メールニュース

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※ 「メールニュース」は、場の研究所メールニュースのバックナンバーを掲載しています。



2022年分

場の研究所メールニュース 2022年12月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

12月になりました。

師走ということで忙しさが増える方々も多くいると思いますが、皆様、いかがお過ごしでしょうか。

コロナの感染者数も増加しつつあり、飲み薬が早く普及することを期待しています。

5回目のワクチンを接種もした方もいると思います。やはり自己防衛が肝心かと思います。

 

さて、11月の「ネットを介した勉強会」は11月18日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは『与贈循環が生む民芸美』でした。

勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の12月16日に予定しております。(第31回)

清水先生からの「楽譜」のテーマは『自己の存在と死』の予定です。

基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

先月(2022年11月)の勉強会で、この「ネットを介した勉強会」は、30回目という区切りでした。

約2年半前、コロナ禍の勉強会はどうなってしまうのか…、から始まり、巡って、今、この形で続けられていることを思うと、とてもとても嬉しく感じられます。

そして、毎月、心血を注いで「楽譜」(勉強会では論文資料をこのように呼んでいます)を書き上げてくださっている清水先生に感謝します。

更に、参加してくださっている皆さま、本当にありがとうございます。

皆さまの参加なしに勉強会は成り立ちません。

さて、30回を振り返ってみて、場の研究所の勉強会は、この方法でしかあり得なかったのではないか、とさえ思えるほど、「ネットを介した勉強会」から、様々な学びが生まれているように思います。

また、この勉強会の時間に感じられる暖かさは、場の研究所が目的としている以下を実践できているように感じており、誇りに思います。

「人々が互いの違いを重んじながら助け合って生きていける、そのような「場」が生み出され、広まること、それが私たちの願いです。」

ここで、これまでの「ネットを介した勉強会」のテーマを一覧し、振り返ってみようと思います。

以下に一覧します。

さて、12月は、31回目です。

そして、2023年も勉強会は続いていきます。

どうぞよろしくお願いします。

 

01 2020/05/13 「COVIDと社会」

02 2020/07/17 「共存在の居場所」

03 2020/08/21 「共存在の居場所:コロナによって生まれる世界」

04 2020/09/25 「共存在の原理について」

05 2020/10/23 「相互誘導合致について」

06 2020/11/20 「歴史的相互誘導合致と人生」

07 2020/12/18 「相互誘導合致と共存在」

08 2021/01/22 「存在と場」

09 2021/02/19 「共存在における二重時間」

10 2021/03/19 「存在と与贈」

11 2021/04/23 「存在と宗教」

12 2021/05/21 「歴史と〈いのち〉の原理」

13 2021/06/25 「〈いのち〉の与贈がつくり出していく世界」

14 2021/07/23 「自己の存在について」

15 2021/08/20 「〈いのち〉のくり込み自己組織」

16 2021/09/17 「一歩先へ踏み出すために-相互誘導合致技術-」

17 2021/10/15 「〈いのち〉の即興劇について」

18 2021/11/19 「自己表現的システム」

19 2021/12/17 「場の新しい考え」

20 2022/01/21 「時間とその構造」

21 2022/02/18 「存在の多様性の調和」

22 2022/03/18 「円環的時間によるつながり」

23 2022/04/22 「「沈黙の世界」からの誘い」

24 2022/05/20 「老化と認知症」

25 2022/06/17 「場所的存在感情」

26 2022/07/15 「歴史的共存在について」

27 2022/08/19 「〈いのち〉の構造」

28 2022/09/16 「場所的世界の転回」

29 2022/10/21 「場所と創造」

30 2022/11/18 「与贈循環が生む民芸美」

 

以上。

 

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11月の勉強会の内容紹介(前川泰久):

◎第30回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

★テーマ:「与贈循環が生む民芸美」

◇学びと阿頼耶識との関係

・場の研究所のネットを介した勉強会のシステムを立ち上げて、その案内人として働いておられる小林剛さんから先日次のようなメールをいただいた。

 

「今日は鍛冶の会でした。課題の小刀は前回仕上がり、来週、師匠に見ていただきます。

ですので、課題はありませんから、今日は何をしようかと考えました。

そこで、せっかく今やってきた研ぎを間を空けずにもう一度やっておこうと思いました。

3年前に新潟の燕三条の鍛冶のワークショップを訪ねた際に作成した小刀の研ぎ直しです。

 

今見ると、すっかりダメで、なるほど自分の目が変わっていることを実感しました。

分かりやすく言うと、刃の部分は平面である必要があります。

ウラとオモテの平面が真なる平面であると、その合わせ目に切れる刃が現れます。

小刀の場合、ウラは比較的平らに整えやすいので、勝負はオモテの研ぎです。

そのオモテ、極端に言うと球面になっていました。(笑)

荒れた球面です。上下も左右も曲面です。これでは、刃は立ちません。

これが見えるようになったと言うのは、自分でも驚きです。

そこで、今日は、この球面を平面に整えよう、という話です。

ですが、荒砥という目の荒い砥石を使っても、研ぎという作業は地道です。

思った以上に鉄は削れません。

半日かけて、やっと、刃渡りのほぼ全体まできました。

しかし、まだ、切っ先付近がなだらかに落ちています。

つまり、刃元から切っ先へ向けてほとんど平面になったのですが、ほんの少し、まだ切っ先あたりが平面からすると坂になって落ちているのです。

落ちているということは、その落ち切ったところまで研ぎ進まなければ、全体が平面になりません。

しかし、です。

そのためには、切っ先以外の平面となった刃渡り全体の平面を保ちつつ、研ぎ進まなければいけません。

なんと言ったら良いでしょうか、千人の大人の列の一番前に子供が立っていて、しかし、その子供の目線に合わせるために、大人千人が一斉にしゃがむ必要がある、と言ったふうです。(笑)

平面になった部分は面積が広いので、研いでも研いでもなかなか減ってくれません。

ここで短期(気?)になって切っ先の方に力を入れすぎれば、平面は崩れてしまいます。

研ぎたいのは切っ先ですが、そのためには、切っ先は研がない。

平面全体を我慢強く研いで、目線を子供に合わせてあげる必要があります。

切っ先の研ぎ残しが小さくなればなるほど、平面は大きくなります。

結局、今日は、切っ先の先端まで届きませんでした。

もうあと1mmくらいとなってから、全く進んでないような時間を進んでいました。

でも、ここは信じて進むことが大事です。

こんなにやってるのに何も変わらない…、ように見えます。

切っ先を見るとそう言いたくなります。

しかし、全力で研いでいて、なお、刃先の平面が平面のままであることは、研ぎ進んでいる確信です。

変わっていないことを見て、変化を感じるというのは面白い感覚です。

この変わっていない点を今日は始終面白く感じていました。」

 

・小林さんのこのメールを阿頼耶識の活きに結びつけて考えたいと思う。

・習字も最初はお手本を見て、それを真似ることの繰り返しから始まる。しかし字を書かせているのは自己が自己を意識する末那識である。そして最終的には、お手本から離れて、自分の身心が命じるように字を書くことができるような阿頼耶識がはたらくようになるのだが、その時になってお手本に書かれていた文字がどの様に書かれたものかが分かり、それのことを学ぶのである。

・最初の段階では、〈いのち〉の活きの外在的拘束条件を学び、次の段階では内在的拘束条件を学ぶのである。

→小林さんのメールには、それに共通することが書かれている。

 

◇「居場所の〈いのち〉」の自己組織化の重要性

・身体の内側はその様々な部分をネットワークのようにつないでいる神経によって情報が運ばれていると思われるかも知れないが、それだけではなく、〈いのち〉の自己組織的な変化も起きていて、自己組織的に身体としての秩序を生み出していると、私(清水)は考えている。

・家庭でも、企業でも、地球でも、多様な生きもの(生活体)が共に自律的(主体的)に存在して、それぞれの存在を互いに大切に維持して生きていくためには、その生きものが一緒に存在している居場所に「居場所の〈いのち〉」が自己組織されて、その多様な生きもの(生活体)たちを共に包んで共存在状態をつくっていくことが必要である。

・「居場所の〈いのち〉」に包まれていない生きもの(生活体)の存在は互いにバラバラな状態になって繋がりが生まれないのである。そうならないためには、生きものの間の情報の交換だけではまだ足りない。互いの存在に対する相互信頼が常に存在してこそ、それがはじめて可能になるのである。

・その信頼を互いに与えるのが互いに同じ「居場所の〈いのち〉」に---同じ〈いのち〉の場に---包まれているということである。

→つまり多様な生きもの(生活体)が同じ居場所に共に調和的に存在するためには、居場所の〈いのち〉が自己組織的に生まれて、その生きもの(生活体)たちをすべてその〈いのち〉活きで包むことが必要なのである。

 

◇聴覚から得られる情報の理解について

・話が飛ぶようで恐縮だが、私は70歳代後半から次第に難聴になり、80歳代からは聴覚障害者として障害者手帳をもらう状態になってしまった。補聴器を付ければ音は聞こえるようになるが、その多様な音の存在がバラバラな状態に聞こえてしまい、意味のある言葉や音楽としては思うように聞こえない。

・多様な音の間の繋がりは、「情報の装置」である補聴器によっては生まれないのである。多様な音の間に繋がりを与えて音声や音楽のように意味のある音として共存在させるためには、さらに〈いのち〉の自己組織的な活きが必要なのである。多様な音の間に自己組織的な活きが生まれなければ音はバラバラのままでつながらず、意味のある音声や音楽には聞こえないのである。

・聞き慣れていたBachのピアノ曲を、聞き慣れたCDで聴いても、難聴になって補聴器を付けてからは、個々の音は聞こえても、それがどんな曲の部分であるか、曲全体が分からないから、音は聞こえていても、音楽を聴いている気がしない。

・このことは音楽一般に対して言えることであり、交響曲のように多様な音源の音が一緒になると、その難聴度はさらにひどくなって、MozartのEine kleine Nachtmusikのようによく聞き慣れた曲がまるでガラクタが一杯入ったおもちゃ箱をひっくり返した時のように聞こえてしまう。

 

◇「沈黙」をつくる活きの重要性

・実際に毎日のように試験的に様々なCDを聞いて試してみると、子どもの頃からよく知っている歌でも、それが音声や音楽として聞こえるためには、〈いのち〉の活きによって、「原理的に音が存在していない状態」である「沈黙」を、私自身が自己組織的に生み出す必要があることが分かった。

・その例えとして、紙の上に様々な濃さの墨で文字なり絵なりを書いて、それが内容的に意味のある書なり絵なりとして受けとられるためには、その紙が何も書かれていない「白紙」であったこと---紙が「沈黙」していたこと---が必要である。

・老化した私の身体には、いまその「沈黙」をつくる活きがなくなっているために、音声や音楽をうまく聴き取れないのである。

→その力こそは、秩序を自己組織的につくり出す〈いのち〉の自己組織力なのである。

 

◇カクテルパーティー効果と沈黙

・「カクテル・パーティー効果」という現象として広く知られているように、人間は話の音声より騒音の方が大きなカクテル・パーティーのような騒がしい会場でも、会話を続けることができる。このことを参考にして私が考えたのは、次のようなことである。

・実際に音声や音楽を聞く前に、意味にしたがって「沈黙」が身体の活きによってつくられ、そこには情報が存在しないことが仮定される。その「沈黙」を生成する活きは、聴覚より時間的に前に存在している。

・補聴器によっては、この「沈黙」はつくり出せない。それは音声や音楽の情報を聴き取る以前に存在することが可能でなければならないことから、音声や音楽が生まれる居場所における自己の存在の形、居場所における自己の〈いのち〉の自己組織によって生まれると考えられる。

・つまり、自己と居場所の活きによって、自己の内側に「沈黙」に相当する秩序が予め自己組織的に生まれていくのである。

→したがってその生成には、居場所とその居場所における自己の存在全体がはたらいて、自己の〈いのち〉と居場所の〈いのち〉の活きに相互誘導合致的な関係を生み出して、音声や音楽に全体的な意味を与え、その多様な音を自己組織的につないで全体をまとめるように常にはたらいていると思われる。

 

◇意味の生成に必要な自己の身体の活き

・「沈黙」が存在して、はじめて存在の意味である音楽の曲が聞こえてくると言うことは、デジタル情報であるシャノンの情報だけでは、意味そのものを表現できないということに関係している。意味の生成には、自己の身体の活きが必要なのである。

・身体は居場所における自己の存在を居場所と非分離の形で生み出しているのである。その身体の活きがあってこそ、自己は居場所に実在することができるのである。

→このことは情報に関する重要な原理として記憶しておく価値がある。

 

◇民芸美について

・小林さんと身体の問題へ戻りたいのだが、その背景となっている民芸の世界を通って戻ろう。即ち、小刀の刃をいかに美しく研ぐかということに問題の本質があると考えて、そこで、先ず民芸の世界では、どのように美が生まれるかということを考えてみよう。

・民芸の美は見てくれの美ではなく、その美が道具として存在する意味(存在の意味)と関係がある。つまり、民芸美は日常的に身体によって使われる道具として、その意味にしたがって生まれる存在の美であり、美しさは道具としての質の表現なのである。

 

◇人間の身体でおきる変化の原因について

・人間の身体でおきる変化は大きく言って、二種類の原因によって異なる起き方がある。

・第一は情報が神経を伝わることによって、情報が伝わった身体の部分に変化がおきるものであり、第二は身体全体が関与して身体全体における〈いのち〉の自己組織的変化によって生まれる個人としての存在全体に生まれる変化である。

・それは自己が気づかないうちに、居場所における自己の身体(阿頼耶識)に自己組織的に生まれる。

 

◇民芸美の本質とは

・日本民芸館をつくったことで有名な柳宗悦は「民芸美」という概念の発見者としても広く知られているが、彼は民芸にこの民芸美が生まれる活きを法蔵菩薩(阿弥陀如来)の本願の第四願「無有好醜の願」に結びつけて、その民芸美の本質を理解しようとしたことでも知られている。

・それは居場所との〈いのち〉の与贈循環によって個人に生まれる〈いのち〉の活きと関係があり、自己に対する社会的な反応を競って生み出されるような美ではない。それは人びとの日常的な生活のために必要な活きが、制作者としての人間の身体からその居場所において自己組織的に生みだされることによって生まれるものなのである。

→したがってそれは、居場所と非分離な状態になって道具をつくっている個人の身体に、〈いのち〉の自己組織力を通して相互誘導合致的に居場所から与えられることによって生まれるものであると考えられる。

・簡単に表現すれば、居場所における与贈循環が生み出す美である。そのために、居場所における生活の意味を伴って身体から現れる美なのだ。

 

◇〈いのち〉の自己組織を通じて得られる恵み

・ここでいま書いたことを補足すると、私たちの身体の〈いのち〉が居場所の〈いのち〉と非分離状態になったときには、〈いのち〉の与贈循環が生まれて、私たちの存在が居場所の〈いのち〉によって包まれる。居場所に生成する場によって存在が包まれるのである。

・この〈いのち〉の与贈循環の活きは法蔵菩薩(阿弥陀如来)の本願の活きにたとえられると、私は考えている。

・その活きが「〈いのち〉の自己組織」の形で身体を通して具体的に表現されて、実践的な意味や美を私たちにもたらすのである。

・このように考えると、私たちの身体には、居場所との相互誘導合致にしたがって「本願の場」が生まれ、〈いのち〉の自己組織を通じて、私たちにその恵みをもたらすのである。

 

◇末那識と阿頼耶識について

・仏教の『唯識論』では、第八識には末那識と阿頼耶識という深層意識が存在して、意識の基盤となっていると考えている。

・末那識は自己が自己の存在を意識して、自己中心的な形の意識を生みだす活きであり、情報の源としての脳の活きに相当する。また一方の阿頼耶識の活きは身体の自己組織的な活きに相当し、自己が居場所に存在するために必要な存在論的な活きを生みだす。

・末那識の活きが情報的であるのに対して、阿頼耶識の活きは自己組織的であり、居場所における存在の意味に結びつく。

→したがってこれまで考えてきた「身体の活き」を生み出しているのは、阿頼耶識であると考えることができる。

 

◇外部場と内部場

・物理的な場の多くは私たちの身体の外に生まれる外部場であると思うが、自分自身の存在に結びつけて私たちが感じている場は、阿頼耶識の活きによって、私たちの身体に生まれる内部場である。

・それは、私たちの〈いのち〉の活きが居場所の〈いのち〉の活きと非分離的な状態になっているときに、阿頼耶識の活きによって、私たち身体の内部に生まれるものである。

→したがって、私たちが個人で居場所にいるときにも感じるが、複数の人びとの〈いのち〉が同じ居場所の〈いのち〉と非分離になって与贈循環の状態をつくることによって、互いの阿頼耶識の活きが居場所の〈いのち〉を通してつながり、場の共有がおきるのである。

 

◇場が伝える存在の意味について

・場はその場所に存在することの意味を、阿頼耶識を通じて伝えて、その意味に整合的な存在のあり方を示す。私たちが感じている「家庭の場」は、互いの阿頼耶識の活きによって、このようにして共有される内部場であると、私は考えている。

・場が示す存在には、その美しさも含まれている。興味深いことに、犬や猫や小鳥などの動物とも、かなりの程度、人間は家庭において生まれる場を共有でき、意味のコミュニケーションができるようである。

・場は日本固有の文化であるかのように思われているが、それぞれの国や地方に住む人びとの間には、それぞれに固有の場が文化として生まれて、その国や地方の言葉や文化を人びとに伝えるのに重要な活きをしていると、私は考えている。

 

◇外在的拘束条件と内在的拘束条件

・外在的拘束条件は外側からやってくる情報によって自己の〈いのち〉に与えられ、内在的拘束条件はその外在的拘束条件の下で自己の内側でおきる〈いのち〉の活きの自己組織によって生まれると、私は考えている。

・仏教的に言えば、内在的拘束条件は阿頼耶識の活きによって生まれると考えることに相当する。このことは、自己がしたがうルールを居場所と非分離になった自己が作って、「〈いのち〉のドラマ」の舞台を自己自身に与えていくことに相当するのである。

・小林さんのメールには、この活きが見られるが、この活きは阿頼耶識によるものであり、民芸一般に広く見られるものであると思う。

 

◇与贈循環が生む民芸作品

人びとが民芸作品をつくるときに無意識のうちにおこなわれる居場所への〈いのち〉の与贈によって生まれる〈いのち〉の与贈循環に伴って、居場所の〈いのち〉が場としての身体を循環する。

・循環するその場の活きによって、人びとは作品を生み出す巧妙な身体の活きを、無意識のうちに次第に獲得していくと思われる。この時に人びとにはたらいている深層意識が阿頼耶識に相当すると、私は考えている。

・この居場所への〈いのち〉の与贈によって身体に生まれる場の活きが、柳宗悦が指摘する法蔵菩薩(阿弥陀如来)の「無有好醜の第四願」の活きに対応すると思われる。

・一口に言えば、民芸作品は居場所における〈いのち〉の与贈循環によって与えられるのである。家庭は一種の「民芸作品」であり、〈いのち〉の与贈循環によって作られていく。

・「無有好醜の第四願」の活きに相当するのが「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」をつくる内在的拘束条件の活きである。その背後には、法蔵菩薩(阿弥陀如来)の慈悲の活きがあるのだ。

 

★参考情報(前川ネット調査)

無有好醜の第四願:

現代語版:わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の姿かたちがまちまちで、美醜があるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)

 

               

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◎2022年12月の「ネットを介した勉強会」開催について

12月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、従来通り第3金曜日の16日に開催予定です。よろしくお願いいたします。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2022年12月1日

場の研究所 前川泰久

 

 

 

場の研究所メールニュース 2022年11月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

11月になり、秋らしく紅葉狩りのニュースが見られるようになりました。

皆様、いかがお過ごしでしょうか。

コロナの感染者数もかなり低減しましたが、また増加の傾向が出はじめて心配です。

既に、私の方に、5回目のワクチンを接種案内が来ましたが、ワクチン接種が将来も続くのでしょうか?世界中の英知を集め、何とかこの環境を乗り越えていくことを願っています。

 

さて、10月の「ネットを介した勉強会」は10月21日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは『場所と創造』でした。

勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の11月18日に予定しております。今回で30回になります。皆様のご協力のおかげだと感謝しております。

清水先生からの「楽譜」のテーマは『与贈循環が生む民芸美』の予定です。

基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

近所の古民家園でボランティアとして参加している鍛冶の会のこと。

時々、その会の炭割りという作業のことを思うことがある。

炭割りは、火造りの燃料の炭を小さく割るその日の朝一番の作業で、作業としては詰まらない。

単調だし、汚れるし。

でも、輪になって作業しながらの雑談は、おしゃべりなSさんの話に引き込まれたりと、楽しみでもある。

その日に炭を使うもの使わないもの分け隔てなく、全員一緒になって行う作業は、お芝居の舞台の準備を総出で行っているような愛おしさを持っている。

 

「ネットを介した勉強会」の準備作業は、そういう意味では、輪になって雑談のような楽しさはない。

でも、毎月の舞台の準備、という意味では近いものがあるように感じる。

それは、あちこちに居ながら集まっているようだ。

あちこちなのに集まって、当日に集まる(と言っても、これもあちこちだが)準備が出来ていく。

スタッフも参加者もなく、一人ひとりが皆、その日を楽しみにしているかのように見える。

 

炭割りの後、火床(ほど)に火を起こして、鍛冶小屋の一日は始まり、その火を消して、一日は終わる。

 

勉強会も、見えないけど、火床の火が起こされて、始まり、火を消して終わる。

見えないけれど、それ、確かに在る、そう感じる。

 

そうそう。

鍛冶小屋の火床の火は、翌朝、火床の掃除をする時にも、まだほんのりと暖かくて、そんなところも勉強会と似ているな、なんて思う。

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10月の勉強会の内容紹介(前川泰久):

◎第29回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

★テーマ:「場所と創造」

◇清水の学生時代の思い出

・多分、昭和30年の冬の頃か、当時私は本郷追分町にある東京大学学生キリスト教青年会(東大YMCA)の寮に住む医学部薬学科の一学生であった。

、仲のよかった文学部英文学科の百瀬泉さん(後に中央大学文学部の教授)に、夕食後に「森鴎外の屋敷の跡に新しく碑が建てられたが、景色のよいところだから一緒に行かないか」と誘われて、夜の暗い道を千駄木町まで一緒に歩いて行った。

・当時は戦災の跡も残っている状況であったし、外灯もまだ少なく、また民家は夜には雨戸を閉めていたので、夜が少し遅くになると街全体が暗くなって静まりかえるという状態であった。

・その碑のある場所へ着いてみると、それは丁度、本郷の高台の端にある場所で、目の下には遙か遠くまで黒く広がっている上野の民家があり、そのあちこちに星のようにチカチカと電灯の光が瞬いて見え、そしてその場所全体の静かさが両耳の奥にまで押し込んできて、大きな声で話をするのも、はばかれるという感じであった。

・私は「まるで暗い海を見ているように見える」と思ったが、実際、鴎外の屋敷の二階にあった書斎からは遙か向こうに東京湾が見えたので、彼はその屋敷を「観潮楼」と呼んだと言われている。その観潮楼の跡には、鴎外の『沙羅の木』という詩を刻んだ永井荷風の手になる記念碑が建てられていた。

 

褐色の根府川石に

白き花はたと落ちたり、

ありとしも青葉がくれに

見えざりしさらの木の花。

 

・百瀬さんは文学部の学生らしく、「褐色は「かちいろ」と読むんだよ」と言いながら、この詩を読んでくれた。

 

◇「根府川の海」という詩

・舞台は大きく変わるが、詩人として有名な茨木のり子に『根府川の海』という詩がある。

 

根府川

東海道の小駅

赤いカンナの咲いている駅

たっぷり栄養のある

大きな花の向うに

いつもまっさおな海がひろがっていた

 

中尉との恋の話をきかされながら

友と二人ここを通ったことがあった

 

あふれるような青春を

リュックにつめこみ

動員令をポケットに

ゆられていったこともある

 

燃えさかる東京をあとに

ネーブルの花の白かったふるさとへ

たどりつくときも

あなたは在った

丈高いカンナの花よ

おだやかな相模の海よ

 

沖に光る波のひとひら

ああそんなかがやきに似た

十代の歳月

風船のように消えた

無知で純粋で徒労だった歳月

うしなわれたたった一つの海賊箱

 

ほっそりと

蒼く

国を抱きしめて

眉をあげていた

菜ッパ服時代の小さいあたしを

根府川の海よ

忘れはしないだろう?

