場の研究所メールニュース 2022年03月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

3月になりました。いかがお過ごしでしょうか?春の気配も感じられるこの頃です。

しかし、オミクロン株の感染もなかなか収束せず、医療機関の逼迫が心配です。皆様も感染にはくれぐれも注意されてお過ごしくださればと思います。

そして、今度はプーチンのウクライナ侵攻が始まり信じられない世界情勢が始まってしまいました。共存在の考えをもっていないのではと感じています。

 

さて、2月の「ネットを介した勉強会」は2月18日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは「存在と多様性の調和」でした。

勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催は、従来通り、第3金曜日の3月18日を予定しています。内容は、前回説明のあった「円環的な時間の流れ」に関する内容の予定です。基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

 

「人々が互いの違いを重んじながら助け合って生きていける、そのような「場」が生み出され、広まること、それが私たちの願いです。」

 

場の研究所のホームページにも書かれている私たちの活動の目的です。

今、改めて声に出して言いたいことです。

 

先月のこのまとめでも書きましたが、今、この「ネットを介した勉強会」は、この想いが具体的に現れているように思われます。

ときに勉強会は、とても難しい話題を扱っていますから、さぞやキリキリと緊張した場なのかと思われるでしょうが、さにあらず、です。

とても難しい話題が話し合われているこの場が、とんでもなく暖かいのです。

互いに相手に興味を持って、感じていることを声に出していくことで生まれる気持ちは優しいです。

夕焼けの中に身を置いて、綺麗だね、って言って頷きあっているような…、そんな感覚です。

普段、身の回りにある競争原理の世界にはない、一人ひとりの存在を認め合える時間があるように感じています。

疑うのなら、一度、参加してみてください。(笑)

このような場をつくることができて、嬉しく、そして、感謝しています。

更に、続いて、嬉しいお知らせを…。

 

【お知らせ】

平凡社から3月1日に発売された『「別冊太陽」土井善晴 一汁一菜の未来』、で土井善晴さんと清水博所長の対談(往復書簡形式)「深化した純化」が掲載されています。

今、まさに「ネットを介した勉強会」で学んでいる話題が広がった最新の対談となっております。しかも、誌面8ページ(しかも、文字が小さい。(笑))と読み応えありです。

また、土井善晴さんのこれまでと今、そして、これからが詰まっているとても素敵な特集誌です。

ぜひ、お手に取ってみてくださいませ。

(実は、この会、私、こばやし研究員が、ネットを介した勉強会に倣って、メールでの往復書簡形式の対談をコーディネートさせていただきました。直接会っての対談ができない中、是非とも対談を実現させたいと、知恵を絞らせていただきました。無事、対談が実現したこと、嬉しく思っております。)

https://www.heibonsha.co.jp/book/b598261.html

 

 

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2月の勉強会の内容紹介:

◎第21回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

 

★テーマ:「時間とその構造」

◇多様な存在者とその居場所について

・私たちの身体には多様な臓器や器官があって、それぞれ特異的な活きをしている。心臓と胃と肝臓、また目と耳と鼻は互いに全く異なる個性をもって活いているが、互いの活きを妨げ合うことはせず、互いに協力して、身体に調和的な状態をつくり出している。

・一口に言えば、多様な存在者がその居場所としての身体に調和的に存在しているのである。しかし、多様な存在者としての人間の存在とその居場所となると、上手くいく場合もあるが、永遠の課題のようになって上手くいかない場合も少なくない。

・そこで〈いのち〉の世界では、どのようにして多様な存在と調和の関係を解決しているのか、その原理を知ることは、いま現在、際どい状態で地球に住んでいる人間にとって非常に意義のある問題である。

 

◇多様な存在と調和の関係を解決する考え

・この問題をどのような角度から考えていくかであるが、社会における人間の存在のあり方が法律によって決められていることからも想像できるように、居場所における多様な存在者の存在のあり方を決める活きをもっているのは、居場所に活く拘束条件である。

・法律に国際法と国内法とがあるように、拘束条件にも外在的拘束条件と内在的拘束条件とがある。その両拘束条件の活きによって、多様な存在者が居場所において存在する状態が変わるが、一般的に言えば、調和的な状態が生まれるためには存在者の間につながりが生まれることが必要になる。

・そのためには、どのような拘束条件が必要であろうか。この問題を解きほぐしていくためには、先ず、拘束条件の活きを受ける存在者が居場所で生きている状態を掴まなければならない。 

 

