場の研究所メールニュース 2022年04月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

□━□━□━□━□━□━□━□━□━□━□━□━□━□━□

■場の研究所からのお知らせ

□━□━□━□━□━□━□━□━□━□━□━□━□━□━□

 

皆様

4月になりました。新年度で新たな気持ちで仕事をスタートされる方もいらっしゃると思います。本来、桜も咲いて明るい季節のはずが、ロシアのウクライナ侵攻が継続し、この戦争が世界中を巻き込んでしまっています。生命と〈いのち〉の大切さを全く理解しない指導者がいることに危機感を感じます。

 

さて、3月の「ネットを介した勉強会」は3月18日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは「円環的な時間のつながり」でした。

勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催ですが、4月1日が金曜日のため、予定の第3金曜日が4月15日となり、かなり早めとなってしまうため、第4金曜日の4月22日にしたいと思います。ご注意ください。清水先生からの「楽譜」のテーマは、『「沈黙の世界」からの誘い』です。基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

 

今回の勉強会を終えて、こんなことを思い返しました。

 

朝起きて、朝食の支度の前の少しの時間。

窓辺のテーブルでぼんやりと考えごとをしたり、本を読んだりしながら、窓の外に来ている地域猫に視線をやり、今日は二匹とも来ている、とか、いつもより遅いだとか話題にする。

家人と言えば、飼い猫を膝に乗せながら、編み物か、繕い物の時間と決めているようだ。

この手段でも目的でもないと言ったら良いだろうか、この時間が好きだ。

一日の中のほんの短い時間。

始まりと終わりがはっきりしない時間。

行ったり来たりする時間。

振り返ると懐かしい時間。

私の時間なのか、家人の時間なのか、猫の時間なのか、誰の時間かもはっきりしない暖かな時間。

 

円環的時間とは、このような時間だろうか。

 

他の普段の一日の時間と言えば、もっと、目的的というか、手段的というか、そういう時間で、効率とか最適解とかが重宝される時間ですね。

それはそれで必要なのかもしれないけど、効率を究極まで上げていくと、その時間は、限りなくゼロに近くなって、つまり、自分が消えてしまいそうになる。

業務を効率化する仕事をしていたとき、このことに気づいて、気が滅入ったことを思い出します。

そう、「ああ、こっちの方じゃない」と感じて、違う方に舵を切ったのでした。

その頃、なんとなく違和感を感じていたことに、ここで、それがどうしてなのかが分かったような気がして、少しだけ安心をもらえたように感じています。

 

勉強会のやりとりの中で、私の発言に『「街」が無くなっているということは、住民が「人としての存在」を失っているということです。』(清水博)と返してくださったことが刺さります。

 

「存在の場」が消えている。

しかし、争うように、世の中に「小さな存在の場」は生まれていますね。

応援したいです。

同時に、その存在の場そのものの存在の場が無いようにも感じます。

これは危ういです。

 

「人々が存在するための舞台となる居場所が存在するための条件…。」

「外在的拘束条件…。」

 

皆さんと一緒に考えて、話していけたらいいなぁ、そう思っています。

 

 

以上。

――――― 

3月の勉強会の内容紹介(前川泰久):

◎第21回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

 

★テーマ:「円環的な時間のつながり」

◇自己における場とは

・私たちが家庭をつくるときのように、自己の〈いのち〉の活きを、自分が存在している場所に与贈して居場所をつくり、その居場所の〈いのち〉に包まれて生活している時には、与贈した自己と与贈先の場所とが鍵と鍵穴のように相互に誘い合って合致して非分離な関係になっている。

・この非分離な関係をもう一歩具体的に言うと、場所の変化と自己の脳を含むニューロ・ネットワークを含む身体の変化が相互整合的におきているという状態になっているのである。

・したがって、自己がこの居場所に存在するときには、自己の身体の内部には相互誘導合致によって変化が現れ、それが自己に場として感じられる。

 