 

女の年輪をましながら

ふたたび私は通過する

あれから八年

ひたすらに不敵なこころを育て

 

海よ

 

あなたのように

あらぬ方を眺めながら……。

 

◇茨城のり子という詩人の生い立ちと『根府川の海』という詩について

・茨木のり子は大正15年に生まれの詩人で、父が医師であったことから昭和7年に転勤によって愛知県の西尾市に移り、やがてその地で開業する。彼女はその地の小学校に入学し、13歳で県立西尾女学校に入学、やがて学年全体を代表するような生徒となった。

・15歳の時に太平洋戦争が起こり、17歳で帝国女子医学薬学理学専門学校(現在の東邦大学薬学部)に入学、19歳の時に学徒動員によって海軍療品廠で就業中に終戦の録音を聞き、友だちと二人で東海道線を無賃乗車して郷里にたどり着いた。

・20歳のときに専門学校が再開されて、9月に繰り上げ卒業をした。

・東京で成人式に出かける前に書き上げた詩がこの『根府川の海』。

 

ここには彼女自身が懸命に生きた空しい十代における歳月が詰まっている。根府川に彼女が住んだことはなので、東海道線を友だちと帰るときに汽車の中で「中尉との恋」の話が出たのかも知れない。

 

◇二つの詩の見方について(歴史的時間)

・それにしても一方の詩では、褐色の根府川石があって、そこに白い沙羅の木の花がポトリと青葉の間から落ちた遙かに東京湾の海が見える「観潮楼」が「舞台」、そして他方の詩では、白いネーブルの花が咲く故郷の西尾市へ帰る途中に停車した赤いカンナの花が咲いてその向こうに相模湾の海が見えた「根府川の駅」という「舞台」があり、両者の間には明らかな対応がある。

・私には、鴎外の『沙羅の木』という詩が20歳の茨木のり子の『根府川の海』という詩の内在的拘束条件となったと思われる。

・それは、この二つの詩が内容的に全く異なるものであり、意味の上で「鍵穴」と「鍵」の関係(内在的拘束条件)にはならないからである。

・茨木のり子が「役者」として歌いたかったのは、空しさを感じる自分自身の十代の歳月の〈いのち〉の活きであり、それが外在的拘束条件に導かれて詩の内容を与えているのである。

・その内容を詩として歌う活きを「鍵」(「役者」の活き)とすると、「鍵穴」(「舞台」の活き)となったのは「根府川の駅」という(動名詞としての)場所的世界である。

・そして「鍵穴」と「鍵」の相互誘導合致によって創造的に生み出されたのが『根府川の海』という詩である。

・その背景に昭和という「戦争の時代」を含めて、今でも私たちをすっぽりと包んでいる「歴史的な時間」があるのだ。

 

◇創造の活きの手順と舞台における夢

・茨木のり子のこの詩は創造の活きがどのような手順で生まれるかを示している。

・先ずは表現したい内容をもっていることが必要である。彼女の場合は、一生懸命生きたけれど、意味もなく空しく過ぎ去ってしまった自分自身の十代の歳月と、そしてそれを乗り越えていく活きである。

・創造的な表現をつくるのには、次にその内容を「〈いのち〉のドラマ」の形で表現していくことが必要であり、その「ドラマ」の「舞台」を発見する必要がある。そのためには、外在的拘束条件を発見しなければならない。外在的拘束条件は詩の形を大きく決める。

・彼女は、自分が詩として表現したい内容が『沙羅の木』という詩の形に収まると直観的に見抜く非凡さをもっていたと言える。それは自分の未来を含めて空しく過ぎ去った過去を歴史的に眺めていたことから生まれたと言えよう。

・そのように見ることで、「根府川の駅」は小さいながら、燃えさかった東京と白いネーブルの花が咲く故郷をつなぐ重要な意味をもってくる。

・それは「根府川の駅」を場所的世界として、その動名詞的な活きの中で、自己自身の過去と未来を新しい歴史的観点によってつないでいくということである。そしてその「〈いのち〉のドラマ」を生む相互誘導合致の「鍵穴」となると期待されるのが「根府川の海」であり、その「鍵」となるのが彼女自身のこれからの人生である。

→創造によって、「舞台」に夢が生まれるのである。

 

◇創造の場所的世界

・創造とは、場所的世界の活きを開いてその〈いのち〉の場を広げて、自己の〈いのち〉の活きを包み、相互誘導合致によって全く新しいものにしていく活動であることが分かる。

・その相互誘導合致を自己の方から見ると、自己の存在を場所に投げ入れることによって、動名詞としての場所の活きが既存の限界を超えて飛躍的に変わり、これまで存在していなかった新しい世界が見えてくるように感じられる。

・場所的世界の〈いのち〉が先導的に動けるようにしていることが必要であり、生活体が場所を自分の方に引きつけて過ぎていると、そのことがかなわない。

・『根府川の海』という詩を『沙羅の木』という詩と合わせて味わうと、そのことが分かりるが、先月の勉強会で取り上げた永井陽子の

 

ひまはりのアンダルシアはとほけれど

とほけれどアンダルシアのひまはり

 

にも、先導的に創造的な変化をする場所的世界の活きが表現されている。

 

◇新しい時間の生成の重要性

・「〈いのち〉のドラマ」が自ら生み出す時間の生成と共に進むことから分かるように、創造にとって必要なことは新しい時間の生成である。

・そしてそのために必要なことはその場所的世界の外在的拘束条件が維持されていくことである。維持されないと、創造の代わりにカオスが生まれてしまう。

→創造とは新しい秩序の生成であり、カオスとは異なる。

・場所的世界が時間を生成する例として分かりやすいのは、歴史的時間の生成である。場所的世界における歴史的ドラマの進行とともに、その歴史的時間は生成されていく。

・その歴史が続いて行くために必要なことは、場所的世界の外在的拘束条件が継続的に維持されて、その世界の秩序が維持されていくことである。

→そのことがあって、〈いのち〉のドラマが内在的拘束条件にしたがって進行していくのである。

・二つの詩の関係はそのことを示している。『根府川の海』という詩の根底には、『沙羅の木』という詩と同様、場所的な平安の維持がある。

(場の研究所 清水 博)

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)

 

               

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◎2022年11月の「ネットを介した勉強会」開催について

11月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、従来通り第3金曜日の18日に開催予定です。よろしくお願いいたします。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2022年11月1日

場の研究所 前川泰久

 

 

場の研究所メールニュース 2022年10月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

10月になりました。

9月は後半台風もあり、雨の多く被害を受けた方もいらっしゃるのではないかと心配しております。

コロナの感染者数も大分低減してきましたが、これからも、感染対策を徹底しながら生きて行くしかないように感じています。

ロシアのウクライナ侵攻も相変わらずで先行きが見えないまま冬に向かっていきそうです。

 

さて、9月の「ネットを介した勉強会」は9月16日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは『場所的世界の転回』でした。

勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の10月21日に予定しております。

清水先生からの「楽譜」のテーマは『場所と創造』の予定です。

基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

世田谷の昔にも、消えずの火があったらしい。

空海の消えずの火ではない。

農家の囲炉裏の火の話だ。

簡単に火を付けられる今とは違って、ガスコンロもライターもマッチもない。

火を消してしまうと、再び火をつけることは厄介だ。

だから、農家では、囲炉裏の火は絶やすことないよう、毎晩、灰の下に燃え過ぎず、さりとて消えないように、種火を守っていたそうで、その役割は大切なものだったそうだ。(火を消してしまうことは、恥ずかしいことくらいの言われようと聞く。)

この、空海のそれとは役目は違うけど、消えずの火が世田谷の農家の囲炉裏にもあったという話を聞いて改めて気がついたことは、「火は消える」と言うことだ。

今となっては、マッチやライターですら無く、ガスコンロのノブを捻るだけで、火は手に入る。

火は受け継ぐ必要はない、スイッチ一つだ。

オンで火が付きオフで消える。

言い換えるなら、これは、見かけ上、消えない火だろう。

本来、火は放っておけば消える、消えないようにするためには、消さない努力が必要という話だ。

これらを踏まえて、こんな風に考えられないだろうか。

昔の農家には、「消えずの火が日常に在ったことで、火というものは消える、消さないためには努力が必要」と言うことが、自然と身に染みていたのかもしれない。

対して、現代において、火は消えないもので、火は、ただそれを使うだけのもの、と言えないだろうか。

消費する火。

対して、囲炉裏の火は、受け継ぐ火だ。

便利か不便か、楽か苦労かで言えば、軍配はガスコンロだろう。

それは、分かるのだが…。

今月の勉強会の「場所的世界の転回」での学びを踏まえると、この囲炉裏の火には、円環的時間の特徴があるように感じる。

囲炉裏の生活には、無意識に円環的時間を感じ、その時間に包まれて生きていく知恵が育まれたのではないだろうか。

ここではあまり深くは追いかけないが、そんな風に思うのだ。

対して、ガスコンロの火は、消費する火であり、直線的時間の特徴がある。

生活においての「火」は、1960年代に大きく変化が起きたそうだ。

世田谷の農家においても、ガスコンロが家に入り、竈門や囲炉裏は姿を消していくことになる。

時を同じくして、さまざまな生活の環境も変化し、身の回りに以前はあった円環的時間が包む、その助けを私たちは失ったようにも思う。

さりとて、竈門や囲炉裏に戻るか、と問われたらノーと言うだろうし、出来ることでもない。

だから、意識する必要がある、そう思う。

囲炉裏の助けがないとしても、人は、意識を向けることで円環的時間を生きていくことができるのだと思うし、そうできることを願う。

では、それは、どのようにすれば良いのだろうか。

そのヒントは、ガスコンロと囲炉裏にあるのじゃないだろうか。

消費する火、から、受け継ぐ火へ。

受け継ぐ、つまり、”はたらき”として、次へ引き渡すこと。

ここで、「引き渡す」を「与え贈る」と言い換えてみると、身近な言葉になるのではないだろうか。

ガスコンロを使う日常になった今だからこそ、日常に「与贈」が在るようにするために、今日、この居場所に何ができるのか、毎朝、ほんの少しの間、想いを向けても良いのじゃないだろうか。

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9月の勉強会の内容紹介(前川泰久):

◎第28回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

★テーマ:「場所的世界の転回」

◇はじめに(空間と時間についての振り返り)

・私たちが住んでいる物理学的な現象の世界は空間が時間を包む構造をしているが、〈いのち〉は、その逆に、時間が空間を包む構造をしていることから生まれるということを、先月の勉強会(「オーケストラ」)では学んだ。

・このことから、固有の〈いのち〉をもって生きている生活体(生きもの)は、時間が空間を包む構造をしている。場所的世界の空間が時間を包む構想をしていると、直線的時間を感じ、その逆に時間が空間を包む構造をしている場所的世界では、円環的時間を感じる。

→したがって、もしも私たちが生きている場所的世界に固有の〈いのち〉があるのなら、私たちはそこで円環的時間を感じながら「〈いのち〉のドラマ」を演じつつ生きていくことになるのである。

 

◇直線的時間から円環的時間の世界への転回

・今月は、私たちが住んでいる場所的世界が物理学的現象の直線的な時間の世界から、固有の〈いのち〉をもって存在している円環的な世界に変化をしたときに、どのような状態になるかを具体的に体験してみることにしよう。

・先月の勉強会でご紹介した永井陽子の短歌として知られているものに

 

ひまはりのアンダルシアはとほけれど

とほけれどアンダルシアのひまはり

 

がある。この謎めいた言葉を短歌として読むためには、短歌の形式 5・7・5・7・7に当てはめて読まなければならない。

→そうすると、下の句のアンダルシアという地名を途中で二つに切ってしまうことになるから、アンダルシアが名詞である限り、それは不可能である。

・そこでアンダルシアが動詞か、動名詞として読まれることを、この短歌は読み手に要求してくるのである。その結果、

 

ひまはりのアンダルシアはとほけれど

とほけれどアンダ・・・・・ルシアのひまはり

 

となって、上の句は「ひまわりが共存在しているアンダルシアは遠くにある居場所であるが」という意味になり、遠くの居場所から伝わってくる活きを待つ気持ちを読み手にいだかせる。

・下の句は「遠い居場所にあるひまわりからアンダ・・・・・」と送られてきた〈いのち〉の活きが、読み手の場所的存在感情に突然「ルシアのひまはり」として大きく出現する状態を表現する。

→ここに場所的世界の転回があり、その突然の変化に驚く。それは直線的時間の世界から円環的時間の世界への転回の経験なのである。

 

◇〈いのち〉の表現について

・物理現象の世界では、野山や街に降った水を集めて河が生まれ、水が流れる。この自然の河の特徴は周囲の空間が河の流れによって生まれる時間を包んでいるという点にある。

・それに対して、孔子の「人生という〈いのち〉の河」では、時間が空間を包む「動名詞的な構造」が出現しているのである。

(詳しくは8月の勉強会のテキスト『〈いのち〉の構造』を参照)

・そういう意味では、私たち個人の名前は個人の〈いのち〉を包んでいる「動名詞」である。永井陽子は

 

ひまはりのアンダルシアはとほけれど

とほけれどアンダルシアのひまはり

 

二行目のアンダルシアを短歌の下の句として読むことで、地球という居場所の「動名詞的な〈いのち〉の構造」を表現してみせたのである。

・これは〈いのち〉を表現する方法として、少なくとも短歌の世界では、極めて大きな創造的発見であったと思う。またそれを地球という居場所に適用したことも、極めて先進的である。ただ、そのことを社会が正しく評価できたかどうかは疑問である。

 

◇浄土真宗における往生する考え方

・話と時代は飛躍しますが鎌倉時代に仏教(浄土真宗)を開いた親鸞の言葉を紹介する。

→弟子唯円(ゆいえん)が親鸞の信仰を紹介した歎異抄(たんにしょう)の有名な第二段である。(たまたま手元にあった本願寺出版社による歎異抄の現代語訳を一部省略して紹介する。)

 

『あなたがたがはるばる十余りもの国境(くにざかい)をこえて、命がけでわたしを訪ねてこられたのは、ただひとえに極楽浄土に往生する道を問いただしたいという一心からです。けれども、このわたしが念仏の他に浄土に往生する道を知っているとか、またその教えが説かれたものなどを知っているだろうとかお考えになっているのなら、それは大変な誤りです。

そういうことであれば、奈良や比叡山にもすぐれた学僧たちがいくらでもおいでになりますから、その人たちにお会いになって、浄土往生のかなめを詳しくお尋ねになるとよいのです。

この親鸞においては、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われ往生させていただくのである」という法然上人のお言葉をいただき、それを信じているだけで、他に何かがあるわけではありません。

念仏は本当に浄土に生まれる因なのか、逆に地獄に堕ちる行いなのか、まったくわたしの知るところではありません。たとえ法然上人にだまされて、念仏したために地獄へ堕ちたとしても、決して後悔はいたしません。

阿弥陀仏の本願が真実であるなら、それを説き示してくださった釈尊の教えがいつわりであるはずはありません。釈尊の教えが真実であるなら、その本願念仏のこころをあらわされた善導大師(ぜんどうだいし)の解釈にいつわりのあるはずがありません。

善導大師の解釈が真実であるなら、それによって念仏往生の道を明らかにしてくださった法然上人のお言葉がどうして嘘いつわりでありましょうか。

法然上人のお言葉が真実であるなら、この親鸞が申すこともまた無意味なことではないといえるのではないでしょうか。

つきつめていえば、愚かなわたしの信心はこの通りです。この上は、念仏して往生させていただくと信じようとも、念仏を捨てようとも、それぞれのお考えしだいです。』

 

◇迷いの構造について

・当時の危険な道を関東から十余りの国境を越えて、それこそ命がけで京都に住む親鸞を訪ねてきた人びとに対して、親鸞が話した言葉がここに書かれている。関東に残した親鸞の息子や弟子の間に、信仰に対する疑問が生まれ、親鸞は晩年に息子を破門し親子の縁を切ることになるのである。

・その疑問は関東では空間が時間を包む場所的構造が生まれて広がったことにある。

→そうすると、人びとは「時間」を求めて「空間」をさまよう「迷いの構造」が生まれる。(宗教は「時間」が「空間」を包む構造をもっているために、人びとに内在的拘束条件を与えて「〈いのち〉のドラマ」の舞台に導く。それに対してその逆に「空間」が「時間」を包む構造をもっているカルトでは、外在的拘束条件を与えて人びとをその空間の中ではたらくAIロボットのようになる。)

 

◇〈いのち〉与贈循環による円環的な時間の経験

・宗教は仏や神の〈いのち〉によって包まれることで、存在を救済される活きである。それは私たちの身体における多様な臓器や器官の〈いのち〉が、個体の〈いのち〉に包まれて〈いのち〉の与贈循環をすることで、調和的に共存在しているように、阿弥陀仏の〈いのち〉に包まれている私たち個人が、さらに念仏という〈いのち〉の与贈の仕方まで与えられて、〈いのち〉の与贈循環による円環的時間を経験し、それぞれの存在を救済されるのが阿弥陀仏の本願である。

・それを説き示した釈尊の教えとは、具体的には無量寿経(むりょうじゅきょう)のことを意味していると思われる。

即ち、「空間が時間を包む構造」と「時間が空間を包む構造」の二つを同時にとることはできないから、親鸞が云うようにこの二つのうちのどちらをとるかという選択になる。念仏とは、永井陽子の短歌に合わせて書けば、

 

 ねんぶつのほとけのくにはとほけれど

 とほけれどほとけの くにのねんぶつ

 

ということになるだろうか。

 

◇ネットを介した勉強会の分析

・場の研究所のネットを介した勉強会は午後5時に始まって2時間半続いて午後7時半に終わる。したがって、直線的時間にしたがって2時間半おこなわれる活きと考えることもできる。そして勉強会は空間に包まれた時間のなかでおこなわれる物理的な自然現象であるということになる。

・しかし、そのような考え方をすると、この勉強会の重要な特徴である多様な参加者の共存在の生成に触れることができない。そこで考えなおしてみると、参加者は同じ「楽譜」を与えられて、「オーケストラ」の一員として、一緒に「演奏する」のだが、どの様に「演奏する」かは、参加者個人の創造に任せられて全く自由であり、その結果、様々な「演奏」が「オーケストラ」に現れることになる。

・その状態は、場所的世界のある一つの時代における歴史的時間の生成に相当する。様々な人びとが、それぞれの個人的な思いと事情にもとづいて、その時代の世界を生きていくのであって、それを相互誘導合致にしたがって自己組織的に合わせた結果が、その場所的世界の歴史(オーケストラ)として表現されていくのである。

・その歴史のなかで個々人それぞれは人生を、孔子が不可逆な河の流れ喩えたように生きていくことになるから、歴史全体を見ると、時間が空間を包んでいるという「居場所の〈いのち〉」の構造をとっているはずで、人びとは円環的時間の中に存在しながら人生を生きているのである。

・親鸞が言うように、場所的構造が異なる二つの世界を、一人の人間が同時に生きることはできない。どちらかを選択しなければならないから、まさに、場所的世界の構造の転回が問われてくる。

・このように考えると、場の研究所の勉強会は一つの場所的世界において同じ歴史を一緒に生きたという共存在の貴重な思い出を、場所的存在感情を通して私たち個人に与えてくれる。その体験があって、永井陽子の短歌も、また親鸞の言葉も、自己の存在に迫る活きとして感じとることができるのである。

(場の研究所 清水 博)

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)

 

               

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◎2022年10月の「ネットを介した勉強会」開催について

10月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、従来通り第3金曜日の21日に開催予定です。よろしくお願いいたします。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

今後のコロナの状況を見ながら、「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催が決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2022年10月1日

場の研究所 前川泰久

 

場の研究所メールニュース 2022年09月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

9月になりました。まだ残暑はありますが朝晩は少し涼しくなってきました。

皆様、いかがお過ごしでしょうか。

コロナの感染者数もなかなか一気に低減せずまだまだ予断を許さない状況です。

長い目で見て、感染対策を徹底しながら、新ワクチンを接種しながら共存していくしかないように感じています。

ロシアのウクライナ侵攻も長引いており、先行きが見えません。

 

さて、8月の「ネットを介した勉強会」は8月19日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは『〈いのち〉の構造』でした。清水 博先生は「私の最晩年に達した峠」に喩えられるかも知れないと言っておられます。私が何処まで要約できるか分かりませんが、チャレンジをしてみることにします。勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の9月16日に予定しております。

清水先生からの「楽譜」のテーマは『場所的世界の転回』の予定です。

基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

2ヶ月に一度、友人のシンガーソングライターが開催する「歌詞をつくるワークショップ」に参加している。

それは、歌詞制作の教室ではなく、一種の対話の場と言った方があっていると思う。

1週間前に課題の旋律(メロディ)が届き、当日集まって各々が歌詞をつくり、会の後半、その歌詞をシンガーソングライターである主宰が歌ってくれる。

皆でそれぞれの歌を聴いて、それぞれの歌について、感じたことなどを伝え合うのだ。

その後半は、そういう場は他では見たことがないが、あえて名前をつけるなら「対話演奏会」と言うのが近いかもしれない。

 

これ、この「ネットを介した勉強会」ととても似ている。

特に私にとっては、兄妹イベントと言っても良いくらいに。

 

同じメロディに、一人ひとりが、自分の歌詞をつくる。

その作った歌詞をのせた一人ひとりの歌を皆で聴き、歌を話題に対話する。

ここで、それが歌詞ではなく、一人ひとりの言葉(だけ)のままだと、どうだろう。

これは、それぞれの言葉がそれぞれの時間を包むことになるから、場はもう少し批評的になるように思う。

だけれど、実際は、個々の歌詞が同じメロディで歌われる。

つまり、同じメロディを聴いて、生まれた(歌詞)、各々があると言うことだ。

このことで、一つ一つの歌詞の内容は全くバラバラなのに、循環的につながっている感覚が生まれるのが面白い。

それは、歌詞が同じ時間(メロディ)で包まれることになり、心に繋がり感が生み出される。

 

私は、ひっそりとこう思っている。

人が集まって生きていくとき、自分にしか気づくことができないことを言葉にすることは難しいと言うが、それは、難しいというのと少し違のではないだろうか、伝え方を知らない、の方が近いように感じる。

 

その上で。

歌詞をつくると言うことを通じて、その練習をしているような気がしてならない。――――― 

 

8月の勉強会の内容紹介(前川泰久):