◇存在を位置づける拘束条件について

・存在者の居場所におけるつながりには、大別して、空間的なつながりと時間的なつながりとがある。身体における多様な臓器や器官は、空間的には互いに離れて活動しているから、時間的につながっていると考えられる。またネットを介しておこなわれる私たちの勉強会も時間的なつながりを生み出す。

・そのつながりを生み出すための勉強会のルールが固定された内在的拘束条件に、そして「楽譜」が描く世界が外在的拘束条件に、そしてその「演奏」から生まれる私たちの勉強会のかかわり方が内在的拘束条件に相当する。

・このことから推定して、多様な活きをもった存在者がつながるためには、時間的なつながりが必要であり、そのためには、外在的拘束条件が共有される「居場所」が先ず必要であり、次にその「居場所」にそれぞれの存在を位置づける内在的拘束条件が必要になる。

(先月の勉強会では、陰の時間と陽の時間という形で、この二種類の拘束条件の活きを考えてみた。)

・時間的につながることとは、〈いのち〉によってもっと深化した表現をすると、どういう活きになるのだろうか。

 

◇自己と居場所との非分離性について

・「居場所に生きていく」ということは、「居場所における自己の存在を絶えずその居場所に表現し続けていくことである」と、私(清水)は考えている。

・このために自己と居場所の状態は、自己が生きていくことによって非分離になっていくのある。

→したがって、同じ居場所に存在していても、生きていくものと生きていかないものは、その居場所と非分離的になっているか、いないかによって区別される。

・居場所と非分離的であることから、生きものが生きていくことによって、居場所にはその生きものの歴史が生まれる。しかし生きていないものが存在していることによって、その歴史が居場所に生まれることはない。

→このことは、居場所において自己が生きていくための拘束条件の少なくとも一部に、その居場所自身がなっているということを意味する。

・私たちの勉強会では、皆さんが互いに興味をもって言葉をかけ合うことで、居場所の状態を非分離にしているのである。

 

◇ロイスの自己表現的システムについての復習

・ここで昨年勉強したJosiah Royceの自己表現的システムを思い出してみよう。

・一人の画家がその居場所としての一つの部屋にいて、その部屋を限りなく正確にスケッチするという命題を実行しようとしている。そのスケッチを始める時には、その部屋には「部屋のスケッチ」は存在していなかったので、それは描かれていない。

・しかしスケッチを終えた後では、その「部屋のスケッチ」が部屋に存在しているので、画家のスケッチは「限りなく正確に部屋を描く」という命題にかなった状態になっていない。そこでそのスケッチを加えた部屋をスケッチする。それで限りなく正確な部屋のスケッチができたかと言うと、残念ながらそうはなっていない。

→その理由は、実際の部屋には「スケッチをスケッチした絵」があるのに、描かれているのは部屋をスケッチしただけの絵であり、現実に存在している「スケッチをスケッチした絵」が描かれていないからである。

・そこで命題にしたがって、部屋の状態を限りなく正確にスケッチするために、さらに「スケッチをスケッチした絵」をスケッチすることになるが、しかし残念ながら、それでも実際の部屋の状態を完全にスケッチすることはできない。

 

◇自己言及のパラドックスおける拘束条件

・このようにしてどれ程スケッチを重ねていっても、部屋を完全に正確に描くことができないのは明らかである。それは居場所としての部屋が、画家がスケッチをする度に新しい状態(新しい内在的拘束条件)を生み出すからである。

・画家は居場所としての部屋が生み出していく内在的拘束条件に縛られて部屋を描き続けなければならない。このような無限の繰り返しが現れるのは、画家のスケッチが居場所を(自己とそれと非分離な居場所という)「大きな自己」として自己言及のパラドックスを表現する形になっているからに他ならない。

・「大きな自己」がその「居場所」をもっていないために、自己言及のパラドックスが生まれてしまうのである。

→この自己言及のパラドックスを避けるために必要なことは、明らかである。それは「大きな自己」を「居場所」となる世界に置くこと、言いかえると、自己表現的システムに適切な外在的拘束条件を与えることである。

 

◇外在的拘束条件の必要性

・では、Royceの自己表現的システムは無意義なシステムだろうか?

