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今回の「福島からの声」は、詩人みうらひろこさんの詩集「ふらここの涙―九年目のふくしま浜通り―」からの連載の6回目です。
最近の場の勉強会では、相互誘導合致ということを深く学ぶ機会を頂いています。
人間や生きものが活き活きと生きていける居場所。これを役者と舞台に例えると、役者の〈いのち〉と、その役者たちによって創られる舞台の〈いのち〉が「鍵」と「鍵穴」のような関係で上手く噛み合い、関係が深まっていくことで、〈いのち〉の即興劇が進んで居場所も人々も生きものたちともより豊かになっていくということです。
放射能の被害で居場所を根こそぎ奪われるということの意味を、この相互誘導合致の問題から考えていけば、如何にこの問題が、人々や生きものの〈いのち〉に深刻な影響を与え続けているかということを改めて深く考えさせられるのです。
今回のみうらさんの詩からは失われた居場所の〈いのち〉から私たち訴えてくる大切な何かを感じることが出来るような気がします。
私たちはこの問題を決して記憶から遠ざけてはなりません。
本多直人
今回の「福島からの声」は、詩人みうらひろこさんの詩集「ふらここの涙」からの連載の5回目です。
コロナ禍の中、全国のワクチン接種、オリンピック開催の問題が人々の大きな関心の的となっています。このような状況下で、宮城では女川原発の再稼働の許可、福井では原則40年稼働のルールを超えての再稼働など住民の根強い反対を他所に、なし崩し的にその動きが加速しています。
政府が掲げる「脱炭素社会」という大義名分は、未だに全く終わりの見えてこない福島原発の問題への関心が薄れさせ、人々の心のどこかに短期的な政策実現のためには「原発再稼働も止むなし」というような気運を生み出そうとしているかのように思えてなりません。福島原発事故の問題の根本には、人間がその頭の中だけで「理論上での安全」を仮想的に創り出してしまっていたことへの深い反省が無くてはなりません。
〈いのち〉の居場所としての故郷を奪われた方々の深い悲しみと怒りと苦悩は、理論に理論を重ねただけの安全神話によって変えていけるものではないのです。
人間の便利さだけを追求してきた近代の私たちの社会の在り方が「福島からの声」によって、今この瞬間も問われ続けていることを私たちは忘れてはならないのです。
“までい”な生き方は、〈いのち〉を見つめるところからしか生まれません。
本多直人
今回の「福島からの声」は、詩人みうらひろこさんの詩集「ふらここの涙」からの連載の4回目です。
東日本大震災から10年目を迎えました。
10年という歳月、被災地を生きる方々の想いも様々だと思います。
先月2月13日、福島県沖で震度6強の大きな余震がありました。それは10年前の出来事が一瞬にして蘇ってくるような大きな揺れでもありました。あの記憶が思い起こされるだけでも辛く、地震の被害が大きかった地域の方々の中には「ようやくここまで来たのに」と心が折れそうな想いで今をお過ごしの方も少なくないのではないでしょうか。
福島第一原子力発電所の建屋の状況も心配です。汚染水の処理も限界、そして原子炉の冷却に関する設備に、次々に起こる余震の影響はないのか、全く予断の許されない状況に現在もあるのです。
「震災はまだ終わっていない、いや終わるとか終わらないとかいうことではないのだ」ということを改めてこの自然(余震)から厳しく思い知らされたように思っています。
10年目を迎え、福島原発事故の問題から私たちは、更に何を学び、どのように未来に向かって進んでいかなくてはならないのか。この厳しい問いをこれからも続けていくことが、私たちの未来への与贈につながっていくものと思います。
壊れた場所を復旧するだけでは、未来に向けた温かな〈いのち〉の故郷を創っていくことはできません。本当の意味での復興とは何かを改めて問いかける時期に来ているのです。
今回の詩「三月の伝言板」には、私たちが、命を落とした方々への鎮魂と共に、新たな〈いのち〉の居場所を築いていく上で、決して置き去りにしていくことの出来ない、〈いのち〉の居場所の礎となる深い思いが溢れています。
本多直人