◎第27回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

★テーマ:「〈いのち〉の構造 」

◇空間と時間について

・孔子は人生を河の流れに喩えて、「過ぎ去って帰らぬ者」と嘆いた。また鴨長明は『方丈記』で「行く河のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず」と、留まることのない〈いのち〉の変化を書き表している。

・現実の河は周囲の水を集めて流れを生み出しているから、「空間に包まれた時間」という形をしている。しかし、孔子や長明の「河」はただ流れとして存在している「河」であるので、その逆に時間が空間を包んで生まれてくる存在である。ここに「〈いのち〉の構造」の特徴がある。

・たとえば私たちには「個人としての存在」があり、その存在が身体の全てを包んで誕生から死まで、孔子が嘆いた河の流れのように、不可逆な時間を生みだしていく。

・生きもの(生活体)と関係のない世界における物理的な自然現象では、時間が空間に包まれている。そして自然がその空間において変化をすることで時間的な変化が生まれる。だから、時間はつねに空間に包まれているのである。

→したがって、不可逆的な変化ばかりでなく、可逆的な変化もおきる。

・しかし、〈いのち〉が支配している生きものの世界では、時間と空間の関係の逆転がおきており、時間が空間を包んでいるために、河のように流れていく時間の特徴にしたがって、つねに不可逆な変化がおきていくのである。固有の時間に包まれた空間、それが生きもの(生活体)の存在の形である。

・生きもの(生活体)それぞれがそれぞれの時間に包まれた空間の形をしているために、それぞれの存在は互いに独立している。

→したがって、一度、時間の流れが終わって死ぬと、二度と再び存在することはない。

 

◇〈いのち〉の活きの時間的表現とその習得について

・〈いのち〉が時間に包まれた存在であることが理解されるのは、〈いのち〉の活きを必要とする活きを習得する場である。

→たとえば優れた書の形をまねるだけでは書を本当に習得することはできない。必要なことは、自己の存在を与えている〈いのち〉をどの様に書に表現するかである。

・空間を表現する形をまねるのではなく、自己の〈いのち〉の活きを表現する時間的な方法を習得することが求められる。そのことを深く習得するほど、書に個人としての存在が表れ、その存在が磨かれたものであるほど、それを鑑賞するものに深い感動を与える。

・それは〈いのち〉との一期一会の出会いの跡である。王羲之や顔真卿の書が歴史的に評価されているのも、それぞれ時代におけるその歴史的存在と無関係ではない。

・これらのことは、アートや民芸の領域における技の学習においても、ある程度言えるのではないかと思う。また武道としての柳生新陰流を支えてきたのも、それぞれの時代において人びとがその存在を武道の習得に〈いのち〉を捧げてきたことから生まれる〈いのち〉の活きが表現されてきたからである。共通して言えることであるが、大切なことは、空間的な関係の習得ではなく、微妙な時間的な表現の習得である。

 

◇原生活体から生活体が生まれるという考え

・少し飛躍するが、空間が時間を包んでいる自然界に、どのようにしてその逆に時間が空間を包む〈いのち〉の活きが生まれてきたのだろうか。

→その解明のためには、タンパク質、核酸、糖などの物質的な方向からの研究が重要であることは言うまでもないが、それだけでは自然界における時間と空間の関係を根本から変えるような活きにはならないのではないかと、私は思う。

・そこで私が考えていることを紹介すると、物質的に生活体としての形態は持っていても、まだ空間が時間を包む形になっているために〈いのち〉を獲得していないシステムがあったとして、それを「原生活体」と呼ぶことにする。

・その原生活体が、時間が空間を包む形態を獲得して「生活体」になったのは、外在的拘束条件と内在的拘束条件が協力的にはたらいたことが原因ではないかと、私は考えているのである。

・分かりやすく言うと、次のように考えているのである。

→原生活体では空間がまだ表面にあり、時間がその内側にあった。そして居場所に相当するような別の大きな原生活体に内在して、その周囲を大きな原生活体の時間によって囲まれていたと考える。その状態で「居場所」となる大きな原生活体の内在時間の活きを「鍵穴」とし、その「居場所」に内在している原生活体に内在してはたらいている時間を「鍵」とする相互誘導合致がおきて、「鍵穴」となった「居場所」の時間の活きが原生活体を包む形でたまたま取り込まれて、原生活体に時間が空間を包む形態が生まれたことが、自然界における生活体の発生、すなわち〈いのち〉の発生ではないだろうかと、私は考えている。

(これは論理的にも無理のない新しい説である。)

 

◇生活体を支える円環的な時間

・時間が空間に囲まれている状態で生まれる時間は、物理学の力学で表現されているように直線的時間である。それは空間の至る所で時間が生まれる可能性があるから直線的になるのである。

→その一つの例が水が地球の引力を受けて生まれる河の流れである。

・しかしその逆に時間によって空間が囲まれると、たとえば私たちの身体の〈いのち〉によって囲まれた多様な臓器や器官の共存在のように、〈いのち〉から生まれる時間が、それらの臓器や器官をバランスよく訪れて、その活きをつないでいく必要があり、またそのためにそれらの臓器や器官は身体にそれぞれの〈いのち〉の活きを与贈している必要がある。

・そのようにして私たちの身体では与贈循環がおきているのだが、それを支えているのが円環的時間である。それは直線的時間と異なって、それぞれを固有の時間に包まれて存在している多様な臓器や器官の〈いのち〉の共存在にとって必要な時間の形であり、そのことからも居場所の時間とその居場所に存在する多様な生活体の時間の相互誘導合致的な協力が理解される。

・私たちは、つい、空間的な情報を伝えることを考えてしまうが、重要なことは、時間的なタイミングを習得したり、伝え合ったりすることではないだろうか?

 

◇「全体」の〈いのち〉と「固有」の〈いのち〉の時間的調和

・〈いのち〉の活きに関係のない物理学的な世界では場は空間的な活きだが、私たちの身体の内部のように、居場所としての〈いのち〉が存在しているところでは、場は居場所の全体的な状態--存在の状態--を多様な部分に伝える時間的な活きではないかと思う。

・そのように思うのは、固有の〈いのち〉をもった部分がそれぞれの時間に囲まれて互いに独立して存在しているために、重要なことは、それぞれを足し合わせて生まれる「全部」の活きではなく、居場所「全体」の〈いのち〉の時間に対する各部分の〈いのち〉の時間が調和的な関係にあることであると考えるからだ。

・もちろん、部分の空間的な関係も間接的には関係があるが、全体に対するその活きは弱いと思う。このようなことから、私は場は居場所全体における空間的な情報を部分に伝えるものではなく、「全体」の〈いのち〉の状態を各部分に時間的に伝える活きであると思っている。

 

◇「〈いのち〉の医療」について

・〈いのち〉に対する時間のこのような活きを基盤にして生まれる医療が、私が思っている「〈いのち〉の医療」である。近代医療が身体に対する生命科学の物質的な研究を基盤にして非常に大きな成果を上げて、私たちもその恩恵に浴してきたことは言うまでもない。

・しかし、それだけではまだこぼれ落ちてしまう可能性がある〈いのち〉と医療の関係を、充実させていくことも大切である。

・その一つが、体内の臓器や器官の病気によって身体全体におけるバランスを崩し、与贈循環の活きを弱めて、精神的にも、肉体的にも存在を衰弱させている患者の方に、適切な外在的拘束条件を与えて身体における相互誘導合致をうながし、病気で衰えているその内在的拘束条件の活きを強めていくという方法である。

・極端な表現をすれば、患者さん個人の〈いのち〉の活きの「再生」ということになる。

→分かりやすく言えば、患者さんの〈いのち〉に「鍵穴」としての時間的な外在的拘束条件を与え、さらにその身体の〈いのち〉を時間的(生命的)に刺激することによって、「鍵」として〈いのち〉の新しい活きを患者の身体に生み出す医療である。

(本多直人先生は具体的な素晴らしい方法で〈いのち〉の医療を実践してこられたと思う。)

・軽井沢病院の稲葉俊郎院長は医療とアートの関係を実践的に探究して、その活動を具体的に広めてこられたことで社会的に有名である。

・もしもこのような表現を許されるなら、この活動も〈いのち〉の医療の実践ということになると思う。

 

◇場所的存在感情の時間的表現

・90歳に近い私の心に残っている子どもの頃からの人生の場面(シーン)がいろいろあるが、何れもそのシーンにおける場所的存在感情と強く結びついているために、懐かしさを深く感じる。

・シーンは何れも短い寸劇(動画)の形をしており、その動きによって、その時に経験した場所的存在感情が時間的な形で表現されている。逆に言えば、心に残る場所的存在感情を表現するためには、動画の形で場所を時間的に表現することが必要なのである。

・私の個人的な体験を皆さんにそのまま理解してもらうことはできないので、よく知られている歌によってそれを伝えたいと思う。

・たとえば「白い花」の歌は次のような短い動画のシーンを表している。

 

  白い花が咲いてた

  故郷の遠い夢の日。

  「さよなら」と云ったら、

  黙ってうつむいてた

お下げ髪。

 

・これは遠い過去に作者が体験した悲しい場所的存在感情を表す寸劇的なシーンとして、何時までも心に残っているものである。その感情を表現するためには、この歌に寸劇の形で時間が表現されていることが必要なのである。それを表しているのが、この歌の後半である。それが「悲しかったあのとき」の場所的存在感情を表現している。

・話は飛ぶが、私は70歳代の後半に自宅の庭の樹木も含めて周囲の植物の四季の変化をカメラに収め、それらを現在、スライドショーの形で机の上のフォトフレームに表現している。

・周囲の植物の状態も現在ではかなり変化してしまい、個々の映像には記憶がないものも少なくないのだが、その映像を撮ったときの自分自身の心の動きを、寸劇として思い出すことができると、撮影したときの場所的存在感情がよみがえって、映像の裏に隠されている当時の場所の状態と自分自身の存在との関係が理解され、映像に深い懐かしさを憶える。

 

◇場所的存在感情の共感について

・動物も植物も含めて生活体としての形をとっていることを、広い意味で「意識の存在」と呼ぶことにすると、このように意識が存在するとは、その生活体の空間を時間が包んだ形をとっているということであり、内容的にはその生活体に「生活体としての〈いのち〉」が存在していることと変わらない。

・そのことは、生活体には自己の存在が場所的存在感情として自覚されるということになる。そのことはまた、生活体に固有な場所的存在感情として、それぞれの意識が存在するということにもなる。

・身体の近くに飛んでくる蚊を叩こうと思っても、蚊は巧妙に逃げてしまい、なかなか簡単にはいかないが、「それは蚊の場所的存在感情のなせる技である」と考えると、人と蚊の場所的存在感情の争いということになる。

・私は愛知県立瀬戸高等学校の第二回目の出身者だが、私が卒業をして東京へ出た昭和26年に生まれた瀬戸高校の後輩に永井陽子という歌人がいる。既に何年も前に亡くなられているので、面識は全くないが、彼女の短歌がどういうわけか私の心に不思議にしっとりと響いてくる。

・彼女が生まれた家の近くの神社を5月の緑の今年訪ねて、そこで作られた彼女の歌

 

  つどひ来て死者も生者も風が描くこの輪をくぐれ樟のさみどり

 

を最近Facebookに紹介した方がおられた。

・そこに歌われている場所的存在感情が私の場所的存在感情に不思議につながっていく思いがして、この歌をまだ記憶している。短歌は場所的存在感情を5・7・5・7・7の形で表現するアートであるから、場所における存在の繋がりに場所的存在感情の深い共感が生まれるのではないかと思う。

・子どもの頃の場所的存在感情が、いま現在も私の心に多く存在して、過ぎた日々の場所を直接的に伝えてくることからも分かるように、私が故郷の瀬戸市に多くの思いを残して関東に来たことに〈いのち〉が反応しているのではないかと思う。

 

◇本来の共存在とは

・空間によって空間を包もうとすることから、ロシアによるウクライナへの侵攻が起きている。空間で空間を包むことは、空間のなかに時間を包み込むために、物理的な直線的時間を生み出す。

→したがって、競争や紛争の形をつくってしまい、共存在の形にはならないのである。そのために居場所の活きを空間的な形にすることは共存在を否定することになるのである。

・共存在に必要なことは、時間が居場所の空間を包む形にすることである。そのためには、互いの〈いのち〉を共通の居場所に与贈して、〈いのち〉の活きによって居場所の活きの形を時間的にして、互いの存在を共通の「居場所の時間」によって包む形にすることである。

・この〈いのち〉の与贈によって居場所に円環的時間が生みだされ、与贈循環を通じて互いの存在が時間的に包まれることになるのである。このことは時間の共有の下における共存在、すなわち歴史の共有を生み出すから、時間的に安定した共存在を生み出すことになるのである。

・以上のことは地球における国家の共存在ばかりでなく、国家における国民の共存在、地域社会における住民や企業の共存在、家庭における家族の共存在などについても広く当てはまる。

・私たちは、独立した自由な生活体として、空間的な活きをもち、空間的な統一に向かって支配的に活く統一的な場ではなく、時間的な活きをもち、時間的な共存在に向かって互いの存在を救済するように活く円環的な場を必要としているのである。

 

(場の研究所 清水 博)

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)

 

               

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・・・

◎2022年9月の「ネットを介した勉強会」開催について

9月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、従来通り第3金曜日の16日に開催予定です。よろしくお願いいたします。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

今後のコロナの状況を見ながら、「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催が決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2022年9月1日

場の研究所 前川泰久

 

場の研究所メールニュース 2022年08月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

8月になり猛暑日が続いていて少々辛いですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

コロナの感染者数もまた急上昇し、自由な行動がしにくくなりました。

是非、できる限りの感染対策をして油断しないようにしていきたいと思います。

ロシアのウクライナ侵攻は膠着状態で、解決策はどうなることか見えません。現地で亡くなる方が減らないのも悲しいことです。

 

さて、7月の「ネットを介した勉強会」は7月15日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは『歴史的共存在について』でした。

勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の8月19日に予定となりました。

清水先生からの「楽譜」のテーマは『〈いのち〉の構造』の予定です。

基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

ソーシャルネットの書き込みで「他人が守られるとあたかも自分の権利が“減る”かのような感覚になってしまう…」というように権利を捉えているとき、どうしたら「あなた」の権利と「私」の権利は繋がっている、ということに気づいてもらえるのか、という話題があった。

伝えることがとても難しい、というのだ。

ぼんやりと読んでいたのだけれど、ふと、ああ、これは存在の共存在の話なのではないだろうか、と思い浮かんだ。(難しい訳です…。)

例えば、権利を権利の平等を直線的な等しさで見てしまうと、(”7月の勉強会の内容紹介”にある)「お母さんのポケット」は、損とか得とかの話になってしまう。

「妹ばかり顔を拭いてもらってズルい!」など、とね。

でも、そうじゃない。

権利は、円環的な目で見てあげないといけないのじゃないだろうか。

そうすれば、権利は、減りもしなければ、増えもしない。

くるりと回って、いつでもはたらいてくれる。

(「お母さんのポケット」は、損とか得とかの話じゃなく、〈いのち〉の与贈の話です。”7月の勉強会の内容紹介”を読んでみてくださいね。)

もう少し、別の角度から話してみると。

例えば、共に生きていく居場所の中で、もし、何かしでかしてしまったとき、そこは「ごめんなさい」で許される場所であって欲しいと思うのです。(まあ、コトによっては、多少時間がかかることもあるだろうけど…。(笑))

理由や原因を追求したくなったりすることもあるだろうけど、「ごめんなさい」は、戻ってそれをするための開始の合図ではなくて、仲直りの始まりの合図であって欲しい、そう想うのです。(理由や原因について話し合うのは、仲直りの後で良いと思うのです。)

権利という、共に生きていく約束は、そういう約束であって欲しいな、と思うのです。

 

この頃、身近な話題を場の研究所の勉強会を経験した自分の目を通して、改めて考えてみる、ということを試みています。

それは、正しさを主張したいのではなく、自分自身への問いかけと生きていく手がかりの発見のため、と言えるかもしれません。

 

いろいろな話題が頭の中でごちゃっと混ざってしまって、まとまりのない変な文章になってしまいましたけど、許してくださいね。

――――― 

 

7月の勉強会の内容紹介(前川泰久):

◎第26回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

★テーマ:「歴史的共存在について」

◇言葉の定義の復習

・生活体の〈いのち〉:生きているものは〈いのち〉をもって生活している生活体である。

〈いのち〉=生活力(存在を継続的に維持していく能動的な活き)

存在   =〈いのち〉をもって実在していること

 

・居場所の〈いのち〉: 生活体からある程度以上の〈いのち〉がその生活体が

実在している居場所(場所的世界)に与贈されると、

その居場所にも、「居場所の〈いのち〉」が生まれる。

与 贈 =ギブ・アンド・テイクの関係を越えて与え贈ること。

共存在 = 同じ居場所に複数の多様な生活体が一緒に存在していること。

 

・〈いのち〉の与贈循環:生活体の〈いのち〉が居場所に与贈されて、居場所にも

「居場所の〈いのち〉」が生まれると、その〈いのち〉を逆に生活体に

与贈する場が居場所に生まれて、両者の間を〈いのち〉が循環する。

その結果、居場所の〈いのち〉によって生活体の存在が守られる。

(参考:家族と家庭、社員と会社)

 

・相互誘導合致:〈いのち〉の与贈循環がおきているときには、生活体を「鍵」とし、

居場所を「鍵穴」として、恋の男女のように互いに誘導し合い、

互いに相手に合わせて自分の状態を変える「誘導合致」が相互におきて、

生活体と居場所が非分離になって生活体とその居場所を「全体」とする

大きな生活体が生成されていく。

 

・居場所の歴史(生活史)の創出:創造的な〈いのち〉の与贈循環によって、

居場所の生活史が創出されていく。

 

◇多様な生活体の共存在(地球文明の最大の課題)

・「たった一つの生活体としての地球に、多種多様な生活体がどのようにして共存在していくか」ということは、地球文明最大の課題である。

・その参考になるのが私たちの身体である。身体を構成している多様な臓器や器官はそれぞれ生活体であり、各々独立した〈いのち〉をもち、その活きを居場所としての身体に与贈して、身体に共存在して居場所の歴史(生活史)を生み出している。そして自分たちも、その歴史と共に調和的に生活している。

・多様な臓器や器官は神経によっては相互につながっていないが、〈いのち〉の与贈循環によって生活が調和的につながり、共に身体を成長させている。しかし老化や重病や重傷によって身体における〈いのち〉の与贈循環が消滅すると、生活体としての私たちは死ぬ。

 

◇生活体の「自由」とは

・生活体の「自由」とは、生活体の〈いのち〉の独立性のことである。

・私たちの身体の臓器は、他の臓器に縛られることなくその〈いのち〉を表現しているので、基本的に自由な状態にある。生活体それぞれが基本的に自由でありながら、全体によって居場所の存在を表現している。このことによって、居場所の〈いのち〉が自己組織的に生み出されているのである。

・それが外から指示されたものでなく、自然に自発的におきているために生まれるのが与贈循環である。この与贈循環を生み出すための必要条件が生活体による居場所への〈いのち〉の与贈が一定の閾値を超えてなされるということである。

・それは生活体の〈いのち〉が互いに自由であり、互いに善意によってつながっていることによって初めて可能になる。つまり、平穏な家庭と家族の関係のように、互いの善意に基づいた共存在によって居場所が生まれていると言うことである。

 

◇共存在ということ

・ここで大切なことは、多様な生活体がそれぞれの特徴(多様性)を減らして、同じ様になって共存在するのではなく、それぞれの特徴を表現して共存在するということである。

・たとえば大脳、小脳、心臓、肺臓、肝臓、膵臓、胃、小腸、大腸、皮膚などは、他にはないそれぞれの〈いのち〉の活きを個体という居場所に与贈することによって、個体という存在にとってなくてはならない存在となっているのである。

・一般的に言うと、それぞれが他にはない活きをもつ生活体となって、その活きを共通の居場所にしっかり与贈することによって、相互誘導合致の活きが居場所に生まれて共存在しているということである。

・多様な生活体を多様な「役者」、共通の居場所を「舞台」に喩えると、各「役者」は他にはないその個性を活かす(「舞台」に与贈する)ことによって、同じ一つの「舞台」に互いにぶつかることなく、善意をもって互いの存在を受け入れながら一緒に生きていくことができる。

→これが共存在ということである。

 

・共存在のためには、素晴らしい家庭の誕生も、その家族となる男女の恋からはじまるように、異なる生活体が出会って互いに魅力を感じ合い、相互誘導合致の活きによって同じ一つの居場所で共に生活することを望むことからはじまる。

・互いの違いを受け入れなければ、共存在は生まれない。与贈の根底には他の生活体の存在に対する惜しみない善意があり、次に自己の〈いのち〉の与贈に値する居場所(という存在)の発見がある。

 

◇地球文明への大きな転回

・プーチン大統領によるロシアの隣国ウクライナへの一方的な軍事侵攻によって始まったウクライナ戦争は、民間の犠牲の多さとその冷酷さぶりから、ロシアにおける近隣諸国の人びとへの根深い悪意の存在を感じさせるものである。18世紀的な「ロシア王朝」の力による秩序のような共存在とは異次元の旧い世界秩序が周辺の国々へ押しつけられているように思われる。

・そこには人びとの存在の多様性にもとづいて発想される共存在という人間の新しい存在のあり方が徹底的に排除されていると思われる。その一方で、この事に抗して活動をしている先進7カ国を中心とする国々では、次第に今はまだ存在しない「居場所としての地球」という全体的な存在を発見して、互いの間の善意を基盤にして新しい地球的な秩序を創る方向に進んでいく様にも思われ、この動きが発展して、共存在を基盤とする地球文明への文明の大きな転回が生まれることを願うものである。

・ただ競争を基盤とする現在の資本主義経済が居場所への与贈を柱とするこの変化を何処まで取り込んでいくことができるかには、疑問が残る。

 

◇郡山市の老舗柏屋さんの与贈循環について

・日本の様々な地方の文化と経済を支えている中核都市には、人びとへの善意を基盤にした与贈性の高い企業が存在していることは、日本の誇りであるばかりでなく、これからの時代における経済のあり方にも示唆を与えるものであると思う。

・ここで取り上げるのは、日本の3大饅頭の一つとして有名な薄皮饅頭を、嘉永5年(1852年)から170年にわたって作ってこられた福島県郡山市の株式会社 柏屋である。この様に長い年月続いてきた間には、大きな戦争や災害など様々な困難を何度も乗り越える必要があり、一つの企業だけの孤立した力ではそれはできない。

→居場所である郡山市と相互誘導合致の形をつくって非分離的な状態になっていることが必要であり、このことによって、生活体である柏屋の〈いのち〉が居場所である郡山の〈いのち〉によって護られる形ができるのである。

・このことは、家族の〈いのち〉が居場所としての家庭の〈いのち〉によって守られていることに相当する。この形によって、柏屋は日本の東北地方を支える代表的な中核都市である郡山における共存在の創造的活動に参加して、地域としての郡山の生活史を生成しつつ、その歴史的時間のなかで生きることができるのである。

→このことは柏屋がさらに東北地方の歴史のなかに位置づけられながら存在していくことを意味している。

 

◇居場所への与贈について

・このような歴史的状態はただ願うだけでは実現しない。創造的な活動性に富む郡山地域を居場所としてする幸運に恵まれて、その居場所へ生活体としての柏屋からの閾値を超える〈いのち〉の与贈が、企業としての基本的な姿勢として歴史的に続けられてきたという必然がその裏にあるのである。

