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場の研究所メールニュース 2022年12月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

12月になりました。

師走ということで忙しさが増える方々も多くいると思いますが、皆様、いかがお過ごしでしょうか。

コロナの感染者数も増加しつつあり、飲み薬が早く普及することを期待しています。

5回目のワクチンを接種もした方もいると思います。やはり自己防衛が肝心かと思います。

 

さて、11月の「ネットを介した勉強会」は11月18日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは『与贈循環が生む民芸美』でした。

勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の12月16日に予定しております。(第31回)

清水先生からの「楽譜」のテーマは『自己の存在と死』の予定です。

基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

先月(2022年11月)の勉強会で、この「ネットを介した勉強会」は、30回目という区切りでした。

約2年半前、コロナ禍の勉強会はどうなってしまうのか…、から始まり、巡って、今、この形で続けられていることを思うと、とてもとても嬉しく感じられます。

そして、毎月、心血を注いで「楽譜」(勉強会では論文資料をこのように呼んでいます)を書き上げてくださっている清水先生に感謝します。

更に、参加してくださっている皆さま、本当にありがとうございます。

皆さまの参加なしに勉強会は成り立ちません。

さて、30回を振り返ってみて、場の研究所の勉強会は、この方法でしかあり得なかったのではないか、とさえ思えるほど、「ネットを介した勉強会」から、様々な学びが生まれているように思います。

また、この勉強会の時間に感じられる暖かさは、場の研究所が目的としている以下を実践できているように感じており、誇りに思います。

「人々が互いの違いを重んじながら助け合って生きていける、そのような「場」が生み出され、広まること、それが私たちの願いです。」

ここで、これまでの「ネットを介した勉強会」のテーマを一覧し、振り返ってみようと思います。

以下に一覧します。

さて、12月は、31回目です。

そして、2023年も勉強会は続いていきます。

どうぞよろしくお願いします。

 

01 2020/05/13 「COVIDと社会」

02 2020/07/17 「共存在の居場所」

03 2020/08/21 「共存在の居場所:コロナによって生まれる世界」

04 2020/09/25 「共存在の原理について」

05 2020/10/23 「相互誘導合致について」

06 2020/11/20 「歴史的相互誘導合致と人生」

07 2020/12/18 「相互誘導合致と共存在」

08 2021/01/22 「存在と場」

09 2021/02/19 「共存在における二重時間」

10 2021/03/19 「存在と与贈」

11 2021/04/23 「存在と宗教」

12 2021/05/21 「歴史と〈いのち〉の原理」

13 2021/06/25 「〈いのち〉の与贈がつくり出していく世界」

14 2021/07/23 「自己の存在について」

15 2021/08/20 「〈いのち〉のくり込み自己組織」

16 2021/09/17 「一歩先へ踏み出すために-相互誘導合致技術-」

17 2021/10/15 「〈いのち〉の即興劇について」

18 2021/11/19 「自己表現的システム」

19 2021/12/17 「場の新しい考え」

20 2022/01/21 「時間とその構造」

21 2022/02/18 「存在の多様性の調和」

22 2022/03/18 「円環的時間によるつながり」

23 2022/04/22 「「沈黙の世界」からの誘い」

24 2022/05/20 「老化と認知症」

25 2022/06/17 「場所的存在感情」

26 2022/07/15 「歴史的共存在について」

27 2022/08/19 「〈いのち〉の構造」

28 2022/09/16 「場所的世界の転回」

29 2022/10/21 「場所と創造」

30 2022/11/18 「与贈循環が生む民芸美」

 

以上。

 

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11月の勉強会の内容紹介(前川泰久):

◎第30回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

★テーマ:「与贈循環が生む民芸美」

◇学びと阿頼耶識との関係

・場の研究所のネットを介した勉強会のシステムを立ち上げて、その案内人として働いておられる小林剛さんから先日次のようなメールをいただいた。

 

