場の研究所メールニュース 2021年05月号

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

 

場の研究所の理事の前川泰久でございます。

緑輝く5月になりましたが、コロナの変異種の拡大もあり、またまた首都圏の緊急事態宣言となってしまいました。ワクチン接種も予約するだけでも大変そうです。でも、何とかウィルスとの共存在の世界を生きていきたいと思います。

 

4月の第11回目の「ネットを介した勉強会」は第4金曜日の23日に開催されました。

(これは電子出版された清水 博『共存在の居場所:コロナによって生まれる世界』が「勉強会」の共通の基盤になっています。)

テーマは「存在と宗教」でした。この清水先生の資料は後で紹介しますが、“存在の「蓑虫モデル」”というものが提案されて、新しい表現で場の思想が捉えられるかと思います。

今回も参加の方々の協力で、皆さんの種々の角度から考えたり感じたことが多く寄せられ、良い議論が出来ました。ありがとうございました。

 

5月も、「ネットを介した勉強会」を開催します。

(今月は第3金曜日の21日の予定となります。)

基本のテーマは「共存在」で進める予定です。

毎回コメントしておりますが、ネット上での「共存在」の場ができて来ていると感じております。今後も、その原因を探りながら改良を重ねて継続し、広げて行きたいと思っています。

 

なお、これまで、「ネットを介した勉強会」の内容については、メールニュースで議論状況や資料をご紹介してきております。もし、ご感想、ご意見がある方は、前回同様、今回も下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。よろしくお願いいたします。

 

ご感想、ご意見は、こちらのアドレスへお送りください。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

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毎回、資料の朗読データを作っています。

資料が届いてから、何度か黙読し、その後、録音しています。

今回の資料は、とても朗読しやすかった印象があります。

一年続けてきたから、そろそろ慣れた、と言うのもあるかもしれません。

しかし、そういった朗読の技術的なことではなく、感覚的と言いますか、文章の流れと言いますか、それが自分の息継ぎと合っている感じです。

そういう意味で、今回、とても朗読しやすかった。

そこで皆さんへの連絡で、「今回、とても読みやすかった、という印象です。」と書きましたら、「(それでは自分にも)理解しやすいだろうかと読み進めたら…、難しかった…」と言われてしまいました。(笑)

私も、同様で、さぞかし理解が進んだのでは、というと、そうは問屋が卸さない。

難しかったです。

今回、特に難しいと感じた箇所がありました。

「我一人」(われいちにん)についてです。

ここでは、その難しさの内容については書きません。

この難しさについて、この勉強会で私自身は、どんなふうに付き合っているか、ということを書いてみたいと思いました。

 

今回、特に難しく感じた「我一人」ですが、しかし、理解出来ていないのかと言われると、そのことについて意見をまとめることはでき、ちゃんと返信を書くことができていますので、何も分からないということとは違うように思います。

分かるけれど、分からない、という感覚です。

振り返っている今、私は「我一人」が分からない、と言います。

でも、受け取った資料を読み、1通目を書いているときは、(何か)分かって書いていた自分がいます。

適当に返信しているわけでは無いので、何かきっと分かって1通目を書いています。(何かきっと、と書いたのは、その時の自分に戻って、あの分かった感じを思い出そうとしても、うまく思い出せないのです。)

しかし、皆さんの1通目を読み、自身の2通目を書こうと思うと、(直ぐ上に書いたように)あの分かった感は、どこかへ行ってしまっていました。

分からない自分の登場です。

皆さんの1通目を読んで、さらに、(今回は)それぞれの方の1通目の気にかかったことへ返信する形での2通目を書いた自分がいました。

そして、その2通目を書きながら、更に「我一人」が分からなくなっていきます。(笑)

もう、困ったものです。(あの最初の分かった感、どこ行っちゃったのでしょう…。)

さらに、皆さんの2通目を読み、3通目を書く時、「(今回の資料は)岩登りの巨石のようだ」と書いています。

よっぽど難しかったですかね…。

3通目でこんなことを書いています。

 