・偶然的なできごとだけでは、郡山における柏屋の170年の歴史は決して生まれない。この歴史の中で生まれた貴重な言葉が記録されて、それが現在に伝えられてきていることは、歴史的時間を創出していく「〈いのち〉のドラマ」のなかに柏屋が存在していることを示している。

・居場所への与贈は善意をもって人びとに接し、誠意をもって日常的な業務の中で実行されていくものであるが、「〈いのち〉のドラマ」にはさらに創造性を要求される。

→その創造へのヒントは〈いのち〉の与贈によって、自己の視野が開かれてくることから得られることが多いのである。そのことを活かす創造的な結果は、さらに誠意を尽くしていかなければ生まれてこない。

 

◇柏屋の〈いのち〉の与贈

・郡山の人びとの目にも直接見える形でおこなわれている柏屋からの〈いのち〉の与贈に「朝茶会」と「青い窓」がある。

・「朝茶会」は1月を除く毎月の1日の朝6時から8時まで柏屋本館にある「薄皮茶屋」でできたての薄皮饅頭を食べながら集まった人びとが世間話をする会である。

(柏屋に聞き合わせたところ、「40席の会場に2~3時間で400人前後の人びとが来られて超過密になるために、コロナ禍の影響から2020年3月から朝茶会は休止していますが、現在は再開に向けて検討中」とのことであった。また「以前は饅頭も食べ放題であったので、20個も召し上がった若い女性がおられましたが、来場の人びとが増えすぎてしまい、その場で手作りしたものを召し上がっていただくために製造が間に合わず、出来るだけ多くの方に行き渡るために、最近では、こしあんとつぶあんを各1個づつとさせていただいています」とのことであった。)柏屋は人びとの世間話を通して、居場所としての郡山地方の状態に触れることができるのである。

・また「青い窓」は本店のショウウインドウを商品の代わりに、全国から募集した子どもたちの夢をうたった詩を飾るために使うという卓抜な創造的アイディアから生まれたものであるが、すでにその詩を印刷した600号が出されている。

子どもの詩が柏屋の経営に大きな影響を与えたものとして、東京都町田市の町田第三小学校三年生の栗辻安子さんから投稿された次の詩がある。

 お母さんの エプロンの

 ポケットの中を見ると

 ボタンや はんけち 小さなえんぴつ

 ちり紙や ひもも はいっている

 そのほかにも まだはいっている

 ポケットに手を入れて

 いそがしそうに はたらいている

 くしゃみをすると すぐちり紙を

 出してくれる

 妹のかおがきたないと

 はんけちを出して かおをふく

 おかあさんだけのポケットではない

 みんなのポケットだ

  

この詩には、まさに家庭という居場所における〈いのち〉の与贈が歌われている。もともと柏屋では、様々な職場にいる社員がそれぞれ自己の判断によって自主的に働くことができるように、丁度、暗い闇夜を「社員われら」がそれぞれ一定の星座に向かって進むことができるようにと、議論を重ねてつぎのような「われらの星座」なるものを考えて経営の方針としてきた。

 

 <われらの星座>

  われらは すぐれた食品と

  かぎりない幸福を社会に提供する

 

  われらは 人間の未来を信じ

  人間性を尊重する

 

  われらは 叡知にもとづく

  創造力をつねに啓発する

 

  われらは 誠意と協力をもって

  業務を遂行する

 

  われらは より幸福な生活のできる

  社会をきずきあげる

 

・ここに人間に対する善意と誠実さ、そしてそれを歴史の中で表現していく創造力の重要さが示されているが、その理念が「お母さんのポケット」という言葉を借りて、「みんなのポケットになる」という形で分かりやすく表現されることを教えられ、次の言葉を生んだ。

 

  ここしかない

  これしかない

 

  これまでも

  これからも

  柏屋は

  社会みんなの

  ポケットになります

 

・日本の各地にその地域の歴史を創造しながら存在している誠実な企業に「歴史的な共存在」という新しい観点から光を当てて、その精神に共感して私たちの生き方に反映していきたいと思う。

 

◇地域社会における与贈循環のための拘束条件とは

・ある一つの企業を巡って〈いのち〉の与贈循環が地域社会におきるためには、外在的拘束条件と内在的拘束条件という二つの拘束条件が満たされる必要がある。外在的拘束条件とは、地域社会の境界が一定の範囲に限定されているということである。

→これは柏屋の場合は郡山市の境界に相当する。

・社会的な世論が形成されるためには、同じ意見をもった人びとが出会うことが必要であり、その出会いがある程度早く起きるためには、地域社会が共感的で、かつ地域社会が広すぎず、境界が限定されていることが必要である。これが外在的拘束条件です。

・内在的拘束条件とは、分かりやすく言えば、「のれん」のことである。地域社会を「舞台」とし、企業が「役者」となって、その社会活動という「〈いのち〉のドラマ」を即興的に演じていくわけであるから、「ドラマの筋」がそれなりに通っていないと、「舞台」と「役者」の活動が離れてしまう。

・地域社会という「舞台」に対して「ドラマの筋」を「役者」として守っていくのが「のれん」であり、それを社員に対して表現しているのが「われらの星座」である。

 

・誤解を避けるためにつけ加えると、株式会社として世界的に開かれて、世界の人びとの投資の対象となっているような企業の他に、地域社会を足場にして活動し、そこで生まれた創造的な成果を地域社会を越えて広げていくという企業があると思う。

→ここで議論している企業は後者です。

(株式会社 柏屋の本名善兵衞会長と本名創社長の温かい交流とサポートに心から感謝を致します。)

 

(場の研究所 清水 博)

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)

 

               

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・・・

◎2022年8月の「ネットを介した勉強会」開催について

8月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、従来通り第3金曜日の19日に開催予定です。よろしくお願いいたします。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

今後のコロナの状況を見ながら、「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催が決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2022年8月1日

場の研究所 前川泰久

 

 

場の研究所メールニュース 2022年07月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

梅雨もあっという間にすぎて、7月になり猛暑日が目立つこの頃です。皆様いかがお過ごしでしょうか。

コロナの感染者数もかなり減少し良い方向になってきましたが、油断しないようにしていきたいと思います。

ロシアのウクライナ侵攻は膠着状態で、長期化しそうで、戦争被害者の増加が避けられない状況で心が痛みます。

 

さて、6月の「ネットを介した勉強会」は6月17日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは『場所的存在感情』でした。

勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催は、従来通り第3金曜日の7月15日に予定しております。すこし早めですが、夏休みになる前が良いかと考えました。

清水先生からの「楽譜」のテーマは『歴史的共存在について』の予定です。

基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

6月の後半、続けてきたことが活性化し、新しい案件が始まり、更に新しいことのために人とお会いし、これまでとは別の人との関わりが生まれ、更に個人的な大ごと(悪いことではない)が架橋を迎えている現在です。(笑)

一言で言うと「忙しい」のでしょう。

でも、なぜか、「忙しい」という言葉は使いたいとは思わない。

「充実している」、という言葉が合っている気がする。

前者は少々否定的な物言いに思え、後者は積極的に聞こえる。

これは、どうしてなんでしょうね。

そして、何がこの違いを感じさせるのでしょう。

私、今、とても忙しいので、ゆっくりとこのことを考えていられないのですが、少しだけ時間をとって考えてみました。(笑)

状況としては、よく似ているそれぞれですが、大きく違う特徴は、振り返った時に、その時のことをすっかり忘れているか、その時の感覚を含めよく覚えているか、の違いがあることに気がつきました。

十数年ほど前、「忙しい」と言える時期を数年ほど過ごしたことがあります。

どれほど忙しかったかと言えば、その直後、半年ほど何もする気にならないくらい(実際、何もできませんでした)です。

この数年の思い出はゼロです。

出来事を思い出そうとすれば、何があったかは思い出せますが、箇条書きの行動リストのようなものとして思い出されます。

対して後者は。

覚えているんですよね、場面場面を。

どんな話をしたか、だけではなくて、どきどきした場面、はっとしたこと、熱くなったり、悔しかったことも含めて、自分や自分の周りの気配が、その場に吹いていた風の中に今もいるような思い出し方がそこにはあります。

思うのです。

この経験は、1秒たりとも省略したくない。

そして、もし、今がこのような思いに駆られている瞬間なのだとしたら、大切にしなくてはいけない、と。

更に、その場を一緒に経験している人たちがいるならば、尚更です。

この、場の研究所での経験、ネットを介した勉強会での経験も1秒たりとも省略したくないものです。

「忙しい」…いや、「充実している」ので、今回は短めにこの辺で。(笑)

――――― 

 

6月の勉強会の内容紹介(前川泰久):

◎第25回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

 

★テーマ:「場所的存在感情」

◇場所的存在感情という発想のきっかけ

・研究者にもさまざまなタイプがあるが、私(清水)は現象について直観したことを、後からその現象の法則を発見し、論理を組み立てて、説明していくというやり方をしてきた。説明できないものは残されるが、そう多くはない。

・先月書いたメモを調べると、22年の3月26日に、直観にしたがって、次のようなことが書いてあった。

 

 場所的存在感情

  非分離の状態で生まれ、

  そして共有される。

   場と関係がある。

 

 〈いのち〉の共有と、そのメカニズムとしての与贈循環が必要。

   〈いのち〉は存在感情の活きを考える上で、よいbaseになる!

 

  与贈された〈いのち〉の記憶は与贈された時の形で戻る。

  それに存在感情を伴って戻ってくる。

 

  場所的存在感情は〈いのち〉に貼り付けられている。

   円環的時間に存在を貼り付けているのが場所的存在感情である。

   したがって、場所的存在感情は円環的時間にしたがって動く。

    場所的存在感情が自己と居場所の非分離をつくっているのではないだろうか?

(脳内の「居場所モデル」に自己の存在を貼り付ける活きをする。)

  海馬が「居場所モデル」をつくり出し、扁桃体が場所的感情を生み出して、

自己の居場所における存在に、場所的感情の糊を与えている。

  認知症では、この糊が効かなくなる。

 

・以下はこの直観に基づいて考えたことだが、その理解を助けるために、上記のメモを先ず紹介した次第である。

→懐かしい居場所の思い出には、その居場所におけるできごとが、それをその場所で体験した感情を、その時のまま蘇らせるようにして思い出されるということを、前回の勉強会で報告した。私がまだ幼児の頃の家庭における思い出には、その時に体験した幼児の感情が一緒に思い出されるし、小学生になった頃、胸をドキドキさせながら鬼ヤンマを追いかけた時の思い出には、その時に体験した感情が蘇る。

即ち、存在が自己と非分離な場所における思い出には、場所的存在感情が経験した時のまま蘇り、そのことがその思い出に心にしみるような懐かしさを感じさせる原因となっているように思われる。

 

◇以心伝心の状態はどうやって生まれるか

・存在の非分離とは、〈いのち〉の活きが非分離ということであるから、存在者としての個体の〈いのち〉の活きと、その居場所の〈いのち〉の活きとが非分離である―個体の〈いのち〉の活きが居場所の〈いのち〉の活きのなかに位置づけられている―ということがある。

→その状態は、個体が自己の〈いのち〉の活きを居場所に与贈することによって生まれる。

・個体の存在がその居場所に位置づけられているということは、居場所に単に空間的に位置づけられているということではなく、〈いのち〉の活きの上でも、居場所に位置づけられているということある。

・多様な個体の共存在の状態は、各個体がその〈いのち〉を同じ居場所に与贈することによって、与贈した個体の〈いのち〉の間にも〈いのち〉の与贈循環を通じて繋がりができることで生まれるのである。

→この状態になると、同じ居場所に存在する個体の間に、〈いのち〉の活きを通じて、以心伝心の状態が生まれるのである。

 

◇家庭における存在感情

・家族はそれぞれの〈いのち〉の活きを居場所としての家庭に与贈することによって、家庭の〈いのち〉を生みだし、その〈いのち〉に包まれて、それぞれの〈いのち〉の活きをその〈いのち〉に位置づけながら、場所的存在感情を生みだしている。

・そしてその〈いのち〉を通じて、互いに以心伝心的に存在感情を共有する状態にある。

・その他方で、家庭への外来者はこの存在感情の共有状態にはないわけだから、互いの差はすぐに伝わる。

 

◇パンデミックによって起きた「利他」という考えについて

・新型コロナがパンデミックとして世界的に広がり、皆が外ではマスクをすることが薦められた時に、フランスの著名な哲学者が「利他の時代が来る」というような意味のことを言ったと思う。

・それは自己中心的な思いから自己を護るためにマスクをするだけでなく、マスクをすることによって自己が万一感染していた場合には自己から他者を護ることを意味しているからである。

→したがって自己中心的な世界観から他者との共存に向かって一歩踏み出す時代が来るということを意味していると、私は思った。

・その影響を受けてか、最近では日本でも「利他」ということを唱える人たちが増えている。利他は贈与を意味するという人もいる。

・しかし特定の人に向かっておこなわれる利他は私がいう「〈いのち〉の与贈」とは異なる。私の〈いのち〉の与贈は、多様な存在者の共存在が前提になっているから、そのために与贈には、共通の居場所への〈いのち〉の与贈が含まれていなければならないのである。

→つまり、居場所の〈いのち〉と多様な存在者の〈いのち〉の間に〈いのち〉の与贈循環が生まれることが必要なのである。したがって「利他」という場合には、少なくとも、不特定な他者への〈いのち〉の与贈を意味していなければならないのである。

 

◇直線的時間から円環的時間へ

・多様な存在者が共存在するためには、円環的時間を共有することが必要である。それがなければ居場所に存在のカオスが生まれてしまう。

→この方法を一口に言えば「自己組織的方法」、非線形的方法ということになるであろう。

・これに対して、上からの力によって多様な存在者をコントロールして集まりに秩序をつくる方法、すなわち線形的方法が考えられる。この方法は上から定義された直線的時間にしたがって多様な存在者の動きをコントロールすることが特徴になる。

・存在者の方から見れば、前者は存在の自由度が大きく、後者は少ないことになる。したがって自然の理として、線形的な社会から非線形的な社会へと、存在者は心理的に引かれていく。そのために直線的時間から円環的時間へと、人類の歴史を動かしていく時間の形が変わっていくのである。

・いま、この変化がウクライナとロシアの間でおきている。人間の心に生まれる自由への憧れを、力によって何時までも押さえつけておくことはできない。その憧れは存在者の〈いのち〉の活きから生まれてくる本能的な活きだからである。

→それは〈いのち〉が場所的存在感情に火を付けていくことで生まれる活きなのである。

 

◇脳における場所的存在感情の位置づけ

・私たちの脳には大脳辺縁系というところがあって、その活きの中心を占める海馬という器官には、いま自己が存在している場所の「居場所モデル」がつくられ、そのモデルに自己の空間的な場所が位置づけられることが、自己と居場所が非分離になる原因であるという趣旨のことを、前回はご報告した。

・それは間違いではないが、それだけでは〈いのち〉の活きの位置づけは生まれない。場所的存在感情がそれを経験した時のまま蘇り、その感情に言い得ぬ懐かしさを憶えるという〈いのち〉の活きを通じて生まれてくる「存在の非分離」の思いを説明しきれない。

・大脳辺縁系の構造を見ると、海馬の隣に扁桃体の言われる情感を生み出す活きをする器官があって、そこで海馬につくられる「居場所モデル」に〈いのち〉の活きにしたがって場所的存在感情を付けていると思われる。

→つまり、海馬と扁桃体は一体となって個体の〈いのち〉を居場所の〈いのち〉に位置づける活動しているのである。そのために、海馬でつくり出される場所的経験には、それを体験したときの〈いのち〉の活きが場所的存在感情として記憶されていくのである。

・その事実こそ、自己と居場所の〈いのち〉の活きが非分離になっていることを示している。→つまり、場所的存在感情が自己の〈いのち〉を居場所の〈いのち〉につなぐ糊の活きをしていて、非分離な存在を生みだしていくのである。

 

◇認知症と場所的存在感情の関係

・認知症には幾つかの種類があるが、もっとも多いのがアルツハイマー型の病気であり、その病気はアミロイドβという蛋白が海馬にたまって海馬の機能を圧迫することによって生まれると言われている。

・そのことが、当然、扁桃体の活きも変えますから、居場所の〈いのち〉に対する自己の〈いのち〉の位置づけを根本から変えてしまうことになる。そのために、居場所における〈いのち〉の繋がりが切れていくのである。

・介護には、そのことを心得て、〈いのち〉のつながりに重要な場所的存在感情をカバーしていく「糊の活き」が必要になる。

 

◇創造について

・創造は旧い「居場所モデル」がそれを部分として包む新しい「居場所モデル」に飛躍的に変わることである。また場所的存在感情も、それにともなって飛躍的に変わるために、新しい場所的世界(居場所)における存在感情を経験することが創造の大きな魅力になる。

→したがって他者がその創造的な活動に触れることは、たんに知識を新しくするだけでなく、生きていく上で場所的存在感情を新しくすることにもなり、そのことが学習の大きな魅力になるのである。

・たとえば道元、西田幾多郎、ピカートなどの著作では、場所的世界(居場所)の〈いのち〉の活きが著者自身の〈いのち〉の活きを包んでいくように、場所的〈いのち〉の非分離の観点から―創造的観点から―論述されている。

・そこには、論述と切り離せない形で著者の場所的存在感情も表現されており、そのことが強い表現力となっている。論述がそのような形になるのは、著者が自身の創造そのものを表現しようとしているからである。

→したがって、論述は円環的時間によって表現されている。

・そのような論述を第三者が要約しようとすると、著者の居場所の〈いのち〉そのものが変わってしまうので、著者自身における創造、すなわち著者の「居場所モデル」の飛躍的な変化をそのままの形で要約することはできない。

・しかし第三者の「居場所モデル」も著者の創造に触れることによって変化をし、それにともなって場所的存在感情も変化するので感動を受ける。だが、その変化は著者自身の場所的存在感情の変化とは、一般に異なる。

→したがって創造的な論述の要約は十人十色となるので、要約文には誰が要約をしたかを明記することが必要である。

 

◇共創について

・創造にともなって生まれる場所的存在感情が、このように相互独立の関係にあることと関係して、その逆に共創では、場所的存在感情の共有が必要になる。

・共創の関係者の間では「電話1本で、話が通じる」と言われることは、既に場所的存在感情が共有されていることを示している。

・共創の場では、その共有によって円環的時間が流れているのである。共創のリーダーには、目標を明快に示し、共創に参加をしている人びとの個々の存在がその共創において不可欠であることを具体的に示して、全員の場所的存在感情に火をつけて責任感を生み出すことが必要である。

 

◇場所的世界について

・ところで創造のために、「居場所モデル」を飛躍的に拡大するのには何が必要だろうか?そのことは既に議論したように、居場所の外在的拘束条件を飛躍的に拡大することと内容的に変わらない。

→言いかえると、「居場所モデル」には外在的拘束条件に包まれた場所的世界が映されているのである。

・そしてその場所的世界を「舞台」として、そこに「役者」としての自己の存在を位置づけて、場所的存在感情にしたがって「役者」としての自己の〈いのち〉の活きを表現していくことが、自己が居場所に生きていくということである。

→その場合に、場所的世界の内在的拘束条件となって「ドラマ」を動かしていく〈いのち〉の活きは、「役者」としての自己の場所的存在感情から生まれる。

 

◇「舞台」と「役者」における場所的存在感情の重要性

・「舞台」の上での「役者」の表現にも、一般的なことを言えば、二つのタイプがある。

一つは与えられたシナリオにしたがって、ロボットのように「ドラマ」を演じていくもので、「役者」は与えられた直線的時間にしたがって「舞台」の上を動いていく。

・この動きからは、これまでの「舞台」そのものを否定して、それを乗り越える新しい「舞台」をつくる動きが出てくる余地はない。そのような創造的な活きは、「役者」が自己の存在を、自己の場所的存在感情にもとづいて、「舞台」に主体的に表現している場合にのみ生まれる。

・この状態にある時には「役者」と「舞台」の間では、〈いのち〉の与贈循環が生まれて、円環的時間にしたがって「ドラマ」が演じられていく。場所的世界としての「舞台」が、場所的存在感情の形で生まれる自己の〈いのち〉の活きを受けて、飛躍的に広がって「ドラマ」が創造的に変化をするのは、このように「ドラマ」が円環的時間にしたがって〈いのち〉を表現していくときである。

 

◇「〈いのち〉の表現の即興劇モデル」の重要性

・晩年に、自己の人生を懐かしく振り返ろうとするなら、ポジティブなよい思い出を場所的世界としての家庭や社会に沢山つくって、それに場所的存在感情を添えていくような生活をしていくことが必要である。

→そのために大切なことは、場所的世界への自己の〈いのち〉の与贈である。〈

・いのち〉の与贈が自己の「ドラマ」を創造的に開いていくなら、生き甲斐のある一生を送ることができるであろう。場所的存在感情の思い出は古くなることがない。それが生まれた場所的世界に、自己を連れ戻してくれる。そのことが心にしみるような懐かしさをもたらしてくれるのである。

→このように場所的世界における〈いのち〉の活きを考える上で、「〈いのち〉の表現の即興劇モデル」は、私たちの日常的な感覚によって理解できるために役に立つ。

・このモデルにしたがって考えると、アルツハイマー型の認知症は「役者」が「舞台」を失って「ドラマ」を演じられなくなる病気であり、「ドラマ」としての生きてきた人生そのものを失っていく悲惨な状態である。そこには、自己の心を失っていく深い悲しみがある。

 

(場の研究所 清水 博)

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)

 

               

――――

・・・

◎2022年7月の「ネットを介した勉強会」開催について

7月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第3金曜日の15日に開催予定です。よろしくお願いいたします。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

なお、8月の勉強会は第4金曜日の26日に開催したいと思っています。決まり次第ご案内いたします。

 

今後のコロナの状況を見ながら、「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催が決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2022年7月1日

場の研究所 前川泰久

 

 

場の研究所メールニュース 2022年06月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

6月になり、すがすがしい初夏の季節となりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。

コロナの感染者数もだんだん減少し良い方向になってきておりますので、少しでも自由に動ける環境になることを期待しています。

しかし、ロシアのウクライナ侵攻は相変わらずで、まだまだ先が見えない状況で心が痛みます。

 

さて、5月の「ネットを介した勉強会」は5月20日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは『老化と認知症』でした。

勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催は、従来通り第3金曜日の6月17日に予定しております。清水先生からの「楽譜」のテーマは『場所的存在感情』の予定です。

基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

 

今朝、とあるやりとりから、ふと、「ネットを介した勉強会」立ち上げ当時の感情が蘇ってきました。

それは、とても心地よく、暖かく、優しい気持ちにしてくれました。

 

2020年3月、大塚の研究所での勉強会の場をコロナ禍によって失った後、場の研究所の皆さんと、この後どうしたら良いものか、勉強会はどうしようか、などと、その後の活動の見当がつかず困っていました。

結果から書けば、どうやって学習を継続しようか、と考えてこの「ネットを介した勉強会」と繋がることになる訳ですが、この時、失うことになるのは「(大塚での)勉強会の機会」だと思っていましたし、何度か、ここでも書いたことがあったかと思います。

しかし、なんとなく、なのですが、そう言った使命感のようなものに動かされただけでは無いような気もしていました。

 

そのような中、今朝、清水先生からのメール(この文章の内容とは関係ない別件です。)を読み直していて、ある一文を読んだときに、ふと、唐突に、当時の気持ちが蘇ってきたのです。

