場の研究所メールニュース 2023年01月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

 

新年あけましておめでとうございます。

昨年もコロナに翻弄されてしまった一年でしたが、場の研究所の「ネットを介した勉強会」は皆様のおかげで継続でき、12月にトータル31回を重ねることができました。

清水先生の楽譜(テキスト)をベースに、参加者で議論されてきたことは、特に地球という我々の居場所の大切さを改めて感じることや、今の世の中でまだまだ不足している与贈の重要性だったと思います。

2023年はまた新たな気持ちで、場の研究所として皆様と一緒に場の思想を深めていきたいと考えております。昨年末に清水先生から「2022年も場の研究所は社会のために活動することができました。今は限られた人びとの間にその活きが、限られた形で伝わっていますが、毎月、新しい問題が提起されて、その問題を解くことで、人びとがつながる方法が示されていきます。」というコメントを頂いています。人類がお互いを思いやる社会になり、争いのない共存在の世界を築き上げるために、少しでもお役に立てるように努力していきたいと思います。

 

さて、昨年12月の「ネットを介した勉強会」は12月16日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは『生命と死』でした。

勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、新年1月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の1月20日に予定しております。(第32回)

清水先生からの「楽譜」のテーマは『多様性と一様性』の予定です。

基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

2022年、一年間ありがとうございました、そして、2023年もよろしくお願いいたします。

 

コロナ禍となってから、対面での活動が制限されたまま約三年が経とうとしています。

このような中で、Eメールを使った勉強会である「ネットを介した勉強会」によって活動が継続できていることが嬉しく、そして、感謝しております。

また、今年こそ、対面での活動の再開が出来ればと期待して、どのようなことが出来るだろうかと模索しているところです。

今後とも「ネットを介した勉強会」また、再開出来るであろう対面での活動への支援、また、参加をお願いします。

 

「ネットを介した勉強会」毎月届く清水先生からの「楽譜」(勉強会では、論文資料をこのように呼んでいます)を読むとき、気をつけていることがあります。

「楽譜」は、分析的に読むと資料となってしまいます。

せっかく「楽譜」と呼んでいるのに、これでは「資料」に逆戻りです。

私自身は、例えばオーケストラなら「楽譜」は、「楽譜」を通して作曲者の世界を体験するものとして在ってくれる、と言えるのではないか、と思うので、私もこの「楽譜」を体験として捉えるよう心がけています。

ただ、体験ですから、自身のそれと照らせるときは、直観的に捉えられますが、それが無い、又は少ないときは戸惑いも生まれます。(2022年の12月の会は、自分としては、そんな感じでした。)

振り返って思うのですが、それは、それで構わないのだと思うのです。

迷って、彷徨っていいのだと思うのです。

そうしても(迷ったり、彷徨ったり)いいよ、と一緒に学んでいる皆が助けてくれる、見守ってくれる、この勉強会は、そういうところだと感じるからです。

毎回、「その安心な中で十分に徘徊したらいい」、そう言ってもらえている感じを受けるのです。

このことが、この勉強会の強みの一つであろうと私は思います。

又、このことは、確かめたわけではありませんが、私一人が思っている、というよりも、互いにそう感じているのではないだろうか、とも思うのです。

今年も、「楽譜」を通して体験を深めていけることを嬉しく感じています。

 

2023年がよい年となりますように。

 

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2022年12月の勉強会の内容紹介(前川泰久):

◎第31回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

★テーマ:「生命と死」

◇生命と〈いのち〉との違い

・生命と〈いのち〉の関係は名詞と動名詞の関係である。

たとえば「永井陽子の生命」は名詞であるから、二つ以上に切り分けることはできない。したがって、「永井陽子」が死ぬときには、その生命も一緒になくなる。しかし「永井陽子の〈いのち〉」は動名詞であるから、生きている「永井陽子」から切り分けて、彼女の存在を包んでいる居場所へ与贈することができる。

・与贈された〈いのち〉は、本人が死んでもその居場所に残るから、歴史というものが居場所に生まれるのである。

・人の死に際して、その人が自分の〈いのち〉をどこかの場所に与贈していくことができれば、死の状況も変わることになる。ここに宗教や藝術が存在する原因がある。

・ただ、死に際して、死者当人がどこまで明瞭に〈いのち〉の与贈をしていくことができるのだろうかは不明である。

・念仏や「アーメン」と言った短い祈りの言葉が日頃から唱えられる理由がここにもある。科学と宗教とをつなごうと思えば、どうしても〈いのち〉の科学から出発していくことが必要になる。

 

◇〈いのち〉の三つの活き

・これまでも、繰り返し説明してきたことだが、名詞としての生命には存在しないけれど、動名詞としての活きをもっている〈いのち〉には存在する活きとして、「〈いのち〉の与贈」、「〈いのち〉の自己組織」、そして「〈いのち〉の与贈循環」がある。