「今日は鍛冶の会でした。課題の小刀は前回仕上がり、来週、師匠に見ていただきます。

ですので、課題はありませんから、今日は何をしようかと考えました。

そこで、せっかく今やってきた研ぎを間を空けずにもう一度やっておこうと思いました。

3年前に新潟の燕三条の鍛冶のワークショップを訪ねた際に作成した小刀の研ぎ直しです。

 

今見ると、すっかりダメで、なるほど自分の目が変わっていることを実感しました。

分かりやすく言うと、刃の部分は平面である必要があります。

ウラとオモテの平面が真なる平面であると、その合わせ目に切れる刃が現れます。

小刀の場合、ウラは比較的平らに整えやすいので、勝負はオモテの研ぎです。

そのオモテ、極端に言うと球面になっていました。(笑)

荒れた球面です。上下も左右も曲面です。これでは、刃は立ちません。

これが見えるようになったと言うのは、自分でも驚きです。

そこで、今日は、この球面を平面に整えよう、という話です。

ですが、荒砥という目の荒い砥石を使っても、研ぎという作業は地道です。

思った以上に鉄は削れません。

半日かけて、やっと、刃渡りのほぼ全体まできました。

しかし、まだ、切っ先付近がなだらかに落ちています。

つまり、刃元から切っ先へ向けてほとんど平面になったのですが、ほんの少し、まだ切っ先あたりが平面からすると坂になって落ちているのです。

落ちているということは、その落ち切ったところまで研ぎ進まなければ、全体が平面になりません。

しかし、です。

そのためには、切っ先以外の平面となった刃渡り全体の平面を保ちつつ、研ぎ進まなければいけません。

なんと言ったら良いでしょうか、千人の大人の列の一番前に子供が立っていて、しかし、その子供の目線に合わせるために、大人千人が一斉にしゃがむ必要がある、と言ったふうです。(笑)

平面になった部分は面積が広いので、研いでも研いでもなかなか減ってくれません。

ここで短期(気?)になって切っ先の方に力を入れすぎれば、平面は崩れてしまいます。

研ぎたいのは切っ先ですが、そのためには、切っ先は研がない。

平面全体を我慢強く研いで、目線を子供に合わせてあげる必要があります。

切っ先の研ぎ残しが小さくなればなるほど、平面は大きくなります。

結局、今日は、切っ先の先端まで届きませんでした。

もうあと1mmくらいとなってから、全く進んでないような時間を進んでいました。

でも、ここは信じて進むことが大事です。

こんなにやってるのに何も変わらない…、ように見えます。

切っ先を見るとそう言いたくなります。

しかし、全力で研いでいて、なお、刃先の平面が平面のままであることは、研ぎ進んでいる確信です。

変わっていないことを見て、変化を感じるというのは面白い感覚です。

この変わっていない点を今日は始終面白く感じていました。」

 

・小林さんのこのメールを阿頼耶識の活きに結びつけて考えたいと思う。

・習字も最初はお手本を見て、それを真似ることの繰り返しから始まる。しかし字を書かせているのは自己が自己を意識する末那識である。そして最終的には、お手本から離れて、自分の身心が命じるように字を書くことができるような阿頼耶識がはたらくようになるのだが、その時になってお手本に書かれていた文字がどの様に書かれたものかが分かり、それのことを学ぶのである。

・最初の段階では、〈いのち〉の活きの外在的拘束条件を学び、次の段階では内在的拘束条件を学ぶのである。

→小林さんのメールには、それに共通することが書かれている。

 

◇「居場所の〈いのち〉」の自己組織化の重要性

・身体の内側はその様々な部分をネットワークのようにつないでいる神経によって情報が運ばれていると思われるかも知れないが、それだけではなく、〈いのち〉の自己組織的な変化も起きていて、自己組織的に身体としての秩序を生み出していると、私(清水)は考えている。

・家庭でも、企業でも、地球でも、多様な生きもの(生活体)が共に自律的(主体的)に存在して、それぞれの存在を互いに大切に維持して生きていくためには、その生きものが一緒に存在している居場所に「居場所の〈いのち〉」が自己組織されて、その多様な生きもの(生活体)たちを共に包んで共存在状態をつくっていくことが必要である。