それは。

「ああ、(大塚の研究所での)勉強会ができなくなってしまうと、清水先生に会えなくなる、声を聞けなくなる、前川さんや本多先生、他、勉強会に参加してくださっていた方々と会えなくなる、勉強会の後の食事会もできなくなる…」

そんな寂しさが、です。

そして、「そんな状況は嫌だな」、なんとしても学習の場を続けたいな、この後もこの出会いの場があって欲しい、そう感じていたことが思い出されました。

本当の意味でのネットを介した勉強会への動機は、ここにあったように思います。

 

そうして、実際、この想いは適って、場は継続して、そして更に、ネットを介したからこそ出会えた人もいるくらいの場に育ってくれています。

ありがたい気持ちでいっぱいです。

そして、今、このことを思い出せたことがまた嬉しいです。

 

以上。

――――― 

 

5月の勉強会の内容紹介(前川泰久):

◎第24回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

 

★テーマ:「老化と認知症」

◇老化という現象における新しい体験

・青春は、自分自身が思春期を越え、そして青年になって、はじめて本当に味わうことができる新しい体験であるように、老年も自分自身が本当に老化することによって、新しい体験として理解されるものである。

・しかも70歳代と80歳代後半(私(清水)の場合は88歳の後半から)とでは、その老化の程度が大きく異なる。私は今年の秋には90歳になるが、本当の意味で老化をはじめて味わったのは、88歳後半からである。

・何がどう変化をしたかだが、「自己とは何か?」そして「自己と居場所の相互誘導合致はどのようにしておきるのか?」ということが見えてきたのである。

 

◇「鍵」と「鍵穴」と「くり込み相互誘導合致」と自己

・「鍵」と「鍵穴」の「くり込み相互誘導合致」を分かりやすく理解する例えとしては、役者と舞台で考えるドラマの例えがよいと思う。

・その例えによると、

(1)「鍵」は役者に例えられ、「鍵穴」は舞台に例えられる。あるいは「鍵」をオーケストラの楽団員、「鍵穴」をオーケストラに例えることもできる。

(2)そして舞台やオーケストラは役者や楽団員の居場所であるが、その居場所はさらに大きな居場所があり、そしてその大きな居場所を代表しているものとして観客がいる。

(3)役者(楽団員)の表現と舞台(オーケストラ)の表現とは円環的時間によってつながっている。

(4)そして役者(楽団員)の〈いのち〉の表現は次々と舞台(オーケストラ)の〈いのち〉の表現(居場所の〈いのち〉の表現)にくり込まれて居場所の「歴史」を進めていく。そのことが「大きな居場所の歴史」を進めていく。

 

→私たちは生まれて以来、このような形によって居場所で自己と非分離に進行してきた歴史にくり込まれて生長してきたのである。

・その意味で「自己」とは誕生以来、「大きな居場所の歴史」にくり込まれて生長してきた「鍵穴」であり、「我」とは「大きな居場所」の束縛からいったん離れて、今の瞬間に個としての〈いのち〉の表現の自由を得た「鍵」である。

→過去を見るか未来を見るかで、「鍵穴」にも「鍵」にもなるのである。

 

◇老化による〈いのち〉の自己組織力の衰えについて

・誕生以来、このようにくり込みを進めて自己を創造的に成長させてきた活きは〈いのち〉の自己組織力(秩序のある大きな活きに自発的にまとまろうとする〈いのち〉の活き)である。

・私自身の体験を話せば、老化とはこの〈いのち〉の自己組織力が衰えることである。

→新しい「鍵」の形を受け止める新しい「鍵穴」の形ができたとしても、それをくり込んで自己として固定していく活きが衰えているわけであるから、新しい論理的に細かなできごとの習得が苦手になる。

・居場所における経験を円環的時間に貼り付けて記憶していく「糊」の役割をしているのが場所的な感情である。この「糊」がはたらけば自己組織力を補う。しかし論理的なできごとは直線的時間の上に乗せられて記憶されていくために、この「糊」がはたらかないのである。

 

◇円環的時間と直線的時間におけると記憶(思い出)の違い

・さまざまな場所で自己がその場所と非分離な状態で体験したことは円環的に自己に記憶されていく。

→したがって「大きな居場所」に関する私たちの記憶は円環的時間に記憶された様々な居場所の場面における記憶が自己組織的に集まった形をしていると考えられ、全体のなかから一つの場面だけを他から切り離して思い浮かべることができる。

・もしも、論理的なできごとの記憶のように、直線的時間の上にできごとの順に記憶されているのであれば、このようなことはできないと思う。また居場所の記憶は経験したそのときの感情をともなってよみがえり、その感情が老化することはほとんどない。

・子どもの時に体験した記憶は子どもの時の感情をともなってよみがえる。この感情がよみがえることが懐かしさを生み出す。

・これに対して居場所と分離した状態における思い出は時間が経つと忘れられていくし、特に懐かしさを感じさせることはない。高齢になると、このような記憶の忘却が目立ってくる。それは直線的時間の上に記録されているからではないかと思う。

 

◇円環的な時間における体験感情のよみがえり

・自己にくり込んできた様々な居場所における体験をまとめて一つにしておくのは〈いのち〉の自己組織力だが、老化によってその活きが衰えてくるために、忘れていた居場所における大昔の体験が突然思い出されてくることがある。

・たとえば最近では、勤め先から帰った若い父親が畳の上に上向きに寝て、白いエプロンを着けた幼い私の身体を両足の上に載せ、両手をもって足を伸ばして「高い、高い」と何度もあげてくれ、私は喜んで「タカタカ!」と何度もねだった状況が突然よみがえって驚いた。また小学生の頃の懐かしい場面や歌もその場面で経験した感情をともなって思い出すことがしばしばあり、その懐かしさに打たれる。

・ノスタルジー(郷愁)が生まれるのは、その場面で過去に体験した場所的感情がよみがえることによる。これらのことも、直線的な時間と異なって終わりを定義できないこと―――したがって円環的時間の永遠的な特徴を表している。

 

◇人生における相互誘導合致について

・高齢の者におけるこのような記憶のよみがえりは、大きく見れば死の準備にもなっているように思われる。それは、「今は存在しない人びとから、これだけ有り難い人生をいただいてきたから、自分の存在はもう十分満たされている。何時死んでもよい」というような気持ちになるからである。

・人生を生きていくことは「くり込み相互誘導合致」を続けていくことである。それは、「鍵」としての自己(「我」)と、「鍵穴」すなわち円環的時間に記録された多様な場所的記憶の自己組織体の間におきる相互誘導合致によって、円環的時間に記録された場所的記憶が生まれて自己組織体(「鍵穴」)に新しく加わることである。

・自己が一旦居場所から離れて表現の自由を「我」として獲得した上で、相互誘導合致によって円環的に居場所とつながって自己に戻っていくという形によって「鍵穴」としての表現に創造的に関わっていくのである。

・このように「我」としての主体的な自由を活かしながら居場所と創出的につながっていくところに、場所的な創造の深い真理がある。このことは著名なオーケストラにおける各楽団員の創造的な演奏を頭に置いて考えていただければ、よく分かると思う。

 

◇居場所の歴史の継続性について

・終わりを定義できない円環的時間によって、居場所における自己が生きている状態での経験が記憶されていくことは、居場所の歴史が自己の内部で続いているということである。

・それは外からは見えない形であっても、自己が生きている限り続いていく歴史である。そして自己の内側では、ほとんど経験したときのままの感情をともなって実在している。

・歴史というものは、そのような形で生きている人びとに内在的に実在し、そして外に現れてその活きを表現しては、また内在化するという形で継続していくものであると思う。

・家庭の歴史における家族の存在のあり方を考えてみれば、このことはよく分かると思う。

→したがって居場所が自己の内側にどのような形で存在するかが非常に重要な問題となる。その点を考えてみよう。

 

◇居場所モデルについて

・「くり込み相互誘導合致」の「鍵穴」には自己と居場所の非分離の状態が円環的時間によって記録されているということから、「鍵穴」は自己の状態を表していると考えることも、また居場所の状態を表していると考えることもできる。

・しかし居場所と言っても、それは一旦自己に取り込まれて居場所となった場所であり、家族としての犬猫などは別にして、その場所が人間以外の動物にとっても居場所となることはあまりないと思われる。

→ここで自己と居場所の非分離がどのような形で具体的に存在しているかを考えてみることにしよう。

・「鍵穴」を自己(場所的自己)と考えると、自分の身体を通して直接的に体得した多様な経験が円環的時間に記録されて自己組織的に自己に取り込まれていく。

・この居場所に関する多様な記憶の自己組織的な集まりから、自己の内部に「居場所モデル」が生成され、そしてそのモデルに自己が自己自身の存在を位置づけていくという形によって、自己と居場所の非分離な状態が自己の内部で生まれると考える。

・居場所モデルは固定されたものではなく、居場所における自己の新しい経験を踏まえて、絶えず更新されていく。場は自己が居場所モデルを場所と自覚することによって生まれる自己を取り巻く場所の状態である。

→したがって、場を自己の外から物理的な方法によって測定することはできない。

 

◇認知症と居場所モデルとの関係

・認知症は、一口に言えば、自己の内の多様な記憶から居場所モデルをつくる活きが衰えて次第に自己を居場所に位置づけることができなくなり、自己の存在を喪失していく病気である。

・この病気が進んでいくと、新しい場所的な体験をくり込んだ居場所モデルがつくれなくなっていくので、そのことが他者の妨害によるものではないかと誤解して敵意をいだくこともしばしばある。

→したがって他者が一緒に生活していくことが困難になる。

・次第に居場所と相互誘導合致できなくなり、自己の居場所モデルを確認するための場所の徘徊がはじまる。そして終には、居場所に自己として存在できなくなるという悲惨な状態になる。このように自己の存在喪失がどこまでも不可逆に進行していくのである。

 

◇介護の中心的な課題

・この病気の人が求めるような居場所モデルをどのようにして実質的に補って、居場所との相互誘導合致を助けるかということが介護の中心的な課題になる。

→病気の人が信頼して存在を任せられることがどうしても必要である。

・居場所における体験の記憶は感情という「糊」によって円環的時間に接着されている。その糊が接着力を失って記憶が剥がれ落ちてしまい、居場所モデルを作れなくなってくるため、必要なものは直線的な時間の上に記憶される論理によっておこなわれる正誤の判断ではなく、失われている場所的感情をそれとなく補うことである。

・求められるのは、円環的時間を生み出す限りない善意であり、直線的時間の上での論理ではないのである。

 

(場の研究所 清水 博)

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)

 

場の研究所メールニュース 2022年05月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

5月になり大型連休の中、いかがお過ごしでしょうか?

コロナも感染者数が減少してきていることと、症状が軽くなってきたことで、ストレスも少し減ってきた感もあります。しかし、ロシアのウクライナ侵攻は相変わらずで、さらにエスカレートしてしまっています。ロシアは国境を拡げることより、失われる生命と〈いのち〉の方が人類として重要であることを理解しておらず、とても悲しいと思います。

 

さて、4月の「ネットを介した勉強会」は4月22日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは『「沈黙の世界」からの誘い』でした。

勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催ですが、従来通り第3金曜日の5月20日にしたいと思います。清水先生からの「楽譜」のテーマは「老化と認知症」の予定です。

基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

 

存在の矛盾?

 

洗濯機が壊れました。

7年目、微妙な年数です。

修理の連絡に、まだ、直るのか直らないのか結果は出ていません。

これが良くない。

直らないと判ったなら、とっとと新しい洗濯機を買えば良い訳ですが、まだ直るかもしれないとなると、中途半端です。

こうなると壊れた洗濯機は、洗濯機が壊れた時に私を釘付けして離しません。

もし直らないなら…、と、まだ注文もできない新しい洗濯機の物色が始まります。

買うことができない物色は寂しいものです。

泡で洗浄とか、滝のような水流とか、槽の自動洗浄とか見慣れない言葉が並び、行き先の無い機能は、どれも魅力的に感じ始め、そして、その空想(妄想)の中では、完璧な洗濯機が出現し、それを追いかけ始める。

しばらくすると、その妄想の完璧な洗濯機は、どのメーカーからも販売されていないこと思い至る。

魅力は泡のように消える。

この繰り返しで、どこまで行っても終わりがない。

この前に進めない感覚が地味に辛い。

更に、ふと気づくと、夜が更けている。

どうして、本当にやらなければいけないこと差し置いて、この、現状では意味のないことに執着してしまうのでしょうね。

やるせないです。

いや、黄昏ている場合じゃない。

問題は、今日の洗濯であった。

今日の洗濯物を洗濯して、乾かして、明日着る服を手にできるようにすること。

毎日の生活のために、この壊れた洗濯機を前に何が出来るだろうか?

そうだ、コインランドリーへ行こう。(笑)

〈いのち〉の活きの誘いに気づくと早いですね。(笑)

 

求めていたのは、「完璧な洗濯機」じゃないのに、いつの間にか、それを追いかけている自分がいる。

大事なのは、明日着る服なのに。

それは、つまり、毎日の生活という中にある大切な時間であり、人生の舞台の話なのに。

ああ、これは、たかが洗濯の話で良かった。

 

今月のメールニュースのコメント文としてどうかとも思ったのですが、的外れでもないようにも感じましたので、駄文、どうかお許しくださいませ。

 

以上

――――― 

4月の勉強会の内容紹介(前川泰久):

◎第23回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

 

★テーマ:「円環的な時間のつながり」

◇「この自分」という意識について

・どの様に始まって、どのように続いていくか分からないこの大きな宇宙の片隅に、「この自分」という意識をもっている生きものである一人の人間が、なぜかこの瞬間に存在している「奇跡的な謎」に思いを寄せて、与えられたそのできごとの大きさに相応しい生き方をすべきであるという思いが、青年期以降、私自身が何かに思い悩むときに、その悩みを吹き消してくれた。

・私が学問に集中したのも、そのことが宇宙の「ここにいまだけ存在している」というこの謎に、自分なりに応えることになると思ったからである。

・両親があって「この自分」の存在が現れたことは間違いないが、どうして現れた存在が自分の兄弟姉妹ではなく、「この自分」であるのか、そしてなぜ「この自分」は、これまでも、またこれからも、二度と現れることはないのか。

→自己自身の存在の謎を考えるためには、まず「この自分」という意識がどのようにして生まれてきたかという謎を解かなければならない。

 

◇謎を解くための考え方と言葉の関係

・その謎を解くために出発点となる二つの間違いない柱がある。

(1)一つは、「この自分」は両親から与えられた自分自身の〈いのち〉をもっているということ。

(2)もう一つは、「この自分」は言葉(日本語)によって自分の意識を表しているということ。

→その結果、私は自分自身の〈いのち〉の活きを自分の言葉によって自由に表現できるだけでなく、言葉以外の手段で何かを表現する場合でも言葉の助けを借りる。たとえば夢を見ているときにも、その内容を言葉によって理解しているし、「痛い!」「熱い!」という瞬間も言葉が出る。また感情の動きにも言葉を伴う。

・このようなことから私は次のように推測している。:「人間は自分自身の〈いのち〉をもって生まれてくるのだが、その〈いのち〉の活きそれ自体を言葉によって表現することができるように、幼児期から言葉を習得し、やがて〈いのち〉と言葉が結びついて一体となって、「この自分」という意識が形成されていくのだと!」

・年と共に言葉の学習が進んで、両者の一体化も進むが、子どもの様子を見ていると、4歳頃に〈いのち〉と言葉が結びついて、「この自分」の核が生まれると思われる。このことの反面として、言葉によって表現できない存在の領域からは、「この自分」は離れていくのである。

 

◇言葉と沈黙の世界

・言葉と結びついている「この自分」が存在する領域を「線形領域」と呼び、そこから離れている存在の領域を「非線形領域」と呼ぶことにする。

・線形領域の特徴は直線的な時間のように線形的な時間が存在することであり、また非線形領域には円環的時間が存在している。

・この二つの領域を分けているのが外在的拘束条件であり、線形的領域の「この自分」の存在に外から影響を与えている非線形領域を「沈黙の世界」と呼ぶことにする。

(注)この名前はピカート著の『沈黙の世界』(みすず書房)から借りたものであるが、内容はかなり異なっていると私(清水)は思う。

・言葉の特徴は、情報理論からも推測できるように、加え合わせることができるという法則(加法則)が成り立つこと、つまり線形法則が成り立つことである。

・禅の修行は言葉では直接表現できない「沈黙の世界」の存在を深めていくが、この領域の大きな特徴は〈いのち〉の自己組織(場所の〈いのち〉の自己組織)がおきているということである。

・円環的時間は、これから説明するように、「沈黙の世界」における〈いのち〉の自己組織によって生まれるのである。

 

◇自己組織という現象について(レーザーを例にした考え方)

・まず自己組織という現象を理解するために、ガスレーザーを例にしてレーザー光線の自己組織がどのようにおきるのかを説明する。

・レーザー管のなかにはレーザーアトムという要素がいっぱい入っており、その要素に外からエネルギーを連続的に与える。要素は与えられたそのエネルギーを光のエネルギーに変えて発光する。その光が集まってレーザー光線になるのだが、そのためには光の自己組織が必要になる。

・光は光子という粒子であるが、波としての性質をもっていることはご存知だと思う。レーザーのあちこちの要素から発光される光子の波はばらばらで揃っていない。レーザー光線は波の揃った秩序の高い光であるから、レーザー光線をつくるためには、あちこちの要素から出される光子の波を揃える必要がある。

→そのために使われているのが放出される光子の自己組織現象である。

 

◇レーザーにおける光子の自己組織化を考える

・ガスレーザーの端には相対した鏡がついているので、レーザーの中で生まれる光の波の内でたまたまその端がその両端の鏡のところにくるような光の波だけが両端の鏡の間で何回も反射をして、レーザーの中に長い時間残ることになる。

・一方、エネルギーを与えられている要素からおきる光子の放出には二つの異なる方法がある。

(1)一つは自然放出で、その場合はあちこちの要素から波の揃っていない光子が出てくる。(2)もう一つは誘導放出ですでに存在している光に刺激されておきるものである。この場合は、刺激を受けた光と波が揃った光子が放出されるのである。

・レーザーの両端にある鏡の間に波の光子だけが誘導放出によってレーザーの中に自然に増えていくことになる。

→これが秩序の高い波の揃った光子の自己組織である。

・鏡の一方は半透明になっているから、そこから波の揃った光子の集まりがレーザー光線として外へ送り出される。両端の鏡の間の位置的関係はレーザーの中で自己組織される秩序の高い光子の集まりを選択するから、自己組織の拘束条件と呼ぶことができる。

 

◇〈いのち〉の自己組織とレーザーの自己組織の比較

・〈いのち〉の自己組織はガスレーザーにおけるレーザー光線の自己組織と比較してかなり複雑であるが、その大まかな形は既に「くり込み相互誘導合致」や「場の即興劇モデル」によって示されている。

・レーザーと異なる点として注目されるのは、要素が〈いのち〉をもっていて自分自身で外からエネルギーを取り込んで、それを〈いのち〉の活きに変えて居場所に表現するということ、さらに要素が多様で互いに異なっているということである。

・そしてレーザー光線に相当して、要素の〈いのち〉の表現から自己組織的に生成される秩序は居場所の〈いのち〉の表現である。

・「即興劇モデル」では、多様な〈いのち〉の要素を多様な「役者」とし、その表現をその「役者」の「演技」とし、居場所に自己組織される秩序を「舞台」に表現される「ドラマ」とした。

 

◇「くり込み相互誘導合致」の考え方

・「くり込み相互誘導合致」の表現を使うと、要素が「鍵」、自己組織される居場所の秩序が「鍵穴」ということになる。

・多様な要素は互いにつながって居場所の秩序を自己組織していくから、自己組織をしている要素をまとめて「鍵」とし、各要素をその「鍵」の部分と見ることもできる。

・またレーザーの拘束条件に相当するものが「即興劇モデル」では「観客」になる。

「観客」の希望に合致しない「ドラマ」は受け入れられないからである。

・「観客」は「居場所の居場所」や「宇宙」に相当し、レーザーでは、自己組織されていく光による誘導放出を受けて自己組織現象が進んでレーザー光線が生まれるのであるが、この光の誘導放出に相当する活きを「くり込み相互誘導合致」でおこなっているのが「鍵」と「鍵穴」の相互誘導である。

・相互誘導は〈いのち〉が居場所の秩序である「鍵穴」を自己組織的に生成するために必要なのである。「鍵穴」は「鍵」を包むことによって、その「鍵」を「鍵穴」に加えて包む活きを大きくして新しい「鍵」を包んでいく。このことによって「舞台」としての居場所に表現される「ドラマ」が先へ進んでいくのが「くり込み相互誘導合致」による〈いのち〉の自己組織の進行である。

 

◇「鍵穴」と「沈黙の世界」

・一方、「この自分」という人間の意識は、すでに説明したように、自分を世界の中心に置く言語的な表現の活きによって形づくられるものであるから、自己組織されていく居場所の〈いのち〉の活きである「鍵穴」による誘導のように、場として間接的にはたらいていくような活きを上手く受け止めることができない。

・いわば、言語的表現の限界の先に「鍵穴」の世界が展開しているのである。このことから人間は、ともすれば「鍵」の集まりの世界を意識しながら生きてしまう傾向をもっている。

→したがって人間の意識は「鍵」の世界に留まって、繋がりのない競争的関係を互いの間に生みだす傾向にあり、「鍵穴」の世界はそこから離れた言語を越えた「沈黙の世界」としてしか意識されないことになる。

 

◇レーザー発光の閾値の考え方と自己組織

・レーザー発光の要素であるレーザーアトムに外からエネルギーが与えられて、そのエネルギーが光子になって要素から発光されるのであるが、外から与えるエネルギーの単位時間あたりの総量が少ないと、発光する要素の総量も少ないことになる。

・そのことは両端の鏡の間に波の揃った光子が定常的には存在できないことを意味するから、その光による誘導放出もほとんどおきず、レーザー光線は生まれない。

・外から与えるエネルギーの単位時間あたりの総量がある閾値になるまでは波の揃っていない光がレーザーから出てくるだけであるが、閾値を超すと波の揃った光子が自己組織的にどんどん増えていき、レーザー光線の発光がおきる。

・このような閾値のある自己組織現象を非線形現象と言う。

 

◇「くり込み相互誘導合致」の時代変化

・相互誘導合致は「鍵」を要素の〈いのち〉とし、「鍵穴」を居場所の〈いのち〉とする〈いのち〉の自己組織現象で、ここから西田哲学の矛盾的自己同一を引き出すこともできるのですが、さらに一段進んだ「くり込み相互誘導合致」では、歴史の自己組織が生まれる。

・生物進化はこの「くり込み相互誘導合致」という一段階進んだ〈いのち〉の自己組織が居場所としての地球に生まれることによっておきてくるのである。

・人間の社会は産業革命以来めまぐるしく変化をしてきたが、それは「くり込み相互誘導合致」によって社会の文化や構造を大きく変えながら歴史的進化が速い速度でおきてきたからである。

・その速度もますます速まり、今では常に閾値の前でこれから自己組織的に生まれる「鍵穴」は何かを予測しながら周囲の「鍵」の変化の様子を見て生きていくような生き方が求められていく。

・そこで自己の〈いのち〉をしっかり捉えて、自分なりの生き方を設定しなければ、カオス的な社会の変化に振り回されて、「ここに、いま存在しているこの自分」の生き甲斐のある人生を生きることが難しなってしまうのである。

