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場の研究所メールニュース 2022年09月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

9月になりました。まだ残暑はありますが朝晩は少し涼しくなってきました。

皆様、いかがお過ごしでしょうか。

コロナの感染者数もなかなか一気に低減せずまだまだ予断を許さない状況です。

長い目で見て、感染対策を徹底しながら、新ワクチンを接種しながら共存していくしかないように感じています。

ロシアのウクライナ侵攻も長引いており、先行きが見えません。

 

さて、8月の「ネットを介した勉強会」は8月19日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは『〈いのち〉の構造』でした。清水 博先生は「私の最晩年に達した峠」に喩えられるかも知れないと言っておられます。私が何処まで要約できるか分かりませんが、チャレンジをしてみることにします。勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の9月16日に予定しております。

清水先生からの「楽譜」のテーマは『場所的世界の転回』の予定です。

基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

2ヶ月に一度、友人のシンガーソングライターが開催する「歌詞をつくるワークショップ」に参加している。

それは、歌詞制作の教室ではなく、一種の対話の場と言った方があっていると思う。

1週間前に課題の旋律(メロディ)が届き、当日集まって各々が歌詞をつくり、会の後半、その歌詞をシンガーソングライターである主宰が歌ってくれる。

皆でそれぞれの歌を聴いて、それぞれの歌について、感じたことなどを伝え合うのだ。

その後半は、そういう場は他では見たことがないが、あえて名前をつけるなら「対話演奏会」と言うのが近いかもしれない。

 

これ、この「ネットを介した勉強会」ととても似ている。

特に私にとっては、兄妹イベントと言っても良いくらいに。

 

同じメロディに、一人ひとりが、自分の歌詞をつくる。

その作った歌詞をのせた一人ひとりの歌を皆で聴き、歌を話題に対話する。

ここで、それが歌詞ではなく、一人ひとりの言葉(だけ)のままだと、どうだろう。

これは、それぞれの言葉がそれぞれの時間を包むことになるから、場はもう少し批評的になるように思う。

だけれど、実際は、個々の歌詞が同じメロディで歌われる。

つまり、同じメロディを聴いて、生まれた(歌詞)、各々があると言うことだ。

このことで、一つ一つの歌詞の内容は全くバラバラなのに、循環的につながっている感覚が生まれるのが面白い。

それは、歌詞が同じ時間(メロディ)で包まれることになり、心に繋がり感が生み出される。

 

私は、ひっそりとこう思っている。

人が集まって生きていくとき、自分にしか気づくことができないことを言葉にすることは難しいと言うが、それは、難しいというのと少し違のではないだろうか、伝え方を知らない、の方が近いように感じる。

 

その上で。

歌詞をつくると言うことを通じて、その練習をしているような気がしてならない。――――― 

 

8月の勉強会の内容紹介(前川泰久):

◎第27回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

★テーマ:「〈いのち〉の構造 」

◇空間と時間について

・孔子は人生を河の流れに喩えて、「過ぎ去って帰らぬ者」と嘆いた。また鴨長明は『方丈記』で「行く河のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず」と、留まることのない〈いのち〉の変化を書き表している。

・現実の河は周囲の水を集めて流れを生み出しているから、「空間に包まれた時間」という形をしている。しかし、孔子や長明の「河」はただ流れとして存在している「河」であるので、その逆に時間が空間を包んで生まれてくる存在である。ここに「〈いのち〉の構造」の特徴がある。

・たとえば私たちには「個人としての存在」があり、その存在が身体の全てを包んで誕生から死まで、孔子が嘆いた河の流れのように、不可逆な時間を生みだしていく。

・生きもの(生活体)と関係のない世界における物理的な自然現象では、時間が空間に包まれている。そして自然がその空間において変化をすることで時間的な変化が生まれる。だから、時間はつねに空間に包まれているのである。

→したがって、不可逆的な変化ばかりでなく、可逆的な変化もおきる。

・しかし、〈いのち〉が支配している生きものの世界では、時間と空間の関係の逆転がおきており、時間が空間を包んでいるために、河のように流れていく時間の特徴にしたがって、つねに不可逆な変化がおきていくのである。固有の時間に包まれた空間、それが生きもの(生活体)の存在の形である。