・「居場所の〈いのち〉」に包まれていない生きもの(生活体)の存在は互いにバラバラな状態になって繋がりが生まれないのである。そうならないためには、生きものの間の情報の交換だけではまだ足りない。互いの存在に対する相互信頼が常に存在してこそ、それがはじめて可能になるのである。

・その信頼を互いに与えるのが互いに同じ「居場所の〈いのち〉」に---同じ〈いのち〉の場に---包まれているということである。

→つまり多様な生きもの(生活体)が同じ居場所に共に調和的に存在するためには、居場所の〈いのち〉が自己組織的に生まれて、その生きもの(生活体)たちをすべてその〈いのち〉活きで包むことが必要なのである。

 

◇聴覚から得られる情報の理解について

・話が飛ぶようで恐縮だが、私は70歳代後半から次第に難聴になり、80歳代からは聴覚障害者として障害者手帳をもらう状態になってしまった。補聴器を付ければ音は聞こえるようになるが、その多様な音の存在がバラバラな状態に聞こえてしまい、意味のある言葉や音楽としては思うように聞こえない。

・多様な音の間の繋がりは、「情報の装置」である補聴器によっては生まれないのである。多様な音の間に繋がりを与えて音声や音楽のように意味のある音として共存在させるためには、さらに〈いのち〉の自己組織的な活きが必要なのである。多様な音の間に自己組織的な活きが生まれなければ音はバラバラのままでつながらず、意味のある音声や音楽には聞こえないのである。

・聞き慣れていたBachのピアノ曲を、聞き慣れたCDで聴いても、難聴になって補聴器を付けてからは、個々の音は聞こえても、それがどんな曲の部分であるか、曲全体が分からないから、音は聞こえていても、音楽を聴いている気がしない。

・このことは音楽一般に対して言えることであり、交響曲のように多様な音源の音が一緒になると、その難聴度はさらにひどくなって、MozartのEine kleine Nachtmusikのようによく聞き慣れた曲がまるでガラクタが一杯入ったおもちゃ箱をひっくり返した時のように聞こえてしまう。

 

◇「沈黙」をつくる活きの重要性

・実際に毎日のように試験的に様々なCDを聞いて試してみると、子どもの頃からよく知っている歌でも、それが音声や音楽として聞こえるためには、〈いのち〉の活きによって、「原理的に音が存在していない状態」である「沈黙」を、私自身が自己組織的に生み出す必要があることが分かった。

・その例えとして、紙の上に様々な濃さの墨で文字なり絵なりを書いて、それが内容的に意味のある書なり絵なりとして受けとられるためには、その紙が何も書かれていない「白紙」であったこと---紙が「沈黙」していたこと---が必要である。

・老化した私の身体には、いまその「沈黙」をつくる活きがなくなっているために、音声や音楽をうまく聴き取れないのである。

→その力こそは、秩序を自己組織的につくり出す〈いのち〉の自己組織力なのである。

 

◇カクテルパーティー効果と沈黙

・「カクテル・パーティー効果」という現象として広く知られているように、人間は話の音声より騒音の方が大きなカクテル・パーティーのような騒がしい会場でも、会話を続けることができる。このことを参考にして私が考えたのは、次のようなことである。

・実際に音声や音楽を聞く前に、意味にしたがって「沈黙」が身体の活きによってつくられ、そこには情報が存在しないことが仮定される。その「沈黙」を生成する活きは、聴覚より時間的に前に存在している。

・補聴器によっては、この「沈黙」はつくり出せない。それは音声や音楽の情報を聴き取る以前に存在することが可能でなければならないことから、音声や音楽が生まれる居場所における自己の存在の形、居場所における自己の〈いのち〉の自己組織によって生まれると考えられる。

・つまり、自己と居場所の活きによって、自己の内側に「沈黙」に相当する秩序が予め自己組織的に生まれていくのである。

→したがってその生成には、居場所とその居場所における自己の存在全体がはたらいて、自己の〈いのち〉と居場所の〈いのち〉の活きに相互誘導合致的な関係を生み出して、音声や音楽に全体的な意味を与え、その多様な音を自己組織的につないで全体をまとめるように常にはたらいていると思われる。