◇場所と自己の非分離な関係について

・柳生新陰流の剣の修行を重ねるように、相互誘導合致の修練を積み重ねていくと、その非分離の状態も非常にデリケートなまでに合致した状態となって、その活きも日常的な常識を越えて微妙なレベルになると考えられる。

・場所と自己のこの非分離の関係を西田哲学では、矛盾的自己同一「一即多、多即一」と名づけているが、そこで「一」は場所、「多」はその場所を共有する人びとの身体で表現されるような存在状態である。

・私はそれを「〈いのち〉の状態」と呼んできたが、それは私たちに実際に感じられるのはニューロ・ネットワークをはじめとする身体の状態ではなく、居場所と非分離的な〈いのち〉の状態であるからである。

 

◇居場所という〈いのち〉について

・自分の家庭と他人の家庭では場の感じ方が異なる。それは自分の家庭では相互誘導合致によって非分離状態が生まれていることから、場を強くそして温かく感じるが、他人の家庭ではその非分離の状態がほとんどできていないので、場を弱くまたよそよそしくしか感じられないからある。

・ここで一つの居場所に、その居場所と非分離の関係になっている人が存在しているときには、居場所にも、居場所の〈いのち〉が生まれていると、私(清水)は考えている。

・それは〈いのち〉を「存在を継続する能動的な活き」であると、私が定義しているから可能なのである。

(清水コメント:私の〈いのち〉は世間一般に言われてきた「いのち(生命)」とは、少し異なっているかも知れません。)

 

◇家庭の〈いのち〉

・家族が家庭と調和的で非分離な関係をつくって存在しているときには、その家庭にも、その関係を継続して行く能動的な活きとして「家庭の〈いのち〉」が生まれると考えなければ、多様な家族の人びとが自己の存在を家庭に任せて一緒に生活していくことはできないと思う。

・存在者の多様性とその共通の居場所における調和的な関係は、地球における多様な人びとのあり方を含めて、ますます重要な問題となってくるが、居場所としての地球にも〈いのち〉が生まれるかどうかが、その核心的な問題になると思う。

 

◇円環的な時間の中に居る時とは

・人びとと居場所とが互いに非分離になっているときには、人びとは〈いのち〉の与贈循環によって生まれる円環的時間のなかにある。

・その時間は「舞台」としての居場所と、それと非分離な「役者」としての人びとの間に〈いのち〉の活きが循環することによって生まれるドラマ的時間に相当する。

・これに対して、人びとが居場所と分離している時に生まれるのは直線的な物理的時間である。

・このことから、居場所と非分離状態の時に生まれる「場」に存在するときには人びとは円環的時間の中にいるので、そこで生まれるできごとに「〈いのち〉のドラマ」や「〈いのち〉の物語」を感じるのである。

・私たちが互いの間につながりを感じるときは、同じ一つの居場所に存在して、円環的時間によって互いにつながっている時、つまり同じ「〈いのち〉のドラマ」を演じているときであり、また互いに競争しているときには直線的時間に存在しているのである。

 

◇居場所における共創の重要性

・人びとの存在が互いにつながるために、強めて言えば、人びとのニューロ・ネットワークの活きが互いにつながるために必要なことは、円環的時間によって互いのニューロ・ネットワークの活きが時間的につながることであり、存在が空間的につながっているだけでは足りない。

・この時間的なつながりのために最も有効なのが、同じ居場所において共創をすることである。たとえば私たちのネットを介した勉強会の「楽譜」の「演奏」に最後まで付き合っていただくことが、この共創を実行して互いが時間的につながるために必要なのである。

→理由:創造は与贈によって生まれるので、居場所との〈いのち〉の与贈循環が居場所における共創を進めていくからである。

 

◇共創について

・私たちの身体には、空間的に互いに離れて多様な臓器や器官が存在していますが、それらはそれぞれの〈いのち〉を与贈することによって「居場所の〈いのち〉」を身体に共創している。

