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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
場の研究所の理事の前川泰久でございます。
12月になり師走ということで皆様お忙しくお過ごしかと思います。
コロナの感染も、何とか減少した状態を保っているので、精神的にも、少し余裕が出てきた感じですが、マスク・消毒を含めた予防安全は継続していきたいと思います。
11月の勉強会は19日(金曜日)に勉強会を開催。
皆様のおかげで「ネットを介した勉強会」も18回目となりました。ありがとうございます。
テーマは「自己表現的システム」でした。
なお、勉強会にご参加された方々、ありがとうございました。
そして、今月12月の「ネットを介した勉強会」の開催は、従来通り、第3金曜日の17日に予定しています。基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。毎回コメントしていますが、ネット上でも「共存在」の居場所が生まれていると感じておりますので、その原因を探りながら改良を重ねて継続し、広げて行きたいと思っています。
「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを参考にして下されば幸いです。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきた
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:
「広く誰もが楽しく考え、一緒に思考力を深めていける、という特徴」
「ネットを介した勉強会」の方法のユニークさってなんでしょうか。
先の勉強会の後、ふとしたきっかけがあって、このことを考えてみることになりました。
折角なので、掻い摘んで紹介させてください。
ITの技術的な面からは、「電子メールが使えるならば参加できる」と言う点が一つだと思います。また、特徴としては、参加している全員が発言できて、全員の意見が読めること。会の進行はガイドが頼れる上に考えたり書いたりは、自分のペースで行えること。
…これだと特徴というよりは、説明的ですね。
毎月、電子メールを使って勉強会を行っています。それは、知識を身につける機会と言うのでなく、勉強会そのものが楽しみであるかのような時間を一緒に作っているようです。例えるならば、オーケストラが、毎月、作曲家から新しく届く楽譜を作曲家と共に演奏する演奏会と言うのが近いかもしれません。
また、例えば「方法のユニークさ」は、1つは、学習の進め方がルーティンで構成されていること、だと思います。
楽しく考えさせて、思考力を深くするという特徴もありますね。
はい。その為に、進め方は即興的ではなく、順を守れば良いようになっています。その分、身構える必要もなく、聞き逃さないように緊張し続ける必要もなくしてあります。ネットはどうしても情報が先に届いてしまうので、自分が感じられなくなってしまうと感じたから、手続きに気を取られて欲しくなかったのです。このこともあって、広く誰もが参加できるようになっています。
まとめると。
この「ネットを介した勉強会」は、
広く誰もが楽しく考え、
一緒に思考力を深めていける、
という特徴がありますね。
以上。
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11月の勉強会の内容紹介:
◎第18回「ネットを介した勉強会」の資料
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼ぶことにします。)
★テーマ:「自己表現的システム」
1.自己表現的システムに対するロイスの考え
・19世紀の後半から20世紀の初めにアメリカで生きたJosiah Royceは客観的な理想主義の哲学を唱えた人として知られている。
・ちょうど20世紀になった頃、彼は“The World and the Individual”という本を出版したが、その付録に「英国にいて何処までも正確な英国の地図をつくる」という課題を実行する活きとしてSelf-Representative System (自己表現的システム)を提唱した。
→英国の地図の制作ということでは、私たちにはピンとこないので、「英国」を私たちの家庭のような「居場所」に置きかえて、居場所にいて、その居場所をどこまでも正確に表現する「地図」を作製する活きとして自己表現的システムを考えてみることにする。
2.地図づくりでの課題
・この「地図」をつくる上で重要なことは、居場所を外から見るのではなく、その居場所の内にいて、その「地図」をつくるということである。実際、内に存在してその家庭と非分離的な存在にならなければ、家庭のことはよく分からない。
・居場所に存在して、その居場所の「地図」をつくるわけであるから、できあがった「地図」もその居場所に存在することになる。
→したがって、その「地図」がどこまでも正確に居場所を表現するためには、当のその「地図」自身も、その「地図」に描き込まれていなければならないことになる。
3.自己言及のパラドックスについて
・「地図」をつくり始めたときには、居場所にはその「地図」は存在していないので、できあがった「地図」にはその「地図」自身は描かれていないことになる。
→このことは、「地図」がどこまでも正確であるという要求に反することになるので、その「地図」を加えた新しい「地図」を改めてつくらなければならないことになる。
・しかし、その新しい「地図」をつくってみると、居場所には、新しい「地図」に描かれている旧い「地図」と、新しい「地図」自身の合計二枚の「地図」があるのに、新しい「地図」には旧い「地図」だけしか描かれていないことから、新しい「地図」を加えたさらに新しい「地図」をつくる必要が生まれてくる。
→このようにして、現在の「地図」をつくることが、必然的に次の「地図」をつくる活きをつくり出すために、「地図」をつくる活きが―居場所がそれ自身を表現する活きが―いつまでも終わることはない。
・自己が居場所と非分離的になって、このようにして居場所の完全な「地図」を作製する作業には、自己が自己自身をどこまでも完全に表現する(自己言及する)という操作が含まれてしまう。
→自己が自己自身を定義しようとすると、定義が循環するばかりでどこまで行っても終らない状態―自己言及のパラドックス―が生まれることは昔から知られている。
・この自己言及のパラドックスによって、同じ操作を無限に繰り返していく必要が生まれるので、「地図」を無限に描き続けなければならなくなるのである。
4.拘束条件について
・居場所とそれと非分離な自己からなるシステムに、自己言及のパラドックスが生成するのを防ぐ活きをするのが拘束条件である。
・その拘束条件としては、外在的拘束条件と内在的拘束条件の二種類が必要になる。
1.外在的拘束条件は居場所の外部世界への境界条件として、居場所と外部世界の関係を定義する。
2.内在的拘束条件はシステムにおける居場所とそこに存在する自己の関係を定義する。
・ロイスの自己表現的システムの外在的拘束条件(システムの外的境界条件)は「居場所とその外部世界の境界」を含めて居場所が定義されていると考えることができる。
・しかし、居場所とその内側ではたらく自己とは、互いに非分離につながってシステムを構成していることが決められているだけで、居場所とその内部に存在している自己の間には、内在的な境界(内在的拘束条件)は存在していない。
→その結果、居場所と自己とが連続的になってシステムを構成しているために、システムが自己言及のパラドックスの影響を受けて「地図」をどこまでも生成していくことになるのである。
5.自己言及のパラドックスの発生をふせぐ考え方
・自己の存在が居場所とこのように非分離になっていることは、自己の存在が居場所と連続的になっていなければならないということではない。
→たとえば私たちの身体とその内部にあるさまざまな臓器や器官の存在は非分離だが、各臓器や器官は連続的につながってはいない。それぞれが身体のなかでその存在を位置づけられて、その存在に応じた独自の活きをしているのである。
・このようにシステム「全体」に各「部分」の存在を位置づけて、各「部分」にその存在に応じた活きをさせるのが内在的拘束条件である。自己表現的システムでも、身体における臓器や器官の存在のように、自己の存在をシステムに位置づけて自己言及のパラドックスの発生を防ぐ必要がある。
・またその他方で、自己にとって必要なことは、自己自身がシステム全体にどのように位置づけられているか、その存在を知ること―居場所における内在的拘束条件を知ること―である。それが分からないと自己言及がおきてしまうのである。
6.現代における自己言及パラドックスについて
・ロイスの自己表現的システムには、このように内在的拘束条件が与えられていないという大きな欠点があるが、彼が自己表現的システムという概念を新しくつくって、「現在の活きが次の活きを企画して、活きを次々とどこまでも生成し続けていく」という考え方によって生命の本質を捉えようとした点は、高く評価できると思う。
・実際、自己表現的システムの研究の重要さは現在でも増えるばかりである。
→たとえばSNSの急速な発達によって個人とその居場所としての社会の関係が非常に複雑に入り組んできて、多くの人びとが自己表現的システムのカオスに巻き込まれて苦しんでいる。
・また外在的拘束条件や内在的拘束条件を超えて勝手に送られてくる自己の「地図」のために、多くの人々が被害に遭い、出口のない自己言及のパラドックスに陥って悩んでいる。
→人間と自己表現的システムの関係には、これからも必要になってくる奥がまだあるように思われる。
7.ロイスの理論の改良
・それではロイスの理論をどのように改良していけばよいのだろうか。その自己表現的システムの理論を乗り越えるために、少し具体的な例について考えてみることにする。
・居場所としての家庭とその家族の存在は非分離で、家族から家庭への〈いのち〉の与贈と家庭から家族への〈いのち〉の与贈という与贈循環によって〈いのち〉の活きがつながっているのである。
・家庭と家族の存在は直接的につながっていなくても、互いに誘導し合って鍵と鍵穴のように離れてつながっている状態にある。
→このように「離れてつながっている」ということは、「鍵」としての家族と「鍵穴」としての家庭の間に内在的な境界(内在的拘束条件)が存在していることを意味している。
・家庭はこの境界を介して、家族の活きを誘導したり制限したりする。この境界が存在しているために間をおくことができるので、家庭における家族の状態は安定している。(家庭が崩壊する直前は別ですが、)
→その状態がロイスの自己表現的システムのように不安定になることはない。
8.家庭における内在的な境界による安定状態の作成
・家族のこころに自己組織的に生れる家庭のイメージが、家族が描く居場所の「地図」に相当する。家庭のために家族がはたらくことが、家族の家庭(居場所)への〈いのち〉の与贈であるが、与贈の度に家族と家庭の関係が微妙に変化していくので、それに応じて「地図」が僅かずつ描き変えられて変化していくことになる。
・しかし内在的な境界(内在的拘束条件)が家族の存在を守って家庭に安定した状態を生みだしているので、家族から家庭への〈いのち〉の与贈が安定した状態でおこなわれて、家庭のイメージ(「地図」)が僅かずつ変化していく点が、存在の不安定性によって「地図」が増殖的にどこまでも増えていくロイスの自己表現的システムと異なっていることになる。
9.「役者」と「舞台」という考え方について
・ここで家族と家庭を「役者」と「舞台」と見なし、家族の家庭生活をその「役者」たちが「舞台」において自己の〈いのち〉を即興的に表現する「〈いのち〉のドラマ」(即興劇)であると捉えることにする。
・「役者」たちが「舞台」において、その〈いのち〉を表現することが「役者」たちの〈いのち〉の与贈であり、「舞台」が「舞台」の〈いのち〉によって「役者」たちの〈いのち〉を包んで、それぞれの存在を「舞台」に位置づけることが「舞台」から「役者」への〈いのち〉の与贈である。この「舞台」からの〈いのち〉の与贈によって、「役者」の「舞台」における役割が決まる。
・〈いのち〉の与贈によって、「役者」と「舞台」の間を〈いのち〉が循環することが〈いのち〉の与贈循環で、内在的な境界(内在的拘束条件)が存在しないということは「舞台」が定義されていないということだから、家庭における家族の存在は他所の家庭にいるように不安定なままである。
10.言葉の追加説明
・「役者」と「舞台」によって生成する「〈いのち〉のドラマ」に関する内容的には同じ現象でも、それを〈いのち〉の活きに注目して見るのが「〈いのち〉の与贈循環」で、存在とその〈いのち〉の表現に注目して見るのが「相互誘導合致」である。
・「役者」たちが「〈いのち〉のドラマ」で共に自己を表現する「舞台」は、家族の〈いのち〉の居場所としての家庭への与贈によって生まれる。「役者」の〈いのち〉の表現が「舞台」でなされたときには、それは「鍵」の形を「鍵穴」に向かって表現したことになる。「ドラマ」が続いていくと、「役者」がおこなった〈いのち〉の表現は次第に「舞台」に移されて「鍵穴」を形づくっていく活きをしていく。
・「〈いのち〉のドラマ」では、「役者」たちの〈いのち〉の表現に新しい「部分」が生まれると、それまでの「部分」が「全体」の方にくり込まれて、新しい「部分」(「鍵」)と新しい「全体」(「鍵穴」)によって相互誘導合致が新しく生れていくという「くり込み相互誘導合致」―「〈いのち〉のくり込み自己組織」―がおきる。
→この「くり込み相互誘導合致」の連続が「舞台」におけるドラマの時間の生成のメカニズムである。
11.SNSにおける相互誘導合致
・内在的拘束条件によって存在が社会的に守られていないために生まれる不安定状態から抜け出すためには、それが限られた範囲であっても、まず与贈と与贈循環によって内外在の拘束条件が形成できる「居場所」(社会的な「舞台」)をつくり、次に「くり込み相互誘導合致」によって、その「居場所」(「舞台」の範囲)を徐々に広げていく以外によい方法はないと思われる。
・ここで強調したいのは、居場所に歴史が生まれるためには、居場所が時間的に維持されていくだけでは不十分であり、その居場所に存在している人びと(生きもの)による「くり込み相互誘導合致」が必要であるという点である。
★極端な例での説明:
・空き家を維持しているだけでは、そこに家としての歴史は生まれない。
・自己表現的システムとしての活きがそこに現れて、その活きが「くり込み相互誘導合致」によって時間的に継続していくことによって歴史が生まれるのである。時計で計ることができる物理的時間の外にも、「くり込み相互誘導合致」が繰り返されることによって進行していく歴史的時間がある。
・私たちの「ネットを介した勉強会」という「オーケストラ」では、各人の「楽譜」(内在的拘束条件)の「演奏」(「居場所」における〈いのち〉の表現)に「指揮者」が適切な外在的拘束条件を与えることによって、「くり込み相互誘導合致」―「〈いのち〉のくり込み自己組織」―を進めて歴史的時間を生成している。
12.ロイスの理論と「くり込み相互誘導合致」について
・ロイスの理論に戻って考えてみる:
もしも自己が居場所の完全な「地図」をつくることができれば、静的にはそれで目的とする表現が目出度く完成したことになるので、〈いのち〉の自己表現の活きはそこで終わる。しかしそのことは、動的には〈いのち〉の活きがそこで止まって、自己表現的システムとしての自己を含めた居場所が死ぬことを意味している。
・居場所が生き続けていくためには、居場所の完全な「地図」が何時までも完成しない企画を先送りしていくことが必要である。
・ここで居場所の「地図」をつくることは、相互誘導合致の「鍵」の活きに相当し、その「地図」を居場所のものとして、居場所に位置づけることが「鍵穴」の活きに相当する。より完全な「地図」をつくって、それを次々と居場所に位置づけて歴史的時間を生みだしていく「くり込み相互誘導合致」が居場所における「〈いのち〉のドラマ」の生成原理になる。
・ここで居場所全体の境界条件が外在的拘束条件に相当し、また次々とつくられていく「地図」が踏まえていくものが内在的拘束条件に相当する。内在的拘束条件は思想や風土や考え方などに相当する。それを大きく捉えれば、居場所に〈いのち〉の自己組織を進める条件になっている。
→このように「くり込み相互誘導合致」はロイスの自己表現的システムの静的で不安定な性質を動的で安定したものに変えるのである。「くり込み相互誘導合致」によって、〈いのち〉の自己組織が進んでいく。
13.地球も「くり込み相互誘導合致」が重要
・歴史をつくりながら生きていくシステムは、細胞でも、個人でも、家庭でも、組織でも、国家でも、また地球でも、みな動的な自己表現的システムであり、それが生き続けていくために「くり込み相互誘導合致」が重要な活きをする。
・居場所としての家庭における家族の共存在では、家族と家庭が非分離的であるなら、家族が互いにつながって〈いのち〉の表現をおこない、皆で話し合いながら「舞台」としての家庭の「地図」をつくっていくことになる。
・家族も成長していくので、そのことも考えると「くり込み相互誘導合致」によって〈いのち〉のドラマを演じながら、歴史的な自己表現的システムとして「居場所としての家庭」を共創していくことが必要になる。
・家族がつくる家庭の「地図」が互いに大きく異なっていると、一緒に存在して生きていくことはできない。
→そこで大切になるのが、〈いのち〉の居場所へのそれぞれの〈いのち〉の与贈である。居場所への〈いのち〉の与贈がその居場所の「地図」をつくる活きとつながったときに、その居場所に自己表現的システムとしての活きが生まれるのである。それは〈いのち〉の与贈循環が生まれて、それぞれの存在をその居場所に位置づけるからである。
・人間を含めてさまざまな生きものが共に存在していく居場所としての地球と、そしてその未来には、自己表現的システムとしての「地図」づくりの共創と、その「くり込み相互誘導合致」の実践がますます重要な意義をもってくると思う。
以上
(資料抜粋:前川泰久)
――――
・・・
◎12月の「ネットを介した勉強会」開催について
12月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第3金曜日17日に開催予定です。
よろしくお願い致します。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。
なお、今後のコロナの状況を見ながら、「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催が決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
今後ともサポートをよろしくお願いいたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2021年12月1日
場の研究所 前川泰久
お知らせ)
申し訳ございません。
2021年10月号は、発行を失念してしまいました。
毎月の活動の報告は、2021年11月号にまとめて掲載されておりますので、参照ください。
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
場の研究所の理事の前川泰久でございます。
11月になりました。
コロナの感染も、なぜか急に減少して元の生活へ戻りつつあります。しかし、まだまだ油断は禁物ですので、皆様もマスク・消毒を含めた自衛手段を是非継続していただきたいと思います。
実は、10月のメールニュースが発行されていないことに気づきました。
9月の勉強会は中旬に有って、月末まで、私の大学の講義が始まったことや、高齢の母の介護の対応が増えたこともあり、他に気が行っていたと思います。大変失礼しました。10月の勉強会の案内の方は予定通り対応したのですがミスをしました。
そこで、今回は2回分を合わせたメールニュースを配信いたします。今後はこのようなことがおきないようにと反省しています。ご理解のほどよろしくお願いいたします。
さて、9月は17日の金曜日に勉強会を開催。資料は2009年に清水先生が作成されたものをベースとして、テーマは「一歩先を踏み出すために --- 相互誘導合致技術」でした。
そして、10月は15日金曜日に、「〈いのち〉即興劇」というテーマで開催しました。
どちらも、「相互誘導合致」という点で内容が共通しておりますので、つながる部分も多いかと思います。少々長めの内容となりますのでよろしくお願い致します。
なお、勉強会にご参加された方々ありがとうございました。
そして、今月11月の「ネットを介した勉強会」の開催予定は、従来通り、第3金曜日の19日といたします。基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。毎回コメントしていますが、ネット上でも「共存在」の居場所が生まれていると感じておりますので、その原因を探りながら改良を重ねて継続し、広げて行きたいと思っています。
「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを参考にして下されば幸いです。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。よろしくお願いいたします。
ご感想、ご意見は、こちらのアドレスへお送りください。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:
理論と現実の行き交うところ。
ネットを介した勉強会は、理論と現実の間に架かった、橋の上のようなところなのかもしれないと思いました。
毎回、メールで交わされることは、もちろん理論である訳ですが、それだけではなく、一人ひとりの生きていく中での現実の欠片であったりします。
それは、ここでは、どこか外側にある答えではなくて、内側にある問いを頼りにするしか理論の理解に近づけないことが直観的に感じられているからではないかと思っています。
そして、それらが、この橋の上で行き交っている。
そのようなことから、自らがやりたかったことがここに在る、そう気がつきました。
ネットを介した勉強会を組み立てること、その案内役を行うこと、それらが、やっていて楽しく、毎回の会が終わる時には、嬉しくて仕方がない気持ちになるのは、こういったことであったか、と納得した次第です。
更に、この場で交わされている場の理論と技術には、肯定的なこと(今を生きていく)を創り出していく思想を構想する活きを感じていることは、言うまでもありません。
このように、毎月、届けられる声をゆっくりと待ちながら、また、こころ躍らせながら生長の畑を耕しています。
9月の楽譜のテーマ「一歩先へ踏み出すために――相互誘導合致技術――」を見て、ふと思い出したことがありました。
それは、私が場の研究所の勉強会に参加した直後くらいの「所長ブログ」です。
改めて読んで、「生きていく今」、そう声に出していました。
皆さんにも読んで欲しいな、と思いましたので、引用させていただきます。
(全文は、場の研究所ホームページで読むことができます。 )
”「希望は厳しさとの相互誘導合致か」
希望は、生きものの内側に生まれる「生きていく形」だ。その形が、居場所と生きものの相互誘導合致によって生まれる〈いのち〉の活きであることは間違いない。それは、未来に応えるために、生きもののからだの内に与贈されている「隠された活き」──〈いのち〉の願──が形となって引き出されてくる「〈いのち〉の芽」ともいうべきものである。その形を引き出すものは、現在の居場所の厳しさであって、決して、その温かさではない。それは、いま温かければ、それで足りるからである。 “
(場の研究所ホームページ、所長ブログ20160223「希望は厳しさとの相互誘導合致か」から。
URL: [https://www.banokenkyujo.org/2016-02-23-kibou-sougoyuudougatti])
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勉強会の内容:
以下の2回の勉強会の内容紹介となります。
◎第16回(09/17)ネットを介した勉強会「一歩先を踏み出すために --- 相互誘導合致技術」
◎第17回(10/15)ネットを介した勉強会「〈いのち〉の即興劇」
まず、9月のテーマ「一歩先を踏み出すために---相互誘導合致技術」の内容を紹介します。
資料自身がかなり内容豊富でしたので、ダイジェスト版にさせていただきます。
◎第16回「ネットを介した勉強会」の資料
<一歩先を踏み出すために --- 相互誘導合致技術>
1.未来をつくる構想力について
