今回の「福島からの声」は、詩人みうらひろこさんの詩集「ふらここの涙」からの連載の5回目です。
コロナ禍の中、全国のワクチン接種、オリンピック開催の問題が人々の大きな関心の的となっています。このような状況下で、宮城では女川原発の再稼働の許可、福井では原則40年稼働のルールを超えての再稼働など住民の根強い反対を他所に、なし崩し的にその動きが加速しています。
政府が掲げる「脱炭素社会」という大義名分は、未だに全く終わりの見えてこない福島原発の問題への関心が薄れさせ、人々の心のどこかに短期的な政策実現のためには「原発再稼働も止むなし」というような気運を生み出そうとしているかのように思えてなりません。福島原発事故の問題の根本には、人間がその頭の中だけで「理論上での安全」を仮想的に創り出してしまっていたことへの深い反省が無くてはなりません。
〈いのち〉の居場所としての故郷を奪われた方々の深い悲しみと怒りと苦悩は、理論に理論を重ねただけの安全神話によって変えていけるものではないのです。
人間の便利さだけを追求してきた近代の私たちの社会の在り方が「福島からの声」によって、今この瞬間も問われ続けていることを私たちは忘れてはならないのです。
“までい”な生き方は、〈いのち〉を見つめるところからしか生まれません。
本多直人
“までい”な村から
(一)
いいたて村があります
飯舘村と地図には記してあります
“までいの村”の宣言をしてました
までいとは丁寧とか、心を込めて
という意味があります
村民はみんなそんな生き方をしていました
あの三・一一の大震災の翌日の原発事故で
放射能のことなど
何も知らなかった周辺の町から
多勢の人達が避難してきました
何しろ原発から五十キロも離れていたので
ここなら安全だろうと
思い込んだ人達が村に溢れたのです
しかし放射性物質を含んだ雨は
風に乗ってこの村へ降り注ぎました
それから一ヶ月近くも
飯舘の人達はこの地に留めおかれ
やっと村ごと避難したのは
四月も末のことでした
特産品の“いいたて牛”を飼育していた
牛農家は苦悩しペットの犬や猫も置き去りに
しなければなりませんでした
(二)
いまこの村に人影はありません
窓をしめ、エアコンを止めた車が
すごいスピ-ドで走っているだけです
福島県の中通り地方と浜通りを結ぶ
県道十二号を利用している車です
復興を加速させるこの道は
フレコンバッグと呼ばれる
除染で出た汚染土を詰めた黒い袋が
累々と、道しるべのように積み上げられてます
までいの村に、までいに積まれているのです
この袋はこの村だけではありません
あの日からフクシマと呼ばれ
あの日から五年過ぎたいまも
原発避難している町や村の
どこにでもある風景となりました
この黒い袋の中味は
故郷を失った人達の
悲しみが詰まっています
人々の怒りではち切れそうです
かつて緑で覆われた豊かな田や畑に
牛や馬がのどかに喰んだ牧場に
フレコンバックは
きょうも積み上げられています
*村は2021年6月現在、一部(長沼地区)を残して解除されたが、
村に戻った人は震災前の20%である