ボルダリングという競技があります。

ボルダーというのは、巨大な石で、その巨大な石に登っていく競技です。

登る時、手がかりを探しながら登るのだそうです。

初めて登る巨石の場合、登っていくことで初めて見えてくる手がかりもあるのだそうです。

今回の資料は、この巨石の感じです。

そして一人ひとりの返信が手がかりに感じました。

読み進むことで、感じられるものが広がっていく感覚です。

良い感覚です。

手がかりというのは、巨石そのものであるという点も何か近いものを感じます。

 

思うに、時に、手がかりは、分からなさ、という形で現れることもあるようです…。(笑)

この勉強会では、直接、人と面と向かうことはありません。(画面越しであっても…。)

使っている技術も、(最近では時代遅れと呼ばれていたりもする)電子メールだけです。

しかし、ここには、学習を続けていく、学習を続けていこうとする、その時に、それを助けてくれる活きがあると言えるように思います。

今回、特に、「我一人」の難しさに、そう感じました。(私としては…。)

 

最後に。

分からないまま会が終わり、その後もずっと分からなさを持ちながら今日までいたのですが、そんなこともあって、始終ずっと考え続けてました。そして、今日、そのこんがらがりの緒を掴めたような気がしていることをお伝えしておきます。(良かった。)

 

以上。

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◎「ネットを介した勉強会」の4月のテーマ「存在と宗教」の資料(清水先生の資料)のダイジェストを紹介します。

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<存在と宗教>

 

1.「生きている」ことと、「生きていく」こと

・「生きていく」ということは、〈いのち〉の活きによって居場所を「舞台」にして

ドラマを即興的に演じるようにして生きながら時間をつくり出していくということ。

・「生きている」ということだけであれば、時間をつくり出していく必要はない。

(気を失っていても、生きていることはできる。)

・生きていく「ドラマ」に登場する「役者」のことを存在者と呼ぶことにすると、

その「役者」が「舞台」で演じていく「役」に相当するのが存在である。

 

例:家庭における父親としての「役」、またその同じ人が会社の決められたポジションで働くことも「役」。

⇒「舞台」としての居場所が変われば、その存在も変わる。

★従って、「生きていく」ということは、必要に応じて「舞台」を切り替えて、「役」を演じながら時間をつくり続けていくことになる。

 

2.「世間的な生き方」と「哲学的な生き方」

人は誰でも人生を生きて、最後には死んでいく。人の人生は一つしかないために、人生という「〈いのち〉のドラマ」は一つしかなく、さまざまな「舞台」を移りながら生きていくことも、「人生の舞台」のうちのできごとである。

・「世間的な生き方」:自分の存在を切り替えながら生きていくこと

もう一つ異なる生き方は

・「哲学的な生き方」:人生という「〈いのち〉のドラマ」をどのように演じて、どのように終わるかということを考える生き方

★「人生の舞台」において演じていく「役」がその人本来の存在である。

 

3.自分自身の存在の問題:宇宙の「いま、ここ」に生きているという事実

・「人生の舞台」がどれほど複雑でも、生きていくことは即興的な「〈いのち〉のドラマ」によって時間を生成していくことである。

・「〈いのち〉のドラマ」の形で演じていくその人生は、「覆水盆に返らず」のたとえのように繰り返しができず、最後は必ず死で終わることから、「なぜ『いま、ここ』にだけ『この自分』が存在しているのか?」という自分自身の存在に対する疑問が、昔から多くの人びとのこころを捉えてきた。

・その自己の存在は、自己自身にとっては客観的な問題ではない。それは、自己自身の誕生と死というできごとを含んでいるために、他の誰かに代わって貰うことが絶対にできない問題だからである。

・宇宙が始まって以来、過去には一度も存在したことがなく、また未来にも二度と存在することは絶対にありえないこの自分という事実を自分自身の存在の問題として考えてみる。

 

4.「自分自身の死後の存在をどう考えるか」という問題

・科学者は客観的な問題を解くことはできるが、

自分自身の誕生と死を含める主体的な存在を解くことはできない。、

⇒無視できない「自分自身の死後の存在をどう考えるか」という問題は自己の存在の核心的な問題である。

・⾃分の死を、⾃分⾃⾝の存在の問題として、どこまでもはっきり捉えようとすると、必ず恐怖や苦悩に直面し、「自己の死を前にして、いかに生きるべきか」という主体的な問題が生まれてくる。