・そこに〈いのち〉の「沈黙の世界」とは何かを考える大きな意義が生まれてくる。つまり、「この自分」という「鍵」と相互に誘導し合う「鍵穴」の発見が重要な意義を持ってくるのである。

 

◇円環的時間としての「沈黙の世界」

・その「沈黙の世界」であるが、「くり込み相互誘導合致」の活きによって、「包むことによって、さらに包んでいくことになる」という関係がどこまでも「この自分」に続いていく終点のない円環的時間の世界である。

・したがって「この自分」の「くり込み相互誘導合致」による〈いのち〉の自己組織は直線的時間(終点のある時間)の「この自分」の人生と円環的時間の「沈黙の世界」における人生がクロスする現象として意識される、つまり人生において「永遠の今」が意識される現象として現れることになる。

・「鍵」としての意識は相互誘導の活きをする秩序である「鍵穴」を意識に描くことによって〈いのち〉の自己組織に向かって生きることができるが、そのような活きの例が〈いのち〉の秩序に相当する阿弥陀仏を「南無阿弥陀仏」と唱えて意識することである。

・宇宙の「ここに、いまだけ」生きて存在しているという自覚も、直線的時間と円環的時間のクロスによって生まれる〈いのち〉の自己組織への誘いである。

 

(場の研究所 清水 博)

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)

 

 

人間の意識は言葉に強く結びついていますが、言葉はその構造から考えて、線形的にものごとを表現する手段ですから、存在のように本質的に非線形的な活きを表現することは苦手です。そこで存在は人間の意識を超える(言葉で表現できない)「沈黙の世界」に置かれることになります。そこで非線形的な活きを表現するために、私たち人間には言葉を超える新しい「〈いのち〉を活用する表現の方法」が常に求められているのです。(清水 博)

               

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◎2022年5月の「ネットを介した勉強会」開催について

5月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第3金曜日の20日に開催予定です。よろしくお願いいたします。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

なお、今後のコロナの状況を見ながら、「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催が決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2022年5月1日

場の研究所 前川泰久

場の研究所メールニュース 2022年04月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

4月になりました。新年度で新たな気持ちで仕事をスタートされる方もいらっしゃると思います。本来、桜も咲いて明るい季節のはずが、ロシアのウクライナ侵攻が継続し、この戦争が世界中を巻き込んでしまっています。生命と〈いのち〉の大切さを全く理解しない指導者がいることに危機感を感じます。

 

さて、3月の「ネットを介した勉強会」は3月18日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは「円環的な時間のつながり」でした。

勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催ですが、4月1日が金曜日のため、予定の第3金曜日が4月15日となり、かなり早めとなってしまうため、第4金曜日の4月22日にしたいと思います。ご注意ください。清水先生からの「楽譜」のテーマは、『「沈黙の世界」からの誘い』です。基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

 

今回の勉強会を終えて、こんなことを思い返しました。

 

朝起きて、朝食の支度の前の少しの時間。

窓辺のテーブルでぼんやりと考えごとをしたり、本を読んだりしながら、窓の外に来ている地域猫に視線をやり、今日は二匹とも来ている、とか、いつもより遅いだとか話題にする。

家人と言えば、飼い猫を膝に乗せながら、編み物か、繕い物の時間と決めているようだ。

この手段でも目的でもないと言ったら良いだろうか、この時間が好きだ。

一日の中のほんの短い時間。

始まりと終わりがはっきりしない時間。

行ったり来たりする時間。

振り返ると懐かしい時間。

私の時間なのか、家人の時間なのか、猫の時間なのか、誰の時間かもはっきりしない暖かな時間。

 

円環的時間とは、このような時間だろうか。

 

他の普段の一日の時間と言えば、もっと、目的的というか、手段的というか、そういう時間で、効率とか最適解とかが重宝される時間ですね。

それはそれで必要なのかもしれないけど、効率を究極まで上げていくと、その時間は、限りなくゼロに近くなって、つまり、自分が消えてしまいそうになる。

業務を効率化する仕事をしていたとき、このことに気づいて、気が滅入ったことを思い出します。

そう、「ああ、こっちの方じゃない」と感じて、違う方に舵を切ったのでした。

その頃、なんとなく違和感を感じていたことに、ここで、それがどうしてなのかが分かったような気がして、少しだけ安心をもらえたように感じています。

 

勉強会のやりとりの中で、私の発言に『「街」が無くなっているということは、住民が「人としての存在」を失っているということです。』(清水博)と返してくださったことが刺さります。

 

「存在の場」が消えている。

しかし、争うように、世の中に「小さな存在の場」は生まれていますね。

応援したいです。

同時に、その存在の場そのものの存在の場が無いようにも感じます。

これは危ういです。

 

「人々が存在するための舞台となる居場所が存在するための条件…。」

「外在的拘束条件…。」

 

皆さんと一緒に考えて、話していけたらいいなぁ、そう思っています。

 

 

以上。

――――― 

3月の勉強会の内容紹介(前川泰久):

◎第21回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

 

★テーマ:「円環的な時間のつながり」

◇自己における場とは

・私たちが家庭をつくるときのように、自己の〈いのち〉の活きを、自分が存在している場所に与贈して居場所をつくり、その居場所の〈いのち〉に包まれて生活している時には、与贈した自己と与贈先の場所とが鍵と鍵穴のように相互に誘い合って合致して非分離な関係になっている。

・この非分離な関係をもう一歩具体的に言うと、場所の変化と自己の脳を含むニューロ・ネットワークを含む身体の変化が相互整合的におきているという状態になっているのである。

・したがって、自己がこの居場所に存在するときには、自己の身体の内部には相互誘導合致によって変化が現れ、それが自己に場として感じられる。

 

◇場所と自己の非分離な関係について

・柳生新陰流の剣の修行を重ねるように、相互誘導合致の修練を積み重ねていくと、その非分離の状態も非常にデリケートなまでに合致した状態となって、その活きも日常的な常識を越えて微妙なレベルになると考えられる。

・場所と自己のこの非分離の関係を西田哲学では、矛盾的自己同一「一即多、多即一」と名づけているが、そこで「一」は場所、「多」はその場所を共有する人びとの身体で表現されるような存在状態である。

・私はそれを「〈いのち〉の状態」と呼んできたが、それは私たちに実際に感じられるのはニューロ・ネットワークをはじめとする身体の状態ではなく、居場所と非分離的な〈いのち〉の状態であるからである。

 

◇居場所という〈いのち〉について

・自分の家庭と他人の家庭では場の感じ方が異なる。それは自分の家庭では相互誘導合致によって非分離状態が生まれていることから、場を強くそして温かく感じるが、他人の家庭ではその非分離の状態がほとんどできていないので、場を弱くまたよそよそしくしか感じられないからある。

・ここで一つの居場所に、その居場所と非分離の関係になっている人が存在しているときには、居場所にも、居場所の〈いのち〉が生まれていると、私(清水)は考えている。

・それは〈いのち〉を「存在を継続する能動的な活き」であると、私が定義しているから可能なのである。

(清水コメント:私の〈いのち〉は世間一般に言われてきた「いのち(生命)」とは、少し異なっているかも知れません。)

 

◇家庭の〈いのち〉

・家族が家庭と調和的で非分離な関係をつくって存在しているときには、その家庭にも、その関係を継続して行く能動的な活きとして「家庭の〈いのち〉」が生まれると考えなければ、多様な家族の人びとが自己の存在を家庭に任せて一緒に生活していくことはできないと思う。

・存在者の多様性とその共通の居場所における調和的な関係は、地球における多様な人びとのあり方を含めて、ますます重要な問題となってくるが、居場所としての地球にも〈いのち〉が生まれるかどうかが、その核心的な問題になると思う。

 

◇円環的な時間の中に居る時とは

・人びとと居場所とが互いに非分離になっているときには、人びとは〈いのち〉の与贈循環によって生まれる円環的時間のなかにある。

・その時間は「舞台」としての居場所と、それと非分離な「役者」としての人びとの間に〈いのち〉の活きが循環することによって生まれるドラマ的時間に相当する。

・これに対して、人びとが居場所と分離している時に生まれるのは直線的な物理的時間である。

・このことから、居場所と非分離状態の時に生まれる「場」に存在するときには人びとは円環的時間の中にいるので、そこで生まれるできごとに「〈いのち〉のドラマ」や「〈いのち〉の物語」を感じるのである。

・私たちが互いの間につながりを感じるときは、同じ一つの居場所に存在して、円環的時間によって互いにつながっている時、つまり同じ「〈いのち〉のドラマ」を演じているときであり、また互いに競争しているときには直線的時間に存在しているのである。

 

◇居場所における共創の重要性

・人びとの存在が互いにつながるために、強めて言えば、人びとのニューロ・ネットワークの活きが互いにつながるために必要なことは、円環的時間によって互いのニューロ・ネットワークの活きが時間的につながることであり、存在が空間的につながっているだけでは足りない。

・この時間的なつながりのために最も有効なのが、同じ居場所において共創をすることである。たとえば私たちのネットを介した勉強会の「楽譜」の「演奏」に最後まで付き合っていただくことが、この共創を実行して互いが時間的につながるために必要なのである。

→理由:創造は与贈によって生まれるので、居場所との〈いのち〉の与贈循環が居場所における共創を進めていくからである。

 

◇共創について

・私たちの身体には、空間的に互いに離れて多様な臓器や器官が存在していますが、それらはそれぞれの〈いのち〉を与贈することによって「居場所の〈いのち〉」を身体に共創している。

・それらは空間的に離れて存在しているが、〈いのち〉の与贈によって円環的時間をつくり、互いに時間的につながって、身体の状態を共創しているのである。

→この例のように、多様な存在者が共創によって共通の同じ居場所と非分離な状態になるのである。

・このように円環的時間において共創がおこなわれること示している法則が、居場所と存在者の相互誘導合致である。〈いのち〉をもった多様な存在者のつながりを一般的に考えるときには、矢張り〈いのち〉の時間的なつながりを考えることが必要であり、共創を法則的に考えると居場所の〈いのち〉の自己組織になるのである。

 

◇〈いのち〉の定義

・ここで〈いのち〉の定義に戻る。

・私たちの勉強会や場の研究所の研究の出発点を〈いのち〉にしているのは、ここから出発すれば論理的な推論によって先へ進むことができるからである。

→つまり、論理だけでは取り扱うことができない「存在」を〈いのち〉のなかに囲い込んで、直接、取り扱わなくてもよい形にしているのである。

・「存在」を一般的に取り扱おうとすると、宗教的な分野にまで入り込んでいかなければない。

 

◇自己の存在とは

・たとえば、『私自身(自己)はこれまでの過去やこれからの未来には、またこの広大な宇宙には存在していないのに、なぜ「いま、ここ」にだけ存在しているのか』ということは、私には分からないが何かその原因があるはずである。

・ここで考えているのは、卵子と精子が合体して生まれた身体という「物体」ではなく、「自己の存在」である。

→つまり、AIによっては表現しきれない「存在の主体としての自己」である。

・そして「いま、ここ」に存在しているのが、私(自己)である」と、その私(存在の主体としての自己自身)がパラドックスに陥ることなく自己言及できる理由が注目される。

 

◇「いま、ここ」いる自己の存在とは

・自己言及のパラドックスを避けるためには、居場所と存在者の相互誘導合致の関係のように、自己の存在という「鍵的存在」を「いま、ここ」に生み出していく「鍵穴的存在」(存在の居場所)があることが必要である。

・また「いま、ここ」にいる自己の存在を説明できなければ、自己の死後の存在、あるいは少なくとも死の瞬間の自己の存在についても説明できないことになる。

・無理のない考えは、『「存在の居場所」に位置づけられて、自己は「いま、ここ」に存在している。死後の存在はその「存在の居場所」との関係によって決まる』というものであると思う。

 

◇存在の居場所について

・人類が「存在の居場所」に位置づけられている自己自身の存在を直観して生みだしてきたのが宗教であると、私は考える。

・宗教にも、様々なものがあるが、世界的に受け入れられている宗教の型に相当するのが、自己の存在を「鍵穴的存在」(「存在の居場所」)に生まれる永遠の円環的時間における存在であると考えることである。

・そして自己の誕生から死へ向かう直線的時間が、この円環的時間と交わることによって生まれるのが「いま、ここ」における自己の存在(「鍵的存在」)である。

→存在の居場所が「一」、そこに存在している自己は「多」に属して、存在が「一即多、多即一」の形をとって現れているのである。

 

◇「居場所」の〈いのち〉を生み出すための拘束条件

・存在者が自己の〈いのち〉を場所に与贈することによって、そこに〈いのち〉が自己組織されて「居場所の〈いのち〉」が生まれてくるのであるが、その〈いのち〉の自己組織がおきるためは、その場所に既に(その居場所の〈いのち〉を生み出すための)外在的拘束条件があって、与贈した存在者の〈いのち〉が自己組織されて生まれる居場所の〈いのち〉はその拘束条件に合致していることが必要なのである。

・この状態のときに「存在の居場所」という〈いのち〉のある存在が生まれて、そして与贈循環(円環的時間)の生成がおきるのである。

(後述する「南無阿弥陀仏」の念仏はこの外在的拘束条件に相当する。

 

◇存在の居場所と浄土真宗

・このようにして生まれる「存在の居場所」との関係で自己の(浄土における)存在を理解していく宗教の一つの例が親鸞によって開かれた浄土真宗である。

・浄土真宗では、「浄土」を凡夫としての自己の存在に阿弥陀仏が念仏を通して与える「存在の居場所」であると考える。

・親鸞によれば、浄土は「存在の居場所」であるから、死んでから行くところではなく、阿弥陀仏を信じたときに浄土に生まれることが決まると親鸞は考えている。

・そして親鸞が唯一の真実の経であると見なしている大無量寿経では、「すなわち仏の名号(南無阿弥陀仏)をもって経の体とするなり」と言っている。

(「体」とは実体ということある。)

・外在的拘束条件が既に存在して、仏の名号を唱える(念仏)という形で存在者に与えられているということが、浄土真宗の核心的なポイントである。

 

◇浄土について

・大乗仏教の経典は全部で8万4千もあるということである。そのほとんどが自己からの与贈を続けることによって「存在の居場所」を獲得する自力仏教であるが、大無量寿経はそのような自力の修行ができない人びと(凡夫)に対して、仏の方からその居場所を与贈する非常に数少ない他力の経典の中心的な経である。

・凡夫としての自己の存在が地獄(「存在の居場所」のない不確かな状態)に陥らずに、「存在の居場所」である浄土に救われる道は、親鸞を信頼して、心から「南無阿弥陀仏(ナンマンダブ)」と(〈いのち〉の自己組織の外在的拘束条件を)唱えるだけでよいのだが、凡夫としての自己には「この自分にはそれ以外には助かる方法がない」と思い切ることがなかなかできないのである。

→それは「浄土」が目に見えない「存在の居場所」を意味する根源的な言葉であることを深く理解できないからだと思う。

 

◇浄土真宗の二つの回向について

・親鸞は「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」と言っている。往相回向によって浄土へ行くだけでなく、還相回向によって浄土からこの俗世にもどって迷える人びとを救うこと、すなわち円環的時間における存在を「仏に救われた存在」であると考えている。

・浄土真宗においても、この円環的時間と人生の直線的時間とが交わることで、「存在の居場所」と自己の存在とが相互誘導合致して自己に存在を与えるのである。

・『時間的にも空間的にも限りのない宇宙の「いま、ここ」にだけ、この自己が存在している』と自覚できることは、すでにその存在が「存在の居場所」に位置づけられて救われている状態なのである。

 

◇居場所としての地球

・多くの宗教が、それらが生まれた地域の誕生の時代の文化によって教義や形態を制限された形で現在まで伝えられてきたことから、多様な文化を背景にした人びとが共存在していくこの新しい地球時代に、異なる宗教の間で深刻な紛争を生みだしていることや、一国の政治が特定の宗教的集団によって思想的な影響を強く受けることがおきていることを、このまま無視していくことはできないと思う。

→そういうことから、「居場所としての地球」への自己の〈いのち〉の与贈という観点に一度戻って考えることが重要になっていると思う。

・その意味で地球を居場所にする歴史の時代がすでに始まっているのである。人びとが「自己が「いま、ここ」に存在しているこの機会に、自己の〈いのち〉を地球に与贈する」ことを願って、自己の〈いのち〉を共通の居場所としての地球に与贈して、互いの存在を円環的時間によってつないでいくことは、宗教的な観点から見ても重要であると考える。

 

◇外在的拘束条件について

・柳田国男の『山の人生』を読むと、若い女性が現在のような社会的な活動基盤を持っていなかったことからか、山に入ったまま引き返せなくなって、山に住みついてしまうということが、当時はままあったようである。

・そう言うことから、私は外在的拘束条件は存在の拘束条件であり、内在的拘束条件は〈いのち〉の拘束条件ではないかと思っている。このように考えると、二重の拘束条件がある意義も理解できる。 

 

(場の研究所 清水 博)

 

以上

(資料抜粋まとめ:前川泰久)

               

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・・・

◎2022年4月の「ネットを介した勉強会」開催について(今月は4月22日)

4月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第4金曜日の22日に開催予定です。よろしくお願いいたします。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

なお、今後のコロナの状況を見ながら、「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催が決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2022年4月1日

場の研究所 前川泰久

場の研究所メールニュース 2022年03月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

3月になりました。いかがお過ごしでしょうか?春の気配も感じられるこの頃です。

しかし、オミクロン株の感染もなかなか収束せず、医療機関の逼迫が心配です。皆様も感染にはくれぐれも注意されてお過ごしくださればと思います。

そして、今度はプーチンのウクライナ侵攻が始まり信じられない世界情勢が始まってしまいました。共存在の考えをもっていないのではと感じています。

 

さて、2月の「ネットを介した勉強会」は2月18日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは「存在と多様性の調和」でした。

勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催は、従来通り、第3金曜日の3月18日を予定しています。内容は、前回説明のあった「円環的な時間の流れ」に関する内容の予定です。基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

 

「人々が互いの違いを重んじながら助け合って生きていける、そのような「場」が生み出され、広まること、それが私たちの願いです。」

 

場の研究所のホームページにも書かれている私たちの活動の目的です。

今、改めて声に出して言いたいことです。

 

先月のこのまとめでも書きましたが、今、この「ネットを介した勉強会」は、この想いが具体的に現れているように思われます。

ときに勉強会は、とても難しい話題を扱っていますから、さぞやキリキリと緊張した場なのかと思われるでしょうが、さにあらず、です。

とても難しい話題が話し合われているこの場が、とんでもなく暖かいのです。

互いに相手に興味を持って、感じていることを声に出していくことで生まれる気持ちは優しいです。

夕焼けの中に身を置いて、綺麗だね、って言って頷きあっているような…、そんな感覚です。

普段、身の回りにある競争原理の世界にはない、一人ひとりの存在を認め合える時間があるように感じています。

疑うのなら、一度、参加してみてください。(笑)

このような場をつくることができて、嬉しく、そして、感謝しています。

更に、続いて、嬉しいお知らせを…。

 

【お知らせ】

平凡社から3月1日に発売された『「別冊太陽」土井善晴 一汁一菜の未来』、で土井善晴さんと清水博所長の対談(往復書簡形式)「深化した純化」が掲載されています。

今、まさに「ネットを介した勉強会」で学んでいる話題が広がった最新の対談となっております。しかも、誌面8ページ(しかも、文字が小さい。(笑))と読み応えありです。

また、土井善晴さんのこれまでと今、そして、これからが詰まっているとても素敵な特集誌です。

ぜひ、お手に取ってみてくださいませ。

(実は、この会、私、こばやし研究員が、ネットを介した勉強会に倣って、メールでの往復書簡形式の対談をコーディネートさせていただきました。直接会っての対談ができない中、是非とも対談を実現させたいと、知恵を絞らせていただきました。無事、対談が実現したこと、嬉しく思っております。)

https://www.heibonsha.co.jp/book/b598261.html

 

 

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2月の勉強会の内容紹介:

◎第21回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

 

★テーマ:「時間とその構造」

◇多様な存在者とその居場所について

・私たちの身体には多様な臓器や器官があって、それぞれ特異的な活きをしている。心臓と胃と肝臓、また目と耳と鼻は互いに全く異なる個性をもって活いているが、互いの活きを妨げ合うことはせず、互いに協力して、身体に調和的な状態をつくり出している。

・一口に言えば、多様な存在者がその居場所としての身体に調和的に存在しているのである。しかし、多様な存在者としての人間の存在とその居場所となると、上手くいく場合もあるが、永遠の課題のようになって上手くいかない場合も少なくない。

・そこで〈いのち〉の世界では、どのようにして多様な存在と調和の関係を解決しているのか、その原理を知ることは、いま現在、際どい状態で地球に住んでいる人間にとって非常に意義のある問題である。

 

◇多様な存在と調和の関係を解決する考え

・この問題をどのような角度から考えていくかであるが、社会における人間の存在のあり方が法律によって決められていることからも想像できるように、居場所における多様な存在者の存在のあり方を決める活きをもっているのは、居場所に活く拘束条件である。

・法律に国際法と国内法とがあるように、拘束条件にも外在的拘束条件と内在的拘束条件とがある。その両拘束条件の活きによって、多様な存在者が居場所において存在する状態が変わるが、一般的に言えば、調和的な状態が生まれるためには存在者の間につながりが生まれることが必要になる。

・そのためには、どのような拘束条件が必要であろうか。この問題を解きほぐしていくためには、先ず、拘束条件の活きを受ける存在者が居場所で生きている状態を掴まなければならない。 

 

◇存在を位置づける拘束条件について

・存在者の居場所におけるつながりには、大別して、空間的なつながりと時間的なつながりとがある。身体における多様な臓器や器官は、空間的には互いに離れて活動しているから、時間的につながっていると考えられる。またネットを介しておこなわれる私たちの勉強会も時間的なつながりを生み出す。

・そのつながりを生み出すための勉強会のルールが固定された内在的拘束条件に、そして「楽譜」が描く世界が外在的拘束条件に、そしてその「演奏」から生まれる私たちの勉強会のかかわり方が内在的拘束条件に相当する。

・このことから推定して、多様な活きをもった存在者がつながるためには、時間的なつながりが必要であり、そのためには、外在的拘束条件が共有される「居場所」が先ず必要であり、次にその「居場所」にそれぞれの存在を位置づける内在的拘束条件が必要になる。

(先月の勉強会では、陰の時間と陽の時間という形で、この二種類の拘束条件の活きを考えてみた。)

・時間的につながることとは、〈いのち〉によってもっと深化した表現をすると、どういう活きになるのだろうか。

 

◇自己と居場所との非分離性について

・「居場所に生きていく」ということは、「居場所における自己の存在を絶えずその居場所に表現し続けていくことである」と、私(清水)は考えている。

・このために自己と居場所の状態は、自己が生きていくことによって非分離になっていくのある。

→したがって、同じ居場所に存在していても、生きていくものと生きていかないものは、その居場所と非分離的になっているか、いないかによって区別される。

・居場所と非分離的であることから、生きものが生きていくことによって、居場所にはその生きものの歴史が生まれる。しかし生きていないものが存在していることによって、その歴史が居場所に生まれることはない。

→このことは、居場所において自己が生きていくための拘束条件の少なくとも一部に、その居場所自身がなっているということを意味する。

・私たちの勉強会では、皆さんが互いに興味をもって言葉をかけ合うことで、居場所の状態を非分離にしているのである。

 

◇ロイスの自己表現的システムについての復習

・ここで昨年勉強したJosiah Royceの自己表現的システムを思い出してみよう。

・一人の画家がその居場所としての一つの部屋にいて、その部屋を限りなく正確にスケッチするという命題を実行しようとしている。そのスケッチを始める時には、その部屋には「部屋のスケッチ」は存在していなかったので、それは描かれていない。

・しかしスケッチを終えた後では、その「部屋のスケッチ」が部屋に存在しているので、画家のスケッチは「限りなく正確に部屋を描く」という命題にかなった状態になっていない。そこでそのスケッチを加えた部屋をスケッチする。それで限りなく正確な部屋のスケッチができたかと言うと、残念ながらそうはなっていない。

→その理由は、実際の部屋には「スケッチをスケッチした絵」があるのに、描かれているのは部屋をスケッチしただけの絵であり、現実に存在している「スケッチをスケッチした絵」が描かれていないからである。

・そこで命題にしたがって、部屋の状態を限りなく正確にスケッチするために、さらに「スケッチをスケッチした絵」をスケッチすることになるが、しかし残念ながら、それでも実際の部屋の状態を完全にスケッチすることはできない。

 

◇自己言及のパラドックスおける拘束条件

・このようにしてどれ程スケッチを重ねていっても、部屋を完全に正確に描くことができないのは明らかである。それは居場所としての部屋が、画家がスケッチをする度に新しい状態(新しい内在的拘束条件)を生み出すからである。

・画家は居場所としての部屋が生み出していく内在的拘束条件に縛られて部屋を描き続けなければならない。このような無限の繰り返しが現れるのは、画家のスケッチが居場所を(自己とそれと非分離な居場所という)「大きな自己」として自己言及のパラドックスを表現する形になっているからに他ならない。

・「大きな自己」がその「居場所」をもっていないために、自己言及のパラドックスが生まれてしまうのである。

→この自己言及のパラドックスを避けるために必要なことは、明らかである。それは「大きな自己」を「居場所」となる世界に置くこと、言いかえると、自己表現的システムに適切な外在的拘束条件を与えることである。

 

◇外在的拘束条件の必要性

・では、Royceの自己表現的システムは無意義なシステムだろうか?

