人間の身体は約60兆個と言われる非常に多数の多様な細胞から構成されていると言われています。
細胞たちは互いに独立して生まれ、生きて、死ぬという生涯をそれぞれおくっています。
また人間の〈いのち〉はその細胞たちの〈いのち〉を足し合わせたものではなく、その細胞たちの居場所としての〈いのち〉に相当しています。
つまり、多数多様な細胞たちの〈いのち〉は、人間という居場所の〈いのち〉と循環的な関係をつくりながら共存在をしているのです。
細胞たちの〈いのち〉の表現が互いに異なっているのに、細胞たちが共に生きていくことができるのは、人間という居場所の〈いのち〉を共に生み出しながら、その居場所に生まれる場に自己の存在をそれぞれ位置づけながら、その位置にふさわしいしい生き方をしていくからです。
宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)を読んでいます。西日本と、東日本では村落の出来事の処理の仕方が違うと言っています。西日本では早く隠居して共同作業などのことは、若い現役世代に任せ、村落内におきる難しい問題は年寄りが集まって知恵を出し合って、黙って処理をしていたということです。これに対して東日本では、年寄りが歳をとっても実権を握っていたために、村落内のできごとの処理は下手であったようです。このこととどこかで関係しているのではないかと思うことは、おたがいさまの運動は、主として中部地方より西で広くおこなわれているということです。おたがいさまは、新しい集落運動なのです。
〈いのち〉あるものは、〈いのち〉に引かれる。
「生きものが居場所に合わせて生きれば、居場所もまた生きものに合わせて変わる」という「相互誘導合致の法則」がそこで成り立つ。
昆虫と花の間にもそれは確かに成り立っていると見えるが、花の魅力の期間は短い。
「花のいのちはみじかくて、苦しいことのみ多かりき」と詩をよんだ人の心を思い、虫たちを魅了する「花の〈いのち〉」の妖しい魅力を、少しでも映すことができないだろうかと考えて、身近な花にレンズを向けてみた。
最近、モノクロ写真がもっている表現の幅の広さに心を引かれている。カラー写真では表現できないものとして、モノクロ写真には「沈黙の世界」がある。ピカートは「沈黙から出た言葉は大地に突き刺さった杭のように、人の足を止める」という趣旨のことを書いている。「それはラジオからひっきりなしに流されるアトム化された饒舌な騒音語とは本質的に異なる」とも。
人の足を止めるのは、そこに深い意識の世界から上がってくる意味が包まれているからである。同じシーンをモノクロ写真とカラー写真とで撮り比べてすぐ分かることは、モノクロ写真は沈黙の世界を表現できるが、カラー写真はそれが容易にできないということである。沈黙の世界から生まれた写真には余韻があり、カラー写真にはそれがほとんどない。意味の表現として見たときに、モノクロ写真は立体的であり、カラー写真は表層意識の世界を表現して平面的である。だから、モノクロ写真は心を止めるが、カラー写真は説明しすぎて、目で見えるもの以上に与えるものがほとんど何もない。
未熟な技術で恐縮であるが、雰囲気を理解していただくために、「波紋と場」をテーマに沈黙の世界をモノクロ写真で映そうとしたものをご紹介する。
春の光があふれて、林の木々がいっせいに若葉を芽吹き、花々が多様な色彩をつける4月の末には、世に生きて春に出会うことの幸せに心を充たされます。美しく生まれてくる色彩は、春の喜びですが、しかし、生まれ出た色彩だけを追いかけていると、この〈いのち〉の変化をもたらした本当の主役である春の光を中心に、生み出されてくる新しい生きものの存在という「〈いのち〉のシナリオ」を見落としがちです。多くの情報おおわれてしまうと、〈いのち〉のドラマを動かしている宇宙の活きが表から隠されてしまうのです。
そんなときに、美しく豊富な春の色彩をあえて抑えると、その奥に隠されている主役の活きを引き出すことができます。そうして撮った写真には、生まれ出てくる若葉にも、それぞれ、〈いのち〉をもっている「役者」としての存在を強く感じることはないでしょうか。それを感じるときに、私たちの存在も春のドラマを見ている〈我とそれ〉の世界から、そのドラマを演じている〈我と汝〉の世界へと移っているのです。