・目標として:「思想的構想力と実践的構想力の相互誘導合致によって、地球時代における未来の夢を設計する。そして、日本社会に発信し日本からの提案として世界に拡げていくこと。」としたいと考えている。
・未来のためにあるはずの思想や哲学も情報に変えられて、そこからいま役に立つ「ハウツー」を取り出すことに興味がもたれている。このような傾向の裏側には、正解がどこかにあると見なして、その正解を探そうとする心理がはたらいているのである。しかし現在のような時代の大きな転換期を迎えると、正解などはもう存在しないので、「視界ゼロ」の状態になってしまう。
→このような大きな転換期では、未來は探すものではなく創り出すものであり、創り出さなければ、少なくとも明るい未来は来ないのである。そして未来を創るためには構想力が必要なのである。
・「これは正しい」「これは正しくない」と判別する論理的な判断能力が必要だが、これは地図という一つの領域で目標とする点を求めることに相当するので、一領域論理が使われる。
・構想力は、これとは異なり「生きる形」をつくる創造的な能力である。
→未来における「生きる形」を考えるためには、未来には居場所がどのようになるかを知らなければならない。そのためにまずは現在の居場所にどのような矛盾があるから転回を必要とするのかを考えて、その矛盾を解消することができる居場所を想定する必要がある。
・これは現在までの歴史の延長線の上に想定される未来ではなく、無から生まれた純粋未来として現在の自分の方に未来の方から近づいてくるのである。この未来の居場所をドラマの舞台として自分自身がどのように生きたいかを考えることが「生きる形」を構想することに相当する。
→そしてその舞台でドラマを進める生き方が生きる形になる。このように生活の舞台としての未来の居場所とその舞台における新しい生き方を考えることが必要になるから、構想力では二領域論理が使われるのである。
2.理論の特徴
・場の理論を研究していけば、当然、日本文化の重要な基盤の一つである大乗仏教と触れ合ってくる。
これまでの科学技術では一領域論理を使うが、場の理論の最も大きな特徴は二領域論理を使う点にある。場の理論には次の三つの柱があるが、それぞれは次のように仏教の思想的特徴と関係している。
二領域思想 (仏教の「空の思想」に相当)
相互誘導合致 (仏教の{即の論理}に相当)
共存在の深化 (仏教の「仏の救済」に相当)
・簡単に書くと、二領域思想を人間の組織に対して相互誘導合致という論理で実践的に実行することによって、「鍵と鍵穴の相互誘導合致」の形で組織と生存環境との間に境界が生成して、人間の組織と生存環境を含む居場所全体に共存在の深化がおきるということである。
→相互誘導合致技術とは、存在者(何を問題として想定するかによって、細胞とか、人とか、企業とか、地域社会とか、国とか、異なる)が互いの差異を前提にして生存環境に対して調和的状態になる形をつくる「在るための技術」である。(人間が何かを「持つための技術」のことではない。)
中略
3.限られた空間における問題点(一領域的地球から二領域的地球へ)
:人間のための地球から人間と生きている自然が共存在する地球へ
・人は、ほとんど毎日のように他のさまざまな生き物の生命を多数いただいて生きている。つまり人は生きるために、多くの他者の死を必要とする生き物である。他の動物でもそうであり、植物も動物やバクテリアがいなければ生きていくことはできない。生命体単独、さらには類や種単独では、この地球の上に〈いのち〉を継続的に維持していくことができないことは自明である。
→このことから、地球を居場所として生きてきた多様な生き物たちは、他種の生き物と居場所を共有して生と死の循環的関係(生命循環)をつくって、そしてその循環を維持する一つの小さな要素として生きていくのである。
・人間が自然の中で他の生き物と一緒に個体として生き続けて行こうとすると、非常に大きな困難をともなうために、ほとんどできない。またその逆に自然のなかで生きている多くの他の生き物が、人間の社会で生きていくことも難しいのである。このことから人間が日常的に生活している「人間の社会」と他の生き物たちが住み処としての自然が分かれて二種類の領域をつくってしまう。
→そこで、どのようにすれば、この二種類の領域を調和的に共存させることができるかが課題になる。
・その人間の社会と自然を調和的に共存させるという課題のためには、人間の社会の効果的な膨張に歯止めをかけて、人間によるさらなる破壊から自然を守ることがどうしても必要になると考える。
4.地球の時代を発展的に生きる原理
:人間と生きている自然の共存在の原理(二領域的地球の経営原理)
・「人間の社会」とその自然環境の間に双方に開かれた「境界」をみずからつくり、その境界を挟んだ両者がおのずから整合的な関係をつくり出すことを可能にする技術(相互誘導合致技術)が必要になると考えている。
・またその「境界」を人間が共同して維持することによって自然環境が(人間による破壊から)守られるために、境界の内側の「人間の社会」の調和を維持することもできるのである。
・相互誘導合致技術を感覚的に理解するための例として:
人間の住み処としての「里」と動物たちの住み処である「山」という二つの領域の関係をおのずから整合的にする「境界をつくる技術」として、日本で伝統的に用いられてきたものに里山がある。里山という内にも外にも開かれている境界帯を人間が共有して管理することによって、その内側の人間と外側の動物たちとが長期的に共存してきたことはよく知られている。
→内を守るために外を守ることの重要さは、近所の人々が協力して近所――里山に相当する――を守ることが、家庭という人間の居場所を安全に守ることになることが知られるようになってきたと考える。
・これを即興モデルで考えてみる
このモデルでは、人間の生活の舞台がドラマの舞台、人間がその舞台でドラマを演じていく役者、そしてこのドラマが演じられる劇場が人間の領域、その劇場の外の世界が自然に相当する。
ここでの課題は劇場の内部で演じられていくドラマをその外側の世界のドラマと相互整合的にするためにはどうすればよいかということである。
里山で考えると、観客席から動物たちは舞台の上でどのようなできごとが進んでいるかを知り、また役者としての人間は観客が何を希望しているかを知ることができるのである。
→内外の状態が相互整合的になるようにドラマのあり方を調整することが重要になるのである。
・考え方の拡大:
上記のことを、たとえば金融とか、企業経営とか、人間のさまざまな活動分野に一般化して地球時代における場の設計原理を考えることが出来る。
→その原理とは、「人間の活動の場とその外側の環境の間に内外に開かれた境界帯をつくって、場で活動する人間が共同してその境界帯を維持していくこと」である。
・人間の活動の場を地球における生命循環のなかに置くことがまず基本的な要件になり、そのためには里山のように内外に開かれた安全な境界帯をつくることによって、人間の活動の場を外側と相互整合的な状態になるようにすることが必要になる。
・提案しているのは、市場とその外側の生活世界の間に内外に開かれた境界帯をつくって、その境界帯(地域社会や地域の自然)の安全を維持することを含めて市場活動とすることによって、自然環境との調和が可能になり、内側で市場活動を継続して続けていくことができるとするものである。
(分かりやすく言えば、コミュニティに受け入れられない企業は続かないということである。)
5.科学的生物学の公理として
・このように、外との境界帯を守って安全にすることによって、その境界帯をはさんだ内と外の世界が相互整合的な状態になることは、次の科学的生物学の公理と関係があるように思われる。西田幾多郎は「生命」という論文に次のように書いている。
「生命とは如何なるものであるかに関するホルデーンの説(J.S.Haldane, The Philosophical Basis of Biology, 1931)は、私は自分の考えに最も近い。彼によれば生命の特徴は形が形自身を維持していくように生命体と環境とが相互整合的にはたらくところにある。この形の能動的維持active maintenanceが我々の生命である。このように自己自身を限定する形を見ることが、生命の直観である。そしてこのような生命そのものとしての存在が、科学的生物学の公理となるのである」。
・「形が形自身を維持していくように、生命体と環境とが相互整合的にはたらく」ということは、たとえば生命の例として家族という生命体と、家庭という環境とを考えると、理解しやすい。
・家族がいなければ家庭は維持されず、また家庭がなければ家族は維持されない。そこで家族が家庭に整合的になるように生活すれば、家庭も家族にとって整合的な状態となって家族を包み込む。そして家族と家庭が相互整合的にはたらく形が能動的に維持されていくのである。相互整合的なはたらきが消えると、家庭は崩壊して、家族はばらばらになって形が形自身を維持していけないことになる。家族のメンバーと家庭の間に、目には見えないが境界があって、それぞれが家庭と整合的な状態をつくりながら、メンバーが個人として主体的に行動することを可能にしていて、この境界が壊れると家庭は崩壊するのである。
・このように、生命体と自然環境の間に相互整合的なはたらきが現れて形(生命体と環境の間の境界)が能動的に維持されていくことが生命の原理(公理)であると指摘していることになる。
→生命体(鍵)と環境(鍵穴)の双方からのはたらきが相互整合的になるように形(境界)が生成することを、『「鍵」と「鍵穴」の相互誘導合致』と名づける。
・個体の生命に相当する「鍵型の生命」(局在的生命)と居場所の生命に相当する「鍵穴型の生命」(遍在的生命)とがあり、その二種類の生命が鍵と鍵穴の相互誘導合致の形で整合的な状態をつくるように交互にはたらくことによって、居場所において歴史的に生命を継続していく創造的な〈はたらき〉(「ドラマ」)を生み出していく。
→「鍵型の生命」のことを生命と呼び、「鍵穴型の生命」に括弧をつけて〈いのち〉と表すことにする。生命は個体の死によって消滅するが、〈いのち〉は個体の生と死を越えて居場所に歴史的に継続される〈はたらき〉となるのである。
・近代科学の大きな問題点は「鍵穴型の生命」を考えていないために、相互誘導合致によって鍵型の生命の拡大を止めて、人間と自然とが相互融合的に存在する形をつくる論理――仏教の「即の論理」に相当する論理――をもっていないことであり、つまり場の理論をもっていないのである。
中略
6.交換と贈与
・二重生命状態では、「個としての生命体」と「全体としての居場所」との間に「贈与することによって贈与される」という(明在と暗在の間の)境界を越える〈はたらき〉が循環的に生まれて相互誘導合致がおきている。
→このようにして居場所に記憶されていく〈はたらき〉は他の生命体にも開かれているために、同じ居場所に生活する多くの生命体に共有されていく。そしてさまざまな生命体の存在に影響を与えながら新しい相互誘導合致を生み出して継続的にその影響を続けていくのである。
・居場所への贈与の〈はたらき〉を忘れて、現代の資本主義経済がシステムとして発達していくと、この個と個の間の〈はたらき〉の交換が人間の生活全体に大きな影響を与え、また方法的にも高度化されて世界的にもれなく広がっていくために、もはやその交換という方法から離れて生活することが難しくなる。しかし、〈はたらき〉の交換は当事者の間だけに閉じた利害関係をつくることから、贈与のように個と全体の間の境界を越えることはできない。
・その結果として、人の行為をすべて利害関係を通して見ようとする心を強めるばかりでなく、心の自由を失われて自己の行為そのものも利害関係にとらわれてしまう状態が、家庭、近所、組織体、地域社会、国、世界、地球などさまざまな居場所に広がるのである。どんな居場所を見ても崩壊現象が見られ、人間がこの地上で生きつづけていくために必要な生命的基盤が急速に失われている。
→現在、人間が陥っている危機的状態から抜け出すためには、利害関係を越えて贈与し贈与される〈はたらき〉を喜びとする生き方を広める以外には方法がないと思われる。
7.贈与の喜び
・仕事することを喜びとする生き方と、苦しみとする生き方があるが、これは仕事の内容に関係しているのである。労働が居場所への贈与の形となるか、それとも他者の占有欲を充すためにおこなわれるかに関係している。また贈与の喜びと自己の占有の喜びとでは充足感が異なる。この喜びは贈与の循環から生まれてくるのである。
・したがってその労働意欲が非常に異なってくる。自己の占有欲を満足するための労働は競争を呼んで欲望がかぎりなく広がって行くために、常に満たされず、晴れ晴れと充実した日々を送ることはできない。
8.相互誘導合致技術の活用分野
「もつための技術」から「あるための技術」へ
1.自然環境と調和をするさまざまな場づくり
2.自然環境と調和をする経済、産業、農業の型の創出
3.地域社会における医療と介護
4.場の表現とコミュニケーション
5.場の文化の展開
と考える。
9.次の時代を拓く思想
:相似思想(一領域的思想)から相補思想(二領域的思想)へ
・近代において人間は〈いのち〉の居場所としての地球の遍在的生命を急速に破壊して、人間のための一領域的世界をつくってきた。
→この思想は、地球の形を人間の(自己中心的な意識の)形と「相似形」にしようとするものだから「相似思想」と呼ぶことができる。
・この「相似思想」に対して、人間と自然環境という二領域の形を能動的に継続して行くことを善とする思想を「相補思想」と呼ぶことにする。
→この思想は、居場所としての地球の〈はたらき〉と、その居場所における存在者であるさまざまな生きものの〈はたらき〉とが相互に誘い合って「鍵穴」と「鍵」のように合致する形をつくってはるばると〈いのち〉を私たちに伝えてきたと考える。
・そして自分がその〈いのち〉を受けた存在としていまここに存在していると自覚して、自分なりの努力によってその〈いのち〉を未来へつたえることが「要請」されているし、またそのように生きることが限られた一度だけの人生を甲斐あるものにすると考えるのである。
→相補思想はこのように生命倫理を根源から明らかにしていくと考える。
★終わりに(21年8月25日)(清水博からのメッセ―ジ)
〈いのち〉は生命と異なって、「存在を継続しようとする能動的な活き」ですから、生きている生きものが他の生きている生きものに、自己の〈いのち〉の一部を一時的に受け渡すことができます。ここから存在の非分離(共存在)という概念がでてきます。しかし生命では、自己の生命を他の生きものに渡すためには死ななければなりません。
この差を表現することから「与贈」という言葉が考えられて、「〈いのち〉の与贈」と「〈いのち〉の与贈循環」という言葉が出てくるのです。生命の場合は「贈与」の形でしか受け渡すことができないので、「生命の贈与」と、「生命の贈与循環」ということになります。もちろん、このような現象も起きますが、両者は現象としては区別されるべき異なる現象です。また、この差は、 相互誘導合致にも影響を与えます。
「贈与」と「与贈」の差の背景にあるのは、生命と〈いのち〉の差に対する理解であり、その差には場の研究所としての約10年余の歩みがあります。この論文には、まだ〈いのち〉の内容についての具体的な説明はありませんから、「論文中の贈与を与贈という言葉で置き換えて下さい。」とは言えないわけです。
しかしこの論文では、暗黙の直感がはたらいて、「贈与」が「与贈」の意味で使われていますので、そのまま読んでも誤りはおきないと思います。〈いのち〉という概念は、場の研究所として守らなければならない幹になる思想的概念であることをご理解いただければ幸いです
以上
(資料抜粋:前川泰久)
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続いて、10月15日金曜日に開催された、「ネットを介した勉強会」の内容を配信いたします。
テーマは「〈いのち〉即興劇」でした。
◎第17回「ネットを介した勉強会」
<〈いのち〉の即興劇>
1.生きものが生きていく原理をあらわす法則
★相互誘導合致について:
・「鍵穴と鍵が互いに相手の形を自分の形に合うように誘い込みながら合致していく」ということ。
・生きものの身体の中の化学反応では、基質分子はそれを特異的に分解する酵素分子と互いに整合的に結びつくことが知られている。その結びつきをつくる活きをするのが相互誘導合致である。
・両者の結びつきは、単に立体的であるばかりでなく特異的であることから、「鍵」と「鍵穴」の関係に喩えられているのである。(免疫の場合も、抗原と抗体が相互誘導合致によって特異的につながる。)
2.「鍵」と「鍵穴」の発想について
・40年以上も前の話になるが、存在している場所に場が生まれて、人びとがその場の活きを受けているときには、人びとの〈いのち〉の活きとその場所に自己組織的に生まれる〈いのち〉の活きの間に、前者を「鍵」とし後者を「鍵穴」とする特異的な関係が生まれることに気づいて、私は「場は両者の間の相互誘導合致によって生まれる」と考えた。
・大まかに言えば、「鍵穴」としての場所の〈いのち〉が「鍵」としての人びとの〈いのち〉に与える活きが「場」に相当する。
→家庭や職場などの居場所に私たちが場を感じるのは、両者の間に相互誘導合致の法則がはたらいているからである。
3.相互誘導合致の法則について(全体と部分)
・機械の製造では、さまざまな「部分」を集め、そしてそれを適切に組み合わせて、「全体」をつくる。つまり「部分」から出発する。
・しかし生きものの世界では、その逆に、まず「全体」が生まれて、次にその「全体」のなかに「部分」が生まれ、そして相互誘導合致によって両者が統合すると同時に、「全体」が成長していくのである。
・最初にまず「全体」が生まれ、次にその全体のなかに「部分」が生まれて、相互誘導合致によって統合されながら「全体」が成長していくのが、生きものが生きていく姿である。
つまり、これまでの「全体」を「鍵穴」とし、新しく生まれた「部分」を「鍵」として、両者の相互誘導合致によって統合的に生まれるのである。
4.生きものの継続的存在について
・相互誘導合致によって成長を生みだしながら生きていくのが生きものの存在の姿であり、相互誘導合致は絶えず新しい「全体」をつくってその活きを新しくするが、同時にまたその「全体」では、「部分」の活きも矛盾的自己同一の形で、それぞれ新しく変っていくのである。
・生きものは、相互誘導合致によって新しい矛盾的自己同一を絶えず生み出しながら生きていく。それは相互誘導合致によって旧い「全体」が新しい「全体」に絶えず変わっていくということであるから、生きものが生きている場所には、絶えず旧から新への変化がおきていく。そのために生きものが存在している場所には歴史が生まれ、それを反映して歴史的時間が生まれていくのである。
・このように考えてみると、「歴史的時間が生まれつづける」ということこそが、生きものが継続的に存在している場所の最も重要な特徴である。
5.〈いのち〉の即興劇について
・生きものがこのように生きている場所では、さまざまな〈いのち〉の活きが相互誘導合致的に統合されて時間とともに進んでいき、逆戻りしない。そして〈いのち〉の法則が相互誘導合致であることから、存在が不可逆的に進んで逆戻りしないという性質が生まれて、生きものが生きている場所に歴史が現れてくる。
・老化や死も、この不可逆な歴史的変化のなかで現れる生きものの存在の性質である。生きものの存在がこのように歴史的に進んでいくことを、私は「〈いのち〉の即興劇」とか「〈いのち〉のドラマ」とかと呼んできた。⇒それは〈いのち〉がシナリオをつくりながら進んでいく変化であることから、「〈いのち〉の即興劇」という名の方がよいかも知れない。
・その「即興劇」を演じていく生きものを「役者」、その「即興劇」が演じられている場所を「舞台」、そして、その場所とその周囲の環境を含めたところを「劇場」と呼んでいる。
→言いかえると、「劇場」は「役者」がいる「舞台」とその周囲の「観客」(環境)とからなっていて、「舞台」には「役者」が多数いて、それぞれが自己の〈いのち〉の活きを「舞台」に向けて表現するのである。
★この表現を「〈いのち〉の与贈」と呼ぶ。
・またこの与贈によって、「舞台」には「舞台」としての〈いのち〉の表現「一」が生まれて、その表現によって「役者」たちの〈いのち〉の表現「多」を包むから、全体としてみると矛盾的自己同一「一即多、多即一」が生まれていることになる。ここで「舞台」の〈いのち〉が「役者」たちの〈いのち〉を包むことを「〈いのち〉の与贈循環」と呼ぶ。
・まとめて考えると、〈いのち〉の与贈循環によって「即興劇」を進める歴史的な推進力が生まれ、相互誘導合致の法則によって矛盾的自己同一が歴史的に進んでいくことになる。
6.即興劇が生まれる条件
・この推進力の活きを受けるだけでは、まだ「即興劇」は生まれない。さらに「舞台」の上で「シナリオ」が自己組織的に生まれて、不可逆的に「即興劇」が進行していくことが必要である。つまり「即興劇」が進んでいくルートを決める活きが必要なのである。
・そのためには、「役者」がそれぞれ互いに異なる独自の「役」を演じていかなければならない。たとえば家庭における「即興劇」が歴史的に続いていくためには、夫婦の「役」が異なっていることが必要。
・「即興劇」が「舞台」で演じられていくためには、「役者」としての役割がそれぞれ「舞台」で唯一の存在になっていることが必要。
・つまり、「役者」それぞれに「舞台」における唯一の位置づけがあることが「即興劇」のためには必要である。そのことが「役者」の〈いのち〉の活きを主体的にするので、それぞれが自己の判断で〈いのち〉の活きを表現することができるのである。
・「役者」がそれぞれの存在を「舞台」という「鍵穴」に主体的に位置づけることによって、その「鍵穴」と相互誘導合致する一個の「鍵」を自己組織的に生み出していくのである
7.即興劇の拘束条件(内在的拘束条件と外在的拘束条件)
・シナリオが自己組織的に生み出されて「即興劇」が進んでいくためには、「舞台」の内在的拘束条件(内在的ルール)と外在的拘束条件(外在的ルール)とが共に満たされていく必要がある。
・内在的拘束条件とは、「〈いのち〉のドラマをこのように進めたい」という「役者」たちの思いに相当する。人びとの人生観も内在的拘束条件であり、人びとの生き方のシナリオをある程度限定する。
・外在的拘束条件とは環境から場所が受ける限定である。それは「舞台」における「役者」たちの表現に対する「観客」の反応に相当する。
・内在的拘束条件にどれほどかなっていても、「観客」が認めない、つまり外在的拘束条件に合わない「即興劇」を「役者」が演じ続けることはできない。
・またどれほど「観客」の反応がよくても、「役者」の構想に合わないドラマを即興的に続けることもできない。したがって内在的拘束条件と外在的拘束条件によって限定されたルートが「即興劇」を導くシナリオになるのである。
(以下、具体例として、樹木の生長や彫刻や民藝などを挙げて説明されました。)
★まとめ:
・相互誘導合致という階段を一歩上がって〈いのち〉の与贈循環を捉えることで、矛盾的自己同一の段階では未だわからなかった「〈いのち〉の即興劇」の姿が見えてくる。
・「〈いのち〉の即興劇」を生み出していくためには、たとえ小さくても先ず「全体」となる場所(〈いのち〉のオアシス)をつくり、そこに集まっている人びとの与贈によって新しい「部分」を生成し、与贈循環をともなう相互誘導合致によって「全体」の活きを大きくしていくことが始まりである。
・そして各人が場所における自分の役割を見出しながら、皆で内外両種の拘束条件を発見して、「〈いのち〉のドラマ」を先へ進めていくのである。活動が継続するためには両拘束条件の発見が重要なのである。
以上。
(抜粋:前川泰久)
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◎11月の「ネットを介した勉強会」開催について
11月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第3金曜日19日に開催予定です。
よろしくお願い致します。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。
なお、今後のコロナの状況を見ながら、「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催が決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
今後ともサポートをよろしくお願いいたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2021年11月1日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
場の研究所の理事の前川泰久でございます。
9月になりました。まだまだ残暑がつづいておりますが、いかがお過ごしでしょうか?