→そんなことはない。生きている活きを表すために自己言及できることを示している。

しかし、生きていく活きを示すためには、さらにくり込み相互誘導合致によって歴史的時間を生成していく方法を示す必要がある。

・このように自己表現的システムの大きな欠点は、居場所が存在している外側の世界が考えられていないために、システムが「大きな自己」となってしまい、「居場所」と相互誘導合致の形がとれないために、どこまでも自己言及を続けていくという点である。

・しかし、自己表現的システムは非常に重要なことを教えてくれる。それは、既に生きている形はとれているので、さらに適切な外在的拘束条件を与えるならば、生きていく形を示してくれる可能性があるということである。

(居場所に生きている存在者が居場所に歴史的な時間を生みだすのは、存在者が居場所においてその居場所を両拘束条件の下で表現するように生きていく状態にあるときであるということが分かる。)

・それは居場所において生きていくことが、たとえば民話のような形で外在的拘束条件によって、その居場所を外側の世界に位置づけつつ、継続的に内在的拘束条件を生成していく生き方であることを示唆している。

 

◇居場所における自己と「くり込み相互誘導合致」について

・具体的には、外側の世界に開かれた居場所に存在者としての画家がいて、その画家がその居場所と相互誘導合致をしながら生きていくことを考える。

(自己表現的システムには、「鍵」の活きだけがあって、「鍵穴」の活きに相当するものがないが、このように居場所が外在的な世界に開かれていることを仮定することで、居場所に「鍵穴」としての活きを与えることになる。)

・このように開かれた居場所が「全体」であり、その居場所に(非分離の状態で)存在する自己はその「全体」を構成している「部分」である。「居場所を表現するように生きていく」ということは、「全体」を「鍵穴」とし、「部分」を「鍵」として、「鍵穴」と「鍵」とが相互に誘導し合いながら合致するように生きていくということである。

・そして画家が部屋のスケッチを続けながら、「部分」の活きを次々と「全体」にくり込んでいくのである。

→つまり、居場所における自己は、居場所に対して「くり込み相互誘導合致」を重ねながら生きていくのである。このように「くり込みを重ねていく」ということは、自己が居場所における「歴史的時間を重ねていく」ということである。

・それでは、画家はどのようにスケッチをし、どのように居場所にくり込んでいくのだろうか?

 

◇家族と家庭を例に考える

・ここで外の世界に開かれた居場所と画家の例として、私たちの家庭と家族としての私たち自身のことを考えてみよう。

・家族は家庭に生まれる場と整合的な〈いのち〉の活きを生みだして、生活の「舞台」である家庭に表現する。その表現が画家(家族)による居場所(家庭)のスケッチに相当する。そのスケッチが正しいかどうかは(DVのようなものでないかどうかは)、それが外在的拘束条件(社会的条件)に合致しているかどうかで判断される。

・そして外在的拘束条件に合致していれば、家庭への与贈として取り上げられて、家庭に与贈循環が生まれる。つまり円環的な時間の流れが生まれて、家庭を「舞台」とし、家族を「役者」とする「〈いのち〉のドラマ」が先へ進む。この「ドラマ」が家庭という居場所において生きていく形になる。

・このように、開かれた居場所に与贈することで円環的な時間の流れが生まれて生きていく形が生まれる。

・ここで自己言及的システムのように、外在的拘束条件の活きのない閉鎖的な居場所では、直線的な時間の流れしか存在しないので、自己言及がどこまでも続いてしまうのである。

 

◇〈いのち〉与贈循環の重要性

・少しまとめてみよう。

・私たちの身体や家庭のように、一つの居場所に多様な存在者が存在して調和的に活動していくことができる状態が生まれるのは、各存在者に「存在者の〈いのち〉」があるばかりでなく、居場所にも「居場所の〈いのち〉」が存在しているからである。それは、すべての存在者が協力して「居場所の〈いのち〉」を自己組織的に生成し、そしてその「居場所の〈いのち〉」によって包まれる形をつくって存在していくこと、すなわち、「〈いのち〉の与贈循環」によっておきているのである。

・必要なことは、居場所が開かれていることを前提とした「多様な存在者の〈いのち〉の活きの居場所への与贈」と「与贈された〈いのち〉の活きの居場所における自己組織」である。

・この自己組織によって、多様な存在者の存在がつながり、居場所に「居場所の〈いのち〉」が生まれて、存在者の存在を一つにまとめる。

(この自己組織がおきるためには外在的拘束条件を満たすことが必要である。)

・自己組織という現象の一般的な性質から言えることであるが、居場所における〈いのち〉の自己組織のために個体が活くことと、その活きによって自己組織された居場所の〈いのち〉にその個体が包まれることが、分離できない形(非線形の形)で循環的におきるという特徴がある。

