今回の「福島からの声」は、詩人みうらひろこさんの詩集「ふらここの涙」からの連載の二回目です。
新型コロナウィルスの問題が大きく世界を覆いつくしている現在、原発事故の問題は人々の関心から少し遠ざかってしまったかのように感じることが度々あります。
こうした国民の関心の目を利用するかのように全国の原発の新たな施設の建設や再稼働への手続きは、今も着々と進められており、10年を経た今も、終わりの、いや始まりすら見えない福島の問題を、地球環境全体に関わる最大の課題として取り組んでいく姿勢は日本政府には全く見られません。
私たちは現在、新型コロナウィルスによって起こっている差別や分断を通じて、「目に見えない脅威」を私たちの居場所の中に抱えざるを得ない状況にあります。このことで、これから私たちがどう未来を描いて生きていけば良いのか?ということが深く問いかけられてきていることも事実です。この点においては、原発事故による放射能被害の問題とも決して離れた問題ではないことが分かります。同時にこのことは人々が地球環境の問題としての原発の問題に真剣に向き合う重要な機会を与えられているということでもあるのではないでしょうか。
新型コロナウィルスの問題を人間だけの経済的な豊さを際限なく拡大してきた近代文明における警鐘であると考えると、放射能汚染の気が遠くなるほどの半減期や処理しきれない現状を抱えた原発の問題が、どれほど大きな人類の課題であるかを私たちはもっと自分に近づけて考えていかなくてはならない時期に来ているのです。今回のみうらさんの詩「牛の哀しみ」は、この原発事故の問題のとてつもない根深さを、置き去りにされ、命を奪われた生きものたちの目から失われた故郷の姿を映し、その深い哀しみに心を向けることによって、私たちの〈いのち〉に強く訴えかけ、感じさせてくれる作品です。
牛たちを「偲ぶ」ところから始まる人間の存在の復興を考えさせられるのです。
本多直人
牛の哀しみ―偲ぶもの―
あの牛たちが今夜も私を眠らせない
夜中に目を覚ますと天井の闇が
牛の黒々と潤んだ瞳と重なり
私が再び眠りに吸い込まれるのを妨げるのだ
あの大地震の翌日、隣町の原発事故で
私達は我れ先にと逃げねばならなかった
置き去りにして来た牛たちが
時折私の記憶の襞の中から覗き見して
この世の不条理な仕打ちを訴えているのだ
町の中から人間が消えようとしていた日
自由に生き延びてくれよと
牛は牛舎の閂の掛かった扉を開け放たれ
おそらく戸惑いながらも本能の赴くまま
すぐ近くの小川の水を求めただろう
あの隣家の牛たちは種牛だったから
種付けされて何頭もの仔牛を産んだ
産まれたての仔牛は
母牛の羊水の湯気の中に覚束無く立ち
映画で観たバンビのように愛らしかった
仔牛は六ヵ月ほどでセリにかけられ
新しい飼い主に育てられ
やがて人間さまの胃袋を満たした牛の一生
いまこそ牛は自由になったのだ
原発事故のせいで野に放たれ
牝牛は牡牛と出逢い
人の手からの受精ではなく
本来の愛の溢れた仔牛を産んだ
人間を知らない仔牛は
野生牛となって自由を闊歩しただろうか
一時帰宅をする人間の時折り通る車の音に
なつかしそうに雑草の中から
親牛たちは姿を現すのだが
白い防護服姿の人間に怯え後ずさりした
あの牛たちはやがて捕らえられ
処分されたのだと知った
故郷を追われた人間達が
愛して止まないあの土地の
肥沃だった土の中に埋められた牛たちよ
未だセシウムの雨降りそそぐ
セシウムのしみ込んだ土の中に
沢山の牛の哀しみが
やがて花や草や樹木の種を育て
この地球を覆いつくすにちがいない