コロナのデルタ変異種の感染で、首都圏から全国への拡大で危機感を増大させています。早く医療の逼迫が解消されることを期待したいと思います。
9月は場の研究所の活動として例年ならばシンポジウムも開催する時期でしたが、これもあきらめざるを得ないので、唯一の活動である「ネットを介した勉強会」を開催致します。
そして多くの方と「共存在の世界」の議論をしていきたいと思います。
8月の第15回目の「ネットを介した勉強会」を第3金曜日の20日に開催いたしました。
テーマは「〈いのち〉のくり込み自己組織」でした。
参加された方々ありがとうございました。
今月の「ネットを介した勉強会」の開催予定は、従来通り、第3金曜日の17日といたします。
基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。
毎回コメントしていますが、ネット上でも「共存在」の居場所が生まれていると感じておりますので、その原因を探りながら改良を重ねて継続し、広げて行きたいと思っています。
なお、「ネットを介した勉強会」の内容については、メールニュースでご紹介しております。参加されなかった方も、参考にして下されば幸いです。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。
今後の進め方に反映していきたいと思います。よろしくお願いいたします。
ご感想、ご意見は、こちらのアドレスへお送りください。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:
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「この場に流れているもの」
その月の勉強会が終わると、次の勉強会が来るのが楽しみです。
勉強会そのものは、スタッフとしては、それなりに準備もあり、手がかかっていますから、ただ楽しいというだけではないはずなのですが、思いの外、次回が来るのが待ち遠しい感覚が同時にあるのです。
今回の勉強会で出てきた、弘法大師空海の「消えずの火」(詳しくは、8月の内容紹介を参照ください。)などと大それたことを言うつもりはありませんが、ただ、自分の中にも、この勉強会によって「学習の火を消さない」という想いが在ることに気がつきました。
あえて言葉にするとこうなりますが、この言葉自体ということではなくて、この言葉が私の奥の方にある何かを指し示しているそれに気がついた、ということです。
それに触れるとき、元気がでます。
それを思い出すとき、待ち遠しさが生まれます。
それによって、この場(ネットを介した勉強会)で、場の理論を軸に、学習を続けていくときに関わる様々、清水先生の資料を読むことから始まり、参加者の方の1通目を読み、返事を書き、また、前回の気がかりに対して、細やかな返信があったり、2通目、3通目…、と勉強会を通して現れてくること全てを愛おしく思うことに又、気がついていきます。
こういう時間に関われることは、とても仕合わせなことですね。
少し短めですが、今月は、これにて…。
以上。
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◎第15回「ネットを介した勉強会」の資料(清水先生)
8月のテーマ「〈いのち〉のくり込み自己組織」の内容を紹介します。
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<〈いのち〉のくり込み自己組織>
1.「消えずの火」について
・オリンピックの聖火:
ギリシャのオリンピアで点された聖火が多くの人びとによってリレーされて、主催地まで運ばれる。
・その形とは異なるが、日本では、平安時代の初期に空海によって宮島の弥山に点けられた護摩の火と言われる火が、多くの人びとによって「消えずの火」として守られて約1200年燃え続けている。⇒この火は空海の〈いのち〉に相当する。
・「消えずの火」がどのように、現在まで伝えれられてきたかは興味深く、今回のテーマと関係がある。
2.「消えずの火」を1200年守ってきた活きは何だろうか?
・もやし続けるために、火を移していくも薪が使われてきた。
⇒周囲の森にある倒木を短く切って薪をつくり、それに火を移していく。
薪を勢いよく燃やすと短時間に燃え尽きてしまう恐れがあるために、
燃えている薪に灰をかけて、くすぶるようにして炎が立たないように静かに燃やし続けていく。
しかし灰をかけすぎると、火が消えてしまう可能性があるため、火の状態を昼夜見守っていく必要がある。
3.「消えずの火」を場の論理で考えてみる
◎〈いのち〉の相互誘導合致による〈いのち〉の継続にたとえると
・炉の中で現に燃えている「消えずの火」が「全体の〈いのち〉」(鍵穴)
・燃えはじめている薪の火が「部分の〈いのち〉」(鍵)
に相当する。
・「消えずの火」が薪に燃え移って双方の火が非分離状態になって、新しい「消えずの火」が生まれることが相互誘導合致である。⇒その合致が「〈いのち〉の自己組織」に相当
・他方で、旧い薪が燃え尽きて灰となっていくが、その灰は「消えずの火」を新しく自己組織していくために必要である。⇒旧い灰と置き換わっていく。灰も動いている。
◎まとめ
「〈いのち〉の自己組織」によって、新しい〈いのち〉(火)が旧い〈いのち〉(火)にくり込まれて、旧い〈いのち〉全体を新しくしながら、死者(灰)の活きを含めて、全体として未来に向かって進んでいく。
⇒これが「〈いのち〉のくり込み自己組織」である。
4.「消えずの火」における拘束条件の必要性
・旧い灰である死者は、新しい〈いのち〉のあり方を決める「拘束条件」という重要な役割を担っている。即ち、燃え尽きないようにゆっくり〈いのち〉(火)を燃すように調整しているのである。
⇒この拘束条件のことを、「消えずの火」が燃えている場所の内在的拘束条件と名づける。
・もう一種類の拘束条件は外在的拘束条件である。
⇒その場所には、「消えずの火」が続くのに必要な酸素が絶えず外から供給されているという条件。
◎この二種類の拘束条件が満たされていたために、「消えずの火」は1200年も続いてきた。
⇒この二種類の拘束条件が必要であることは、「〈いのち〉のくり込み自己組織」について一般的に成り立つと思われ、たとえば国家や企業についても成り立つと思われる。
5.「いま」「ここ」だけの存在について
・『この自分が宇宙の「いま」「ここ」にだけ存在し、そして過去の歴史にも、また未来の歴史にも存在しないのは何故だろうか?』と自分自身に問いかけることは自己言及の問いになり、「自己言及のパラドックス」が生まれ、論理的に正しい答えが得られない。
・そこで宇宙的な場所と自己とが非分離な状態(西田哲学の矛盾的自己同一「一即多、多即一」に相当する状態)に自己を置き、自己の状態を宇宙に開いた状態にして問いかけることが必要になる。
・西田幾多郎によれば、(宇宙的な〈いのち〉の自己組織の解体に相当する)絶対者「一」の自己否定によって、私たち個体の存在「多」が顕わな形で現れることになる。
・彼によれば、宗教への入り口は神や仏の存在を信じることではなく、このように自己自身の存在を深く問うことによって絶対者の存在を認めることなのである。
6.死の恐怖について考えてみる
・死によって自分自身が自己言及の世界に落ち込んで、自己言及のパラドックスに自分の存在が縛られてしまう恐怖である。⇒〈いのち〉が存在できない世界に永久に落ち込んでしまう恐怖である。
・死の恐怖からの解放:
自己の死後に自己言及の状態に落ち込まないような生き方をすることによってはじめて可能。
⇒それが自己の死後も場所的な〈いのち〉に存在が包まれるような生き方をすることである。
◎そのことを具体的に可能にする法則が「〈いのち〉のくり込み自己組織」である。
⇒その活きによって、死者には宇宙的な〈いのち〉を継続していくために必要な内在的拘束条件としての活きが与えられ、自己言及のパラドックスに落ち込む恐怖から解放されるのである。
7.宗教と拘束条件について
・宗教とは宇宙を「舞台」として続いてきた「〈いのち〉のくり込み自己組織」が生み出した「〈いのち〉のドラマ」に「役者」として登場することであると考えている。
⇒「〈いのち〉のドラマ」は宇宙における「〈いのち〉の消えずの火」に相当する。
・それ故、自己が宗教を受け入れることは、「〈いのち〉の消えずの火」を生み出す「薪」となって個体としての自己の〈いのち〉を燃やして生きることである。
・そのことは「〈いのち〉のくり込み自己組織」の外在的拘束条件と内在的拘束条件が成立してはじめて可能になる。
◎特に死を越えて歴史的に続いていく「〈いのち〉のドラマ」がどのような拘束条件の下で成立するのかを考える上で、西田幾多郎が『場所的論理と宗教的世界観』で宗教の論理的な柱として新しく示した「逆対応」と「平常底」と、「〈いのち〉のくり込み自己組織」の内在的および外在的拘束条件との対応関係を考えてみることは意味があると思う。
8.「〈いのち〉の旅」という「〈いのち〉ドラマ」
・存在の根を個人に置いて眺めれば、人生を生きることは、この世に生を受けた者がいつかは一人となって行かなければならない「〈いのち〉の旅」という「〈いのち〉のドラマ」にたとえられる。
・それは牧水の『幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく』の旅にたとえられる孤独の寂しさを内在させている。
・それに対して、四国の八十八カ所の霊場巡りは、空海(仏)と共に旅する遍路であると言われており、その旅によって多くの人が昔から人生を救われてきた。
・この遍路も、「〈いのち〉の消えずの火」を生み出していく形になっている。
◎空海の思想の根底に強くあったものは「〈いのち〉のくり込み自己組織」とその実現ではなかったではないか?
9.大日如来と両界曼荼羅について
・私たちの「いま」「ここ」における一度だけの人生における存在の意義を訊ねるためには、宇宙に向かって問いかけることが必要になる。
・その宇宙的な活きの中心としてインドで考えられたものが大日如来である。
⇒そして大日如来を中心にして生まれた仏教が密教である。
・大日如来の慈悲を説く経典が大日経であり、大日如来の知恵を説く教典が金剛頂経である。
⇒この二つの経典の世界をそれぞれ描いたのが、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅。
・この二つの経典は別々に生まれて発展したが、唐の玄宗皇帝の時代にインド僧不空三蔵によって唐にもたらされ、二つの世界が共に弟子恵果に伝えられ、さらに唐の長安において恵果から空海に直接伝えられた。
・空海は日本に帰国後、それまで二つに分かれていた胎蔵界と金剛界を統一する方法を見出して真言宗をつくった。
⇒これらは恵果の純粋な行為とそれを受けた空海の天才よって可能になった世界的な創造である。
10.鍵と鍵穴と両界曼荼羅
・〈いのち〉のくり込み自己組織と関係づけて、この二つの世界を解釈してみる。
1)胎蔵界は宇宙における様々な存在者の〈いのち〉が「鍵」(部分)として与贈され、
そして自己組織されてはくり込まれていく「鍵穴」(全体)である。
⇒その〈いのち〉のくり込み自己組織を描いたのが胎蔵界曼荼羅である。
その「鍵穴」(全体)の〈いのち〉の中心ではたらき続けているのが大日如来である。
2)人間の活きは実に多様だが、人間ばかりでなく、この地球に生きている様々な
生きものの〈いのち〉の活きまでを含めて考えると、それらが自然において巧みに
調和しながら成長し、進化していることを感じる。
⇒自然界におけるこの〈いのち〉の多様な活きを大日如来の知恵の活きであると見なすこともでき、そして金剛界曼荼羅はその知恵の多様な活きを描いていると考えることもできる。
◎「鍵穴」(〈いのち〉の全体)を描いたのが胎蔵界曼荼羅、そして「鍵」(〈いのち〉の多様な部分)を描いたのが金剛界曼荼羅である仮定すると、この二つの曼荼羅を両界曼荼羅として統一することは、「鍵穴」と「鍵」の相互誘導合致による〈いのち〉のくり込み自己組織に相当する。
⇒具体的には、それが両界曼荼羅という形によってその元となる構想力の創造的な源泉が空海の内にあり、そこから様々な形をした「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」が構想されて、自分自身だけでなく、弟子(高野聖)たちの力も借りて全国的に広められていったものと思われる。
★興味深いのは「舞台」としての具体的な活きの上に「〈いのち〉のドラマ」が表現されて、今日まで続いていることである。
11.「〈いのち〉のくり込み自己組織」の活用
・「〈いのち〉のくり込み自己組織」は場所におけるドラマ的な成長・発展の法則であるから、様々なシステムの歴史的な発展や変化を考えるときに活用できる。
・この法則の大きな特徴は、
1)場所(「舞台」)に共存在している要素(「役者」)の存在(「役」)の多様性に対応できること
2)場所(「舞台」)の状態を〈いのち〉の自己組織に対する内在的拘束条件と外在的拘束条件という二種類の拘束条件によって表現して、両拘束条件の変化を通して「ドラマ」の物語の歴史的な発展や変化を考えるという点
3)さらに内在的拘束条件を生み出す活きとして、要素(「役者」)の死(「舞台」からの降板)の活きについても肯定的に考える点にある。
◎約60兆個と言われる多様な細胞によって構成されている私たちの身体では、細胞たちは数時間から数年の間に死んで、新しい細胞と入れ替わっていくが、細胞たちの死と身体の生長や維持を考える上でも、「〈いのち〉のくり込み自己組織」は役に立つのではないかと思う。
12.夢を構想する力
・「ドラマ」の物語が自発的に生まれて「〈いのち〉のドラマ」が歴史的に発展していくためには、「役者」の存在を限定している内在的拘束条件が変化をしていく必要がある。
・そのためには、内在的拘束条件を決めている「死者」の活きが変わることが必要であり、どこかで「役者」の「舞台」からの降板が新しくおきることが必要になる。
・それができなければ、「〈いのち〉のドラマ」は成熟した状態のままになるから、環境からの新しい刺激によって外在的拘束条件を変えていかなければ、老化して死に向かう。
◎少し話が飛躍するが、「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」のあり方を縛っている内在的拘束条件を越えた新しい内在的拘束条件のもとで生まれる「舞台」における「ドラマ」を構想することが「夢」である。そして夢の実現のためには、「〈いのち〉のくり込み自己組織」における、自己の〈いのち〉の与贈を大きくしなければならないが、それを可能にする第一歩が夢を構想する力である。
⇒空海の一生について感じるのは、その夢の構想力が大きく豊かであったことである。
以上
(場の研究所 清水 博より)
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場の研究所では、哲学や精神から知識を切り離さないための努力をこれからも重ねていきます。
・・・
◎9月の「ネットを介した勉強会」開催について
9月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第3金曜日17日に開催予定です。
場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。
参加されない方にも、これまでの様に翌月のメールニュースで内容の説明を致しておりますので、参考にして下されば幸いです。
なお、今後、状況の好転があれば、イベントの開催について、臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたしますので、今後ともサポートをよろしくお願いいたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2021年9月1日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
場の研究所の理事の前川泰久でございます。
猛暑の8月になりました。コロナのデルタ変異種の感染力の強さもあり東京を中心に患者数が大幅に増大してしまい、医療の逼迫が心配です。ワクチン接種も64歳以下の方々への接種が拡大しないとなかなか先が見えないように感じています。その中、オリンピックは何とか開催されて、アスリートの頑張りが世の中に素晴らしい勇気を与えてくれていますが、コロナのために、この舞台に立てなかった選手も多いことも、忘れないようにしたいと思います。
場の研究所の活動もコロナ禍になる前は夏休みをとっていましたが、「ネットを介した勉強会」は、唯一の活動ですし、テレワークですので、昨年同様、継続したいと思います。そして多くの方と「共存在の世界」の議論をしていきたいと思います。
7月の第14回目の「ネットを介した勉強会」を第4金曜日の23日に開催いたしました。テーマは「自己の存在について」でした。
今回は新たに参加されたメンバーもありました。ありがとうございました。過去に場の研究所の勉強会に参加経験のある方は、さすがにすぐに議論に入っていただけて、違った角度からのコメントを送っていただきました。
勉強会資料の最初の問いかけの『「いま」「ここ」を考えてみる』という内容から、参加の皆さんも、自己の存在を見直す良い機会が得られたのではないでしょうか。
8月の「ネットを介した勉強会」の開催予定は、第3金曜日の20日を予定しております。
基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。
毎回コメントしていますが、ネット上でも「共存在」の居場所が生まれていると感じておりますので、その原因を探りながら改良を重ねて継続し、広げて行きたいと思っています。
なお、「ネットを介した勉強会」の内容については、メールニュースで資料をわかり易くご紹介してきております。参加されなかった方も、参考にして下されば幸いです。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。
今後の進め方に反映していきたいと思います。よろしくお願いいたします。
ご感想、ご意見は、こちらのアドレスへお送りください。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:
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「この時間が大切なんだよな」
一年を過ぎて「ネットを介した勉強会」に感じるのは、この思いです。
この勉強会は、予め正解があって、その答えを教えてもらう、と言ったものではありません。
答えのないことに向き合う、分からないことに向き合う、その中から自らの答えに出会う、いや、答えではなくて、問いに出会う、会なのだなぁ、と感じます。
普段の生活の中で、求められる「正解を素速く」とは真逆な時間です。
正解のないことに、自分の意見を言うのは勇気がいりますし、それ以上に、どこからか持ってきた言葉では役に立ちません。
真っ向から向き合う必要があります。
(その大部分は、分からなさへの向き合いですが。)
ですから、片手間にちょいちょい、とはいきません。
じっくりとこころの奥の方と向き合う時間が求められます。
「この「場所」「居場所」への参加は、1人でゆっくりと考える時間がないとなかなかうまくできないのです。」(引用承諾済)とおっしゃられる方もいらっしゃいます。
なかなか、気軽ではありません。(笑)
しかし、この答えのない問題を考えることの大切さは、この時間の中ではなくて、普段の日常に発見があるようにも思います。
日常に、ある形の張りを与えてもらっているように感じることもあります。
また、別の角度から、こんな風にも思いました。
(正解のない問題を)一人、時間をかけて考えて、考えて、その考えたことを渡す相手がいると言うことは、幸せだなぁ、と。
自分のメールを待っていてくれる場があることの嬉しさ、とも言えるかもしれません。
私は、できれば、このような時間を共にできる方々と更に出会えたらいいなぁ、と思っています。
「ネットを介した勉強会」とは、自分にとって何なのか、回を重ねて、やっと言葉にできるようになり、今、嬉しく感じています。
では、勉強会でお待ちしています。
以上。