・この非線形性のために、私たちの身体や家庭のような開放的なシステムでは、時間が競争的社会のように直線的に進んでいくのではなく、与贈循環をともなって円環的に進んでいくという特徴が生まれる。

→一口に言えば、多様な存在者の存在が円環的に進行する時間によって、時間的につながるのである。ここに物事の本質的な核心がある。

 

◇円環的な時間の流れ

・Royceの自己表現的システムでは、居場所としての部屋に「鍵穴」としての活きがない上に、一人の画家しかいないので、与贈された〈いのち〉が自己組織されて、時間が画家と部屋の間を円環的に流れることが示されていない。

・歴史的な時間が生まれるためには、時間の円環的な流れが必要であるから、モデルとしてはそのことをはっきり見せる必要がある。そこで複数の画家が同じ部屋に一緒にいて、互いに共創しながら同じ画板(「舞台」)にその部屋をスケッチしていく(「役者」としての表現をしていく)ことにすると、「〈いのち〉の与贈循環」らしい円環的な時間の流れの形が見えてくる。

・しかし複数の画家(「役者」)が互いに無関係に各自の画板(「舞台」)にスケッチしていく(表現していく)ことになると、互いに他の画家のスケッチもスケッチ(他の「舞台」における他の「役者」の表現も表現)しなければならなくなるので、非常に複雑なカオスが生まれて混乱し、実行できなくなってしまう。

・円環的な時間の流れが生まれるためには、多様な存在者がそれぞれの〈いのち〉の活きを同じ居場所(「舞台」)へ与贈することによって生まれる居場所の〈いのち〉の自己組織がどうしても必要である。

 

◇「鍵穴」としての拘束条件を考える

・私たちの身体の内部の多様な活きを、相互誘導合致の活きによって一つにまとめて〈いのち〉の自己組織を進めている「鍵穴」は、具体的に何処にあるだろうか?

・たとえばそれは、私たちの身体を包んでいる皮膚なのだろうか?それとも皮膚は身体を構成している多様な存在者の一つであると考えるべきなのだろうか?

・「鍵穴」は居場所と非分離的につながっているはずだが、皮膚の特徴が居場所からの分離であり、居場所との非分離の状態を創出していないことから、私は「鍵穴」としての拘束条件は、皮膚ではなくて、人としての存在感を与える「見えない存在の活き」であると清水は思っている。

・それは受精卵から始まる個体の形態形成によって生まれてくる目に見えない人としての存在の活きであり、その存在が居場所の状態と非分離になって場を生みだしていると考えているのである。

・そして「鍵」としての身体と「鍵穴」としての存在とが相互誘導合致することによって、「鍵」の境界(表面)にできるのが皮膚であると考えている。「鍵穴」としての存在が実際に人が生活している居場所と非分離になっていることから、人としての存在感にその人の居場所における生活がある程度非分離的に反映されると考えている。

・非分離的な状態になっている居場所の状態が、人の存在を通して間接的に活く相互誘導合致的拘束条件を通して、身体や顔にある程度写しとられていくのではないかと思っている。

 

◇円環的な時間の流れの重要性

・多様な存在者が同じ居場所にいて、それぞれ特有の活きをしながら、居場所に調和的な状態をつくっているのは、それぞれの活きがその居場所への与贈になっているために、時間の円環的な流れが居場所に生まれているからである。

・時間の直線的な流れの下では、存在者の活きが衝突してカオスが生まれてしまう。同一の居場所に多様な活きをする存在者が共に存在しているということは、言葉を変えれば、そこに時間的なつながりが生まれて、矛盾的自己同一「一即多、多即一」が成立しているということである。

→したがって矛盾的自己同一が居場所に成立する条件は「円環的な時間の流れが生成する」ということである。その円環的な時間の流れが生まれるためには、内外の両拘束条件が満たされることが必要である。

・歴史的時間はくり込みによって進むことから、「くり込み相互誘導合致」は時間の円環的な流れの上で、両拘束条件にもとづいて、〈いのち〉の活きを歴史的に発展させていく形になっている。(ロシアのプーチン大統領にはくり込み相互誘導合致の思想がないから、ロイスの自己表現的システムをウクライナで実現しようとしていると清水は考える。)(場の研究所 清水 博)

 

以上

(資料抜粋まとめ:前川泰久)

               

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◎2022年3月の「ネットを介した勉強会」開催について

3月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第3金曜日18日に開催予定です。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

なお、今後のコロナの状況を見ながら、「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催が決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2022年3月1日

場の研究所 前川泰久