・この三つの活きがあれば、自己の存在を円環的時間で包む居場所が生まれるし、さらに「くり込み相互誘導合致」(「くり込み与贈循環」)によって居場所に〈いのち〉の歴史が生まれ、時代を越えて継続されていく。

・表現を変えれば、「〈いのち〉のドラマ」を演じる必要条件が充たされるからである。

 

◇かけがえのない自分と「いま、ここ」

・「この広大な宇宙で二度とは得られない生命をいま自分は得て、たった一度だけの人生を生きている。この瞬間の貴重さを思えば、ほとんどの悩みは取るに足りない。」学生の頃からこのように思って、私は自分の悩みを幾度も乗り越えてきた。

・「果ての知れないこの広大な宇宙」における「〈いのち〉のドラマ」を、たった一度しか出現しない欠け替えのない「役者」として、「この広大な宇宙」の「いま、ここ」の一角で自分自身が演じているという状況を、どう理解したらよいだろうか。

・先ずは父母があって、その遺伝子を受けて、私という個人の生命が生まれたことは偶然的なできごとであり、私でなく、「私の兄弟」が生まれる可能性もいくらでもあったと思う。しかし、偶然の結果として存在している私の方から見れば、すでに生命を与えられて「いま、ここ」に存在していることになる。

・そのために、「何故、「いま、ここ」なのか?」という問いに私自身が答えようとすると、私はどうしても自分自身の生命を越えて、その〈いのち〉の存在を問わなければならないことになる。そして自分が「役者」として「〈いのち〉のドラマ」を演じていく「舞台」として、既に「この広大な宇宙」における地球という場所を与えられていることに気づく。

・「舞台」は時間に包まれた空間であるから、それは私自身の存在を円環的時間によって共存在状態にする「〈いのち〉の居場所」である。だから、それはその「〈いのち〉の居場所」の「いま、ここ」であり、したがって私の存在はその「いま、ここ」にいるように、すでに外在的拘束条件を受けているのである。

・しかし「私の〈いのち〉」が宇宙で一度だけしかおきない偶然のできごととして「いま、ここ」に存在しているということだけでは、私が宇宙における「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」に「役者」として登場して、その〈いのち〉を表現できること---「役者」として「〈いのち〉のドラマ」を演じられること---にはすぐならない。

・つまり「宇宙的なできごと」として自己の〈いのち〉をもらうだけでは、私が「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」に登場して、その〈いのち〉を「いま、ここ」で表現することはできないのである。

 

◇与贈することが一つの答え

・そこで必要になるのが、一つしかない自己の〈いのち〉を「舞台」としての場所的世界(〈いのち〉の居場所)に与贈することである。言いかえると、それは私自身の〈いのち〉を「舞台」に与贈することによって、私自身の存在の内在的拘束条件を充たすこと---「役者」としての「役」を「舞台」につくること---である。

・少し先回りをして説明すると、私が自己の〈いのち〉の存在を宇宙の「いま、ここ」で表現していくことは、このようにして外在、内在の両種拘束条件が充たされることから生まれてくるのである。さらに一般的に言えば、私は「いま、ここ」で自己の〈いのち〉を宇宙の歴史に表現しているのだ。

・内在的拘束条件の活きを受けて、私の存在はその「舞台」である「この広大な宇宙」でたった一つしかないものとなっていくのだが、それは同じ「舞台」に全く同じ「役」の「役者」が複数いることは自己言及のパラドックスを生み出すから、その可能性が内在的拘束条件によって排除されるためなのだ。

・このように考えていくと、「私の〈いのち〉」が「いま、ここ」に存在して「〈いのち〉のドラマ」を演じていることは、「この宇宙」にただ一度だけしか起きない偶然的なできごと---宇宙的な意味で偶然的なできごと---である。

・しかし、このことは「〈いのち〉のドラマ」を演じている他の誰の〈いのち〉についても同様に言えることであり、さらに人間を越えて存在の範囲を広げることもある程度できると思われる。

 

◇「〈いのち〉のドラマ」は生と死によって演じられていく

・「〈いのち〉のドラマ」は生きものたちの生だけによって演じられていく「ドラマ」ではない。生と死によって演じられていくものである。

・生と死が交差する地球という「舞台」で「〈いのち〉のドラマ」が演じられてきたことは、私たち自身が毎日多くの生きものの〈いのち〉をいただいて生きていることにも繋がっている。死と生との境を越えて〈いのち〉の与贈循環が「舞台」としての場所的世界でおきていることから、場所的世界としての地球から与贈される居場所の〈いのち〉に包まれて私たちは生かされているのである。