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◎第14回「ネットを介した勉強会」の資料(清水先生)
7月のテーマ「自己の存在について」の内容を簡単に紹介します。
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<自己の存在について>
・『この自分が宇宙の「いま」「ここ」にだけ存在し、そして過去の歴史にも、また未来の歴史にも存在しないと思われるのは何故だろうか?』を考えることは自己言及の問いになりますから、自己言及のパラドックスが生まれてしまい、答えが得られません。そこで宇宙的な場所と自己とが非分離な状態(矛盾的自己同一「一即多、多即一」の状態)に自己を置いて問いかけることになり、西田幾多郎が彼の宗教論で指摘しているように、自己の存在を深く問うことが宗教への入り口になるのです。そして彼によれば、超越的な絶対者「一」の自己否定によって、私たち個体の存在「多」が生まれることになります。
場の研究所では、個体としての自己と場所との相互誘導合致という「場所における〈いのち〉の自己組織の理論」によって、場所における個体の存在を別な科学的方向から考えてきました。そして私たち個体が相互誘導合致を実践する(行為的立場の)理論として「〈いのち〉の与贈循環の理論」があります。この理論を調べると、西田の宗教論の柱とも言われている「逆対応」と「平常底」に相当する活きも含まれていることがわかります。
このことから、西田理論のように「絶対者の自己否定」という宗教の形によらなくても、相互誘導合致によって生まれる〈いのち〉の自己組織という科学的な考えによっても、私たちの存在を理解することができることが分かります。しかし、そのような考えでも、「〈いのち〉が何故、場所としての地球に存在するか」を考えなければなりませんので、それに対して科学的な回答が不明である現在では、ルドルフ・オットーの「聖なるもの」のような活きを仮定することが必要になり、実質的には、それほど大きな差がないと考えることもできます。
以上
(場の研究所 清水 博)
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場の研究所では、哲学や精神から知識を切り離さないための努力をこれからも重ねていきます。
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◎8月の「ネットを介した勉強会」開催について
8月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第3金曜日20日に開催予定です。
場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。参加される方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただきます。
(参加者の方には勉強会の資料を早めに送ります。)
参加されない方にも、これまでの様に翌月のメールニュースでテーマ資料など内容の説明を致します。
なお、今後、状況の好転があれば、イベントの開催について、臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたしますので、今後ともサポートをよろしくお願いいたします。
追伸:8月13日から15日まで、場の研究所は夏休みとさせていただきます。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2021年8月5日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
場の研究所の理事の前川泰久でございます。
もう7月になりましたが、コロナのデルタ変異種の感染力の強さもあり東京を中心に患者数が増大してきてしまいました。ワクチンは高齢者の約6割が1回目接種を終了したとのことですが、64歳以下の方々への拡大には時間がかかりそうです。また、オリンピックによる感染拡大も心配な状況です。このような厳しい状況が続く中でも、場の研究所は「共存在の世界」の議論を継続していきたいと思います。
場の研究所が開催している「ネットを介しての勉強会」がお陰様で1年を超えました。関係されている方々に感謝いたします。6月の第13回目の「ネットを介した勉強会」は第4金曜日の25日に開催いたしました。テーマは「〈いのち〉の与贈がつくり出していく世界」でした。
今回も参加の方々の協力で、多くのコメントを送って下さりありがとうございました。昭和の時代と令和の時代における文明の形が聴覚型から視覚型へ変化したことについて改めて考えることから始まり、皆さんの時間に対する経験や考えなどが紹介されて、なるほどと共感する内容も多く、有意義な勉強会でした。
7月も「ネットを介した勉強会」を開催します。(今月は第4金曜日が23日を予定しております。)
基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。
毎回コメントしていますが、ネット上でも「共存在」の居場所が生まれていると感じておりますので、その原因を探りながら改良を重ねて継続し、広げて行きたいと思っています。
なお、「ネットを介した勉強会」の内容については、メールニュースで資料をわかり易くご紹介してきております。参加されなかった方も、参考にして下されば幸いです。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。
今後の進め方に反映していきたいと思います。よろしくお願いいたします。
ご感想、ご意見は、こちらのアドレスへお送りください。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:
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2年目に入った「ネットを介した勉強会」は、「場の理論」の学習の場を広げていきたいと考えています。
そこで、今回は、このメールニュースをお読みいただいている皆さまへ声かけさせていただこうと思いました。
(対面の)「勉強会」が、場の研究所で開催できなくなっておりますので、今、唯一の活動となっているのは、毎月、オンラインで実施している「ネットを介した勉強会」です。
(注:オンラインと言っても、ビデオ会議のような方法ではありません。)
この勉強会の概要は、メールニュースを通してお伝えしておりますので、様子は伝わっていると考えていますが、いかがでしょうか。
これまで、この勉強会は、積極的に参加者を集めてはいませんでした。
理由としては、急に参加人数が増えてしまった場合、勉強会として成り立つか、など不安要素があったからです。
また、対話的要素の多い「ネットを介した勉強会」は、勉強会の内容について紹介しにくいという特徴もありました。
そのため、どのような会なのか見えにくく、参加してから「思っていた会とは違う…」ということになることも考えましたし、実際、そう言った声もお聞きしました。
これらのことから、集める側も参加される側も心理的なハードルが高くなってしまっていたように思います。
しかし、そんなことばかりも言ってはいられません。
どうしたら「学習の継続」が出来るだろうか、そのために、今、何が出来るだろうか…。
問いかけに答えるように、少しづつでも進めていければ、と思います。
そのために、今回、一つの資料を用意しました。
「場の理論の基礎」です。
先月のメールニュースにも書きましたが、勉強会参加のための基本資料として、電子書籍「共存在の居場所:コロナによって生まれる世界」(清水博)があります。
しかし、「この本をいきなりは、少し難し過ぎるのではないか、もっと易しい入門的な資料があって良いのではないか」と清水先生が仰り、資料を作ってくださいました。
それが、「場の理論の基礎」です。
今月のメールニュースでは、この「場の理論の基礎」を紹介させていただきます。
また、勉強会に参加するためには、どこへどのように申し込めば良いのか、というご意見もいただきましたので、合わせて紹介します。
>>資料「場の理論の基礎」
※ Webページを用意しました。以下がそのURLです。
https://www.banokenkyujo.org/netbenkyokai/ba-basic/
>>「ネットを介した勉強会」への参加方法について
以下のページに参加方法についての説明を用意しました。
https://www.banokenkyujo.org/netbenkyokai/
以上。
―――――
◎第12回「ネットを介した勉強会」の資料(清水先生)について
6月のテーマ「〈いのち〉の与贈がつくり出していく世界」のダイジェストを紹介します。
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<〈いのち〉の与贈がつくり出していく世界>
1.時間の差を考える
・昭和の時代の写真と現代の写真の比較:
カメラやレンズの差だけでは表現できない何か本質的な差がある。
⇒その世界の背景になっている時間の性質の差が生まれるように思える。
◎その時間の差をこの勉強会で紹介していくが、先に結論を簡単にまとめると
1)昭和の時代:「聴覚的な文明」の時代
2)令和の時代:「視覚的な文明」の時代
と言える。
・この文明の基本的な形を変えた原因:
コンピューターやスマホによるSNSの著しい発達が社会の在り方を変化させたのである。
2.居場所に生まれる音について
・昭和20年代とそれ以前(清水が子供のころ)の生活:
世間は圧倒的に静かで、また夜は足がすくんで前へ出ないほど真っ暗で、地には虫の声がし、空には沢山の星が輝いていた。夜が明けてくると、あちこちから「がらがら」と雨戸を開ける音と共にしわぶきの音などがきこえてきた。地域社会の1日が始まり、様々な生活の音がして、やがて道路に物売りのラッパの音や声がして豆腐や食材が売られます。陽が高くなっていくと、下駄や傘の修繕、そして物干し竿を売る声が聞こえてくるといった状態であった。
◎まとめ:昭和の世間の人びとは「沈黙の世界」としての居場所を共有して生きていて、その居場所に生まれる音とともにつながって生活しているという状態であった。
⇒「聴覚的な文明」の時代
<分析>
・聴覚は、先ず場所全体の音を捉え、先ず場所におきているできごとを知る。そして次にその音を聞き分けてできごとを詳細に知る。
⇒音を大きな場所の音のなかで音源ごとに小さな音を聞き分けていく活きを「カクテルパーティ効果」と言う。
(騒音で賑やかなカクテルパーティにおいても、人びとが会話をすることができることから)
・ここで聴覚の大切なことは、その順序である。
1)まず居場所全体を捉える。
2)次にそれぞれの位置を確かめながらそれを部分に切り分けていく
3.聴覚的時代(昭和)と視覚的時代(令和)の違い
・聴覚:まず場所全体を捉えて、つぎその全体を部分に切り分けていく
・視覚:まず様々な部分を捉え、次にその部分を合わせて場所全体の認識をする
注:視覚の老化現象⇒様々な部分を一つに描き合わせて場所全体のイメージをつくり出していくカンバスに相当するのが大脳旧皮質の海馬である。この海馬がうまくはたらかなくなるのが認知症である。
まとめ:聴覚のトップダウンの活きと、視覚のボトムアップの活きが一緒になってはたらくことで、
1)場所と存在者(生きもの)の相互誘導合致(〈いのち〉の与贈循環)の形が生まれ
2)場所をドラマの「舞台」とするドラマ的時間(居場所の歴史的時間)が生まれる。
◎昭和という時代の特徴:
・人びとの視覚と聴覚の活きが分離していなかったために、〈いのち〉を基盤としたドラマの時間が居場所に存在して、「〈いのち〉のドラマ」(場所の歴史)を進めていたという点にあったと考えられる。
⇒昭和では、場所に歴史的時間が継続して生成していたのである。
・言い換えると:生きものの生長は、これまでの「全体」に新しく生まれた「部分」が加わって一体化していく相互誘導合致(〈いのち〉の与贈循環)によって歴史的に進んでいくという形でおきる。このことが場所=「全体」、できごと=「部分」としておきるのが「場所の歴史」である。
◎令和という時代の特徴:
・コンピュータやSNSの著しい進歩によって社会の視覚的な活きが飛躍的に進んだために、視覚と聴覚の分離がおきて、聴覚を置きざりにして、視覚だけが支配的に社会に広がっている。
⇒令和ではそのために、見えるものに関心が集まり、場所という目に見えない〈いのち〉のドラマの場所「舞台」が失われ、歴史的時間が社会から喪失している。
・言い換えると:機械は部分に部分が組み合わさって全体が作られていくように、何時も部分から変化が始まるから相互誘導合致の形にはならない。
<分析>
文明の視覚化によって、「舞台」(「全体」)が「役者」(「部分」)から切り離されて、「舞台」(「全体」)をそのままにして「役者」(「部分」)だけがどんどん新しくなっていくという形で文明の機械化がすごい速さで進み、それまで歴史をつくってきた場所における存在の時間が部分に分解されていき、人間の場所的存在が消えて部分的な意味しかもたない機械的な存在に変わっていく。
4.ミヒャエル・エンデの「モモ」という童話における時間の考え方
<「モモ」の童話の内容(前半)>
・人びとから時間を預かる時間貯蓄銀行の灰色づくめの服装をした銀行員が、しゃれた形の灰色の自動車から降りて葉巻を吹かしながら人ごとに時間の貴重さを説明し、「貴方の時間を時間貯蓄銀行に預ければ利子としての時間がつく」と説明。
・人びとは「利子」としての時間を期待して、ある限りの時間を時間貯蓄銀行に預けてしまう。本当は時間の「利子」は戻ってこない。
<分析>場の思想での考え方
・預けた時間は、人びとの生活の場所における日常的な「〈いのち〉のドラマ」によって生まれる「ドラマの時間」(歴史的時間)なので、その時間をすべて預けてしまうことは、〈いのち〉のドラマの「舞台」(「全体」)を失うことを意味している。これが視覚的世界における重要な問題点である。
・生きることの楽しみやその余力を失った人びとは、目に見える目標である世間の視覚的な評価とマネーを目指して脇目も振らずに(それこそ時間を惜しんで)機械のように働く存在に変わっていく。
⇒人びとは、相互誘導合致(与贈循環)によって生まれるドラマの時間(歴史的時間)を失ってしまうので、結果として、時間貯蓄銀行に時間を預けた人びとは、世間の視覚的評価とマネーを目指してひたすら日常的な結果(「部分」)を積み上げていく「働く機械」となってしまうのである。
<「モモ」の童話の内容(後半)と〈いのち〉の与贈の活きの重要性>
・モモという女の子は、廃墟になった円形劇場の跡に一人だけで生きていて、彼女はどんな人の話にも耳を傾けて聴くことができる〈いのち〉の与贈の活きに格別に優れている存在。
・そのために彼女の周囲に与贈循環(相互誘導合致)が生まれて、いつの間にか世間的に恵まれない大人や子供たちが円形劇場の跡に集まって「〈いのち〉のドラマ」を生みだしていく。
・モモの存在は時間貯蓄銀行にとって許せないものとなってしまい、そこで時間貯蓄銀行によって生まれる存在の危機を、僅かな協力者によってモモが乗り越えていくことが『モモ』のストーリーの骨格。
◎これと似た現在のできごと
・現実的におきているのがオリンピックなどのように巨大化した現在のスポーツ界である。
・アスリートたちの生活の時間(歴史的時間)がメディアに買われるようになって、時間貯蓄銀行に相当する大きな組織が世界に現実に生まれているのである。
・そして世間的な評価とマネーを目指して、アスリートたちは〈いのち〉のドラマの時間をすべて「時間貯蓄銀行」に「預けて」、自己中心的意識にしたがって先を争って生きているように見える。
⇒「時間貯蓄銀行」は人びとの〈いのち〉のドラマに優先して世界を支配しているように、少なくとも日本では見える。しかしアスリートたちが目指すのは、所詮、「人間が決めたルール」の上に成り立つ競争であり、さらにそのルールもときどき変化をすることから、アスリートたちの存在は歴史的な意味では居場所に残らない。アスリートたちは、すでに歴史的時間を失っているのである。
5.〈いのち〉の与贈の活きと機械の競争の活きの対立
・前者が勝てば、ドラマ的時間(歴史的時間)とドラマという共存在の形が生まれる。
・後者が勝てば、コンピュータを動かしている時計の時間を生み出す機械的な運動が生まれまる。
⇒これは〈いのち〉の時間(歴史的時間)と機械の時間(時計の時間)の競争であり、共存在と単存在の競争である。
◎もともと生きものは、自己中心的な単一の存在者としては地球上に存在できず、他者の存在を必要とする。そのために〈いのち〉のあり方は、その根底において共存在的なのである。
例:親が子を慈しんで育てるのも、深く考えれば、このことと関係している。
6.場所的意識について
・「阿弥陀如来」は、それぞれの人(生きもの)の最深層に存在して、その意識を「いま、ここ」に生成し、そしてその存在を支える活きをしている場所的意識であると思う。
・その活きがもたらす〈いのち〉の与贈循環によって、地球の上に〈いのち〉の共存在がもたらされていると考える。
・それぞれの意識の深層に「モモ」がいる。西田哲学の矛盾的自己同一「一即多、多即一」の「一」は場所的意識に相当する活きを表す。
注:ここで「多」はその場所に存在する個としての意識の活きを表し、この矛盾的自己同一は、それぞれの家庭という場所においても、また共同体的な組織や国家を場所としても成り立ち、さらに地球を場所としても成り立ち、個にその場所における場所的意識を与える。(西田幾多郎は彼の有名な宗教論でこの矛盾的自己同一は絶対者の自己否定によってもたらせると考えているが、ここでは、人間以外の生物を含む生物進化や遺伝子に関する科学的な事実とも両立することを重視するので相互誘導合致(与贈循環)の考え方をとる。)
・場所が大きくなるほど、その場所的意識は深層に存在する。
・自己が「いま、ここ」に存在しているという宇宙的な地球における自己の存在意識は、最も深層にある矛盾的自己同一の活きによって生まれてくる。
・その逆に最も表層にあるのが自己中心的な自己意識である。
⇒このことは家庭という場所における家族としての自己の共存在的意識の活きを抑えて自己中心的に自己がはたらく場合を考えてみれば理解できる。
◎まとめ:
・自己に、宇宙の「いま、ここ」に生きて存在しているという意識を与えるのは、このように最も深層にある場所的意識「一」であり、その場所的意識は地球上のすべての存在「多」を共存在的に包む活きをする。
・その最深層の場所的意識の活きは、人びとが自己中心的な心の活きから離れて無心になることによって、〈いのち〉の与贈循環を生み出す「仏の活き」として現れてくる。
・この最深層にある場所的意識「一」が浄土真宗でいう阿弥陀如来に相当している。
・そして南無阿弥陀仏の念仏は、自己の存在意識をこの最深層にある場所的意識「一」に向けて相互誘導合致(〈いのち〉の与贈循環)を生みだす活きなのである。
・もしも、自己の〈いのち〉の与贈ができれば、そのことによって、自己の存在は阿弥陀如来の〈いのち〉の活きに包まれる。この与贈循環は「聖なるもの」とつながる〈いのち〉の行なので、ただ知っているだけでは何もおきず、実践としての行動の形が必要になる。
7.民芸美と場所的意識
・柳宗悦が発見したように、物づくりをする人びとが無心になって物をつくるときに、この最深層にある場所的意識がはたらいて生まれてくる美が民芸美である。
⇒世間的な評判をあげようとする意識から離れて、自己が他者の〈いのち〉を心にとめて無心に物をつくるときにおきる深層意識の活きを、柳が阿弥陀如来の本願の活きに結びつけたことは、阿弥陀如来を共存在のために最深層ではたらく場所的意識と考えれば納得できる。
(土井善晴が家族のための家庭料理に民芸美を発見したことも納得できる)
・阿弥陀如来の活きを、このように最深層における矛盾的自己同一に結びつけることは、科学と矛盾しないし、西田哲学の矛盾的自己同一にも合うので哲学的な説得力も持っていると、私は考えている。
8.新しい希望を生むために
・課題:「時間貯蓄銀行」が人びとの存在を機械的にはたらく「時計の時間」に縛り付けて、その存在から〈いのち〉のドラマを奪っていくような文明の視覚化の流れにどのように抵抗して、私たちの〈いのち〉のドラマを守ればよいか?