そこで「いま、ここ」の⾃⼰の存在の救いを求めることになる。

・人間の存在そのものがもっているこの問題に対応するために、宗教は生まれてくるのである。

 

◎西田幾多郎は、宗教が自己の存在を説明する論理を、「逆対応の理論」という形で哲学的に示している。

⇒「本願を成就して弥陀となられた法蔵菩薩の長い五劫の修行も、この親鸞一人(いちにん)のためであった」という親鸞の宗教的な「我一人(いちにん)の悟り」を説明する理論。

★自己自身の死を含む自己の存在の問題は「自己の問題」ではなく、「宇宙の問題」——自己一人(いちにん)の問題——であるから、自己が自己の方から出発してその原因を探そうとしても原理的に分かるものではなく、逆に(逆対応的に)の宇宙の方から出発して考えていく問題——宇宙的現象——なのである。

 

5.居場所と自己の相互誘導合致について

・〈いのち〉の与贈循環によって時間の生成がおこり、そのことを居場所と自己の相互誘導合致という形で表現できることを、前回は次のように考えた。

★最初にまず「全体」としての居場所(宇宙)があり、そこに生まれた新しい「部分」(自己)が相互誘導合致によって、その存在を「全体」(宇宙)に位置づけられて、新しい「全体」(宇宙)をつくっていくという生長の形である。

(機械のように「部分」を組み立てて「全体」をつくる形にはならない)

★今回の考え方:

・「我一人」を説明する逆対応の理論でも、大きく見れば、宇宙の方から自己の方へはたらきかけるという同様の形をしている。即ち、相互誘導合致(与贈循環)が「我一人」の存在を、その居場所としての宇宙に位置づけるのである。

⇒苦悩する「我」の救済は、居場所としての宇宙から循環してくる「居場所の〈いのち〉」の活きによってなされる。

・法蔵菩薩の物語の本質が自己の存在に悩み苦しむ人の救済にあるならば、その物語は、宇宙における与贈循環(相互誘導合致)によって「我一人」の存在を居場所としての宇宙の〈いのち〉で包むことでなければならない。(聖書を読むと、復活したイエスの〈いのち〉も、「居場所の〈いのち〉」であることが分かる。)

 

6.「いま、ここ」にだけの存在の生まれ方について

・「我一人」という形の認識の根底にある活きは、自己による自己自身の存在の「この自分」という認識。

その「この自分」は、たった一回だけの宇宙現象として「いま、ここ」にだけ存在する。

Q:その存在の形がどのようにして生まれるかを考えてみる。

・自己の〈いのち〉の活きは、大きく見て2つ

1)大脳の前頭葉を中心にした活き:「自己中心的な自己」の活き

2)身体の活き:その「自己中心的な自己」を「この自分」と愛着して、その存在を場所に非分離的に位置づけようとする場所的自己(阿頼耶識)の活きに相当する。

まとめると、自己は自己中心的自己(脳)と場所的自己すなわち阿頼耶識(身体)という二重構造をもっていることになる。

・この自己の二重構造が、「我一人」の存在を以下のように構造的に説明できる。

⇒注目したいのは、阿頼耶識の活き。自己から居場所への与贈は、この阿頼耶識がもっている「場所と非分離の形になろうとする性質」によって生まれると思っている。そのために、阿頼耶識はその一面で、存在の居場所をつくる活きを持ちつつ、また別の一面で、自己中心的自己を愛着して包むのである。

 

7.存在の「蓑虫モデル」

・阿頼耶識がこのようにはたらくために、自己中心的自己は阿頼耶識という「蓑」によって愛着を持って包まれた蓑虫のような存在にたとえられる。

1)「蓑」の外側の世界(場所)とは「蓑」(阿頼耶識)の与贈性によって非分離的に結びついて存在する。

2)自己中心的自己自身は「蓑」のお陰で、さまざまな居場所を選択して、あたかも自分自身がその場所に直接存在しているかのように振る舞いながら生きていくことができる。

3)しかし、実際に自分が存在しているのは「蓑」のなかであり、場所ではないのである。

⇒これを存在の「蓑虫モデル」と称することにする。

 

