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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
場の研究所の理事の前川泰久でございます。
6月になりました。コロナの変異種の拡大も影響もあり、首都圏を中心に緊急事態宣言の継続で先が見えてきません。ワクチン接種予約も高齢者は何とか進んで来ていますが接種は始まったばかりで一般への拡大には時間がかかりそうです。場の研究所では、厳しい状況であるからこそ、共存在の世界の議論を前向きに継続していきたいと思います。
5月の第12回目の「ネットを介した勉強会」は第3金曜日の21日に開催いたしました。
(これは電子出版された清水 博『共存在の居場所:コロナによって生まれる世界』が「勉強会」の共通の基盤になっています。)
テーマは「歴史と〈いのち〉の原理」でした。この清水先生の資料は後で紹介します。
今回も参加の方々の協力で、種々の角度から考えたり感じたりしたことをコメットして下さり、お互い刺激を受ける内容も多く、良い議論が出来ました。ありがとうございました。
6月も、「ネットを介した勉強会」を開催します。
(今月は第3金曜日が18日と少々早めなので、第4金曜日の25日を予定したいと思います。)
基本のテーマは「共存在」で進める予定です。
毎回コメントしておりますが、ネット上での「共存在」の場ができて来ていると感じております。
今後も、その原因を探りながら改良を重ねて継続し、広げて行きたいと思っています。
なお、これまで、「ネットを介した勉強会」の内容については、メールニュースで議論状況や資料をご紹介してきております。もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。
今後の進め方に反映していきたいと思います。よろしくお願いいたします。
ご感想、ご意見は、こちらのアドレスへお送りください。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:
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「ネットを介した勉強会」は、本格的に始まってから1年が経ちました。
先ずは、参加してくださった方々、また、メールニュースなどを読んでいただくことで、その活動を見守ってくださった方々にお礼をお伝えしたいです。ありがとうございます。
当初、大塚の研究室で毎月開催していた「勉強会」を、なんとか継続したい一心で組み立てたものが、この「ネットを介した勉強会」です。
少しづつやり方を調整して、昨年の夏を過ぎたあたりから、成熟したように感じています。
毎回、十数名の参加者で実施していますが、ありがたいことに、互いの存在の間につながり感が生まれ、全員の共存在意識が高まる結果となってくれています。
また、私の感想ではありますが、資料を理解し学ぶことや、他の参加者の方の理解や意見一つひとつは、単なる知識ではなく、自分自身の人生とのつながりを確かめる知恵となってくれています。
このことは、このコロナ禍において、日々を生きていくときの助けです。
また、きっと、他の参加者の方も同様なのではないかと想像しています。
そして、(年初にも書きましたが)このような勉強会の場をいま少し広げることができたら、と思っています。
また、勉強会への参加もお問い合わせしていただければ、と思っています。
ここで、もうひとつ、お願いがあります。
昨年8月に出版した電子書籍「共存在の居場所:コロナによって生まれる世界 清水博」を、是非、読んでみてください。
(「ネットを介した勉強会」は、この電子書籍がベースとなっています。)
「電子書籍「共存在の居場所:コロナによって生まれる世界 清水博」を出版しました」
https://www.banokenkyujo.org/kyousonzainoibasyo20200821/
ご意見、感想など、送っていただけると幸いです。
(メールアドレス)<<どこが良いでしょうか?