回答:結論から言えば、地球という共存在の場所への無心な与贈こそが最も有効な抵抗になるはずである。その与贈を活かすためには、ドラマの「舞台」となる場所における私たち自身の共存在によって、ドラマの形をつくっていくことが必要である。
例:ネットを介しておこなってきたこれまでの「勉強会」における私たち自身の経験から、その「舞台」への登場はネットを介しても、ある程度可能であると考えられる。
⇒それは、私たちの深層意識にはすでに場所的意識が存在しているからである。
・その意識を高めることを目指して、それぞれが「舞台」への与贈をおこない、「〈いのち〉のオアシス」という〈いのち〉のドラマの劇場をネットの上につくっていくのである。
・「楽譜」はそのドラマの「舞台」での活き方を具体的に与える。その「舞台」の上で、私たちは民芸的に共存在してきたのかも知れない。
・〈いのち〉の「与贈」によって生まれる「舞台」を広げていくことから、新しい希望が生れてくることは間違いない。
9.矛盾的自己同一の考えと共存在の考えについて
・ある一つの場所に、生命的に独立した多くの個体が共存在しているとする。
その状態を西田哲学では、矛盾的自己同一「一即多、多即一」によって表わす。
全体としての場所的意識が「一」であり、個体のそれぞれの個としての意識が「多」である。
・この共存在状態をクローズアップして見ると、個体の存在がそれぞれ場所に位置づけられているために、その独立を守っていくことができる。もしも存在が位置づけられていなければ、個体の活きの間に競争や衝突がおきる。
・しかし、矛盾的自己同一には、どのようにして個体の位置づけがなされているかが示されていない。つまり、どのようにして多様な個体が場所に位置づけられて矛盾的自己同一の状態に到達したかという過程が示されていないから科学的な問題には使うことはできない。しかし宗教的な存在論のようにその存在のみを問い、その位置づけまでを問わない場合、たとえば、絶対者「一」の存在の自己否定によって自己の存在が矛盾的自己同一の形で生成したというように、自己自身の存在原理として大きな意義をもっている。
⇒科学的に言えば、既に場所が存在しているときには位置づけの方法がわからないと、たとえば多様な人びとや、多様な国家が、どのようにして地球という場所(舞台)において「〈いのち〉のドラマ」を演じて、歴史的時間を生み出していくかを示すことができない。
10.「居場所」と「場所」について
・場の研究所でこれまで考えてきたことは、「〈いのち〉のドラマ」を頭に置いて、多様な個体の間にどのようにして秩序をもたらすかということであり、そのためには、場所における個体の位置づけが重要になる。
⇒この個体の存在が位置づけられた場所のことを、私は「居場所」と呼んできた。
・その個体の存在の位置づけは、〈いのち〉のドラマへの他者の与贈を妨げないという条件の下で、自己の与贈を最大にするということ---共存在原理---である。
・今回は矛盾的自己同一に話をとどめて、そのことでできることを具体的に考えたので、これまでの「居場所」の代わりに西田哲学の「場所」を使ったところがある。
・位置づけの問題にとらわれず、矛盾的自己同一を応用することでできることがいろいろあり、その一つとして日常的な生活に民芸の考えを活かして、文明の機械化の波に抗したいと考える。
(場の研究所 清水 博)
以上
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以上の資料をベースに議論を行いました。
場の研究所では、哲学や精神から知識を切り離さないための努力をこれからも重ねていきます。
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◎7月の「ネットを介しての勉強会」開催について
7月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第4金曜日23日に開催予定です。
場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。参加される方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただきます。
(参加者の方には勉強会の資料を早めに送ります。)
参加されない方にも、これまでの様に翌月のメールニュースでテーマ資料など内容の説明を致します。
なお、今後、状況の好転があれば、イベントの開催について、臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたしますので、今後ともサポートをよろしくお願いいたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2021年7月5日
場の研究所 前川泰久
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
場の研究所の理事の前川泰久でございます。
6月になりました。コロナの変異種の拡大も影響もあり、首都圏を中心に緊急事態宣言の継続で先が見えてきません。ワクチン接種予約も高齢者は何とか進んで来ていますが接種は始まったばかりで一般への拡大には時間がかかりそうです。場の研究所では、厳しい状況であるからこそ、共存在の世界の議論を前向きに継続していきたいと思います。
5月の第12回目の「ネットを介した勉強会」は第3金曜日の21日に開催いたしました。
(これは電子出版された清水 博『共存在の居場所:コロナによって生まれる世界』が「勉強会」の共通の基盤になっています。)
テーマは「歴史と〈いのち〉の原理」でした。この清水先生の資料は後で紹介します。
今回も参加の方々の協力で、種々の角度から考えたり感じたりしたことをコメットして下さり、お互い刺激を受ける内容も多く、良い議論が出来ました。ありがとうございました。
6月も、「ネットを介した勉強会」を開催します。
(今月は第3金曜日が18日と少々早めなので、第4金曜日の25日を予定したいと思います。)
基本のテーマは「共存在」で進める予定です。
毎回コメントしておりますが、ネット上での「共存在」の場ができて来ていると感じております。
今後も、その原因を探りながら改良を重ねて継続し、広げて行きたいと思っています。
なお、これまで、「ネットを介した勉強会」の内容については、メールニュースで議論状況や資料をご紹介してきております。もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。
今後の進め方に反映していきたいと思います。よろしくお願いいたします。
ご感想、ご意見は、こちらのアドレスへお送りください。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:
==========
「ネットを介した勉強会」は、本格的に始まってから1年が経ちました。
先ずは、参加してくださった方々、また、メールニュースなどを読んでいただくことで、その活動を見守ってくださった方々にお礼をお伝えしたいです。ありがとうございます。
当初、大塚の研究室で毎月開催していた「勉強会」を、なんとか継続したい一心で組み立てたものが、この「ネットを介した勉強会」です。
少しづつやり方を調整して、昨年の夏を過ぎたあたりから、成熟したように感じています。
毎回、十数名の参加者で実施していますが、ありがたいことに、互いの存在の間につながり感が生まれ、全員の共存在意識が高まる結果となってくれています。
また、私の感想ではありますが、資料を理解し学ぶことや、他の参加者の方の理解や意見一つひとつは、単なる知識ではなく、自分自身の人生とのつながりを確かめる知恵となってくれています。
このことは、このコロナ禍において、日々を生きていくときの助けです。
また、きっと、他の参加者の方も同様なのではないかと想像しています。
そして、(年初にも書きましたが)このような勉強会の場をいま少し広げることができたら、と思っています。
また、勉強会への参加もお問い合わせしていただければ、と思っています。
ここで、もうひとつ、お願いがあります。
昨年8月に出版した電子書籍「共存在の居場所:コロナによって生まれる世界 清水博」を、是非、読んでみてください。
(「ネットを介した勉強会」は、この電子書籍がベースとなっています。)
「電子書籍「共存在の居場所:コロナによって生まれる世界 清水博」を出版しました」
https://www.banokenkyujo.org/kyousonzainoibasyo20200821/
ご意見、感想など、送っていただけると幸いです。
(メールアドレス)<<どこが良いでしょうか?
以上。
―――――
◎第12回「ネットを介した勉強会」の5月のテーマ「歴史と〈いのち〉の原理」の資料(清水先生の資料)のダイジェストを紹介します。
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<歴史と〈いのち〉の原理>
1.清水先生の戦前戦後の話
・大恐慌の最中、昭和7年(1932年)に生まれ。日中戦争が始まった昭和14年(1939年)に小学校入学。3年生の昭和16年(1941年)に太平洋戦争開始、昭和20年(1945年)に小学校卒業。愛知県窯業学校に入学した年に敗戦。
・小学生時代に戦争で、また大学を卒業するまでは戦後の苦しい時代に学生であった。
・当時の就職事情は厳しく、大学を卒業しても、就職できるかどうかを心配する同級生も多く、学生担当の教授に「就職はどうすればよいのか心配だから教えて欲しい」とお願いした。教授は教室に来て、「諸君安心したまえ、諸君の先輩で餓死をした者はまだ一人もいない。」と言って帰ってしまった。
◎当時の一科学者として、「諸君も先輩のように生き給え」と説明した言葉であり、私たちも納得しないわけにはいかなかった。確かに、その言葉は当たっていた。
2.「歴史的相互誘導合致という原理」の検出について
・数年前にプリントした紙の一枚の裏に、万年筆で「一つの原理が見えてくるまで思いを純化する」という自筆の文章を発見。これは現在も重要なことであると感じた。
・科学の目的は現象の裏にあって現象を説明する原理や法則を発見することであると言われている。
一科学者としての生涯をかけて私が発見した生き方は、この言葉であった。
⇒そこで一科学者として、私は何を残していくべきだろうかと改めて考え、「歴史の原理が見えてくるまで、昭和という時代に生きた思いを純化していくこと」ではないかと、改めて自覚した。
それは、
1)歴史的な経験の反省の純化から生まれる形を残すことである。
歴史的な時間の生成の原理として、歴史は場所に生まれる。
⇒従って、その原理は、場所の哲学である西田哲学と、生命体の時間的な成長(形態形成)という現象の科学的理論(たとえば相互誘導合致の理論)を結びつける形になるであろう。
2)多様性と調和のある主体的な展開を結びつけることがテーマになると考えられる。
⇒従って、コロナ禍とそれ以後の社会においても活用できる原理を提供することになるであろう。
◎まとめ:家庭から地球に至るさまざまな居場所のレベルで、「生きていくとは何か」が主体的に問われなければ形にならない。
⇒このような思いによって、歴史的相互誘導合致という原理が見出された。
3.「生きものの居場所」について
・私は生きものが生きている状態を、要を尽くして表現しているものが、哺乳動物の臓器ではないかと思っている。
・臓器はそれを構成している非常に多数多様な細胞からできているが、その細胞がそれぞれ「細胞としての〈いのち〉」をもって生きているように、臓器も「臓器としての〈いのち〉」をもって生きている。
⇒そのことは臓器移植によって明らかである。
・その臓器は、細胞が集っている場所であり、その〈いのち〉はそれを構成している細胞からの〈いのち〉の与贈によって生まれている。
⇒つまり、臓器を構成している細胞たちは、それぞれ〈いのち〉をもって生きている独立した生きものであると同時に、臓器という「全体」を構成する「部分」として、臓器としての〈いのち〉を生きているのある。
・この臓器と細胞(複数)の関係は、一口に言って非分離であり、西田哲学の矛盾的自己同一「一即多、多即一」によって表現される。
◎この矛盾的自己同一は、臓器に限るものではない。視野を広げて見てみると、臓器のようにはっきりしていなくても、「生きものとそれが生きている場所の間に広く成り立つ関係」なのである。
⇒場所がそこに存在している生きものと非分離な状態にあることに注目するときに、私は「その場所のことをその生きものの居場所」と呼ぶことにする。
◎歴史の生まれる条件:ある場所にある生きものの歴史が生まれる時には、その場所がその生きものの居場所になっている必要がある。
4.〈いのち〉の即興劇について
・受精を考えても理解できること:
「全体」(居場所)からの〈いのち〉の活き(与贈)を受けて、新しい「部分」(個体)がその「全体」に生まれて、その〈いのち〉の活きを「全体」のために使う(与贈する)ことによって(その「部分」は)「全体」と非分離になる。
⇒つまり〈いのち〉が与贈によって循環することによって、「全体」が新しくなっていく。
「覆水盆に返らず」のたとえのように、与贈された〈いのち〉はもとへ戻って来ないが、居場所では与贈による〈いのち〉の循環によって、未来に向かって時間的な変化が進んでいくことになる。
⇒居場所に歴史的な変化(ドラマ)が生まれて進んでいくのである。
◎この歴史的な変化を居場所に生みだしていく原理が相互誘導合致である。
⇒この「ドラマ」には、シナリオが与えられていないので、それは即興劇の形でおきる「〈いのち〉の即興劇」である。
・私たちの身体は非常に多数の「〈いのち〉の即興劇」の集まりから構成されている大きな劇場である。
⇒そこでは、多数多様な「〈いのち〉の即興劇」によって、さらに大きな「〈いのち〉の即興劇」が演じられている。これが、生きものが歴史的に生きていくという形である。
5.「〈いのち〉の即興劇」を続けるための「観客」の活き
・「〈いのち〉の即興劇」:限定された大きさの居場所を「舞台」にして、そこで人びと(一般的には生きもの)がどこまでも「即興劇」を演じて(生きて)いこうとすると、遂には「ドラマ」の新しい筋を実質的につくり出せないネタ切れの状態になってしまい、そこで「即興劇」は終わってしまう。
⇒「〈いのち〉の即興劇」をどこまでも続けていくためには、「舞台」の外から舞台の状態(居場所の存在)を変える活きをする「観客」(環境)が必要になるのである。
・この「ドラマ」の実質的な行き止まりは、自己言及のパラドックスと言われる状態が「舞台」(「全体」)に生まれるために時間的に前へ進めなくなることによっておきるからである。
・自己言及とは自己が自己自身を言い表すこと。
★自己言及のパラドックスについて:
「私は嘘つきです」と、誰かが自己を言及した場合、もしもその人が本当に嘘つきなら、それは嘘であるから、その人は正直であることになる。しかし、もしもその人が正直なら、「嘘つきであること」が本当であることになるために、矛盾してしまう。
⇒このように自己言及によってパラドックス(意味論的な矛盾)が生まれるために、相互誘導合致によって「〈いのち〉の即興劇」が進行しているときに、自己言及の状態が舞台に生まれると、そこでドラマがストップしてしまうのである。
・理由:それは一度使ったストーリーと、全く同じストーリーが舞台に現れると、そこで「即興劇」が自己言及のパラドックスの状態に陥ってしまうからである。
・対策:それを避けるためには、「舞台」そのものがストーリーとして新しく進化していくことが必要であり、その活きをするのが「観客」なのである。
◎その「観客」のある相互誘導合致が歴史的相互誘導合致である。
・その環境に開かれた形によって、歴史的な時間を生成しながら進化していく居場所が生まれることになる。歴史的時間は、また、歴史の意味解釈において自己言及のパラドックスを避ける活きをしている。その結果、歴史では、そのストーリー性が重んじられることになるのである。
6.〈いのち〉について
・歴史をつくり出していく〈いのち〉とは、私は存在を継続していく能動的な活きであると定義をしてきた。
⇒具体的には、「〈いのち〉の即興劇」を演じ続けていく活きであるということもできる。
◎具体的説明:居場所に存在する「役者」としての個体が自己の存在を「舞台」としてのその居場所に表現する個体の居場所への与贈力と、また「舞台」としてその与贈を受けた居場所が与贈によって新しくなった状態を、「役者」としての個体へ表現する居場所の個体への与贈力ということになる。
・前者の与贈はconstructiveで明在的
・後者の与贈は場の活きとして生まれるものであるので inductiveで暗在的。
⇒分かりやすく言えば、
・前者は物理的な活き
・後者は情報的な活き
である。
⇒私は〈いのち〉の活きは明在的で物理的な活きと暗在的で情報的な場の活きという二つの要素が混じったものであり、与贈循環(相互誘導合致)によってそれが選択的に現れることから「〈いのち〉の即興劇」が演じられていくと考えている。
★例:個体と居場所の例として家族と家庭を考えてみる
・家庭における家族の生活が継続的に維持される―「〈いのち〉の即興劇」が家庭という舞台で家族により継続的に演じ続けられていくためには、「役者」としての自己の「役割」(存在)を、家族がそれぞれ「舞台」として家庭に安定して位置づけられていることが必要である。
・〈いのち〉の情報的な活き(場の活き)はあるべき役割(存在)を家族それぞれに示す。それは家族それぞれが自己の居場所としての家庭への与贈に対して最も大きな与贈が家庭から安定して返ってくる役割(存在)を、家庭から与贈される場の情報によって暗在的に示されるからである。
・そのために必要となるのは、自己の与贈に対して居場所から返ってくる与贈の大きさ(場の反応)を知ることであり、自己の他の家族の与贈の影響はできるかぎり除かれていなければならない。
⇒つまり、できるかぎり「我一人」の与贈循環が選択されていなければならない。
◎その「我一人」の選択をおこなうのが、自己の蓑虫モデルの「蓑」である。家族がそれぞれの「蓑」に包まれているから、独立した〈いのち〉をもった家族が一緒に暮らしていけるのである。
⇒言葉を変えると、「蓑」があるから矛盾的自己同一が成り立つのである。臓器の細胞もそれが存在している位置によって、その活き方が少しずつ異なるので、その存在が同様な原理によって居場所としての臓器に位置づけされていると考えられる。
7.「〈いのち〉の即興劇」を続けていくために
・そのドラマの物語を創造的に作り続けていかなければならない。
⇒それは同じ物語の繰り返しになってしまうと、自己言及のパラドックスが生まれて、その「即興劇」の「舞台」となっている居場所の〈いのち〉が消えてしまうからである。
・その物語の生成は居場所という「生きもの」の一種の成長に相当するから、歴史的相互誘導合致(歴史的に続いていく与贈循環)の理論が当てはまることになる。
⇒その結果として、「観客」(環境)からの活きによって、居場所の複雑性が絶えず上昇して、「役者」の役柄(存在)の多様性が増えていくことが必要になる。
・ドラマの発展によって、消えていく役柄(存在)もあるが、それよりも多くの新しい役柄(存在)が生まれていくことが、自己言及のパラドックスを避けて、ドラマを継続していくためには必要になる。
・このような状況で個体には、「舞台」(居場所)に対して自己を開くと同時に「舞台」(居場所)の複雑な活きのなかで自己の存在を護(まも)っていくという「開けて閉じる活き」が必要になり、「〈いのち〉の即興劇」の継続には、それに応じて「蓑」の活きが進化していくことが必要になるのである。
・昭和時代の日本の歴史的失敗は、世界における欧米を中心にした他国の「蓑」の進化を読み取れず、むしろ逆に居場所の多様性を減らしたことから、自己言及のパラドックスにぶつかってしまったことにあるのではないかと、私は思っている。
・西田幾多郎の根本的な興味は宗教とくに仏教の原理の哲学的解明であり、したがって西田哲学の原理は歴史的(ドラマ的)時間とは無関係な存在の形で示されている。
⇒従って。厳密に言えば、時間を〈いのち〉の本質的な活きとして考える私の場の理論は西田哲学とは異なるものである。
(場の研究所 清水 博)
以上
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以上の資料をベースに議論を行いました。場の研究所では、哲学や精神から知識を切り離さないための努力をこれからも重ねていきます。
・・・
◎「ネットを介しての勉強会」開催について
6月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第4金曜日25日に開催予定です。
場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。参加される方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただきます。
(参加者の方には勉強会の資料を早めに送ります。)
参加されない方にも、これまでの様に翌月のメールニュースでテーマ資料など内容の説明を致します。
なお、今後、状況の好転があれば、イベントの開催について、臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたしますので、今後ともサポートをよろしくお願いいたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2021年6月5日
場の研究所 前川泰久
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
場の研究所の理事の前川泰久でございます。
緑輝く5月になりましたが、コロナの変異種の拡大もあり、またまた首都圏の緊急事態宣言となってしまいました。ワクチン接種も予約するだけでも大変そうです。でも、何とかウィルスとの共存在の世界を生きていきたいと思います。
4月の第11回目の「ネットを介した勉強会」は第4金曜日の23日に開催されました。
(これは電子出版された清水 博『共存在の居場所:コロナによって生まれる世界』が「勉強会」の共通の基盤になっています。)
テーマは「存在と宗教」でした。この清水先生の資料は後で紹介しますが、“存在の「蓑虫モデル」”というものが提案されて、新しい表現で場の思想が捉えられるかと思います。
今回も参加の方々の協力で、皆さんの種々の角度から考えたり感じたことが多く寄せられ、良い議論が出来ました。ありがとうございました。
5月も、「ネットを介した勉強会」を開催します。
(今月は第3金曜日の21日の予定となります。)
基本のテーマは「共存在」で進める予定です。
毎回コメントしておりますが、ネット上での「共存在」の場ができて来ていると感じております。今後も、その原因を探りながら改良を重ねて継続し、広げて行きたいと思っています。
なお、これまで、「ネットを介した勉強会」の内容については、メールニュースで議論状況や資料をご紹介してきております。もし、ご感想、ご意見がある方は、前回同様、今回も下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。よろしくお願いいたします。
ご感想、ご意見は、こちらのアドレスへお送りください。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:
==========
毎回、資料の朗読データを作っています。
資料が届いてから、何度か黙読し、その後、録音しています。