・宗教的な場所に存在して、五劫にわたって与贈循環の歴史(生きものの生物進化の歴史)を経てきたのは「蓑」の方であって、自己中心的自己という「蓑虫」(我)の方ではないのである。しかしその「蓑」のお陰で、「存在の宇宙」に相当する場所において、我は「蓑」に包まれて、「我一人」の存在を与えられている。「蓑」が外側の場所に位置づけられていることを、蓑虫(我)から見れば逆対応に相当する。

 

8.「蓑」は「存在の宇宙」を旅する宇宙船

・詩人が詩をつくるときは、その「蓑」に一人籠もって「詩の宇宙」に存在し、その存在を他に置き換えることができない存在者として、自己の存在を表現していく。詩人の「蓑」には、一人だけしか入ることができない。従って、その時、存在の宇宙の住人はその詩人一人(いちにん)だけなのである。詩人は、その唯一の「いま、ここ」を歌っていく。しかしその詩は多くの人のこころに共感の感動をもたらすのである。そのためには、「いま、ここ」が歌われていなければなりない。

・昔は学者も自己の存在をかけて「蓑」のなかの孤高の世界でその存在を究めていく生き方をしていたが、いつの間にか「蓑」の外に出て高度情報化社会に情報を提供する専門家となって生きていく存在の仕方が定着してきてしまっている。

 

9.先月の勉強会の後の「余韻」での宿題について

Q:『同じ居場所を「鍵穴」とし、複数の人が「鍵」となって相互誘導合致する時に、各人がそれぞれ一個の「鍵」となるのか、それとも人びとが一緒になって一個の「鍵」をつくるのか?』という問題を宿題として考えていただいた。

それに対して、数人の皆さんから「この両方がおきる」という考えのもとに、いろいろなお答えをいただき、どれもよかった。

・その内でこばやしさんからいただいた答えは、

★「人びとが家庭のような居場所に共存在している時には、それぞれが一個の「鍵」となり、居場所の外の世界に向かって生きていく時には、全体が一つの「鍵」になる」というもので、その活き方が変わる原因が示されていた。そのように目的を内外に分けたことから、私たちが生きていく居場所では歴史的相互誘導合致がおきていくことを間接的に示唆した点が素晴らしいと思う。

⇒そのことは、西田幾多郎の矛盾的自己同一「一即多、多即一」(「鍵」が「多」となり、また「一」となることが存在の表裏として矛盾なく成立している状態)が、歴史的時間が生成する状況のもとではじめて成立することを示すことにつながっていくからである。

 

10.「我一人」という「鍵」が「存在の宇宙」という「鍵穴」と、どのように相互誘導合致していくかを考える

・そこでは自己の存在に対する矛盾的自己同一を考えていないことに気づく。

・それは居場所としての「存在の宇宙」における共存在を考えていないことからきている。

★原因:「蓑」の外側の場所では共存在が成り立っていても、その内側に「我」が存在している空間には「我一人」しか存在していないからである。

★理由:我が存在している「いま、ここ」という限られた時間と空間が問題にされているからであるが、その原因は、死を前提にして「我一人」の存在を考えているからである。

⇒そのために共に生きていくことをテーマにする共存在は「蓑」の外側の場所と切り離されており、「蓑」の内外は存在の裏と表、つまり死と生の関係にあると考える。

 

◎フランクルは「自己が人生に何かを求める代わりに、自己が人生から何を求められているかを考えよ」と書いている。「いま、ここ」に自己が存在の救いを得ようとするならば、まず与贈によって、「我一人」の状態をつくることから始めなければなりない。与贈は「蓑」を「存在の宇宙」に位置づけるからである。

 

場の研究所  清水 博

 

以上                               

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以上の資料をベースに議論を行いました。場の研究所では、哲学や精神から知識を切り離さないための努力をこれからも重ねていきます。

 

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◎「ネットを介しての勉強会」開催について

5月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第3金曜日21日に開催予定です。

場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。参加される方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただきます。

(参加者の方には勉強会の資料を早めに送ります。)

参加されない方にも、これまでの様に翌月のメールニュースでテーマ資料など内容の説明を致します。

 

なお、今後、状況の好転があれば、イベントの開催について、臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたしますので、今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2021年5月5日

場の研究所 前川泰久