・そのことを次のようなことから理解していくことにしよう。

木の葉にはそれぞれ誕生があり、またその一生を終えると生命を失い、落ち葉になって木から落ちる。木の葉一枚一枚が〈いのち〉をもって生きているのである。木の葉が元気な間は活発に光合成をして、そして得た〈いのち〉の活きの多くをそれぞれの居場所である木に与贈して、木を生長させていく。それにともなって木から循環的に、葉の〈いのち〉の維持に必要な水分や栄養などの物質や生理的な状態の与贈を受ける。この与贈循環によって円環的時間が生まれて、木と葉を全体的に包んでいく。

・そして葉がそれぞれぞれの〈いのち〉を失って落ちるときには、それぞれがはたらいて木に与贈してきた〈いのち〉は木に残る。生活体が死ぬときには、与贈した〈いのち〉を居場所に残して死ぬのである。

・しかし死ぬということは、それだけでは終わらない。木の葉という存在そのものを森(地球)に与贈するという行為がその死であり、与贈したその葉にバクテリアがついたり、虫がついたり、それを小鳥が食べたり、そしてその状態が雨に流されて海に運ばれてプランクトンが発生して、魚の群れが生まれたりして、地球における類と種を越えた生命の循環が始まるのは死によって開かれる生命のドラマであるからだ。それは死によって開かれる外的拘束条件の更新である。

 

◇死の重要性

・私たちが毎日〈いのち〉をいただいて生きていることから考えても、この木の葉の例は少し形を変えて、一般化することができると思う。そのなかで死はこのように、それぞれの居場所に空間的に孤立していた時間を、地球全体に開いていく活きをしているのだ。

・その意味で、死は「〈いのち〉の超新星の爆発」に相当して、「空間が時間を包む構造」を「時間が空間を包む構造」に変えて、〈いのち〉の歴史である生物進化を地球につくっていく。

・死のない居場所には、それ故、〈いのち〉の歴史は継続的に続かない。「死のない地球」は地球ではないのである。私たちの死は、私たちの全存在そのものを地球に与贈し尽くしていく、それぞれ一回だけの大きなできごとである。

・その活きを信じる者には、これまでも私自身が「たった一度だけの人生を生きている存在の貴重さ」によって自己の悩みを救われてきたように、救いをもたらされる。

 

◇死を含めた全存在の与贈循環の活き

・「〈いのち〉のドラマ」のイメージには、このように死を通じておきる文字通りの全存在の与贈循環の活きを無視できない。実際、生命が地球に生まれて以来、全存在の与贈循環によって生物進化が「生命の歴史」として進み、現在の地球における生きものの状態に至っているのだ。そして私たち人間も、居場所としての地球から与贈される時間が空間を包む場所的な活きに包まれることによって、その存在を維持している。

・地球に生存している生きものとして、私たち人間自身もこのように生かされているが、私たち人間自身の死によって果たして居場所としての地球への全存在の与贈の活きがどこまで生まれ、そして地球を舞台とする生命の存在がどこまで更新されているのだろうか。

・先ずは、私たち自身の死によって生まれる存在の外在的拘束条件の変化がもたらす物理的な地球の変化の可能性をどう見るかである。次に内在的拘束条件の変化がある。

・「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」における「役者」としての個人の「役」は〈いのち〉の活きの内在的拘束条件によって生成されるが、この「ドラマ」の「舞台」における「役」の表現に自己の死に方も含めて考えることにすると、自己の存在が死後に「舞台」としての地球に残す活きが生み出す〈いのち〉の与贈循環について考えることになる。

・その意味では、地球における多様な生きものとの調和的な共存在に向けた考えや、その考えを具体的に実行する方法を、自己ができる範囲で残していくことが大切であると思う。

 

◇人間の持つ大きな創造的な与贈力

・しかしそれだけではない。それは、人間は他の生きものには見られないような大きな創造的な与贈力をもっているために、その力を活用することができるからである。

・文字通りの自己の死によって、居場所としての地球にその全存在を与贈する以前に、自分がまだ生きている状態のまま、その活きを地球に与贈することを創造的に考え出すことができるのが人間である。

・人間だからこそ、生と死を越えてその様な与贈が可能になるのである。そのことを希望的に考えると、居場所としての地球の生命的な限界に厳しく接している現在だからこそ、人間の創造的な努力が強く求められるのだ。

・地球は新しい〈いのち〉の倫理を必要としている。私たちの勉強会がそのような意味で内在的拘束条件を生み出して、「舞台」としての地球への〈いのち〉の与贈になっていくことを、心から願いたいものである。

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)

 

               

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◎2023年1月の「ネットを介した勉強会」開催について

2023年1月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、従来通り第3金曜日の20日に開催予定です。よろしくお願いいたします。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

 

最期に、新年に際し、皆さまの健康とご多幸をお祈りしております。

今年も「場の研究所」をよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2023年1月5日

場の研究所 前川泰久