・それらは空間的に離れて存在しているが、〈いのち〉の与贈によって円環的時間をつくり、互いに時間的につながって、身体の状態を共創しているのである。

→この例のように、多様な存在者が共創によって共通の同じ居場所と非分離な状態になるのである。

・このように円環的時間において共創がおこなわれること示している法則が、居場所と存在者の相互誘導合致である。〈いのち〉をもった多様な存在者のつながりを一般的に考えるときには、矢張り〈いのち〉の時間的なつながりを考えることが必要であり、共創を法則的に考えると居場所の〈いのち〉の自己組織になるのである。

 

◇〈いのち〉の定義

・ここで〈いのち〉の定義に戻る。

・私たちの勉強会や場の研究所の研究の出発点を〈いのち〉にしているのは、ここから出発すれば論理的な推論によって先へ進むことができるからである。

→つまり、論理だけでは取り扱うことができない「存在」を〈いのち〉のなかに囲い込んで、直接、取り扱わなくてもよい形にしているのである。

・「存在」を一般的に取り扱おうとすると、宗教的な分野にまで入り込んでいかなければない。

 

◇自己の存在とは

・たとえば、『私自身(自己)はこれまでの過去やこれからの未来には、またこの広大な宇宙には存在していないのに、なぜ「いま、ここ」にだけ存在しているのか』ということは、私には分からないが何かその原因があるはずである。

・ここで考えているのは、卵子と精子が合体して生まれた身体という「物体」ではなく、「自己の存在」である。

→つまり、AIによっては表現しきれない「存在の主体としての自己」である。

・そして「いま、ここ」に存在しているのが、私(自己)である」と、その私(存在の主体としての自己自身)がパラドックスに陥ることなく自己言及できる理由が注目される。

 

◇「いま、ここ」いる自己の存在とは

・自己言及のパラドックスを避けるためには、居場所と存在者の相互誘導合致の関係のように、自己の存在という「鍵的存在」を「いま、ここ」に生み出していく「鍵穴的存在」(存在の居場所)があることが必要である。

・また「いま、ここ」にいる自己の存在を説明できなければ、自己の死後の存在、あるいは少なくとも死の瞬間の自己の存在についても説明できないことになる。

・無理のない考えは、『「存在の居場所」に位置づけられて、自己は「いま、ここ」に存在している。死後の存在はその「存在の居場所」との関係によって決まる』というものであると思う。

 

◇存在の居場所について

・人類が「存在の居場所」に位置づけられている自己自身の存在を直観して生みだしてきたのが宗教であると、私は考える。

・宗教にも、様々なものがあるが、世界的に受け入れられている宗教の型に相当するのが、自己の存在を「鍵穴的存在」(「存在の居場所」)に生まれる永遠の円環的時間における存在であると考えることである。

・そして自己の誕生から死へ向かう直線的時間が、この円環的時間と交わることによって生まれるのが「いま、ここ」における自己の存在(「鍵的存在」)である。

→存在の居場所が「一」、そこに存在している自己は「多」に属して、存在が「一即多、多即一」の形をとって現れているのである。

 

◇「居場所」の〈いのち〉を生み出すための拘束条件

・存在者が自己の〈いのち〉を場所に与贈することによって、そこに〈いのち〉が自己組織されて「居場所の〈いのち〉」が生まれてくるのであるが、その〈いのち〉の自己組織がおきるためは、その場所に既に(その居場所の〈いのち〉を生み出すための)外在的拘束条件があって、与贈した存在者の〈いのち〉が自己組織されて生まれる居場所の〈いのち〉はその拘束条件に合致していることが必要なのである。

・この状態のときに「存在の居場所」という〈いのち〉のある存在が生まれて、そして与贈循環(円環的時間)の生成がおきるのである。

(後述する「南無阿弥陀仏」の念仏はこの外在的拘束条件に相当する。

 