・生きもの(生活体)それぞれがそれぞれの時間に包まれた空間の形をしているために、それぞれの存在は互いに独立している。

→したがって、一度、時間の流れが終わって死ぬと、二度と再び存在することはない。

 

◇〈いのち〉の活きの時間的表現とその習得について

・〈いのち〉が時間に包まれた存在であることが理解されるのは、〈いのち〉の活きを必要とする活きを習得する場である。

→たとえば優れた書の形をまねるだけでは書を本当に習得することはできない。必要なことは、自己の存在を与えている〈いのち〉をどの様に書に表現するかである。

・空間を表現する形をまねるのではなく、自己の〈いのち〉の活きを表現する時間的な方法を習得することが求められる。そのことを深く習得するほど、書に個人としての存在が表れ、その存在が磨かれたものであるほど、それを鑑賞するものに深い感動を与える。

・それは〈いのち〉との一期一会の出会いの跡である。王羲之や顔真卿の書が歴史的に評価されているのも、それぞれ時代におけるその歴史的存在と無関係ではない。

・これらのことは、アートや民芸の領域における技の学習においても、ある程度言えるのではないかと思う。また武道としての柳生新陰流を支えてきたのも、それぞれの時代において人びとがその存在を武道の習得に〈いのち〉を捧げてきたことから生まれる〈いのち〉の活きが表現されてきたからである。共通して言えることであるが、大切なことは、空間的な関係の習得ではなく、微妙な時間的な表現の習得である。

 

◇原生活体から生活体が生まれるという考え

・少し飛躍するが、空間が時間を包んでいる自然界に、どのようにしてその逆に時間が空間を包む〈いのち〉の活きが生まれてきたのだろうか。

→その解明のためには、タンパク質、核酸、糖などの物質的な方向からの研究が重要であることは言うまでもないが、それだけでは自然界における時間と空間の関係を根本から変えるような活きにはならないのではないかと、私は思う。

・そこで私が考えていることを紹介すると、物質的に生活体としての形態は持っていても、まだ空間が時間を包む形になっているために〈いのち〉を獲得していないシステムがあったとして、それを「原生活体」と呼ぶことにする。

・その原生活体が、時間が空間を包む形態を獲得して「生活体」になったのは、外在的拘束条件と内在的拘束条件が協力的にはたらいたことが原因ではないかと、私は考えているのである。

・分かりやすく言うと、次のように考えているのである。

→原生活体では空間がまだ表面にあり、時間がその内側にあった。そして居場所に相当するような別の大きな原生活体に内在して、その周囲を大きな原生活体の時間によって囲まれていたと考える。その状態で「居場所」となる大きな原生活体の内在時間の活きを「鍵穴」とし、その「居場所」に内在している原生活体に内在してはたらいている時間を「鍵」とする相互誘導合致がおきて、「鍵穴」となった「居場所」の時間の活きが原生活体を包む形でたまたま取り込まれて、原生活体に時間が空間を包む形態が生まれたことが、自然界における生活体の発生、すなわち〈いのち〉の発生ではないだろうかと、私は考えている。

(これは論理的にも無理のない新しい説である。)

 

◇生活体を支える円環的な時間

・時間が空間に囲まれている状態で生まれる時間は、物理学の力学で表現されているように直線的時間である。それは空間の至る所で時間が生まれる可能性があるから直線的になるのである。

→その一つの例が水が地球の引力を受けて生まれる河の流れである。

・しかしその逆に時間によって空間が囲まれると、たとえば私たちの身体の〈いのち〉によって囲まれた多様な臓器や器官の共存在のように、〈いのち〉から生まれる時間が、それらの臓器や器官をバランスよく訪れて、その活きをつないでいく必要があり、またそのためにそれらの臓器や器官は身体にそれぞれの〈いのち〉の活きを与贈している必要がある。

・そのようにして私たちの身体では与贈循環がおきているのだが、それを支えているのが円環的時間である。それは直線的時間と異なって、それぞれを固有の時間に包まれて存在している多様な臓器や器官の〈いのち〉の共存在にとって必要な時間の形であり、そのことからも居場所の時間とその居場所に存在する多様な生活体の時間の相互誘導合致的な協力が理解される。

・私たちは、つい、空間的な情報を伝えることを考えてしまうが、重要なことは、時間的なタイミングを習得したり、伝え合ったりすることではないだろうか?

