民芸とは、作り手が自己の〈いのち〉を居場所へ与贈することによって、居場所から〈いのち〉の与贈を受け、普遍的な存在美をともなった実用的な価値のある作品をつくることです。普段使いの実用性が大切であり、逆に高級品である必要はありません。後から示していくように、この新民芸考では作品と美を広く取っていきます。ここで〈いのち〉とは、生きものがもっている存在を続けようとする能動的な活きのことであり、また与贈とは、自己の名をつけて贈る贈与と異なって、贈り手が自己の名をつけずに居場所へ贈る活きです。居場所と分けることなく使い手に心を向けて、自己の〈いのち〉を与贈してつくった作品には、鑑賞を目的に名を出して作られる作品とは異なって、〈いのち〉の与贈循環によって、存在美が道具としての実用的な活きにともなって与贈されてくるのだと思います。 ご承知のように、柳宗悦は民芸の美を阿弥陀仏の本願の第四願「無有好醜の願」に結びつけて、「他力の活き」によって生まれる美と理解しました。「新民芸考」なるものを提案してみようと、私が思ったのは、柳のこの重要な発見を心から支持しつつも、彼の領域の外側へ「民芸」の幅をもう少し広げてみることができるかも知れないと考えたからです。そんなことを、なぜ考えているかというと、民芸作品には、民芸美という形で、情報だけでは表現しきれない「物そのものとしての存在意義」が表現されていることに注目してみたいからです。そのために、道具としての実用性が普遍的な存在美をともなって〈いのち〉に親和するように与贈されていくという点に、注目しているのです。このことは、私の〈いのち〉(内在的世界)から生まれてくるITに対する違和感の裏返しでもあるのです。 私はデジタルカメラを何台ももっていて、雑草中心に写真を撮っています。そしてそのデータを、ハードディスク・ドライブに蓄えて、時々、パソコンを通じて、かなり大きなモニターで眺め、また時間にかなり余裕があれば、映像を少し修正したりして楽しんでいます。人間が雑草に対してもっている価値観から自由になって、植物に雇われた写真師になったつもりで〈いのち〉に向き合うようにして撮った写真を、パソコンやフォトフレームで何枚も眺めていると、座禅をしているかのように心が静まってきます。ですから、私にとってこのハードディスク・ドライブは非常に貴重な存在です。 しかし、それで満足ということだけでは終わらないものが、心に残ります。レベルの低い素人が考えることですから、プロの写真家には否定されるだろうと思いますが、このようなデータの蓄積とパソコン操作による鑑賞という世界に、果たして自分がどこまで深く満足できるだろうかと思うと、心にどうしてもまだ充たされないものがあることを感じるのです。その「充たされなさ」を言葉で表現してみると、“そこからは民芸作品が生まれてこない”と言うことになるのです。情報が「情報の世界」にどどまっている限り、原理上、時の経過によって変わったり、失われたりすることはありません。情報は造花のように、いつまでも生まれたてと変わらず、古さを表現することはできないのです。言い換えると、情報は死を失った実在性のない存在の影、すなわち死を失って外在的世界にとどまっている存在の影です。〈いのち〉のないものの世界から、民芸作品が生まれるはずはありません。 そこで注目したいのは、情報が情報の世界から外へ出て物に結びつくことで、〈いのち〉が生まれて、死ぬことができるようになる可能性があるということです。たとえばアルバムという物は、そこに綴じられた家族写真に、家庭という生きものの年輪を表現する力を与えます。そこには家庭という内在的世界で〈いのち〉が経験してきた時間と空間が暗在的に表現されていくのです。この暗在的な表現は、写真のデータをパソコンの上に次々と写していく方法では、決して生まれないものです。それはなぜでしょうか?ハードディスク・ドライブからデータを引き出して、幻灯会のように次々と映していく方法は「多から一へ」というイベントのルールでおこなわれていくために、「全部」はあっても「全体」がないのです。それに対してアルバムから出発していく方法は、「一から多へ」というドラマのルールでおこなわれます。アルバムという物としての拘束力が最初に「全体」の「一」を与えるのです。そして個々の写真は、この全体の中に位置づけられていくのです。この「一から多へ」というルールにそっておきる歴史的発展に、家庭のドラマが表現されていきます。 また家族がつくる家庭のアルバムでは、作り手が自己の名を残そうとしてアルバムをつくることはありません。今に至る来し方の様々なできごとを振り返り、未来のことを思い浮かべながら居場所へ心を向けて、写真をアルバムに位置づけて並べていくのです。時には、他の家族と相談しながら写真の配列を決めることもあるでしょう。またそのアルバムづくりは、家族の家庭への〈いのち〉の与贈になります。したがって、それは広い意味での民芸と言えるのではないかと思うのですが、如何でしょうか。 ここに心に少し気になることがあります。それは、デジタルカメラが完全な情報マシーンを目指すことから、写しすぎ、着色しすぎるという外在的世界における情報の特徴をもちすぎているということです。このことは「多から一へ」というルールで多数の画素から映像をつくることと関係しています。ところが、人間の視覚は「一から多へ」のル−ルで動いています。思い出の風景や人物の顔は殊にそうではないでしょうか。この「一から多へ」の視覚のあり方に、意味とか、美とか、内在的な世界における表現がついてくるのです。 東日本大震災の大津波で、家族を失い、家庭を失った人びとが、避難所でまず求めた物がアルバムであったと言われています。デジタル化は結構なことに思えますが、暗在的な表現の形で伝えられてきた居場所の〈いのち〉の「一から多へ」の活きを切り捨てて、機械的な「多から一へ」の働きに変えていくという重い問題を含んでいます。しかし、それでもなお私たちの手には、〈いのち〉の与贈から始めて行くという道が残っていることを、未来のために心から幸せに思っています。 2015.8.26