 

◇意味の生成に必要な自己の身体の活き

・「沈黙」が存在して、はじめて存在の意味である音楽の曲が聞こえてくると言うことは、デジタル情報であるシャノンの情報だけでは、意味そのものを表現できないということに関係している。意味の生成には、自己の身体の活きが必要なのである。

・身体は居場所における自己の存在を居場所と非分離の形で生み出しているのである。その身体の活きがあってこそ、自己は居場所に実在することができるのである。

→このことは情報に関する重要な原理として記憶しておく価値がある。

 

◇民芸美について

・小林さんと身体の問題へ戻りたいのだが、その背景となっている民芸の世界を通って戻ろう。即ち、小刀の刃をいかに美しく研ぐかということに問題の本質があると考えて、そこで、先ず民芸の世界では、どのように美が生まれるかということを考えてみよう。

・民芸の美は見てくれの美ではなく、その美が道具として存在する意味(存在の意味)と関係がある。つまり、民芸美は日常的に身体によって使われる道具として、その意味にしたがって生まれる存在の美であり、美しさは道具としての質の表現なのである。

 

◇人間の身体でおきる変化の原因について

・人間の身体でおきる変化は大きく言って、二種類の原因によって異なる起き方がある。

・第一は情報が神経を伝わることによって、情報が伝わった身体の部分に変化がおきるものであり、第二は身体全体が関与して身体全体における〈いのち〉の自己組織的変化によって生まれる個人としての存在全体に生まれる変化である。

・それは自己が気づかないうちに、居場所における自己の身体(阿頼耶識)に自己組織的に生まれる。

 

◇民芸美の本質とは

・日本民芸館をつくったことで有名な柳宗悦は「民芸美」という概念の発見者としても広く知られているが、彼は民芸にこの民芸美が生まれる活きを法蔵菩薩(阿弥陀如来)の本願の第四願「無有好醜の願」に結びつけて、その民芸美の本質を理解しようとしたことでも知られている。

・それは居場所との〈いのち〉の与贈循環によって個人に生まれる〈いのち〉の活きと関係があり、自己に対する社会的な反応を競って生み出されるような美ではない。それは人びとの日常的な生活のために必要な活きが、制作者としての人間の身体からその居場所において自己組織的に生みだされることによって生まれるものなのである。

→したがってそれは、居場所と非分離な状態になって道具をつくっている個人の身体に、〈いのち〉の自己組織力を通して相互誘導合致的に居場所から与えられることによって生まれるものであると考えられる。

・簡単に表現すれば、居場所における与贈循環が生み出す美である。そのために、居場所における生活の意味を伴って身体から現れる美なのだ。

 

◇〈いのち〉の自己組織を通じて得られる恵み

・ここでいま書いたことを補足すると、私たちの身体の〈いのち〉が居場所の〈いのち〉と非分離状態になったときには、〈いのち〉の与贈循環が生まれて、私たちの存在が居場所の〈いのち〉によって包まれる。居場所に生成する場によって存在が包まれるのである。

・この〈いのち〉の与贈循環の活きは法蔵菩薩(阿弥陀如来)の本願の活きにたとえられると、私は考えている。

・その活きが「〈いのち〉の自己組織」の形で身体を通して具体的に表現されて、実践的な意味や美を私たちにもたらすのである。

・このように考えると、私たちの身体には、居場所との相互誘導合致にしたがって「本願の場」が生まれ、〈いのち〉の自己組織を通じて、私たちにその恵みをもたらすのである。

 

◇末那識と阿頼耶識について

・仏教の『唯識論』では、第八識には末那識と阿頼耶識という深層意識が存在して、意識の基盤となっていると考えている。

・末那識は自己が自己の存在を意識して、自己中心的な形の意識を生みだす活きであり、情報の源としての脳の活きに相当する。また一方の阿頼耶識の活きは身体の自己組織的な活きに相当し、自己が居場所に存在するために必要な存在論的な活きを生みだす。