今回の資料は、とても朗読しやすかった印象があります。
一年続けてきたから、そろそろ慣れた、と言うのもあるかもしれません。
しかし、そういった朗読の技術的なことではなく、感覚的と言いますか、文章の流れと言いますか、それが自分の息継ぎと合っている感じです。
そういう意味で、今回、とても朗読しやすかった。
そこで皆さんへの連絡で、「今回、とても読みやすかった、という印象です。」と書きましたら、「(それでは自分にも)理解しやすいだろうかと読み進めたら…、難しかった…」と言われてしまいました。(笑)
私も、同様で、さぞかし理解が進んだのでは、というと、そうは問屋が卸さない。
難しかったです。
今回、特に難しいと感じた箇所がありました。
「我一人」(われいちにん)についてです。
ここでは、その難しさの内容については書きません。
この難しさについて、この勉強会で私自身は、どんなふうに付き合っているか、ということを書いてみたいと思いました。
今回、特に難しく感じた「我一人」ですが、しかし、理解出来ていないのかと言われると、そのことについて意見をまとめることはでき、ちゃんと返信を書くことができていますので、何も分からないということとは違うように思います。
分かるけれど、分からない、という感覚です。
振り返っている今、私は「我一人」が分からない、と言います。
でも、受け取った資料を読み、1通目を書いているときは、(何か)分かって書いていた自分がいます。
適当に返信しているわけでは無いので、何かきっと分かって1通目を書いています。(何かきっと、と書いたのは、その時の自分に戻って、あの分かった感じを思い出そうとしても、うまく思い出せないのです。)
しかし、皆さんの1通目を読み、自身の2通目を書こうと思うと、(直ぐ上に書いたように)あの分かった感は、どこかへ行ってしまっていました。
分からない自分の登場です。
皆さんの1通目を読んで、さらに、(今回は)それぞれの方の1通目の気にかかったことへ返信する形での2通目を書いた自分がいました。
そして、その2通目を書きながら、更に「我一人」が分からなくなっていきます。(笑)
もう、困ったものです。(あの最初の分かった感、どこ行っちゃったのでしょう…。)
さらに、皆さんの2通目を読み、3通目を書く時、「(今回の資料は)岩登りの巨石のようだ」と書いています。
よっぽど難しかったですかね…。
3通目でこんなことを書いています。
ボルダリングという競技があります。
ボルダーというのは、巨大な石で、その巨大な石に登っていく競技です。
登る時、手がかりを探しながら登るのだそうです。
初めて登る巨石の場合、登っていくことで初めて見えてくる手がかりもあるのだそうです。
今回の資料は、この巨石の感じです。
そして一人ひとりの返信が手がかりに感じました。
読み進むことで、感じられるものが広がっていく感覚です。
良い感覚です。
手がかりというのは、巨石そのものであるという点も何か近いものを感じます。
思うに、時に、手がかりは、分からなさ、という形で現れることもあるようです…。(笑)
この勉強会では、直接、人と面と向かうことはありません。(画面越しであっても…。)
使っている技術も、(最近では時代遅れと呼ばれていたりもする)電子メールだけです。
しかし、ここには、学習を続けていく、学習を続けていこうとする、その時に、それを助けてくれる活きがあると言えるように思います。
今回、特に、「我一人」の難しさに、そう感じました。(私としては…。)
最後に。
分からないまま会が終わり、その後もずっと分からなさを持ちながら今日までいたのですが、そんなこともあって、始終ずっと考え続けてました。そして、今日、そのこんがらがりの緒を掴めたような気がしていることをお伝えしておきます。(良かった。)
以上。
―――――
◎「ネットを介した勉強会」の4月のテーマ「存在と宗教」の資料(清水先生の資料)のダイジェストを紹介します。
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<存在と宗教>
1.「生きている」ことと、「生きていく」こと
・「生きていく」ということは、〈いのち〉の活きによって居場所を「舞台」にして
ドラマを即興的に演じるようにして生きながら時間をつくり出していくということ。
・「生きている」ということだけであれば、時間をつくり出していく必要はない。
(気を失っていても、生きていることはできる。)
・生きていく「ドラマ」に登場する「役者」のことを存在者と呼ぶことにすると、
その「役者」が「舞台」で演じていく「役」に相当するのが存在である。
例:家庭における父親としての「役」、またその同じ人が会社の決められたポジションで働くことも「役」。
⇒「舞台」としての居場所が変われば、その存在も変わる。
★従って、「生きていく」ということは、必要に応じて「舞台」を切り替えて、「役」を演じながら時間をつくり続けていくことになる。
2.「世間的な生き方」と「哲学的な生き方」
人は誰でも人生を生きて、最後には死んでいく。人の人生は一つしかないために、人生という「〈いのち〉のドラマ」は一つしかなく、さまざまな「舞台」を移りながら生きていくことも、「人生の舞台」のうちのできごとである。
・「世間的な生き方」:自分の存在を切り替えながら生きていくこと
もう一つ異なる生き方は
・「哲学的な生き方」:人生という「〈いのち〉のドラマ」をどのように演じて、どのように終わるかということを考える生き方
★「人生の舞台」において演じていく「役」がその人本来の存在である。
3.自分自身の存在の問題:宇宙の「いま、ここ」に生きているという事実
・「人生の舞台」がどれほど複雑でも、生きていくことは即興的な「〈いのち〉のドラマ」によって時間を生成していくことである。
・「〈いのち〉のドラマ」の形で演じていくその人生は、「覆水盆に返らず」のたとえのように繰り返しができず、最後は必ず死で終わることから、「なぜ『いま、ここ』にだけ『この自分』が存在しているのか?」という自分自身の存在に対する疑問が、昔から多くの人びとのこころを捉えてきた。
・その自己の存在は、自己自身にとっては客観的な問題ではない。それは、自己自身の誕生と死というできごとを含んでいるために、他の誰かに代わって貰うことが絶対にできない問題だからである。
・宇宙が始まって以来、過去には一度も存在したことがなく、また未来にも二度と存在することは絶対にありえないこの自分という事実を自分自身の存在の問題として考えてみる。
4.「自分自身の死後の存在をどう考えるか」という問題
・科学者は客観的な問題を解くことはできるが、
自分自身の誕生と死を含める主体的な存在を解くことはできない。、
⇒無視できない「自分自身の死後の存在をどう考えるか」という問題は自己の存在の核心的な問題である。
・⾃分の死を、⾃分⾃⾝の存在の問題として、どこまでもはっきり捉えようとすると、必ず恐怖や苦悩に直面し、「自己の死を前にして、いかに生きるべきか」という主体的な問題が生まれてくる。
そこで「いま、ここ」の⾃⼰の存在の救いを求めることになる。
・人間の存在そのものがもっているこの問題に対応するために、宗教は生まれてくるのである。
◎西田幾多郎は、宗教が自己の存在を説明する論理を、「逆対応の理論」という形で哲学的に示している。
⇒「本願を成就して弥陀となられた法蔵菩薩の長い五劫の修行も、この親鸞一人(いちにん)のためであった」という親鸞の宗教的な「我一人(いちにん)の悟り」を説明する理論。
★自己自身の死を含む自己の存在の問題は「自己の問題」ではなく、「宇宙の問題」——自己一人(いちにん)の問題——であるから、自己が自己の方から出発してその原因を探そうとしても原理的に分かるものではなく、逆に(逆対応的に)の宇宙の方から出発して考えていく問題——宇宙的現象——なのである。
5.居場所と自己の相互誘導合致について
・〈いのち〉の与贈循環によって時間の生成がおこり、そのことを居場所と自己の相互誘導合致という形で表現できることを、前回は次のように考えた。
★最初にまず「全体」としての居場所(宇宙)があり、そこに生まれた新しい「部分」(自己)が相互誘導合致によって、その存在を「全体」(宇宙)に位置づけられて、新しい「全体」(宇宙)をつくっていくという生長の形である。
(機械のように「部分」を組み立てて「全体」をつくる形にはならない)
★今回の考え方:
・「我一人」を説明する逆対応の理論でも、大きく見れば、宇宙の方から自己の方へはたらきかけるという同様の形をしている。即ち、相互誘導合致(与贈循環)が「我一人」の存在を、その居場所としての宇宙に位置づけるのである。
⇒苦悩する「我」の救済は、居場所としての宇宙から循環してくる「居場所の〈いのち〉」の活きによってなされる。
・法蔵菩薩の物語の本質が自己の存在に悩み苦しむ人の救済にあるならば、その物語は、宇宙における与贈循環(相互誘導合致)によって「我一人」の存在を居場所としての宇宙の〈いのち〉で包むことでなければならない。(聖書を読むと、復活したイエスの〈いのち〉も、「居場所の〈いのち〉」であることが分かる。)
6.「いま、ここ」にだけの存在の生まれ方について
・「我一人」という形の認識の根底にある活きは、自己による自己自身の存在の「この自分」という認識。
その「この自分」は、たった一回だけの宇宙現象として「いま、ここ」にだけ存在する。
Q:その存在の形がどのようにして生まれるかを考えてみる。
・自己の〈いのち〉の活きは、大きく見て2つ
1)大脳の前頭葉を中心にした活き:「自己中心的な自己」の活き
2)身体の活き:その「自己中心的な自己」を「この自分」と愛着して、その存在を場所に非分離的に位置づけようとする場所的自己(阿頼耶識)の活きに相当する。
まとめると、自己は自己中心的自己(脳)と場所的自己すなわち阿頼耶識(身体)という二重構造をもっていることになる。
・この自己の二重構造が、「我一人」の存在を以下のように構造的に説明できる。
⇒注目したいのは、阿頼耶識の活き。自己から居場所への与贈は、この阿頼耶識がもっている「場所と非分離の形になろうとする性質」によって生まれると思っている。そのために、阿頼耶識はその一面で、存在の居場所をつくる活きを持ちつつ、また別の一面で、自己中心的自己を愛着して包むのである。
7.存在の「蓑虫モデル」
・阿頼耶識がこのようにはたらくために、自己中心的自己は阿頼耶識という「蓑」によって愛着を持って包まれた蓑虫のような存在にたとえられる。
1)「蓑」の外側の世界(場所)とは「蓑」(阿頼耶識)の与贈性によって非分離的に結びついて存在する。
2)自己中心的自己自身は「蓑」のお陰で、さまざまな居場所を選択して、あたかも自分自身がその場所に直接存在しているかのように振る舞いながら生きていくことができる。
3)しかし、実際に自分が存在しているのは「蓑」のなかであり、場所ではないのである。
⇒これを存在の「蓑虫モデル」と称することにする。
・宗教的な場所に存在して、五劫にわたって与贈循環の歴史(生きものの生物進化の歴史)を経てきたのは「蓑」の方であって、自己中心的自己という「蓑虫」(我)の方ではないのである。しかしその「蓑」のお陰で、「存在の宇宙」に相当する場所において、我は「蓑」に包まれて、「我一人」の存在を与えられている。「蓑」が外側の場所に位置づけられていることを、蓑虫(我)から見れば逆対応に相当する。
8.「蓑」は「存在の宇宙」を旅する宇宙船
・詩人が詩をつくるときは、その「蓑」に一人籠もって「詩の宇宙」に存在し、その存在を他に置き換えることができない存在者として、自己の存在を表現していく。詩人の「蓑」には、一人だけしか入ることができない。従って、その時、存在の宇宙の住人はその詩人一人(いちにん)だけなのである。詩人は、その唯一の「いま、ここ」を歌っていく。しかしその詩は多くの人のこころに共感の感動をもたらすのである。そのためには、「いま、ここ」が歌われていなければなりない。
・昔は学者も自己の存在をかけて「蓑」のなかの孤高の世界でその存在を究めていく生き方をしていたが、いつの間にか「蓑」の外に出て高度情報化社会に情報を提供する専門家となって生きていく存在の仕方が定着してきてしまっている。
9.先月の勉強会の後の「余韻」での宿題について
Q:『同じ居場所を「鍵穴」とし、複数の人が「鍵」となって相互誘導合致する時に、各人がそれぞれ一個の「鍵」となるのか、それとも人びとが一緒になって一個の「鍵」をつくるのか?』という問題を宿題として考えていただいた。
それに対して、数人の皆さんから「この両方がおきる」という考えのもとに、いろいろなお答えをいただき、どれもよかった。
・その内でこばやしさんからいただいた答えは、
★「人びとが家庭のような居場所に共存在している時には、それぞれが一個の「鍵」となり、居場所の外の世界に向かって生きていく時には、全体が一つの「鍵」になる」というもので、その活き方が変わる原因が示されていた。そのように目的を内外に分けたことから、私たちが生きていく居場所では歴史的相互誘導合致がおきていくことを間接的に示唆した点が素晴らしいと思う。
⇒そのことは、西田幾多郎の矛盾的自己同一「一即多、多即一」(「鍵」が「多」となり、また「一」となることが存在の表裏として矛盾なく成立している状態)が、歴史的時間が生成する状況のもとではじめて成立することを示すことにつながっていくからである。
10.「我一人」という「鍵」が「存在の宇宙」という「鍵穴」と、どのように相互誘導合致していくかを考える
・そこでは自己の存在に対する矛盾的自己同一を考えていないことに気づく。
・それは居場所としての「存在の宇宙」における共存在を考えていないことからきている。
★原因:「蓑」の外側の場所では共存在が成り立っていても、その内側に「我」が存在している空間には「我一人」しか存在していないからである。
★理由:我が存在している「いま、ここ」という限られた時間と空間が問題にされているからであるが、その原因は、死を前提にして「我一人」の存在を考えているからである。
⇒そのために共に生きていくことをテーマにする共存在は「蓑」の外側の場所と切り離されており、「蓑」の内外は存在の裏と表、つまり死と生の関係にあると考える。
◎フランクルは「自己が人生に何かを求める代わりに、自己が人生から何を求められているかを考えよ」と書いている。「いま、ここ」に自己が存在の救いを得ようとするならば、まず与贈によって、「我一人」の状態をつくることから始めなければなりない。与贈は「蓑」を「存在の宇宙」に位置づけるからである。
場の研究所 清水 博
以上
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以上の資料をベースに議論を行いました。場の研究所では、哲学や精神から知識を切り離さないための努力をこれからも重ねていきます。
・・・
◎「ネットを介しての勉強会」開催について
5月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第3金曜日21日に開催予定です。
場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。参加される方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただきます。
(参加者の方には勉強会の資料を早めに送ります。)
参加されない方にも、これまでの様に翌月のメールニュースでテーマ資料など内容の説明を致します。
なお、今後、状況の好転があれば、イベントの開催について、臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたしますので、今後ともサポートをよろしくお願いいたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2021年5月5日
場の研究所 前川泰久
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
場の研究所の理事の前川泰久でございます。
新年度の4月になりました。首都圏の緊急事態宣言は解除されましたが、変異種の拡大も懸念され、収束方向にはなく今後の動向が心配です。ようやくワクチン接種がスタートしましたが、時間がかなりかかりそうです。でも、今年も桜の開花がはじまりましたので、明るい未来を期待して行きたいと思います。
3月の第10回目の「ネットを介した勉強会」が予定通り開催されました。
(これは電子出版された清水 博『共存在の居場所:コロナによって生まれる世界』が「勉強会」の共通の基盤になっています。)
テーマは「存在と与贈」でした。この清水先生の資料では、社会活動が「人・人型」から「人・居場所型」への変化という、新しい表現の説明から始まり、これまですすめてきた「ネットを介した勉強会」は「人・居場所型」の一つであるという解説もありました。わかり易かったと思います。今回も皆さんのいろいろな経験をベースにされた意見が多く寄せられ、良い議論が出来たと思います。
4月も、「ネットを介した勉強会」を開催します。(今月は第4金曜日の23日の予定となります。)
基本のテーマは「共存在」で進める予定です。
毎回コメントしておりますが、ネット上での「共存在」の場ができて来ていると感じております。今後も、その原因を探りながら改良を重ねて継続し、広げて行きたいと思っています。
なお、これまで、「ネットを介した勉強会」の内容については、メールニュースで議論状況や資料をご紹介してきております。もし、ご感想、ご意見がある方は、前回同様、今回も下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。よろしくお願いいたします。
ご感想、ご意見は、こちらのアドレスへお送りください。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:
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この「ネットを介した勉強会」という勉強会そのものの話は、当メールニュースの後半、3月の勉強会の内容のまとめの方(内、8.の箇所です。)に詳しく、そして、分かりやすく書かれていますので、そちらもご一読ください。
そして、私自身が、そのまとめを読みながら感じたことを今回は書いてみようと思います。
この勉強会とは、どんな勉強会なんだろうか?と考えてみると、こんな風に言えるかもしれません。
この勉強会は、「つい、(意見を、考えを、質問を、感想を)書きたくなってしまう勉強会」のようです。
この、つい書きたくなってしまう…、という点が特徴的なのではないかと思いました。
論文(先生の文章)を読んだら、つい1通目を書きたくなり、皆の1通目を読んだら、つい2通目を書きたくなり…、と続く、書きたくなる勉強会、と言うことです。
なんででしょうね。(笑)
そのことを考えてみます。(内容のまとめ「8.」と合わせて読んでみてください。)
確かに先生からの資料(論文)の内容は、難しい面もあります。
ですから、「さっと理解できて、分かりやすいっ!」とは言えません。(笑)
しかし、このような特徴はあります。
1)どの場面でも、次、どうしていいか分からないことにはならないようになっている。
2)また、それと同時に、直前の返信の全体が、その後の返信を誘っている形がある。
2)をもう少し詳しく書くと、最初(1通目)の返信は(先生の)論文が誘いかけています。
そして、次(2通目)の返信は、論文への1通目の返信全体が論文の理解と言うか、論文の世界をアップデートして、その全体が誘いかけてくるのです。
そして、ついその誘いに乗りたくなる。そんな風に言えます。
次の3通目は、この繰り返しです。
そして、最近の勉強会では、3通目では足りず、延長戦と言いますか、ここでは「余韻」と呼んでいる時間が作りだされています。
この2つの特徴が、内容のまとめ「8.」で説明されている手順の中に現れてきます。
そして、この2つの特徴の本質は、「生きていく」際の特徴でもあるように思いました。
「ネットを介した勉強会」は、勉強会で学んでいる内容が体験として同時に在ることが面白い。
そう言いたいです。
以上。==========
◎「ネットを介した勉強会」の3月のテーマ「存在と与贈」の資料
(清水先生の資料)のダイジェストを紹介します。
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<存在と与贈>
1.社会における人びとの活動の変化(コロナの影響を踏まえて)
◎「人・人型」⇒「人・居場所型」へ
従来は「人・人型」 :社会的な活動は人と人とが出会うことにより生まれ、
対面的な社会活動が生まれて社会を動かす。
今後は「人・居場所型」の社会へ
・人びとは夫々居場所において生活:
人は夫々の居場所を「舞台」として、その「舞台」において「生活」という
ドラマを演じていく「役者」になっている:(これが基本形)
・そして社会にも「大きな居場所」を作りながら、互いの「ドラマ」を結び付けて
「社会的なドラマ」を生み出していくような活動が生まれている:
(現代では、この「社会的なドラマ」の「舞台」は部分的にネットワークにより強くサポート)
注:このようにして「社会的なドラマ」によって生まれる人と人の関係を「つながり」という。
⇒「つながり」による活動の特徴:人びとの存在の多様性を越え短時間に世界的に広がっていく点
★まとめ:対面の活動⇒「つながり」を生み出す活動へと変化している
2.共存在と与贈について
・存在しているものを「存在者」とよび、居場所という「舞台」と非分離になって(つながって)
「役者」としての自己の〈いのち〉を表現していく存在者の表現を「存在」と呼ぶ。
注:「共存在」とは大きな社会的な居場所に人びとがつながって存在すること
・「共存在」がどのようにして生まれるかを理解するためには、「つながり」が生まれる活きを深く知る事が重要⇒与贈
★必要なこと:自己の存在が「〈いのち〉の与贈」によってどのように変わるかを知ること
注:〈いのち〉:存在を継続的に維持していく能動的な活き
⇒与贈はギブ&テイクの関係を越えて自己の〈いのち〉の活きを差し出すこと
3.共存在の状態を生み出すために
・人と人が対面して生活を続けているときに、共通の居場所がない状態だと一方の人だけが
他方の人に与贈を続けていると、不安定になり維持できない(本来はギブ&テイクのため)
⇒この2人が、共通の居場所に存在して互いの〈いのち〉をその居場所に与贈していくと状況が変わり、「居場所の〈いのち〉」が生まれ、その〈いのち〉によって2人が包まれてくる。
★これを〈いのち〉の与贈循環という
・与贈循環によって、2人の居場所の〈いのち〉がつながって、それぞれの存在に非分離な関係がうまれ、居場所の〈いのち〉を媒介にして、2人の〈いのち〉もつながって、2人の間の共存在の状態が生まれる。
・共存在の社会への拡大
人々の存在は与贈によって居場所を媒介にして、立体的に広がって、多人数の共存在が生まれる。
⇒与贈循環は多様な存在者を区別しない。重要なのは居場所に与贈しているかどうかで、与贈循環は多様性な人々の存在をつないでいき、人々の存在がつながれて、多様な人々の共存在がうまれる。
4.「人型・居場所型」に生まれる「共存在の時代」
・条件:「居場所」を「舞台」にして、多様な人びとが「役者」になって、「舞台」に与贈していくことによって、共に「〈いのち〉のドラマ」を作って、大きくつながって生きていくことが必要。
・ドラマ:ストーリー(物語)があり、その物語に従って「舞台」と「役者」の活きが生まれていく。
従って、物語がどのようにして生まれるかを示さなければ、共存在の「ドラマ」が不明確。
5.ドラマの物語がどのように生まれるのか?