以上。
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◎第12回「ネットを介した勉強会」の5月のテーマ「歴史と〈いのち〉の原理」の資料(清水先生の資料)のダイジェストを紹介します。
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<歴史と〈いのち〉の原理>
1.清水先生の戦前戦後の話
・大恐慌の最中、昭和7年(1932年)に生まれ。日中戦争が始まった昭和14年(1939年)に小学校入学。3年生の昭和16年(1941年)に太平洋戦争開始、昭和20年(1945年)に小学校卒業。愛知県窯業学校に入学した年に敗戦。
・小学生時代に戦争で、また大学を卒業するまでは戦後の苦しい時代に学生であった。
・当時の就職事情は厳しく、大学を卒業しても、就職できるかどうかを心配する同級生も多く、学生担当の教授に「就職はどうすればよいのか心配だから教えて欲しい」とお願いした。教授は教室に来て、「諸君安心したまえ、諸君の先輩で餓死をした者はまだ一人もいない。」と言って帰ってしまった。
◎当時の一科学者として、「諸君も先輩のように生き給え」と説明した言葉であり、私たちも納得しないわけにはいかなかった。確かに、その言葉は当たっていた。
2.「歴史的相互誘導合致という原理」の検出について
・数年前にプリントした紙の一枚の裏に、万年筆で「一つの原理が見えてくるまで思いを純化する」という自筆の文章を発見。これは現在も重要なことであると感じた。
・科学の目的は現象の裏にあって現象を説明する原理や法則を発見することであると言われている。
一科学者としての生涯をかけて私が発見した生き方は、この言葉であった。
⇒そこで一科学者として、私は何を残していくべきだろうかと改めて考え、「歴史の原理が見えてくるまで、昭和という時代に生きた思いを純化していくこと」ではないかと、改めて自覚した。
それは、
1)歴史的な経験の反省の純化から生まれる形を残すことである。
歴史的な時間の生成の原理として、歴史は場所に生まれる。
⇒従って、その原理は、場所の哲学である西田哲学と、生命体の時間的な成長(形態形成)という現象の科学的理論(たとえば相互誘導合致の理論)を結びつける形になるであろう。
2)多様性と調和のある主体的な展開を結びつけることがテーマになると考えられる。
⇒従って、コロナ禍とそれ以後の社会においても活用できる原理を提供することになるであろう。
◎まとめ:家庭から地球に至るさまざまな居場所のレベルで、「生きていくとは何か」が主体的に問われなければ形にならない。
⇒このような思いによって、歴史的相互誘導合致という原理が見出された。
3.「生きものの居場所」について
・私は生きものが生きている状態を、要を尽くして表現しているものが、哺乳動物の臓器ではないかと思っている。
・臓器はそれを構成している非常に多数多様な細胞からできているが、その細胞がそれぞれ「細胞としての〈いのち〉」をもって生きているように、臓器も「臓器としての〈いのち〉」をもって生きている。
⇒そのことは臓器移植によって明らかである。
・その臓器は、細胞が集っている場所であり、その〈いのち〉はそれを構成している細胞からの〈いのち〉の与贈によって生まれている。
⇒つまり、臓器を構成している細胞たちは、それぞれ〈いのち〉をもって生きている独立した生きものであると同時に、臓器という「全体」を構成する「部分」として、臓器としての〈いのち〉を生きているのある。
・この臓器と細胞(複数)の関係は、一口に言って非分離であり、西田哲学の矛盾的自己同一「一即多、多即一」によって表現される。
◎この矛盾的自己同一は、臓器に限るものではない。視野を広げて見てみると、臓器のようにはっきりしていなくても、「生きものとそれが生きている場所の間に広く成り立つ関係」なのである。
⇒場所がそこに存在している生きものと非分離な状態にあることに注目するときに、私は「その場所のことをその生きものの居場所」と呼ぶことにする。
◎歴史の生まれる条件:ある場所にある生きものの歴史が生まれる時には、その場所がその生きものの居場所になっている必要がある。
4.〈いのち〉の即興劇について
・受精を考えても理解できること:
「全体」(居場所)からの〈いのち〉の活き(与贈)を受けて、新しい「部分」(個体)がその「全体」に生まれて、その〈いのち〉の活きを「全体」のために使う(与贈する)ことによって(その「部分」は)「全体」と非分離になる。