→そんなことはない。生きている活きを表すために自己言及できることを示している。

しかし、生きていく活きを示すためには、さらにくり込み相互誘導合致によって歴史的時間を生成していく方法を示す必要がある。

・このように自己表現的システムの大きな欠点は、居場所が存在している外側の世界が考えられていないために、システムが「大きな自己」となってしまい、「居場所」と相互誘導合致の形がとれないために、どこまでも自己言及を続けていくという点である。

・しかし、自己表現的システムは非常に重要なことを教えてくれる。それは、既に生きている形はとれているので、さらに適切な外在的拘束条件を与えるならば、生きていく形を示してくれる可能性があるということである。

(居場所に生きている存在者が居場所に歴史的な時間を生みだすのは、存在者が居場所においてその居場所を両拘束条件の下で表現するように生きていく状態にあるときであるということが分かる。)

・それは居場所において生きていくことが、たとえば民話のような形で外在的拘束条件によって、その居場所を外側の世界に位置づけつつ、継続的に内在的拘束条件を生成していく生き方であることを示唆している。

 

◇居場所における自己と「くり込み相互誘導合致」について

・具体的には、外側の世界に開かれた居場所に存在者としての画家がいて、その画家がその居場所と相互誘導合致をしながら生きていくことを考える。

(自己表現的システムには、「鍵」の活きだけがあって、「鍵穴」の活きに相当するものがないが、このように居場所が外在的な世界に開かれていることを仮定することで、居場所に「鍵穴」としての活きを与えることになる。)

・このように開かれた居場所が「全体」であり、その居場所に(非分離の状態で)存在する自己はその「全体」を構成している「部分」である。「居場所を表現するように生きていく」ということは、「全体」を「鍵穴」とし、「部分」を「鍵」として、「鍵穴」と「鍵」とが相互に誘導し合いながら合致するように生きていくということである。

・そして画家が部屋のスケッチを続けながら、「部分」の活きを次々と「全体」にくり込んでいくのである。

→つまり、居場所における自己は、居場所に対して「くり込み相互誘導合致」を重ねながら生きていくのである。このように「くり込みを重ねていく」ということは、自己が居場所における「歴史的時間を重ねていく」ということである。

・それでは、画家はどのようにスケッチをし、どのように居場所にくり込んでいくのだろうか?

 

◇家族と家庭を例に考える

・ここで外の世界に開かれた居場所と画家の例として、私たちの家庭と家族としての私たち自身のことを考えてみよう。

・家族は家庭に生まれる場と整合的な〈いのち〉の活きを生みだして、生活の「舞台」である家庭に表現する。その表現が画家(家族)による居場所(家庭)のスケッチに相当する。そのスケッチが正しいかどうかは(DVのようなものでないかどうかは)、それが外在的拘束条件(社会的条件)に合致しているかどうかで判断される。

・そして外在的拘束条件に合致していれば、家庭への与贈として取り上げられて、家庭に与贈循環が生まれる。つまり円環的な時間の流れが生まれて、家庭を「舞台」とし、家族を「役者」とする「〈いのち〉のドラマ」が先へ進む。この「ドラマ」が家庭という居場所において生きていく形になる。

・このように、開かれた居場所に与贈することで円環的な時間の流れが生まれて生きていく形が生まれる。

・ここで自己言及的システムのように、外在的拘束条件の活きのない閉鎖的な居場所では、直線的な時間の流れしか存在しないので、自己言及がどこまでも続いてしまうのである。

 

◇〈いのち〉与贈循環の重要性

・少しまとめてみよう。

・私たちの身体や家庭のように、一つの居場所に多様な存在者が存在して調和的に活動していくことができる状態が生まれるのは、各存在者に「存在者の〈いのち〉」があるばかりでなく、居場所にも「居場所の〈いのち〉」が存在しているからである。それは、すべての存在者が協力して「居場所の〈いのち〉」を自己組織的に生成し、そしてその「居場所の〈いのち〉」によって包まれる形をつくって存在していくこと、すなわち、「〈いのち〉の与贈循環」によっておきているのである。

・必要なことは、居場所が開かれていることを前提とした「多様な存在者の〈いのち〉の活きの居場所への与贈」と「与贈された〈いのち〉の活きの居場所における自己組織」である。

・この自己組織によって、多様な存在者の存在がつながり、居場所に「居場所の〈いのち〉」が生まれて、存在者の存在を一つにまとめる。

(この自己組織がおきるためには外在的拘束条件を満たすことが必要である。)

・自己組織という現象の一般的な性質から言えることであるが、居場所における〈いのち〉の自己組織のために個体が活くことと、その活きによって自己組織された居場所の〈いのち〉にその個体が包まれることが、分離できない形(非線形の形)で循環的におきるという特徴がある。

・この非線形性のために、私たちの身体や家庭のような開放的なシステムでは、時間が競争的社会のように直線的に進んでいくのではなく、与贈循環をともなって円環的に進んでいくという特徴が生まれる。

→一口に言えば、多様な存在者の存在が円環的に進行する時間によって、時間的につながるのである。ここに物事の本質的な核心がある。

 

◇円環的な時間の流れ

・Royceの自己表現的システムでは、居場所としての部屋に「鍵穴」としての活きがない上に、一人の画家しかいないので、与贈された〈いのち〉が自己組織されて、時間が画家と部屋の間を円環的に流れることが示されていない。

・歴史的な時間が生まれるためには、時間の円環的な流れが必要であるから、モデルとしてはそのことをはっきり見せる必要がある。そこで複数の画家が同じ部屋に一緒にいて、互いに共創しながら同じ画板(「舞台」)にその部屋をスケッチしていく(「役者」としての表現をしていく)ことにすると、「〈いのち〉の与贈循環」らしい円環的な時間の流れの形が見えてくる。

・しかし複数の画家(「役者」)が互いに無関係に各自の画板(「舞台」)にスケッチしていく(表現していく)ことになると、互いに他の画家のスケッチもスケッチ(他の「舞台」における他の「役者」の表現も表現)しなければならなくなるので、非常に複雑なカオスが生まれて混乱し、実行できなくなってしまう。

・円環的な時間の流れが生まれるためには、多様な存在者がそれぞれの〈いのち〉の活きを同じ居場所(「舞台」)へ与贈することによって生まれる居場所の〈いのち〉の自己組織がどうしても必要である。

 

◇「鍵穴」としての拘束条件を考える

・私たちの身体の内部の多様な活きを、相互誘導合致の活きによって一つにまとめて〈いのち〉の自己組織を進めている「鍵穴」は、具体的に何処にあるだろうか?

・たとえばそれは、私たちの身体を包んでいる皮膚なのだろうか?それとも皮膚は身体を構成している多様な存在者の一つであると考えるべきなのだろうか?

・「鍵穴」は居場所と非分離的につながっているはずだが、皮膚の特徴が居場所からの分離であり、居場所との非分離の状態を創出していないことから、私は「鍵穴」としての拘束条件は、皮膚ではなくて、人としての存在感を与える「見えない存在の活き」であると清水は思っている。

・それは受精卵から始まる個体の形態形成によって生まれてくる目に見えない人としての存在の活きであり、その存在が居場所の状態と非分離になって場を生みだしていると考えているのである。

・そして「鍵」としての身体と「鍵穴」としての存在とが相互誘導合致することによって、「鍵」の境界(表面)にできるのが皮膚であると考えている。「鍵穴」としての存在が実際に人が生活している居場所と非分離になっていることから、人としての存在感にその人の居場所における生活がある程度非分離的に反映されると考えている。

・非分離的な状態になっている居場所の状態が、人の存在を通して間接的に活く相互誘導合致的拘束条件を通して、身体や顔にある程度写しとられていくのではないかと思っている。

 

◇円環的な時間の流れの重要性

・多様な存在者が同じ居場所にいて、それぞれ特有の活きをしながら、居場所に調和的な状態をつくっているのは、それぞれの活きがその居場所への与贈になっているために、時間の円環的な流れが居場所に生まれているからである。

・時間の直線的な流れの下では、存在者の活きが衝突してカオスが生まれてしまう。同一の居場所に多様な活きをする存在者が共に存在しているということは、言葉を変えれば、そこに時間的なつながりが生まれて、矛盾的自己同一「一即多、多即一」が成立しているということである。

→したがって矛盾的自己同一が居場所に成立する条件は「円環的な時間の流れが生成する」ということである。その円環的な時間の流れが生まれるためには、内外の両拘束条件が満たされることが必要である。

・歴史的時間はくり込みによって進むことから、「くり込み相互誘導合致」は時間の円環的な流れの上で、両拘束条件にもとづいて、〈いのち〉の活きを歴史的に発展させていく形になっている。(ロシアのプーチン大統領にはくり込み相互誘導合致の思想がないから、ロイスの自己表現的システムをウクライナで実現しようとしていると清水は考える。)(場の研究所 清水 博)

 

以上

(資料抜粋まとめ:前川泰久)

               

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◎2022年3月の「ネットを介した勉強会」開催について

3月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第3金曜日18日に開催予定です。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

なお、今後のコロナの状況を見ながら、「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催が決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2022年3月1日

場の研究所 前川泰久

場の研究所メールニュース 2022年02月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

2月になりました。いかがお過ごしでしょうか?

新年最初から日本も急激に新型のオミクロン株の感染が広がり、なかなか厳しい状況になってしまいました。早く、元の生活が戻ってくることを願ってやみません。

また、大学受験の時期ですが、悲しい事件が起きてしまい、世の中における「存在」についての議論がまだまだ必要と感じました。

 

さて、「ネットを介した勉強会」は2022年第1回目、通算20回目として1月21日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは「時間とその構造」でした。

勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。

参加人数も27名とこれまでで一番多く、お互いのメールを読む時間がかかるという状況でしたが、有意義な議論ができたと思っております。

 

そして、今月の「ネットを介した勉強会」の開催は、従来通り、第3金曜日の2月18日を予定しています。基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを参考にして下さい。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

(場の研究所 前川泰久)

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

 

「腑に落ちた」と言うお話二つ。

 

この「ネットを介した勉強会」では、私は、「案内役」と「参加者」と二役で参加していることになります。

勉強会の日の時間割では、2時間半ほどの時間なのですが、終わった時の疲労感は、実はかなりあります。(笑)

(念のために…。疲れてはいますが、不快ではありません。)

この疲労感について、今回、勉強会の楽譜「時間とその構造」から、なるほど、と腑に落ちたことがあります。

 

(楽譜については、メールニュースのまとめをご覧になってください。ここでは、具体的内容ではなく、こばやしの納得について書いてみますので。)

今回の楽譜では、”時間を存在から見ることで「舞台の時間」と「舞台裏の時間」という表と裏の二元論が成り立っているように見える”という話が進みます。(この2つの時間を楽譜では「陽の時間」と「陰の時間」と表しています。)

そうか、「案内役」の私は「陰の時間」で、「参加者」の私は「陽の時間」と見ても良いのだろうか。

もし、そうだとすると、楽譜にあるように、2つの時間は交互に現れるのではなくて、「陰の時間」は連続的に流れていく、その上で不連続に「陽の時間」が生まれていることになる。

つまり、2時間半 x 1.5(くらい?)。

これは、疲れる訳だ。(笑)

いや、楽譜ではこう言うことを言ってはいません。

こばやしが勉強会終了後にヘトヘトになる自分の納得の話です。

お聞き流しください。(笑)

 

もう一つ、腑に落ちたことがあります。

それは、「陰の時間」が存在できる条件としての外在的拘束条件の話です。

「…外在的拘束条件が物語の形となって入り込んで来たものが、このような多数の民話ではないか…」

「民話は人びとに「〈いのち〉のドラマ」の演じ方を示します…」

(楽譜より)

「ネットを介した勉強会」を作っていた時に、弱さから見つけた様々な条件がありました。(もちろん、コロナで集まれないという社会状況という条件も。)

そして、これらを外在的拘束条件としてできたルールが「ネットを介した勉強会」のやり方になるのですが…。

このルールをハイと渡しただけでは、ちょっと冷たい気がしていました。

そうではなくて、何かこう、あたたかさがある形に変えて渡してあげることができたらいいな、と思っていました。

このことを考え続けていた時に、ふと、「往復書簡」というキーワードが生まれました。

「往復書簡」、良いんじゃないか。

何かこう、懐かしく振り返ることができるような、あたたかい感じを持てる感じがする。

一つ、感じているのは、もしかするとことの「往復書簡」は、物語の形として、この勉強会のルールを伝えてくれたのかもしれない、そう思いました。

このことで、ここ(勉強会の場)では、どのように振る舞えば良いのか、皆さんが見当をつけることができたのかもしれない、と思ったのです。

…これもまた、こばやしの納得の話ですので、理論の説明ではないことは改めて添えておきます。

 

この二つの腑に落ちたことが、なんだか改めてあたたかな気持ちになせてくれたことが嬉しくて、ここに書かせていただきました。

 

以上。

 

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1月の勉強会の内容紹介:

◎第20回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼ぶことにします。)

 

★テーマ:「時間とその構造」

◇「舞台の時間」と「舞台裏の時間」

・私たちの人生に夜の眠りはどのように関係しているのだろうか。

その眠りの時間に見る夢が昼間の時間の生活と直接的な関係がある場合はむしろ例外的で、多くの場合には関係があるとしても間接的なものである。

・しかし、その眠りの時間がなければ、私たちは生きていくことができない。

・私たちの人生という「〈いのち〉のドラマ」を時間から眺めると、連続的に続いているものの、それを存在から見ると、「舞台の時間」と「舞台裏の時間」という表と裏の二元論が成り立っているように思える。

 

◇紙芝居という劇場

・私が子どもの頃、昭和10年代の前半には、子どもの娯楽が非常に少なく、紙芝居と言えば、その例外的なものの一つであった。

・紙芝居のおじさんが自転車の後ろの荷台に木でできた「劇場」を積んできて、どこかの空き地で子どもたちを呼び集める。一銭程度のお金を払うと、その自転車のまわりに立って、紙芝居を見ることができる。さらに一銭から五銭程度のお金を払えば、お菓子を買って、それを食べながら見ることができた。

・「劇場」には、色彩ついた絵を描いたボール紙のように部厚い紙が重ねて入っていて、その最後の紙の裏に一枚目の絵の説明が書いてあるようだった。一枚目の絵の説明が済むと、それを一番後ろにもっていく。するとその裏には、二枚目の絵の説明が書いてある。紙芝居のおじさんは咽に力を入れた職業的な声で絵のなかのさまざまな「役者」の声色を出しながら、一人で「芝居」を演じていく。

・私はその時間の長さが裏に書いてあると思う説明より長いなあと思いながら、楽しんで見ていた。やはり「芝居」の筋には続きがあって、その次の日も来たくなるような状態になっていた。

 

◇「ドラマの時間」について

・この紙芝居の「ドラマの時間」は紙の表の絵を続けることから生まれてくる。しかしその絵は映画のように連続してはいない。用の終わった絵をとって、その下から次の絵を出さなければならないが、その操作は人がしなければならない。またその間に近くの子どもからお金を取ることもしなければならない。これらは舞台裏の操作であり、ドラマとは直接関係がないが、このような操作がなければ、ドラマ自体が成り立たない。

・このことは一日の終わりに、私たちが眠らなければ、次の日の活動が生まれないことに喩えられる。紙芝居の絵から絵へと切れ目なく続いていく「ドラマの時間」のように、私たちの「〈いのち〉のドラマ」も眠って夢を見ている時間を飛ばして、次の日へと続いていく。

・さらに細かく見ると、食事をしている時間なども、「舞台裏の操作」の時間に相当している可能性がある。自分の過去の人生を振り返ったときに、特別の思い出のある場合を除いて、どんな食事をどのように取ったかを思い出せないからである。

⇒それはどんな夢を見たかを思い出せないことと似ている。

 

◇「陽の時間」と「陰の時間」

・生まれて死ぬまでの間を通して、私たちの肉体は連続的に生きている必要があり、その間を流れていく時間が客観的な物理的時間である。これは意識の裏側で〈いのち〉を支えている時間ですから、「陰の時間」と言うことにする。

・そして紙芝居の「ドラマの時間」のように意識が不連続に目覚めて「〈いのち〉のドラマ」を演じ、歴史的な時間――「陽の時間」――を生みだして、人生という歴史を形成していく。見かけは、「舞台の時間」と「舞台裏の時間」が交互に生まれるように見えるが、実際は、「陰の時間」は連続して途切れることなく続いており、その上にさまざまな形の「陽の時間」が不連続的に現れているのである。

・そのさまざまな形の「陽の時間」を意識が編集して、人生という「〈いのち〉のドラマ」を形づくっていくのである。紙芝居という「ドラマ」を生み出すためにおじさんが絶えずはたらいていることが、一生という「陰の時間」の間はたらき続けている人の〈いのち〉の活きに相当する。

 

◇「陽の時間」と「陰の時間」の内外拘束条件

・「ドラマ」には「舞台」が必要である。「陽の時間」はその「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」となる居場所と共に存在の世界に現れる。その出現を支配するのが「ドラマ」のストーリー、すなわち居場所における内在的拘束条件である。

・これに対して、その「陽の時間」が存在している「陰の時間」が存在できる条件を示しているものが外在的拘束条件である。外在的拘束条件が見つからない場所では、人生そのものが成立しないのである。

・外在的拘束条件が見つかる場所を「舞台」(居場所)として生まれる「〈いのち〉のドラマ」のストーリーに相当するのが内在的拘束条件である。紙芝居の「ドラマ」のストーリーである。このストーリーが存在するから、自分で人生を編集できるのである。

・その編集能力は相互誘導合致の能力と関係がある。ストーリーは「舞台」となる場所の〈いのち〉の自己組織によって生まれるのである。

 

◇柳田国男の「遠野物語」における外在的拘束条件の重要性

・柳田国男は遠野の人佐々木喜善より聞いた遠野郷の民話を感じるままに書き写したものを『遠野物語』と題して明治43年に出版した。遠野郷は遠野町を中核にした十ほどの村の集まりだが、周囲を高い山によって囲まれている雪深い郷である。柳田はこのような物語はこの地方にまだ数百もあるだろうと書いている。

・このような民話をなぜ私が取り上げたかと言うと、この地域の村を「舞台」としている人びとの生活に、その「舞台」を取り囲んでいる山々から生まれる外在的拘束条件が物語の形となって入り込んで来たものが、このような多数の民話ではないかと思っているからである。

・民話は人びとに「〈いのち〉のドラマ」の演じ方を示す。その拘束の上で、人びとは内在的拘束条件にしたがって生活していたのである。それだけ厳しい拘束条件を受けていたのだと思う。

・そのことを示すために遠野郷には他に比がないほど多数の石塔が立って、人びとに信じるべき民話がそこに存在していることを示している。明治の末の遠野郷とはどの様なところであっただろうか。『遠野物語』の冒頭には次のように書かれている。

 

◇柳田国男の『遠野物語』の冒頭の紹介

(岩波文庫「遠野物語・山の人生」柳田国男著 岩波書店より引用)

 

花巻より十余里の路上には町場(まちば)三カ所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚だし。或いは新道なるが故に民居の来たり就ける者少なきか。遠野の城下はすなわち煙花の街なり。馬を駅亭の主人に借りて独り郊外の村々を巡りたり。その馬はくろき海藻をもって作りたる厚総(あつぶさ)を掛けたり。虻(あぶ)多きためなり。猿ケ石の渓谷は土肥えてよく拓けたり。路傍に石塔の多きこと諸国その比を知らず。高処より展望すれば早稲まさに熟し晩稲は花盛りにて水はことごとく落ちて川にあり。稲の色合いは種類にさまざまなり。三つ四つ五つの田を続けて稲の色の同じきはすなわち一家に属する田にしていわゆる名処(みょうしょ)の同じきなるべし。小字(こあざ)よりさらに小さき区域の地名は持主にあらざればこれを知らず。古き売買譲与の証文には常に見ゆる所なり。附馬牛(つくもうし)の谷へ越ゆれば早池峯(はやちね)の山は淡く霞み山の形は菅笠(すげがさ)のごとくまた片仮名のへの字に似たり。この谷は稲熟することさらに遅く満目一色に青し。細き田中の道を行けば名を知らぬ鳥ありて雛を連れて横ぎりたり。雛の色は黒に白き羽まじりたり。始めは小さき雛かと思いしが溝の草に隠れて見えざればすなわち野鳥なることを知れり。

 

◇清水の子供時代の環境における外在的拘束条件

・昭和14年に小学校へ入る少し前から私たちの家族が住んでいたのは、愛知県の瀬戸市の郊外にある借家であった。近くには藪林があり、その中に入ると太陽の光が遮られて、昼間でも暗く感じた。

・私は毎日のように昆虫を追いかけてその中に入ったが、これ以上奥へ進むと帰りの道が分からなくなるという位置を心得ていて、それ以上は進まないように注意していた。夏から秋にかけては、家の周囲には雑草が一面に高く茂り、道を隠していた。

・私より7歳下の弟がまだほんの幼児の頃、その草の間に這って入って独りで遊んでいたが、周囲の草のためにその姿が全く見えなかった。弟がいないことに気づいた母親を始め、近所の人びとも、彼が誘拐された可能性があると考えて大騒ぎになり、あちこちを探したが、もうこれ以上探すところがないという状態になった時に、彼が自宅のすぐ横の草の間に座っているところが見つかって皆大安心した。子どもたちは、見知らぬ人につれられて行って迷子にならないようにと、常に厳しく親から注意されていた。