 

◇「全体」の〈いのち〉と「固有」の〈いのち〉の時間的調和

・〈いのち〉の活きに関係のない物理学的な世界では場は空間的な活きだが、私たちの身体の内部のように、居場所としての〈いのち〉が存在しているところでは、場は居場所の全体的な状態--存在の状態--を多様な部分に伝える時間的な活きではないかと思う。

・そのように思うのは、固有の〈いのち〉をもった部分がそれぞれの時間に囲まれて互いに独立して存在しているために、重要なことは、それぞれを足し合わせて生まれる「全部」の活きではなく、居場所「全体」の〈いのち〉の時間に対する各部分の〈いのち〉の時間が調和的な関係にあることであると考えるからだ。

・もちろん、部分の空間的な関係も間接的には関係があるが、全体に対するその活きは弱いと思う。このようなことから、私は場は居場所全体における空間的な情報を部分に伝えるものではなく、「全体」の〈いのち〉の状態を各部分に時間的に伝える活きであると思っている。

 

◇「〈いのち〉の医療」について

・〈いのち〉に対する時間のこのような活きを基盤にして生まれる医療が、私が思っている「〈いのち〉の医療」である。近代医療が身体に対する生命科学の物質的な研究を基盤にして非常に大きな成果を上げて、私たちもその恩恵に浴してきたことは言うまでもない。

・しかし、それだけではまだこぼれ落ちてしまう可能性がある〈いのち〉と医療の関係を、充実させていくことも大切である。

・その一つが、体内の臓器や器官の病気によって身体全体におけるバランスを崩し、与贈循環の活きを弱めて、精神的にも、肉体的にも存在を衰弱させている患者の方に、適切な外在的拘束条件を与えて身体における相互誘導合致をうながし、病気で衰えているその内在的拘束条件の活きを強めていくという方法である。

・極端な表現をすれば、患者さん個人の〈いのち〉の活きの「再生」ということになる。

→分かりやすく言えば、患者さんの〈いのち〉に「鍵穴」としての時間的な外在的拘束条件を与え、さらにその身体の〈いのち〉を時間的(生命的)に刺激することによって、「鍵」として〈いのち〉の新しい活きを患者の身体に生み出す医療である。

(本多直人先生は具体的な素晴らしい方法で〈いのち〉の医療を実践してこられたと思う。)

・軽井沢病院の稲葉俊郎院長は医療とアートの関係を実践的に探究して、その活動を具体的に広めてこられたことで社会的に有名である。

・もしもこのような表現を許されるなら、この活動も〈いのち〉の医療の実践ということになると思う。

 

◇場所的存在感情の時間的表現

・90歳に近い私の心に残っている子どもの頃からの人生の場面(シーン)がいろいろあるが、何れもそのシーンにおける場所的存在感情と強く結びついているために、懐かしさを深く感じる。

・シーンは何れも短い寸劇(動画)の形をしており、その動きによって、その時に経験した場所的存在感情が時間的な形で表現されている。逆に言えば、心に残る場所的存在感情を表現するためには、動画の形で場所を時間的に表現することが必要なのである。

・私の個人的な体験を皆さんにそのまま理解してもらうことはできないので、よく知られている歌によってそれを伝えたいと思う。

・たとえば「白い花」の歌は次のような短い動画のシーンを表している。

 

  白い花が咲いてた

  故郷の遠い夢の日。

  「さよなら」と云ったら、

  黙ってうつむいてた

お下げ髪。

 

・これは遠い過去に作者が体験した悲しい場所的存在感情を表す寸劇的なシーンとして、何時までも心に残っているものである。その感情を表現するためには、この歌に寸劇の形で時間が表現されていることが必要なのである。それを表しているのが、この歌の後半である。それが「悲しかったあのとき」の場所的存在感情を表現している。