⇒つまり〈いのち〉が与贈によって循環することによって、「全体」が新しくなっていく。
「覆水盆に返らず」のたとえのように、与贈された〈いのち〉はもとへ戻って来ないが、居場所では与贈による〈いのち〉の循環によって、未来に向かって時間的な変化が進んでいくことになる。
⇒居場所に歴史的な変化(ドラマ)が生まれて進んでいくのである。
◎この歴史的な変化を居場所に生みだしていく原理が相互誘導合致である。
⇒この「ドラマ」には、シナリオが与えられていないので、それは即興劇の形でおきる「〈いのち〉の即興劇」である。
・私たちの身体は非常に多数の「〈いのち〉の即興劇」の集まりから構成されている大きな劇場である。
⇒そこでは、多数多様な「〈いのち〉の即興劇」によって、さらに大きな「〈いのち〉の即興劇」が演じられている。これが、生きものが歴史的に生きていくという形である。
5.「〈いのち〉の即興劇」を続けるための「観客」の活き
・「〈いのち〉の即興劇」:限定された大きさの居場所を「舞台」にして、そこで人びと(一般的には生きもの)がどこまでも「即興劇」を演じて(生きて)いこうとすると、遂には「ドラマ」の新しい筋を実質的につくり出せないネタ切れの状態になってしまい、そこで「即興劇」は終わってしまう。
⇒「〈いのち〉の即興劇」をどこまでも続けていくためには、「舞台」の外から舞台の状態(居場所の存在)を変える活きをする「観客」(環境)が必要になるのである。
・この「ドラマ」の実質的な行き止まりは、自己言及のパラドックスと言われる状態が「舞台」(「全体」)に生まれるために時間的に前へ進めなくなることによっておきるからである。
・自己言及とは自己が自己自身を言い表すこと。
★自己言及のパラドックスについて:
「私は嘘つきです」と、誰かが自己を言及した場合、もしもその人が本当に嘘つきなら、それは嘘であるから、その人は正直であることになる。しかし、もしもその人が正直なら、「嘘つきであること」が本当であることになるために、矛盾してしまう。
⇒このように自己言及によってパラドックス(意味論的な矛盾)が生まれるために、相互誘導合致によって「〈いのち〉の即興劇」が進行しているときに、自己言及の状態が舞台に生まれると、そこでドラマがストップしてしまうのである。
・理由:それは一度使ったストーリーと、全く同じストーリーが舞台に現れると、そこで「即興劇」が自己言及のパラドックスの状態に陥ってしまうからである。
・対策:それを避けるためには、「舞台」そのものがストーリーとして新しく進化していくことが必要であり、その活きをするのが「観客」なのである。
◎その「観客」のある相互誘導合致が歴史的相互誘導合致である。
・その環境に開かれた形によって、歴史的な時間を生成しながら進化していく居場所が生まれることになる。歴史的時間は、また、歴史の意味解釈において自己言及のパラドックスを避ける活きをしている。その結果、歴史では、そのストーリー性が重んじられることになるのである。
6.〈いのち〉について
・歴史をつくり出していく〈いのち〉とは、私は存在を継続していく能動的な活きであると定義をしてきた。
⇒具体的には、「〈いのち〉の即興劇」を演じ続けていく活きであるということもできる。
◎具体的説明:居場所に存在する「役者」としての個体が自己の存在を「舞台」としてのその居場所に表現する個体の居場所への与贈力と、また「舞台」としてその与贈を受けた居場所が与贈によって新しくなった状態を、「役者」としての個体へ表現する居場所の個体への与贈力ということになる。
・前者の与贈はconstructiveで明在的
・後者の与贈は場の活きとして生まれるものであるので inductiveで暗在的。
⇒分かりやすく言えば、
・前者は物理的な活き
・後者は情報的な活き
である。
⇒私は〈いのち〉の活きは明在的で物理的な活きと暗在的で情報的な場の活きという二つの要素が混じったものであり、与贈循環(相互誘導合致)によってそれが選択的に現れることから「〈いのち〉の即興劇」が演じられていくと考えている。
★例:個体と居場所の例として家族と家庭を考えてみる
・家庭における家族の生活が継続的に維持される―「〈いのち〉の即興劇」が家庭という舞台で家族により継続的に演じ続けられていくためには、「役者」としての自己の「役割」(存在)を、家族がそれぞれ「舞台」として家庭に安定して位置づけられていることが必要である。