・と言っても、自宅の近くには東京(帝国)大学の農学部の建物や演習林があって、角帽をかぶった学生たちの姿が時々見えたり、陶生病院という公立病院があって、多くの人々が入院しており、また自分たちもそこで治療を受けるという状態であった。

・そのような施設のある土地を、瀬戸市と中央線の高蔵寺駅を結ぶ国鉄のバスが走っていた。それでも外灯がないために、夜は真っ暗で、足がすくんで前に出ないという状態であった。

・これが戦前のかなり開けた郊外の姿であるから、このことから考えても、深くて広く厳しい山に囲まれた遠野郷に明治時代やそれ以前に暮らしていた人びとには、山や林に踏み込んだ後で、自分が住んでいる郷へ確実に引き返せることが極めて重要であったと思う。

・石塔は、民話につながった道標(みちしるべ)として、家庭や自分の郷を中心に生活をしていたために、成人の男性に比べて土地勘の少ない女性や子どものためにも、意味の分かりやすい道案内をしていたと思われる。

 

◇神話における外在的拘束条件

・神話も外在的拘束条件が居場所に物語として入り込んでくることによって生まれる。ここで注意しなければならないのは、それは民話の場合よりもさらに最新の注意を払って、神話が内在的拘束条件と混同してしまわないようにする必要があるということである。

・神話の真実はそれが生まれた時代において境界を包んでいた外的世界との〈いのち〉の関係の真実である。しかし少し長い歴史的時間が経てば、境界の外側の世界も変化をしていくから、その神話はもう世界の現状に合わなくなっている。

・このような状況にあるときに、昔つくられた状態のまま固形化した神話が居場所の内在的拘束条件に混入したままその居場所が未来に向かって進んでいくストーリーをつくると、居場所の活きが現実の外在的拘束条件と整合しなくなる。しかし固形化したその神話に邪魔をされて、そのことが居場所に生活している人びとになかなか気づかれない可能性があるのである。

・昭和時代に大戦を始めた日本の悲劇もこの状態と関係していたし、また現在では世界の現実から離れたタリバンの政治にもおきている。

 

◇「〈いのち〉のドラマ」の時間

・昔、深い山や林に入って引き返せなくなったことは、現在では認知症の人が道を見失って自宅に帰れなくなる状態に似ていると思う。それを避けるためには、道のあちこちに目印を付けた道標を置いて、その地点がそこに立つ人の存在にとってどういう意味をもっているかを知らせる必要がある。

・もしも、その意味が民話に結びついているならば、その意味を「〈いのち〉のドラマ」によって理解することができる。時間の重要な性質であるが、「〈いのち〉のドラマ」のなかの時間にはすべて意味がある。

・その意味を発見するためには、自分が過ごしてきた時間を編集して、その居場所における「〈いのち〉のドラマ」の時間につなぐ――時間を編集して時間をつくる――ということがあり、詩や音楽や踊りなどの芸術もその編集によって生まれる。

・そのために重要な活きをしているのが、外在的拘束条件を物語として内在化させる活きである。また、この活きが〈いのち〉の自己組織と結びつくことによって生物進化を生み出す活きが生まれてくる。

・このことから、この両拘束条件と民話との関係に大きな興味が生まれる。

→たとえば、四国八十八カ所の霊場巡りにおける「二人同行」も、その特殊な形である。

 

◇〈いのち〉の時間の編集について

・〈いのち〉には、時間を編集できるという活きがある。それは〈いのち〉が「時間の源泉」であり、その存在から時間を生成したり、時間を吸収したりすることができることと関係がある。

・またその〈いのち〉の活きを時間から切り離そうとすることから、自己言及のパラドックスが生まれるのである。私たちの「勉強会」でも、「オーケストラ」として、存在の時間(「〈いのち〉のドラマ」の時間)の生成を共有することによって、〈いのち〉そのものがつながるのである。

・時間というものを思い出してみると、どのような場合も居場所の状態の変化に関係して計られている。したがって、一般的には、その状態の変化に関する情報として記録される。人間が記録できる時間とは、自己の存在の変化を基準にした居場所における状態の変化を表現する情報である。

・自分自身の状態も含めて、居場所の状態が全く変わらなければ、時間が経っていることを知ることはできない。時間の長さを測る時計という道具は、それ自身が状態を変化させて、その変化の大きさを情報として伝える活きをもっている。

(→高速で飛んでいる飛行機の速さは、その飛行機を見ている人がいる居場所によって変わる。それはその居場所によって変化に関する情報の生じ方が異なるからである。地上から見ている人に情報が生じる量を基準にすると、その飛行機と並んで飛んでいる飛行機から見ると、他に全く変化がないと仮定すると、変化の情報がないことから飛行機は動いていない、つまり時間が経過しないことになる。)

 

◇民話になった外在的拘束条件の意味

・飛行機のなかに置かれていて静止しているものは、飛行機と並んで一緒に飛んでいる飛行機から見れば、やはり静止していて時間的に変化をしないが、地上から見れば、その飛行機と同様の速さで変化をしているから、同じ速さで時間的に変化をしていることになる。

・ところで、どれほど速い飛行機でもその速度を測定できるかと言うと、光の速度より速い飛行機の速度を測定することはできない。このことは時間の源泉としての〈いのち〉の活きに関係して、一定の時間に測定できる情報の量には限界があることを意味している。

・そのことは、光と同じ速さで飛んでいる飛行機のなかで、その飛行機が飛んでいる方向に動いている人を表す情報がないと言うことだから、地上の居場所から見ると、飛行機のなかで止まっているように見えることになる。このように、時間を居場所における変化の情報量であると考えると、相対性理論と同様の結果が出てくる。

→実際、パソコンやスマホで毎日多くの情報を忙しく追いかけていると、あっという間に時間が過ぎて竜宮城の浦島太郎のようになってしまう。

・民話になった外在的拘束条件は、内在的拘束条件の暴走にブレーキを掛ける活きをしていたと思う。光速度一定という大きな前提も、人類の暴走にブレーキを掛ける外在的拘束条件かも知れない。外在的拘束条件が物語になって、民話として居場所に入り込んでくることで、人びとは人生をゆっくり送ってきたのである。

・拘束条件を顕わな形にして競争原理に結びつけて表面へ出してくる現代という時代を、私たちはどのように生きればよいのだろうか?

(場の研究所 清水 博)

 

以上

(資料抜粋まとめ:前川泰久)

               

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◎2022年2月の「ネットを介した勉強会」開催について

2月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第3金曜日18日に開催予定です。

よろしくお願い致します。

 

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

なお、今後のコロナの状況を見ながら、「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催が決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2022年2月1日

場の研究所 前川泰久

 

場の研究所メールニュース 2022年01月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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皆様

 

場の研究所の理事の前川泰久でございます。

12月になり師走ということで皆様お忙しくお過ごしかと思います。

コロナの感染も、何とか減少した状態を保っているので、精神的にも、少し余裕が出てきた感じですが、マスク・消毒を含めた予防安全は継続していきたいと思います。

 

11月の勉強会は19日(金曜日)に勉強会を開催。

皆様のおかげで「ネットを介した勉強会」も18回目となりました。ありがとうございます。

テーマは「自己表現的システム」でした。

なお、勉強会にご参加された方々、ありがとうございました。

 

そして、今月12月の「ネットを介した勉強会」の開催は、従来通り、第3金曜日の17日に予定しています。基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。毎回コメントしていますが、ネット上でも「共存在」の居場所が生まれていると感じておりますので、その原因を探りながら改良を重ねて継続し、広げて行きたいと思っています。

 

「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを参考にして下されば幸いです。

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきた

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

 

◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:

 

「広く誰もが楽しく考え、一緒に思考力を深めていける、という特徴」

 

「ネットを介した勉強会」の方法のユニークさってなんでしょうか。

先の勉強会の後、ふとしたきっかけがあって、このことを考えてみることになりました。

折角なので、掻い摘んで紹介させてください。

 

ITの技術的な面からは、「電子メールが使えるならば参加できる」と言う点が一つだと思います。また、特徴としては、参加している全員が発言できて、全員の意見が読めること。会の進行はガイドが頼れる上に考えたり書いたりは、自分のペースで行えること。

 

…これだと特徴というよりは、説明的ですね。

 

毎月、電子メールを使って勉強会を行っています。それは、知識を身につける機会と言うのでなく、勉強会そのものが楽しみであるかのような時間を一緒に作っているようです。例えるならば、オーケストラが、毎月、作曲家から新しく届く楽譜を作曲家と共に演奏する演奏会と言うのが近いかもしれません。

 

また、例えば「方法のユニークさ」は、1つは、学習の進め方がルーティンで構成されていること、だと思います。

 

楽しく考えさせて、思考力を深くするという特徴もありますね。

 

はい。その為に、進め方は即興的ではなく、順を守れば良いようになっています。その分、身構える必要もなく、聞き逃さないように緊張し続ける必要もなくしてあります。ネットはどうしても情報が先に届いてしまうので、自分が感じられなくなってしまうと感じたから、手続きに気を取られて欲しくなかったのです。このこともあって、広く誰もが参加できるようになっています。

 

まとめると。

この「ネットを介した勉強会」は、

広く誰もが楽しく考え、

一緒に思考力を深めていける、

という特徴がありますね。

 

以上。

 

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11月の勉強会の内容紹介:

◎第18回「ネットを介した勉強会」の資料

(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼ぶことにします。)

 

★テーマ:「自己表現的システム」

 

1.自己表現的システムに対するロイスの考え

・19世紀の後半から20世紀の初めにアメリカで生きたJosiah Royceは客観的な理想主義の哲学を唱えた人として知られている。

・ちょうど20世紀になった頃、彼は“The World and the Individual”という本を出版したが、その付録に「英国にいて何処までも正確な英国の地図をつくる」という課題を実行する活きとしてSelf-Representative System (自己表現的システム)を提唱した。

→英国の地図の制作ということでは、私たちにはピンとこないので、「英国」を私たちの家庭のような「居場所」に置きかえて、居場所にいて、その居場所をどこまでも正確に表現する「地図」を作製する活きとして自己表現的システムを考えてみることにする。

 

2.地図づくりでの課題

・この「地図」をつくる上で重要なことは、居場所を外から見るのではなく、その居場所の内にいて、その「地図」をつくるということである。実際、内に存在してその家庭と非分離的な存在にならなければ、家庭のことはよく分からない。

・居場所に存在して、その居場所の「地図」をつくるわけであるから、できあがった「地図」もその居場所に存在することになる。

→したがって、その「地図」がどこまでも正確に居場所を表現するためには、当のその「地図」自身も、その「地図」に描き込まれていなければならないことになる。

 

3.自己言及のパラドックスについて

・「地図」をつくり始めたときには、居場所にはその「地図」は存在していないので、できあがった「地図」にはその「地図」自身は描かれていないことになる。

→このことは、「地図」がどこまでも正確であるという要求に反することになるので、その「地図」を加えた新しい「地図」を改めてつくらなければならないことになる。

・しかし、その新しい「地図」をつくってみると、居場所には、新しい「地図」に描かれている旧い「地図」と、新しい「地図」自身の合計二枚の「地図」があるのに、新しい「地図」には旧い「地図」だけしか描かれていないことから、新しい「地図」を加えたさらに新しい「地図」をつくる必要が生まれてくる。

→このようにして、現在の「地図」をつくることが、必然的に次の「地図」をつくる活きをつくり出すために、「地図」をつくる活きが―居場所がそれ自身を表現する活きが―いつまでも終わることはない。

・自己が居場所と非分離的になって、このようにして居場所の完全な「地図」を作製する作業には、自己が自己自身をどこまでも完全に表現する(自己言及する)という操作が含まれてしまう。

→自己が自己自身を定義しようとすると、定義が循環するばかりでどこまで行っても終らない状態―自己言及のパラドックス―が生まれることは昔から知られている。

・この自己言及のパラドックスによって、同じ操作を無限に繰り返していく必要が生まれるので、「地図」を無限に描き続けなければならなくなるのである。

 

4.拘束条件について

・居場所とそれと非分離な自己からなるシステムに、自己言及のパラドックスが生成するのを防ぐ活きをするのが拘束条件である。

・その拘束条件としては、外在的拘束条件と内在的拘束条件の二種類が必要になる。

1.外在的拘束条件は居場所の外部世界への境界条件として、居場所と外部世界の関係を定義する。

2.内在的拘束条件はシステムにおける居場所とそこに存在する自己の関係を定義する。

・ロイスの自己表現的システムの外在的拘束条件(システムの外的境界条件)は「居場所とその外部世界の境界」を含めて居場所が定義されていると考えることができる。

・しかし、居場所とその内側ではたらく自己とは、互いに非分離につながってシステムを構成していることが決められているだけで、居場所とその内部に存在している自己の間には、内在的な境界(内在的拘束条件)は存在していない。

→その結果、居場所と自己とが連続的になってシステムを構成しているために、システムが自己言及のパラドックスの影響を受けて「地図」をどこまでも生成していくことになるのである。

 

5.自己言及のパラドックスの発生をふせぐ考え方

・自己の存在が居場所とこのように非分離になっていることは、自己の存在が居場所と連続的になっていなければならないということではない。

→たとえば私たちの身体とその内部にあるさまざまな臓器や器官の存在は非分離だが、各臓器や器官は連続的につながってはいない。それぞれが身体のなかでその存在を位置づけられて、その存在に応じた独自の活きをしているのである。

・このようにシステム「全体」に各「部分」の存在を位置づけて、各「部分」にその存在に応じた活きをさせるのが内在的拘束条件である。自己表現的システムでも、身体における臓器や器官の存在のように、自己の存在をシステムに位置づけて自己言及のパラドックスの発生を防ぐ必要がある。

・またその他方で、自己にとって必要なことは、自己自身がシステム全体にどのように位置づけられているか、その存在を知ること―居場所における内在的拘束条件を知ること―である。それが分からないと自己言及がおきてしまうのである。

 

6.現代における自己言及パラドックスについて

・ロイスの自己表現的システムには、このように内在的拘束条件が与えられていないという大きな欠点があるが、彼が自己表現的システムという概念を新しくつくって、「現在の活きが次の活きを企画して、活きを次々とどこまでも生成し続けていく」という考え方によって生命の本質を捉えようとした点は、高く評価できると思う。

・実際、自己表現的システムの研究の重要さは現在でも増えるばかりである。

→たとえばSNSの急速な発達によって個人とその居場所としての社会の関係が非常に複雑に入り組んできて、多くの人びとが自己表現的システムのカオスに巻き込まれて苦しんでいる。

・また外在的拘束条件や内在的拘束条件を超えて勝手に送られてくる自己の「地図」のために、多くの人々が被害に遭い、出口のない自己言及のパラドックスに陥って悩んでいる。

→人間と自己表現的システムの関係には、これからも必要になってくる奥がまだあるように思われる。

 

7.ロイスの理論の改良

・それではロイスの理論をどのように改良していけばよいのだろうか。その自己表現的システムの理論を乗り越えるために、少し具体的な例について考えてみることにする。

・居場所としての家庭とその家族の存在は非分離で、家族から家庭への〈いのち〉の与贈と家庭から家族への〈いのち〉の与贈という与贈循環によって〈いのち〉の活きがつながっているのである。

・家庭と家族の存在は直接的につながっていなくても、互いに誘導し合って鍵と鍵穴のように離れてつながっている状態にある。

→このように「離れてつながっている」ということは、「鍵」としての家族と「鍵穴」としての家庭の間に内在的な境界(内在的拘束条件)が存在していることを意味している。

・家庭はこの境界を介して、家族の活きを誘導したり制限したりする。この境界が存在しているために間をおくことができるので、家庭における家族の状態は安定している。(家庭が崩壊する直前は別ですが、)

→その状態がロイスの自己表現的システムのように不安定になることはない。

 

8.家庭における内在的な境界による安定状態の作成

・家族のこころに自己組織的に生れる家庭のイメージが、家族が描く居場所の「地図」に相当する。家庭のために家族がはたらくことが、家族の家庭(居場所)への〈いのち〉の与贈であるが、与贈の度に家族と家庭の関係が微妙に変化していくので、それに応じて「地図」が僅かずつ描き変えられて変化していくことになる。

・しかし内在的な境界(内在的拘束条件)が家族の存在を守って家庭に安定した状態を生みだしているので、家族から家庭への〈いのち〉の与贈が安定した状態でおこなわれて、家庭のイメージ(「地図」)が僅かずつ変化していく点が、存在の不安定性によって「地図」が増殖的にどこまでも増えていくロイスの自己表現的システムと異なっていることになる。

 

9.「役者」と「舞台」という考え方について

・ここで家族と家庭を「役者」と「舞台」と見なし、家族の家庭生活をその「役者」たちが「舞台」において自己の〈いのち〉を即興的に表現する「〈いのち〉のドラマ」(即興劇)であると捉えることにする。

・「役者」たちが「舞台」において、その〈いのち〉を表現することが「役者」たちの〈いのち〉の与贈であり、「舞台」が「舞台」の〈いのち〉によって「役者」たちの〈いのち〉を包んで、それぞれの存在を「舞台」に位置づけることが「舞台」から「役者」への〈いのち〉の与贈である。この「舞台」からの〈いのち〉の与贈によって、「役者」の「舞台」における役割が決まる。

・〈いのち〉の与贈によって、「役者」と「舞台」の間を〈いのち〉が循環することが〈いのち〉の与贈循環で、内在的な境界(内在的拘束条件)が存在しないということは「舞台」が定義されていないということだから、家庭における家族の存在は他所の家庭にいるように不安定なままである。

 

10.言葉の追加説明

・「役者」と「舞台」によって生成する「〈いのち〉のドラマ」に関する内容的には同じ現象でも、それを〈いのち〉の活きに注目して見るのが「〈いのち〉の与贈循環」で、存在とその〈いのち〉の表現に注目して見るのが「相互誘導合致」である。

・「役者」たちが「〈いのち〉のドラマ」で共に自己を表現する「舞台」は、家族の〈いのち〉の居場所としての家庭への与贈によって生まれる。「役者」の〈いのち〉の表現が「舞台」でなされたときには、それは「鍵」の形を「鍵穴」に向かって表現したことになる。「ドラマ」が続いていくと、「役者」がおこなった〈いのち〉の表現は次第に「舞台」に移されて「鍵穴」を形づくっていく活きをしていく。

・「〈いのち〉のドラマ」では、「役者」たちの〈いのち〉の表現に新しい「部分」が生まれると、それまでの「部分」が「全体」の方にくり込まれて、新しい「部分」(「鍵」)と新しい「全体」(「鍵穴」)によって相互誘導合致が新しく生れていくという「くり込み相互誘導合致」―「〈いのち〉のくり込み自己組織」―がおきる。

→この「くり込み相互誘導合致」の連続が「舞台」におけるドラマの時間の生成のメカニズムである。

 

11.SNSにおける相互誘導合致

・内在的拘束条件によって存在が社会的に守られていないために生まれる不安定状態から抜け出すためには、それが限られた範囲であっても、まず与贈と与贈循環によって内外在の拘束条件が形成できる「居場所」(社会的な「舞台」)をつくり、次に「くり込み相互誘導合致」によって、その「居場所」(「舞台」の範囲)を徐々に広げていく以外によい方法はないと思われる。

・ここで強調したいのは、居場所に歴史が生まれるためには、居場所が時間的に維持されていくだけでは不十分であり、その居場所に存在している人びと(生きもの)による「くり込み相互誘導合致」が必要であるという点である。

 

★極端な例での説明:

・空き家を維持しているだけでは、そこに家としての歴史は生まれない。

・自己表現的システムとしての活きがそこに現れて、その活きが「くり込み相互誘導合致」によって時間的に継続していくことによって歴史が生まれるのである。時計で計ることができる物理的時間の外にも、「くり込み相互誘導合致」が繰り返されることによって進行していく歴史的時間がある。

・私たちの「ネットを介した勉強会」という「オーケストラ」では、各人の「楽譜」(内在的拘束条件)の「演奏」(「居場所」における〈いのち〉の表現)に「指揮者」が適切な外在的拘束条件を与えることによって、「くり込み相互誘導合致」―「〈いのち〉のくり込み自己組織」―を進めて歴史的時間を生成している。

 

12.ロイスの理論と「くり込み相互誘導合致」について

・ロイスの理論に戻って考えてみる:

もしも自己が居場所の完全な「地図」をつくることができれば、静的にはそれで目的とする表現が目出度く完成したことになるので、〈いのち〉の自己表現の活きはそこで終わる。しかしそのことは、動的には〈いのち〉の活きがそこで止まって、自己表現的システムとしての自己を含めた居場所が死ぬことを意味している。

・居場所が生き続けていくためには、居場所の完全な「地図」が何時までも完成しない企画を先送りしていくことが必要である。

・ここで居場所の「地図」をつくることは、相互誘導合致の「鍵」の活きに相当し、その「地図」を居場所のものとして、居場所に位置づけることが「鍵穴」の活きに相当する。より完全な「地図」をつくって、それを次々と居場所に位置づけて歴史的時間を生みだしていく「くり込み相互誘導合致」が居場所における「〈いのち〉のドラマ」の生成原理になる。

・ここで居場所全体の境界条件が外在的拘束条件に相当し、また次々とつくられていく「地図」が踏まえていくものが内在的拘束条件に相当する。内在的拘束条件は思想や風土や考え方などに相当する。それを大きく捉えれば、居場所に〈いのち〉の自己組織を進める条件になっている。

→このように「くり込み相互誘導合致」はロイスの自己表現的システムの静的で不安定な性質を動的で安定したものに変えるのである。「くり込み相互誘導合致」によって、〈いのち〉の自己組織が進んでいく。

 

13.地球も「くり込み相互誘導合致」が重要

・歴史をつくりながら生きていくシステムは、細胞でも、個人でも、家庭でも、組織でも、国家でも、また地球でも、みな動的な自己表現的システムであり、それが生き続けていくために「くり込み相互誘導合致」が重要な活きをする。

・居場所としての家庭における家族の共存在では、家族と家庭が非分離的であるなら、家族が互いにつながって〈いのち〉の表現をおこない、皆で話し合いながら「舞台」としての家庭の「地図」をつくっていくことになる。

・家族も成長していくので、そのことも考えると「くり込み相互誘導合致」によって〈いのち〉のドラマを演じながら、歴史的な自己表現的システムとして「居場所としての家庭」を共創していくことが必要になる。

・家族がつくる家庭の「地図」が互いに大きく異なっていると、一緒に存在して生きていくことはできない。

→そこで大切になるのが、〈いのち〉の居場所へのそれぞれの〈いのち〉の与贈である。居場所への〈いのち〉の与贈がその居場所の「地図」をつくる活きとつながったときに、その居場所に自己表現的システムとしての活きが生まれるのである。それは〈いのち〉の与贈循環が生まれて、それぞれの存在をその居場所に位置づけるからである。

・人間を含めてさまざまな生きものが共に存在していく居場所としての地球と、そしてその未来には、自己表現的システムとしての「地図」づくりの共創と、その「くり込み相互誘導合致」の実践がますます重要な意義をもってくると思う。

 

以上

(資料抜粋:前川泰久)

               

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◎12月の「ネットを介した勉強会」開催について

 

12月の勉強会ですが、最初にお知らせ致しましたように、第3金曜日17日に開催予定です。

よろしくお願い致します。

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含めこばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。

 

なお、今後のコロナの状況を見ながら、「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催が決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

今後ともサポートをよろしくお願いいたします。

 

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2021年12月1日

場の研究所 前川泰久