◇存在の居場所と浄土真宗

・このようにして生まれる「存在の居場所」との関係で自己の(浄土における)存在を理解していく宗教の一つの例が親鸞によって開かれた浄土真宗である。

・浄土真宗では、「浄土」を凡夫としての自己の存在に阿弥陀仏が念仏を通して与える「存在の居場所」であると考える。

・親鸞によれば、浄土は「存在の居場所」であるから、死んでから行くところではなく、阿弥陀仏を信じたときに浄土に生まれることが決まると親鸞は考えている。

・そして親鸞が唯一の真実の経であると見なしている大無量寿経では、「すなわち仏の名号(南無阿弥陀仏)をもって経の体とするなり」と言っている。

(「体」とは実体ということある。)

・外在的拘束条件が既に存在して、仏の名号を唱える(念仏)という形で存在者に与えられているということが、浄土真宗の核心的なポイントである。

 

◇浄土について

・大乗仏教の経典は全部で8万4千もあるということである。そのほとんどが自己からの与贈を続けることによって「存在の居場所」を獲得する自力仏教であるが、大無量寿経はそのような自力の修行ができない人びと(凡夫)に対して、仏の方からその居場所を与贈する非常に数少ない他力の経典の中心的な経である。

・凡夫としての自己の存在が地獄(「存在の居場所」のない不確かな状態)に陥らずに、「存在の居場所」である浄土に救われる道は、親鸞を信頼して、心から「南無阿弥陀仏(ナンマンダブ)」と(〈いのち〉の自己組織の外在的拘束条件を)唱えるだけでよいのだが、凡夫としての自己には「この自分にはそれ以外には助かる方法がない」と思い切ることがなかなかできないのである。

→それは「浄土」が目に見えない「存在の居場所」を意味する根源的な言葉であることを深く理解できないからだと思う。

 

◇浄土真宗の二つの回向について

・親鸞は「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」と言っている。往相回向によって浄土へ行くだけでなく、還相回向によって浄土からこの俗世にもどって迷える人びとを救うこと、すなわち円環的時間における存在を「仏に救われた存在」であると考えている。

・浄土真宗においても、この円環的時間と人生の直線的時間とが交わることで、「存在の居場所」と自己の存在とが相互誘導合致して自己に存在を与えるのである。

・『時間的にも空間的にも限りのない宇宙の「いま、ここ」にだけ、この自己が存在している』と自覚できることは、すでにその存在が「存在の居場所」に位置づけられて救われている状態なのである。

 

◇居場所としての地球

・多くの宗教が、それらが生まれた地域の誕生の時代の文化によって教義や形態を制限された形で現在まで伝えられてきたことから、多様な文化を背景にした人びとが共存在していくこの新しい地球時代に、異なる宗教の間で深刻な紛争を生みだしていることや、一国の政治が特定の宗教的集団によって思想的な影響を強く受けることがおきていることを、このまま無視していくことはできないと思う。

→そういうことから、「居場所としての地球」への自己の〈いのち〉の与贈という観点に一度戻って考えることが重要になっていると思う。

・その意味で地球を居場所にする歴史の時代がすでに始まっているのである。人びとが「自己が「いま、ここ」に存在しているこの機会に、自己の〈いのち〉を地球に与贈する」ことを願って、自己の〈いのち〉を共通の居場所としての地球に与贈して、互いの存在を円環的時間によってつないでいくことは、宗教的な観点から見ても重要であると考える。

 

◇外在的拘束条件について

・柳田国男の『山の人生』を読むと、若い女性が現在のような社会的な活動基盤を持っていなかったことからか、山に入ったまま引き返せなくなって、山に住みついてしまうということが、当時はままあったようである。

・そう言うことから、私は外在的拘束条件は存在の拘束条件であり、内在的拘束条件は〈いのち〉の拘束条件ではないかと思っている。このように考えると、二重の拘束条件がある意義も理解できる。 

 

(場の研究所 清水 博)

 

以上

(資料抜粋まとめ:前川泰久)

               

――――

・・・

◎2022年4月の「ネットを介した勉強会」開催について(今月は4月22日)

4月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第4金曜日の22日に開催予定です。よろしくお願いいたします。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

なお、今後のコロナの状況を見ながら、「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催が決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

---------------------------------------------------

今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2022年4月1日

場の研究所 前川泰久