・〈いのち〉の情報的な活き(場の活き)はあるべき役割(存在)を家族それぞれに示す。それは家族それぞれが自己の居場所としての家庭への与贈に対して最も大きな与贈が家庭から安定して返ってくる役割(存在)を、家庭から与贈される場の情報によって暗在的に示されるからである。
・そのために必要となるのは、自己の与贈に対して居場所から返ってくる与贈の大きさ(場の反応)を知ることであり、自己の他の家族の与贈の影響はできるかぎり除かれていなければならない。
⇒つまり、できるかぎり「我一人」の与贈循環が選択されていなければならない。
◎その「我一人」の選択をおこなうのが、自己の蓑虫モデルの「蓑」である。家族がそれぞれの「蓑」に包まれているから、独立した〈いのち〉をもった家族が一緒に暮らしていけるのである。
⇒言葉を変えると、「蓑」があるから矛盾的自己同一が成り立つのである。臓器の細胞もそれが存在している位置によって、その活き方が少しずつ異なるので、その存在が同様な原理によって居場所としての臓器に位置づけされていると考えられる。
7.「〈いのち〉の即興劇」を続けていくために
・そのドラマの物語を創造的に作り続けていかなければならない。
⇒それは同じ物語の繰り返しになってしまうと、自己言及のパラドックスが生まれて、その「即興劇」の「舞台」となっている居場所の〈いのち〉が消えてしまうからである。
・その物語の生成は居場所という「生きもの」の一種の成長に相当するから、歴史的相互誘導合致(歴史的に続いていく与贈循環)の理論が当てはまることになる。
⇒その結果として、「観客」(環境)からの活きによって、居場所の複雑性が絶えず上昇して、「役者」の役柄(存在)の多様性が増えていくことが必要になる。
・ドラマの発展によって、消えていく役柄(存在)もあるが、それよりも多くの新しい役柄(存在)が生まれていくことが、自己言及のパラドックスを避けて、ドラマを継続していくためには必要になる。
・このような状況で個体には、「舞台」(居場所)に対して自己を開くと同時に「舞台」(居場所)の複雑な活きのなかで自己の存在を護(まも)っていくという「開けて閉じる活き」が必要になり、「〈いのち〉の即興劇」の継続には、それに応じて「蓑」の活きが進化していくことが必要になるのである。
・昭和時代の日本の歴史的失敗は、世界における欧米を中心にした他国の「蓑」の進化を読み取れず、むしろ逆に居場所の多様性を減らしたことから、自己言及のパラドックスにぶつかってしまったことにあるのではないかと、私は思っている。
・西田幾多郎の根本的な興味は宗教とくに仏教の原理の哲学的解明であり、したがって西田哲学の原理は歴史的(ドラマ的)時間とは無関係な存在の形で示されている。
⇒従って。厳密に言えば、時間を〈いのち〉の本質的な活きとして考える私の場の理論は西田哲学とは異なるものである。
(場の研究所 清水 博)
以上
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以上の資料をベースに議論を行いました。場の研究所では、哲学や精神から知識を切り離さないための努力をこれからも重ねていきます。
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◎「ネットを介しての勉強会」開催について
6月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第4金曜日25日に開催予定です。
場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。参加される方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただきます。
(参加者の方には勉強会の資料を早めに送ります。)
参加されない方にも、これまでの様に翌月のメールニュースでテーマ資料など内容の説明を致します。
なお、今後、状況の好転があれば、イベントの開催について、臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたしますので、今後ともサポートをよろしくお願いいたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2021年6月5日
場の研究所 前川泰久