず事前にホームページをご確認ください。
・2020年2月の「哲学カフェ」は第2水曜日の2月12日です。
◎14時より17時
◎会費:2000円
◎参加申込方法と詳細:
下記「場の研究所の哲学カフェ」ページをご覧ください。
また、参加申込は、同ページ申込フォームよりお申込ください。
https://www.banokenkyujo.org/cafe/
・2020年2月の「勉強会」のご案内
従来通り、第3金曜日に北大塚の「場の研究所」で勉強会 を開催いたします。 ◎日時:2020年2月21日(金曜日) 15時から19時30分までの予定です。 (従来通り15時からワイガヤ的に議論を進めて17時より 勉強会を行います。) ◎勉強会テーマ: 仮題:「死と居場所」
場所:特定非営利活動法人 場の研究所 住所:〒170-0004 東京都豊島区北大塚 1-24-3 Email:info@banokenkyujo.org 参加費:会員…5,000円 非会員…6,000円 申し込みについては、毎回予約をお願いいたします。 (なお、飛び入りのお断りはしておりません。)
★3月の勉強会の日程変更について
3月は従来の第3金曜日が祝日のため、お休みとなりますので
第4金曜日の3月27日に開催いたします。
よろしくお願いいたします。
■編集後記 1月の勉強会はテーマ「場のモデルと存在の分水嶺」で開催。前半はこばやし研究員が「勉強会への参加の動機」について議論しましょうということで、いろいろな話がでて興味深かったと思います。キーは「居場所」の在り方でした。
17時からの清水先生の勉強会は、久しぶりに卵モデルの説明があり、分水嶺という新しい言葉もありましたがわかり易かったと思います。
ご参加の方ありがとうございました。
2020年2月は「哲学カフェ」を12日に、「勉強会」を第3金曜日の21日には予定通り開催いたします。是非ご参加ください。
なお変更もあり得ますのでホームページを事前にご確認ください。
定非営利活動法人 場の研究所 住所:〒170-0004 東京都豊島区北大塚 1-24-3 電話・FAX:03-5980-7222 Email:info@banokenkyujo.org ホームページ:http://www.banokenkyujo.org