・話は飛ぶが、私は70歳代の後半に自宅の庭の樹木も含めて周囲の植物の四季の変化をカメラに収め、それらを現在、スライドショーの形で机の上のフォトフレームに表現している。

・周囲の植物の状態も現在ではかなり変化してしまい、個々の映像には記憶がないものも少なくないのだが、その映像を撮ったときの自分自身の心の動きを、寸劇として思い出すことができると、撮影したときの場所的存在感情がよみがえって、映像の裏に隠されている当時の場所の状態と自分自身の存在との関係が理解され、映像に深い懐かしさを憶える。

 

◇場所的存在感情の共感について

・動物も植物も含めて生活体としての形をとっていることを、広い意味で「意識の存在」と呼ぶことにすると、このように意識が存在するとは、その生活体の空間を時間が包んだ形をとっているということであり、内容的にはその生活体に「生活体としての〈いのち〉」が存在していることと変わらない。

・そのことは、生活体には自己の存在が場所的存在感情として自覚されるということになる。そのことはまた、生活体に固有な場所的存在感情として、それぞれの意識が存在するということにもなる。

・身体の近くに飛んでくる蚊を叩こうと思っても、蚊は巧妙に逃げてしまい、なかなか簡単にはいかないが、「それは蚊の場所的存在感情のなせる技である」と考えると、人と蚊の場所的存在感情の争いということになる。

・私は愛知県立瀬戸高等学校の第二回目の出身者だが、私が卒業をして東京へ出た昭和26年に生まれた瀬戸高校の後輩に永井陽子という歌人がいる。既に何年も前に亡くなられているので、面識は全くないが、彼女の短歌がどういうわけか私の心に不思議にしっとりと響いてくる。

・彼女が生まれた家の近くの神社を5月の緑の今年訪ねて、そこで作られた彼女の歌

 

  つどひ来て死者も生者も風が描くこの輪をくぐれ樟のさみどり

 

を最近Facebookに紹介した方がおられた。

・そこに歌われている場所的存在感情が私の場所的存在感情に不思議につながっていく思いがして、この歌をまだ記憶している。短歌は場所的存在感情を5・7・5・7・7の形で表現するアートであるから、場所における存在の繋がりに場所的存在感情の深い共感が生まれるのではないかと思う。

・子どもの頃の場所的存在感情が、いま現在も私の心に多く存在して、過ぎた日々の場所を直接的に伝えてくることからも分かるように、私が故郷の瀬戸市に多くの思いを残して関東に来たことに〈いのち〉が反応しているのではないかと思う。

 

◇本来の共存在とは

・空間によって空間を包もうとすることから、ロシアによるウクライナへの侵攻が起きている。空間で空間を包むことは、空間のなかに時間を包み込むために、物理的な直線的時間を生み出す。

→したがって、競争や紛争の形をつくってしまい、共存在の形にはならないのである。そのために居場所の活きを空間的な形にすることは共存在を否定することになるのである。

・共存在に必要なことは、時間が居場所の空間を包む形にすることである。そのためには、互いの〈いのち〉を共通の居場所に与贈して、〈いのち〉の活きによって居場所の活きの形を時間的にして、互いの存在を共通の「居場所の時間」によって包む形にすることである。

・この〈いのち〉の与贈によって居場所に円環的時間が生みだされ、与贈循環を通じて互いの存在が時間的に包まれることになるのである。このことは時間の共有の下における共存在、すなわち歴史の共有を生み出すから、時間的に安定した共存在を生み出すことになるのである。

・以上のことは地球における国家の共存在ばかりでなく、国家における国民の共存在、地域社会における住民や企業の共存在、家庭における家族の共存在などについても広く当てはまる。

・私たちは、独立した自由な生活体として、空間的な活きをもち、空間的な統一に向かって支配的に活く統一的な場ではなく、時間的な活きをもち、時間的な共存在に向かって互いの存在を救済するように活く円環的な場を必要としているのである。

 

(場の研究所 清水 博)

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)

 

               

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◎2022年9月の「ネットを介した勉強会」開催について

9月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、従来通り第3金曜日の16日に開催予定です。よろしくお願いいたします。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

今後のコロナの状況を見ながら、「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催が決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2022年9月1日

場の研究所 前川泰久