・末那識の活きが情報的であるのに対して、阿頼耶識の活きは自己組織的であり、居場所における存在の意味に結びつく。

→したがってこれまで考えてきた「身体の活き」を生み出しているのは、阿頼耶識であると考えることができる。

 

◇外部場と内部場

・物理的な場の多くは私たちの身体の外に生まれる外部場であると思うが、自分自身の存在に結びつけて私たちが感じている場は、阿頼耶識の活きによって、私たちの身体に生まれる内部場である。

・それは、私たちの〈いのち〉の活きが居場所の〈いのち〉の活きと非分離的な状態になっているときに、阿頼耶識の活きによって、私たち身体の内部に生まれるものである。

→したがって、私たちが個人で居場所にいるときにも感じるが、複数の人びとの〈いのち〉が同じ居場所の〈いのち〉と非分離になって与贈循環の状態をつくることによって、互いの阿頼耶識の活きが居場所の〈いのち〉を通してつながり、場の共有がおきるのである。

 

◇場が伝える存在の意味について

・場はその場所に存在することの意味を、阿頼耶識を通じて伝えて、その意味に整合的な存在のあり方を示す。私たちが感じている「家庭の場」は、互いの阿頼耶識の活きによって、このようにして共有される内部場であると、私は考えている。

・場が示す存在には、その美しさも含まれている。興味深いことに、犬や猫や小鳥などの動物とも、かなりの程度、人間は家庭において生まれる場を共有でき、意味のコミュニケーションができるようである。

・場は日本固有の文化であるかのように思われているが、それぞれの国や地方に住む人びとの間には、それぞれに固有の場が文化として生まれて、その国や地方の言葉や文化を人びとに伝えるのに重要な活きをしていると、私は考えている。

 

◇外在的拘束条件と内在的拘束条件

・外在的拘束条件は外側からやってくる情報によって自己の〈いのち〉に与えられ、内在的拘束条件はその外在的拘束条件の下で自己の内側でおきる〈いのち〉の活きの自己組織によって生まれると、私は考えている。

・仏教的に言えば、内在的拘束条件は阿頼耶識の活きによって生まれると考えることに相当する。このことは、自己がしたがうルールを居場所と非分離になった自己が作って、「〈いのち〉のドラマ」の舞台を自己自身に与えていくことに相当するのである。

・小林さんのメールには、この活きが見られるが、この活きは阿頼耶識によるものであり、民芸一般に広く見られるものであると思う。

 

◇与贈循環が生む民芸作品

人びとが民芸作品をつくるときに無意識のうちにおこなわれる居場所への〈いのち〉の与贈によって生まれる〈いのち〉の与贈循環に伴って、居場所の〈いのち〉が場としての身体を循環する。

・循環するその場の活きによって、人びとは作品を生み出す巧妙な身体の活きを、無意識のうちに次第に獲得していくと思われる。この時に人びとにはたらいている深層意識が阿頼耶識に相当すると、私は考えている。

・この居場所への〈いのち〉の与贈によって身体に生まれる場の活きが、柳宗悦が指摘する法蔵菩薩(阿弥陀如来)の「無有好醜の第四願」の活きに対応すると思われる。

・一口に言えば、民芸作品は居場所における〈いのち〉の与贈循環によって与えられるのである。家庭は一種の「民芸作品」であり、〈いのち〉の与贈循環によって作られていく。

・「無有好醜の第四願」の活きに相当するのが「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」をつくる内在的拘束条件の活きである。その背後には、法蔵菩薩(阿弥陀如来)の慈悲の活きがあるのだ。

 

★参考情報(前川ネット調査)

無有好醜の第四願:

現代語版:わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の姿かたちがまちまちで、美醜があるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)

 

               

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◎2022年12月の「ネットを介した勉強会」開催について

12月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、従来通り第3金曜日の16日に開催予定です。よろしくお願いいたします。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2022年12月1日

場の研究所 前川泰久