・「役者」としての人びとが「舞台」と非分離な形で存在している「舞台としての居場所」があり、そこにそれまで続いてきた「物語の旧い全体」がある。その「物語の旧い全体」と矛盾しないように役者の活きによって「物語の新しい部分」が生みだされ、そして「物語全体」を新しくしていく。
・それまで続いてきた「物語の旧い全体」によって「物語の新しい部分」は影響を受けるが、また「物語の新しい部分」によって、それまでの「物語の旧い全体」も影響を受ける。
★まとめ:
・「物語の旧い全体」と新しく生まれる「物語の新しい部分」とは、互いに矛盾しないように相互に影響を与え合いながら融合して、「物語の新しい全体」を作っていく。この変化を、「物語の旧い全 体」を「鍵穴」とし、「物語の新しい部分」を「鍵」として、その「鍵穴」と「鍵」が相手を誘うようにして相互に合致していくことにたとえて、私は「相互誘導合致」と名づけている。
・「物語の新しい全体」を生みだしていく活きは、このように物語のなかでおきている「相互誘導合致」。⇒相互誘導合致が繰り返されながら、居場所に「ドラマ」が進んで行く。
・私たちの体の中ばかりでなく、自然界でも、さまざまな生きものが相互誘導合致の物語を繰り返しながら、「〈いのち〉のドラマ」を生みだしている。
◎与贈が存在に動きを与えることによって〈いのち〉の物語が生まれ「〈いのち〉のドラマ」が地球を舞台にして演じられていることに注目。
中略
6.互いの存在間の「同時性」について
・居場所の生きものの間に「つながり」が生まれるために必要なこと
⇒互いの存在の間に「同時性」があるということ
・「同時性」とは:
居場所における与贈循環によってつくりだされる「暗在的な時間」(時計では計れない時間)を、
その居場所に存在している生きものが感覚的に共有しているということ。
・この与贈循環が生み出す「暗在的な時間」とともに、その居場所の歴史が進んでいく。
・歴史的時間は「暗在的な時間」として、その居場所に存在する人びとが感覚的に共有している時間であるので、客観的に時間として計ることはできない。
・同じ居場所に生きている人びとは、そこで生まれる歴史的時間を共有することで、互いの間につな がりを感じている。
・与贈循環の速さは居場所の大きさなどの空間的な性質や与贈の大きさや方法などによって変わるが、一般に居場所が大きくなるほどその時間もゆっくりと流れ、それにともなって人びとのつながり感も緩くなっていく。同じ居場所に同時に存在していなければ、同時性は感じられないので、居場所を離れた後でその時間性を思い出そうとしても、それを客観的に表すことはできない。
・「同じ釜の飯を食った仲間」ということわざは、同じ居場所における「同時性」を共有して、互いに存在がつながった仲間という意味である。
・一般に大きな場所ほど「暗在的な時間」はゆっくり流れるから、その同時性も大まかになっていく。歴史的相互誘導合致は、居場所を包む大きな居場所に生まれる歴史的時間を、生きものの活きによってその居場所に生成する活きである。
7.小まとめ
・存在者としての生きものがその〈いのち〉を居場所へ与贈することによって、居場所に「居場所の〈いのち〉」が生まれ、その与贈循環を受けて生きものの〈いのち〉がつながり、居場所に生きものの共存在が生まれる。
・このことは新型コロナの影響を受け入れながら、人びとがこれからの「人・居場所型」の社会を生きていく上で非常に重要。また地球を「大きな居場所」として多様な人びとが一緒につながって生きていく上でも必要。
・このような新しい原理が、なぜ明らかになってきたかというと、それまで世界で広く伝統的に使われてきた「生命」という概念に代わって、〈いのち〉という活きを新しく考えて定義をしたからである。
・そのことによって、「〈いのち〉の与贈」という生きものの活きを考えることができるようになり、与贈によって居場所の〈いのち〉を媒介にして生きものの〈いのち〉がつながることから、生きものの存在とその居場所の活きに関する様々な謎が一気に解けてきたのである。
(清水博『〈いのち〉の自己組織』東大出版会)。
・そして今回、その暗在的な時間の世界にはたらいている法則が、相互誘導合致および歴史的相互誘導合致という形にまとめられた。
8.ネットの上で与贈循環の形をつくって勉強をする「ネットを介した勉強会」について
・十数名の人びとがこの勉強会に参加して受講してみたところ、互いの存在の間につながり感が生まれて全員の共存在意識が高まるという結果になっている。
・居場所の活きをするのは小林研究員で、勉強会の新しい課題(論文)が講師(清水)の所から、勉強会の一週間前ぐらいまでに、毎月、「居場所」の小林研究員へ送られる。小林研究員(以下その存在と居場所を「居場所」とも略記)からは、その論文を音読した録音とそのコピーの形で各受講者へ資料が送られてくる。
・受講者は先ず自己の「居場所」から与贈を受けることになる。
★勉強会は、「居場所」という「全体」の〈いのち〉の表現の与贈から始まることになる。
・次に各受講者は、勉強会の前日までに、その資料を読むなり聞くなりして、それに対する自分自身の考えなり、質問なり、感想なりを、自己の〈いのち〉の与贈として「居場所」へ送る。
(その場合に、小林研究員と私も共に勉強会の受講者としても平等に取り扱われる。)
★これは生きもの(存在者)からの居場所への〈いのち〉の与贈に相当し、ネットを介して「与贈循環」が開始されたことになる。
★受講者(「存在者」)から送られてくる与贈をさらに加えることによって、「居場所」の「全体」としての状態が新しくなる。各受講者から「居場所」へ届いたすべてのメールは、自分自身が発したメールを含めて、そのまま「居場所」から受講者のところへ与贈されるので、受講者は新しくなった「全体」(新しい全体)を勉強会の前に知ることができる。
9.〈いのち〉は物質ではなく活きであるネットを介して「居場所」へ与贈することが可能
・ネットを介して与贈されてきた活きを、「居場所」が〈いのち〉の与贈として受け取るためには、既に「居場所」にも〈いのち〉があって、自己の〈いのち〉の活きとしてそれを与贈として受容できるかどうかを判断できる必要がある。多様な存在者から〈いのち〉の与贈を受けることを考えると、少なくとも最終的な判断は〈いのち〉によってなされる必要がある。
10.まとめ
・「生命」による伝統的な主語的概念に代わって、〈いのち〉という述語的な活きを考えたことから、存在の世界が与贈循環と結びついて述語的論理の形で広がり、相互誘導合致という述語的法則が発見され、さらに小林研究員によってネットを活用する実践的な応用の道が開かれたことになる。
・リモート状態での会議などに広く使われているZoomと、このネットを介した相互誘導合致を比較してみると、すべての参加者の表現が当人を含むすべての参加者に循環的に送られるところは共通している。だが前者になくて、後者にあるものが、参加者全体の「居場所」である。参加者がネットを介してこの「居場所」に与贈できることよって、「全体」と「部分」を区別することができ、「与贈循環」という「居場所」における述語的な活きを定義することができ、それを基盤として相互誘導合致という活きが生まれるのである。
・この相互誘導合致はまた、西田幾多郎が矛盾的自己同一に関係して提唱した述語的論理を物語という動的なプロセスの形で表現している。これはZoomが主語的論理によって使われていることに対して、対照的な違いとも言える。この違いによって、参加者の間につながりが生まれて、共存在が実現する。
以上
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以上の資料をベースに議論を行いました。場の研究所では、哲学や精神から知識を切り離さないための努力をこれからも重ねていきます。
・・・
◎「ネットを介しての勉強会」開催について
4月の勉強会ですが、第1金曜日が3日でしたので、通常の第3金曜日の16日開催のですと、日程上余裕がないことから、第4金曜日の23日に延期して開催したいと思います。
場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。参加される方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただきます。
(参加者の方には勉強会の資料を早めに送ります。)
参加されない方にも、これまでの様に来月のメールニュースでテーマ資料など内容の説明を致します。
なお、今後、状況の好転があれば、イベントの開催について、臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたしますので、今後ともサポートをよろしくお願いいたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2021年4月4日
場の研究所 前川泰久
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
場の研究所の理事の前川泰久でございます。
もう3月ということで、新型コロナによる新しい生活になって1年過ぎてしまいました。緊急事態宣言が解除される予定も報道されていますが、ようやくワクチン接種のスタートしたところですので、まだまだ予断を許さない状況です。しかし、桜の開花予想では、今年は早めとのことで、すこしでも明るい気持ちになれると良いと思います。
2月の第9回目の「ネットを介した勉強会」も予定通り開催できました。
(これは電子出版された清水 博『共存在の居場所:コロナによって生まれる世界』が「勉強会」の共通の基盤になっています。)
2月は「共存在における二重時間」というテーマで議論をしました。これまでの共存在における相互誘導合致と歴史的相互誘導合致についての更なる深堀りができたと思います。今回も皆さんのいろいろな経験をベースにされた意見が多く寄せられ、みなさんのメールを読む時間もかかりましたが、それだけ良い議論が出来たかと思います。
2021年の3月も、「ネットを介した勉強会」を開催します。基本のテーマは「共存在」であり、今月のテーマは「存在と与贈」の予定です。
毎回コメントしておりますが、ネット上での「共存在」の場ができて来ていると感じております。今後も、その原因を探りながら改良を重ねて継続し、広げて行きたいと思っています。
なお、これまで、「ネットを介した勉強会」の内容については、メールニュースで議論状況や資料をご紹介してきております。もし、ご感想、ご意見がある方は、前回同様、今回も下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。よろしくお願いいたします。
ご感想、ご意見は、こちらのアドレスへお送りください。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:
==========
こばやしです。
今回、まとめをどのようにまとめてよいものか悩んでしまいました。
このまとめで書くことは、勉強会の内容ではなくて、勉強会そのものを話題にしたいと思っているのですが、自分自身が、この場で何が起きているのか、未だはっきりと分かっているとは言えないからです。
ですから、ここで何が起きているのか、毎回、このまとめの段階で振り返りながら考えています。
その中で、今回、気がついたことは、対面での勉強会の時には気づけてなかったことがあった、と言うことです。
それは、対面には無く、ネットには在る、と言うことではありません。
コロナによって対面できない状況が起きて、それに応えようとして、様々工夫して、今のネットを介した勉強会の形が生まれて、参加者の方々の協力もあって、勉強会は、停滞どころか加速できたように思っています。
これらを振り返った時に、もしかすると、対面している時にも、対面できない状況の際にある負の特徴は、既にあったのかもしれない、という思いでした。
その頃、私が感じていた問題は、勉強会の時間中は良いのだけれど、終わって、家に戻ってくると、あの良くわかった感じが消えてしまう、と言うことでした。
そして、それは、自分の理解力が不足しているのだ、という残念な思いとして自分に記録される訳です。
今は、それが全くないのかと言えば、そうではありませんが、勉強会の向き合い方として、自分の経験と照らしつつ受け取らないと、自分の中で、資料は知識的な資料としてだけが強調され、全く頭に入って来てくれない訳です。
資料のこの部分に書かれていることを読んだ時に起こるこの感覚は、自分の人生において、このことと近いように思える、そういう想起を言葉にして返信する。
そして、きっと、他の方も近い形での返信なのではないか、と思いつつ、返信それぞれを読むことで、自分の中で、幾分か軌道修正が行われ、理解が深まっていく…、そんな感覚があります。
改めて書くと、私たちは直接会えなくなることで、新しい勉強会の形を発見しなければならなくなった訳ですが、気づいて振り返ってみると、元々、それはしなければいけなかったことのようにすら感じるのです。
この勉強会のやり方によって気付かされたことは、きっと、直接会う際にも必要なことなのではないだろうか、と思うのです。
この「ネットを介した勉強会」で起きていることを更に詳細に振り返ってみても良いのじゃないか、そう思いました。
以上
==========
◎「ネットを介した勉強会」の2月のテーマ「存在と場」の資料
(清水先生の資料)のダイジェストを紹介します。
------------------
<共存在における二重時間>
1.共存在では、「存在者が居場所において共に生きていくこと」が必要
<そのための条件>
1.居場所の境界が暫定的に固定されて、存在者が居場所と非分離な状態になること
⇒ 相互誘導合致によって与贈しながら居場所と動的平衡になることが必要
(ドラマの基本の形成に相当する。しかし長い歴史的時間における共存在を考えると不足する)
2.居場所はその外部世界の中で成長していくので歴史的相互誘導合致が必要
(ドラマの展開に相当する。)
★歴史的相互誘導の例:会社の社員が、会社の活きを活用して会社の居場所である市場を継続的に創出していく活き。⇒その活きを実行していくためには“構想力”が必要
2.この二種類の相互誘導合致による変化
⇒ 居場所における日常的変化と歴史的変化に相当する。
・日常的変化:短い時間でおきる
・歴史的変化:長い時間をかけておきる
⇒ 即ち、存在者が長さの非常に違う時間の物差し(時間スケール)を2つ持って、
それを使い分けていくことが必要。
例:居場所を市場と見なし、存在者を会社と見なして考える
・市場と会社は非分離な状態にあり、共に生きている。
(市場が無くなれば、会社も生きていけない。)
⇒ そこで会社はその存在を市場に位置づけられていて、市場のために懸命に働く。
それが会社の市場への与贈である。そのことで、その市場に会社の存在が支えられる。
居場所としての市場は、会社を与贈によって生まれる場によって包んで、会社の存在を
位置づけ、その位置に見合う収益を与贈する。
〇短期:短期的には会社と市場の間に与贈循環がおきる。
⇒ 会社が「鍵」、市場が「鍵穴」としてお互いに誘い合いながら相互誘導合致して
相互整合的な動的平衡が生まれる。
〇長期:(未来も含め)長期的に歴史的に会社が続いていくためには、成長していく必要あり。
⇒ その成長を受ける市場も発展していく必要がある。市場はその外側に
外部世界(地球)に開かれているため、成長していかなければならない。
さらに、外部世界において市場が歴史的に成長していくためには、
市場の居場所としての外部世界も歴史的に継続していく必要がある。
★「市場の未来を見る」ためにはその外部世界という「舞台」において
ドラマを演じていく「役者」として、市場の存在を見ることが必要。
⇒ 会社(社員)が市場を包んでいる外部世界で、その世界を経験し、
それを阿頼耶識に蓄積して歴史的相互誘導合致によって市場の
現状を乗り越えていく必要あり。
言い換えると:「(会社の経営者が)市場を包み込む外部世界から市場を見て、
その市場そのものの歴史的な発展の方向性をつかみ取り、
その歴史的発展を実現するように会社を経営していく。」
ということが、経営者と市場の歴史的相互誘導合致になります。
必ずしも経営者でなくてもよいですが、市場の歴史的発展を
会社を通じて実現していくこと、またそのことを通じて市場の
歴史的な変化を創造することです。
3.長さの異なる二重のスケール(短期/長期)をうまく使い分けていくことが重要
例:会社は居場所としての市場において、愛の活きを活かしながら生きていくことができる。
・短期:相互誘導合致の法則が成立
・長期:歴史的相互誘導合致の法則が成立
⇒ この二重スケールをうまく使いわけることで会社は市場に共存在できる。
4.二重スケールの考え方の拡大
1.臓器と臓器を構成する細胞でも成立(外部世界としての身体は生長していく)
2.国家の境界にも内外に二重性あり
・外向きの境界を地球という居場所に対し考えていくところに民主主義の特徴あり。
・内向きの一重の境界しか実質的にない国家が、その境界を地球レベルまで
広げようとすると独裁的な全体主義の国家が生まれる。
5.時間スケールの二重性をコロナと経済に応用して考える
・人びとは動的平衡によって社会における存在が新型コロナから安全であるようにと計ると同時に
・社会としては経済的に発展させて行かなければならない。
⇒ この二つの活きは時間スケールが違うので、その違いを活用してうまく二つに分けることが
できれば、人びとは社会に安全に共存在して、経済的な活動を続けていくことができる。
★ここで、経済的利益を優先すると失敗する。
結論:政府が国民の愛と科学的思考を含めた知恵を活かすことができるかどうかが問題。
以上 (清水 博)
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追加コメント:
空間的に異なる居場所に存在する人びとの多様な存在をつないで、空間を越えた共存在状態を生み出すことは、地球を「舞台」とする〈いのち〉のドラマを生み出す前提になります。どうしても、人びとの多様な存在をつなぐ必要があります。そのためには、空間的に存在をつなぐ代わりに、暗在的な歴史的時間によって存在をつなぐ方法を提唱したいのです。この原理は、人びとの対面が制限されるコロナ禍の時代にも、またその時代を超えても、広く活用できると思われます。「ネットを介した勉強会」はその実践を験しています。 (清水 博)
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以上の資料をベースに議論を行いました。場の研究所では、哲学や精神から知識を切り離さないための努力をこれからも重ねていきます。
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◎「ネットを介しての勉強会」開催について
2021 年の3月も場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、通常の第3金曜日の19日の17時から、開催する予定です。
テーマは「存在と与贈」の予定です。
参加にご協力をいただく方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただきます。
(参加者の方には勉強会の資料を早めに送ります。)
参加されない方にも、これまでの様に来月のメールニュースでテーマ資料など内容の説明を致します。
なお、今後、状況の好転があれば、イベントの開催について、臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたしますので、今後ともサポートをよろしくお願いいたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2021年3月3日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
場の研究所の理事の前川泰久でございます。
2月になりました。まだまだ緊急事態宣言が発令されたままで、新型コロナ感染のおさまりが見えてきません。ようやくワクチン接種の予定が具体性を持ってきましたので、これからの生活が明るくなることを期待して行きたいと思います。
新年の1月の第8回目の「ネットを介した勉強会」は無事終了できました。
(これは電子出版された清水 博『共存在の居場所:コロナによって生まれる世界』が「勉強会」の共通の基盤になっています。)
1月のテーマは「存在と場」でした。今回は、量子力学的な考えと場の理論を比較するという内容があり、新たな問いかけにもなり、刺激になりました。
参加されたメンバーは17名とこれまでで一番の人数で開催しました。今回も皆さんのいろいろな観点からのご意見、またそれぞれの経験をベースに夫々の理解などが交わされました。
2021年の2月も、「ネットを介した勉強会」を開催します。基本のテーマは「共存在」です。
これは、ネット上ではありますが、「共存在」の場ができて来ていると感じておりますので、今後も、その原因を探りながら改良を重ねて継続し、広げて行きたいと思っています。
なお、これまで、「ネットを介した勉強会」の内容については、メールニュースで議論状況や資料をご紹介してきております。もし、ご感想、ご意見がある方は、前回同様、今回も下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。よろしくお願いいたします。
ご感想、ご意見は、こちらのアドレスへお送りください。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:
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「今月の資料には図が入るのですが」と連絡を受けて、その作図もうまく出来て、毎月よりもスムーズに準備が進みそうだなぁ、と思っていたら、最後の最後で体調を崩した。
実際には、1日だけ動けなく寝込んでいただけなのですが、ちょうど朗読データの作成をしようとしていた日と重なってしまい、結果、残念ながら今回は、朗読データは作成できずじまいとなってしまいました。
前にも書いたことがありますが、朗読データは、まあ、無くても(きっと)問題はないです。(実際、今回は無かったので。)
でも、自分としては、朗読には、ちょっとした想いはあるのです。
(文字の)資料を受け取ると、つい、そこから無意識に知識を読み取ろうとしてしまうところがないでしょうか。(私はその傾向がありました。)
ですので、資料は、できるだけ「語りかけられること」として届いたらいいな、と思っているのです。
そういうこともあり、今回、その添えられなかった朗読の音声は、それが無かったことで、いつもと何が違っていたのか、いなかったのか、参加された方々に聴いてみたいな、と勉強会がすっかり終わった今、思っています。
さて、そんなことを考えていたら、それでは、資料そのものは、一体何なのだろう?と考え始めてました。
今回は「存在と場」と言う資料でした。
これは、学ぶべき内容が書かれているもの、というだけでしょうか。
そこで、もう一度、改めてこのことを思いながら、また、自分の内側を意識しながら資料を読んでみました。
すると、一つ気がついたことがありました。
「私は、資料を読みながら感動している」ということでした。
そして、その感動した何かに対して、自分自身も何かをしたい、そういう想いに駆られている自分がいる、ことにも気がつきます。
ですから、勉強会の資料を読んだ1通目の返信は、この「何か」に対して行っている行動なのだと思います。(うまく表せなくて、毎回、送信ボタンを押した後に、うまく書けなかったと心の中で嘆きますが…。(笑))
そして、他の参加者の1通目も、きっとこのような思いの中の1通目だと思わざるを得ません。
それは、それぞれの返信の中にも、それぞれの感動があるからです。
そして、それらに心を動かされ、2通目、3通目と繰り返し進んで行くわけですが、この時点では、自分たちが書いている(創っている)のは、それぞれの返信ではなくて、先程の「何か」そのものであると言う感覚の中にいるようです。
そして、その「何か」には、次の返信で何が起こるか、思いも寄らないという面白さが在ります。
これは、この勉強会の面白さに直結しているように感じます。
いつも、このメールニュースでは、勉強会について内容をお伝えできないことから、勉強会ってどんななのだろうか、と思われているのではないかと考えます。
今回、資料について考えることから、勉強会の場の状況を考えることへ思いが広がったことが、少しでも、勉強会の場の様子を伝えることになれば幸いです。
以上
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◎「ネットを介した勉強会」の1月のテーマ「存在と場」の資料
(清水先生の資料)のダイジェストを紹介します。
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存在と場
・「存在者から存在へ」という文明のタイプの転回が、新型コロナよって加速
⇒共存在の時代へ(場の時代へ)変化:場は多様な存在を共に包む活きがある。
・下記の2つの定義は循環的な関係にある。
1.存在:「自己の〈いのち〉を居場所に表現していくこと」
2.〈いのち〉:「存在を継続的に維持していく能動的な活き」
即ち、〈いのち〉は〈いのち〉により定義され、“存在”は”存在“によって定義される。
〈いのち〉や“存在”に平均値はない。(この循環的な状態を自己言及状態という)
・存在者(存在している者)
人間を存在者として見るときは、〈いのち〉やその存在には触れず、数値化できるところを限定して外側から見ている。(平均値がある)
⇒ 近代文明:存在者と平均値の文明
・量子論的現象
素粒子のような極微の粒子の状態を観察者である科学者が観察するとき、
「観察する」という行為自体が粒子の状態に影響を与えて状態を変えてしまう現象。
(量子力学的不確定性を生みだす。)
⇒ 観察者である自己が観察という行為によりって、自己自身を観察の対象の一部分にしてしまうために、観察者の自己言及が破れてしまう。そのことから観察対象に無限定な性質が出現する。
・自己の〈いのち〉を与贈した場所(居場所)を、その存在者自身が観察すると、量子力学と同様の結果になると考えている。
⇒〈いのち〉の与贈によって存在者と居場所は非分離につながっているために、存在者と居場所という区別は純粋な意味で消え、場所を観察することによる不確定性が現れ始める。
(その不確定な場所を居場所と呼ぶ)
★場所の存在に不確定性が生まれる結果、あらたに場が現れて観察者としての自己を包んでいく。
⇒ 量子力学での粒子の観測に場(波動など)が現れることに相当。
・具体的説明:
場所における場の出現については、次のように考えれば理解できる。
1.舞台空間に、役者という存在者がたまたま存在していたとする。何も、始まらなければ、両者は場所と存在者として分離した状態であり、役者の自己言及は成り立っている。
⇒ ですから、役者はその舞台空間を、自己から離れた場所として観察することができる。
2.しかし、そこで役者の意志によってその〈いのち〉が舞台に与贈されて「ドラマ」が即興的に始まれば、場所と存在者というそれまでの区別は消えて、ドラマの場面(居場所の存在)とその場面において役を演じていく役者(役者の存在)という非分離の関係が両者の存在に現れるから、役者の自己言及性は破れてしまう。
⇒そこで役者は、ドラマの場面(場)にも言及しなければ、自己の存在を言及できないことになる。
役者が〈いのち〉を与贈することによって舞台に生まれる場面が役者の居場所であり、その場面に生まれる場によって役者の存在が包まれる(言及される)のである。
・量子力学の不確定性と場所の存在に生まれる不確定性(あらたな場)の違い。
1.量子力学の不確定性は普遍的性質を持つ。
2.場所の存在に生まれる不確定性にも普遍性があるが、その詳細(非分離性)を与贈の程度によってある程度変えることができる場合がある。
⇒ドラマの特徴は、現在の場面が未来にどう変化するかが、不確定であるという、時間的不確定性が量子力学的な不確定性と同様にある。(同じ一つの場面に複数の役者がいても、それぞれの存在が場面となっている居場所の存在とつながっているのである。そのことから存在が不確定になる。)
・その具体的な例:居場所を仮に家庭として考える。
人間には自己言及性があるために、その存在が閉じているから、外から他の家庭を観察するだけでは、家族の存在がどのようになっているのかを知ることはできない。一つの家庭の内部に入るためには、その家庭の一員として自己の〈いのち〉を家庭という居場所に与贈する必要がある。そのことで、居場所としての家庭に与贈循環によって場が生まれて家族の自己言及性が破れ、互いの存在を内側から見ることができるようになる。ただそれは家族が〈いのち〉を家庭に与贈し、与贈されたその〈いのち〉が自己組織的に統合されて、家庭という居場所の〈いのち〉となって、その活きが場として家族を包む場合に限られる。そのことから生まれる非分離性が量子力学の場合と同様に、観察の対象としての家庭に、自己自身の存在が含まれることになる。
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中略
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◎場所的な主客非分離によって生まれる不確定性が、量子力学的な不確定性と興味深い共通点はある。⇒しかし、その場所的不確定性が、これまでその原因が不明であった存在とコミュニケーションに関するさまざまな現象を説明する可能性があると思う。
(清水 博)
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以上の資料をベースに議論を行いました。場の研究所では、哲学や精神から知識を切り離さないための努力をこれからも重ねていきます。
◎「ネットを介しての勉強会」開催について
2021 年の2月も場の研究所スタッフと有志の方に協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、通常の第3金曜日の19日の17時から、開催する予定です。
テーマと進め方は清水先生とこばやし研究員で検討後、またご連絡いたします。
また、参加にご協力をいただく方には別途ご案内させていただきます。
(参加者の方には勉強会の資料を早めに送ります。)
なお、今後、状況の好転があれば、イベントの開催について、臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたしますので、今後ともサポートをよろしくお願いいたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2021年2月5日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
場の研究所の理事の前川泰久でございます。
あけましておめでとうございます。皆様、ご健勝で新年を迎えられたことと思います。
新型コロナ感染は、昨年12月から一気に拡大となり、リスクの高い環境になってしまいました。世界中が何とかこの状況を脱して、明るい未来が見えることを期待しております。
昨年の12月も、7回目の「ネットを介した勉強会」を開催いたしました。
(これは電子出版された清水 博『共存在の居場所:コロナによって生まれる世界』が「勉強会」の共通の基盤になっています。)
12月のテーマは「相互誘導合致と共存在」というテーマで開催しました。参加された有志メンバーは15名くらいでしたが、今回も皆さんのいろいろな角度からの考えや意見、またそれぞれの経験をベースにしたメッセージが交わされました。
2021年の1月も開催予定です。基本のテーマは「共存在」です。
これは、ネット上ではありますが、「共存在」の場ができて来ていると感じておりますので、今後も、その原因を探りながら改良を重ねて継続し、広げて行きたいと思っています。
なお、これまで、「ネットを介した勉強会」の内容については、メールニュースで議論状況や資料をご紹介してきております。もし、ご感想、ご意見がある方は、前回同様、今回も下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。よろしくお願いいたします。
ご感想、ご意見は、こちらのアドレスへお送りください。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:
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こばやしです。
2020年を振り返ってみたとき、つくづく「ネットを介した勉強会」を始めることができて良かったと思いました。もし、1月の勉強会を最後に、勉強会を続けることができなかったなら、どうなっていたでしょうか。ちょっと考えたくないですね。
とは言え、初めは、うまくいく確証もなく始めることですから、(自分の中に、一つの確信はあったとは言えるのですが、)本当にこのやり方で良いのだろうか、と不安であったことも確かです。
そんな時、スタッフのお一方に「立ち止まらず、新たな形で学ぶための素晴らしい」提案と励ましていただけました。その言葉を読んだとき、素直に嬉しく思いました。また同時に、「ああ、そうか、自分たちは、(見通しの効かない中にあって、なお工夫して)学習を継続しようとしているのだ」と、これからやろうとしていることの意味がはっきりしたことを覚えています。
自分では気づけなかったことを「ほい」と外から渡してもらえたような気がしています。
そして、そうか、この全体をして、嬉しく感じているのだな、と今、気がつきました。
年が明けて2021年、再び緊急事態宣言が発令されました。場の研究所の勉強会(大塚での対面の方)は、まだしばらく行えそうにありません。
今年も、「ネットを介した」形式での勉強会となりそうです。
さらに、問題は場の研究所だけに止まりません。
世の中を見回してみても、コロナのことを考えれば行動は控えたい、しかし、このままでは生活が成り立たなくなりそうだと言う不安な声を耳にします。
そのような中で、今年、場の研究所の「ネットを介した勉強会」は、どのような在り方が求められるでしょう。
一つは、勉強会の場を少しだけ広げたいと考えています。
しかし、無闇に増やしては勉強会の場が成り立たなくなる恐れがありますので、悩ましいところですが、いくつか試みようと思っていることはあります。
急げませんが、ゆっくりとでも前に進めるつもりです。
また、社会と勉強会との関係についても考えていきたいと思います。
言い換えれば、これは、場の研究所として、社会へどのような行動ができるだろうか、という思いです。
2020年はシンポジウムが行えませんでした。
これまでシンポジウムで発信し続けてきたことが途切れてしまいました。
できれば、2021年は2020年と併せた何らかのメッセージを発信できたら嬉しいです。
「どのような明日だったら、一緒に夢見られるだろうか」
夢という可能性の、その確信が私たちの胸の中にあり続けてくれるためには、私は、今日、何ができるでしょうか。
私が、場の研究所という、この居場所で日々考えているのは、そのようなことのような気がしています。
今年も場の研究所と「ネットを介した勉強会」をよろしくお願いいたします。
以上
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◎「ネットを介した勉強会」の12月のテーマ「相互誘導合致と共存在」の資料
(清水先生の資料)のダイジェストを紹介します。
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相互誘導合致と共存在
・相互誘導合致:旧い「全体」のなかに幾つかの新しい「部分」が生まれて、「全体」を内面から変えて生長させ、新しい「全体」を生成させる。するとまた、その新しい「全体」のなかに新しい「部分」が生まれて、「全体」を新しくしていくという〈いのち〉の法則(生きていくものの存在の法則)。
・生きていくものの特徴:この「全体」と「部分」の相互誘導合致を絶えず生成しながら生長していくところである。
⇒「全体」と「部分」の関係は居場所としての「全体」とその「部分」の「存在(〈いのち〉の表現)の関係」である。注:「存在者(存在している者)の間の関係」ではない。
⇒私たちの人生も、この相互誘導合致の形で進行していき、老化とともにその生長も変化をして、最終的には死に至る。
・自己と居場所の〈いのち〉は非分離であり、居場所の〈いのち〉を「全体」とすると、自己の〈いのち〉はその「部分」になる。
⇒「全体」の〈いのち〉の表現をドラマの「舞台」における全体的な表現とし、
「部分」の〈いのち〉の表現を、その舞台の上で即興的に表現されていく「役者」たちの表現というように、ドラマの形によって置きかえて考えることができる。
★相互誘導合致によって生まれる舞台の全体的な変化がドラマの「ものがたり」(居場所の歴史)を進行させていくのである。
ドラマの進行と共に新しい状況が舞台に現れ、さらに新しい役者や退場する役者を生みながら、舞台が広がっていくのが相互誘導合致の全体像である。この〈いのち〉のドラマの進行は、舞台において演じられていく「居場所の歴史」の進行でもある。
・地球を居場所として、このような「ものの見方」をしたとき、原初以来の〈いのち〉のドラマの進行が現実の生物進化史になっている筈である。
⇒〈いのち〉のドラマは、原初の〈いのち〉が先ず「全体」として地球に現れ、その内部にさまざまな〈いのち〉がその「部分」として出現し、相互誘導合致の繰り返しによって「生命の星」としての地球を生成してきた「ものがたり」になっていると考えられる。
★このドラマを「〈いのち〉のドラマ」と呼んでいくことに、大きな意味がある。
・地球にその〈いのち〉をもたらす活きをした宇宙の活きを、ルドルフ・オットーに因んで「聖なるもの」と呼ぶことにする。
⇒原初以来、地球を舞台にして続いてきたのは、「聖なるもの」の意志(活き)にそう〈いのち〉のドラマ。
人間は存在者としての自分たちを中心にした生活を近代文明によって強力に発展させ、地球における〈いのち〉のドラマから乖離した自分たちの存在の形をつくってきた。
★その近代文明という「存在者の文明」は、地球の温暖化現象と新型コロナのパンデミックによって「存在の文明」へと変わらないわけにはいかないと思う。人間も他の生きもののように、地球を舞台として〈いのち〉のドラマを演じていく必要があることは確かである。
・人間は地球における相互誘導合致の〈いのち〉に矛盾しない生き方をしていく必要がある。人間の〈いのち〉を巻き込んで、その居場所でおきていく相互誘導合致を、巻き込まれている人間の方から見たときに見える形が「歴史的相互誘導合致」である。
・人間自身が〈いのち〉のドラマをどう演じていくか、しっかりした意志をもっていなければ、地球全体におけるドラマについていけない。〈いのち〉のドラマはあくまで即興劇として個々の役者の意志を重んじつつ演じられていくからである。
⇒人間は原初以来の〈いのち〉を地球に広げていく形に、すなわち「聖なるもの」の「意志」をさらに進めていく方向に(「北極星」の方向に)進まなければならない。
★これからの時代の中心になっていくのは、たとえそれが小さくても、〈いのち〉のドラマの舞台となる居場所づくりであり、そのことを示したのが、前回の歴史的相互誘導合致の説明である。
Q:舞台としての居場所がつくられたときに、そこで相互誘導合致によって演じられていく〈いのち〉のドラマには、どのような特徴があるでしょうか。
A:一口に言うと、役者たちによる「共存在のドラマ」が見られるはずである。
★共存在の特徴は舞台の〈いのち〉を「一」とすると、多様な役者の〈いのち〉「多」はそれと非分離であり、またそれ故に――存在は〈いのち〉の表現であるから――役者の存在は互いに対等であるとして、西田幾多郎の矛盾的自己同一「一即多、多即一」によって表わされる。
説明:居場所とそこに存在している人びとの〈いのち〉が非分離であるということ。
その居場所に人びとが共に存在していくということは、居場所を「舞台」にして「〈いのち〉のドラマ」を共に演じていくということである。
・「〈いのち〉のドラマ」によって生れる表現には、
1.「舞台」の状況がほとんど変化をしないような短い時間(社会的時間)の間に生まれるできごと(社会的できごと)と、
2.「舞台」の状況がかなり大きく変化をするような長い時間(歴史的時間)の間に生まれるできごと(歴史的できごと)
とがある。
⇒居場所を家庭にとれば、
★社会的できごと:家族の間で日常的におきるできごと
★歴史的できごと:何年という単位で家庭の状態が変化をしていくときに生まれるできごと
⇒この二つは〈いのち〉の表現においても異なる。家族は日常的には争うことがあっても、長期的には互いに協力し、互いの立場を重んじながら相互誘導合致的に生きていくのである。
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中略
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◎近代文明がさまざまな場所で、「存在者から存在へ」の変化という形で崩れ始めていると、私は感じている。
⇒そして、あちこちで興味深い居場所づくりが始まっていて、それにともなって相互誘導合致の具体的な動きが、たとえば「おたがいさま」の運動のような形で社会的に広がり始めていたが、ここで、新型コロナの影響で、少し形を変えて社会的に広がっているのではないかと思っている。地球という居場所と多様な人々の非分離から構築していく共存在が新しい文明の基盤になっていくと思う。
(清水 博)
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以上の資料をベースに議論を行いました。場の研究所では、哲学や精神から知識を切り離さないための努力をこれからも重ねていきます。
◎「ネットを介しての勉強会」開催について
2021 年の1月も場の研究所スタッフと有志の方に協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、通常の第3金曜日の15日では正月明けから余裕がないので、第4金曜日の1月22日の17時から、開催する予定です。
テーマと進め方は清水先生とこばやし研究員で検討後、またご連絡いたします。
また、参加にご協力をいただく方には別途ご案内させていただきます。
(参加者の方には勉強会の資料を早めに送ります。)
なお、今年の1月以降、状況の好転があれば、イベントの開催について、臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたしますので、今後ともサポートをよろしくお願いいたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2021年1月10日
場の研究所 前川泰久