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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
12月、今年も師走になりました。さすがに寒い日が増えて参りました。みなさまインフルエンザ含めて風等ひかないようにご注意ください。
さて、場の研究所の第41回「ネットを介した勉強会」は、11月17日(金曜日)に開催いたしました。「楽譜」のテーマは『場所と居場所』でした。ご参加してくださった方々、ありがとうございました。。
今回の「ネットを介した勉強会」の楽譜の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。
そして、12月の「ネットを介した勉強会」の開催は第3金曜日の12月15日を予定しております。よろしくお願いいたします。清水先生の「楽譜」のテーマは『生命の誕生と場』の予定です。この楽譜は今年の7月の勉強会と同じテーマ名ですが、清水先生から表現に曖昧な部分があり、より理解し易くした内容で皆さんと再度議論したいということで加筆修正されました。従って、これを12月の楽譜といたしました。よろしくお願いいたします。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
・2023年11月の勉強会の内容の紹介:
◎第41回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:『場所と居場所』
◇「存在者中心の世界」から「存在の世界」への変換
・西洋では、昔は存在者と存在という言葉が区別して使われていたが、アリストテレス以降の時代になって以降中世では、存在という言葉が使われなくなり、世界を「存在者の世界」として理解しようとしてきたということに気づいたのは、20世紀の大哲学者ハイデッガーである。
・したがって近代科学は世界をさまざまな存在者によって理解しようとしてきたのであり、その近代科学を足場としてさまざまな工学が発展してきたのであるから、私たちは今も「存在者の世界」に住んでいると言ってもよい面がある。
・しかしその一方で、地球の温暖化現象はまさに危機的状態にあり、この状態を抜けるためには、地球を「存在の世界」に戻す必要があります。「存在の世界」の一つが里山であることを考えると、その必要性を理解できると思う。
◇存在の世界としての場所
・居場所という言葉が最近はマスコミなどでも広く使われているが、それは「存在者が居る場所」という意味で、存在者を中心にした「存在者の世界」として使われており、そこに「存在の世界」というニュアンスを感じることは少ないと思う。
・そこには存在者としての自己が安心して存在できる世界として、自己中心的にその居場所が考えられていることを感じる。
・これに対して、生き甲斐のある〈いのち〉の活き(役柄)を与えられる「世界」があると思う。例えば、家庭やボランティアの集まりや職場などにおける人々に生き甲斐のある〈いのち〉の活き(役柄)を与える「世界」がそれである。
・その場合は、家庭や集まりや職場などが、その大きさに関係なく「存在の世界」としての場所に相当する。
◇存在者と存在の違い
・「世界」の状態を「〈いのち〉のドラマ」に見立てると、「どういう名前の役者がそのドラマに登場するか」と、存在者としての役者を中心に「ドラマ」を理解していくのが「存在者の世界」であり、「どういう役柄の役者がそのドラマに登場するか」と役柄を中心に「ドラマ」を理解するのが「存在の世界」である。
・役柄の活きを理解するためには、「世界」すなわち場所の活きである「場」の理解が必要である。
◇居場所と場所の違い
・居場所は存在者によって限定される存在者中心の世界であり、存在者が亡くなるとその居場所も消える。
・それに対して、場所は人々の存在を限定する活きをするから、場所では性質の異なる存在者が共に調和的に存在する共存在が生まれる。
・私たちの身体も、また一個の細胞も、調和的な共存在の場所として生きているのである。
・またこのことは地球についても言えるのであるが、人間が地球を居場所と見なして、存在者としての自己を中心に考えてきたために、〈いのち〉の場所としての地球の状態が危うくなってきたのである。
・一般に、場所で生きている存在者の一部が亡くなっても、多くの場合、他の存在者たちによって、その活きが受け継がれて歴史的に共存在が続いて行く。
→言いかえると、場の活きによって歴史や進化が場所に生まれて発展的に継承されていくのである。
◇芸術の意義
・藝術の発展というものは、そのことと関係している。それは共存在の場所を発展的に創造するために生まれるものであり、決して、一部の存在者の居場所をよくするために、芸術家は懸命にはたらいているのではない。
・そういう意味からも、藝術作品は個人の居場所の存在者として存在させるものではなく、開かれた場所に存在させて、人々の共存在のためにはたらかせるものである
◇人間とAIの差異
・デイープAIの最近の発展は情報工学の重要な成果であり、さまざまな分野で未来の夢を語る人も増えているが、その反面として将来、人間の世界はAIに支配されるのではないかと、心配する人も少なくない。
・AIの重要な特徴は「意味が分からない」という点にあるので、人間とAIの差異を考える問題では、「AIはなぜ意味が分からないのか?」ということが重要な問題になると思う。
・AIが意味を理解できない原因はさまざまな表現の仕方があると思うが、私なりの表現をすると、「AIには脳だけあって身体がなく、居場所における存在者としての活きはもっているが、場所における存在をもっていないために、存在に関する意味が本質的に理解できない」のである。
・仏教の言葉を使うと、「AIは自己中心的な末那識はもてるが阿頼耶識をもつことはできない」という状態である。
→またこのことと関係してAIは場の活きを理解することはできない。
◇AIの限界について
・AIを活用する自動運転自動車は近い未来の夢として、さまざまな応用が考えられているが、やはり「居場所はもてるが場所には存在できない」とうことが原理的な壁になって、一定の路線を走ることはできるが、その路線の上で突然これまで経験したことがない変化に遭遇したり、またこれまで存在したことがない新しい場所を走ることになると、その場所におけるさまざまな存在の意味を十分くみ取って対応することができないという現実があり、このようなことが少なくとも現在では、その応用限界を与えているのである。
◇社会のAIによる支配からの回避
・このことと関係して、もしも将来人間の社会がAIによって支配されることを避けたければ、存在者中心の文明から存在中心の文明に文明が変わる必要があり、それを一口に言えば人間中心の居場所の上に組み立てていく社会から、地球全体を存在の場所とする共存在社会へ変わるということが必要になると思う。
・場所における存在に関係して、場の活きも根本的に見直されていく必要がある。
・もちろんこれらはAIの意義を認めた上で、その発展とバランスをとるためには、どのようなことに注目していくことが必要かを考える上で重要になることである。
◇〈いのち〉の与贈ができるのは場所である
・場所へ〈いのち〉を与贈することはできるが、またそれだから自己と非分離な場所となるのであるが、それに比較して自己の居場所に〈いのち〉を与贈することはできない。
・それは自己の居場所は自己の存在そのものの一部となっているからある。居場所への与贈は一種の自己言及になってしまうのである。
・文明が居場所中心の近代文明から、場所的文明に変わるために必要なことは、自己の〈いのち〉の共存在の場所への与贈である。
・私たちの「ネットを介しておこなう勉強会」が参加者各自の共存在の場所への与贈の形になっていることから、私たちを引きつけている大きな魅力が生まれている。
◇地球を共存在の場所として捉える
・うまく表現できないが、日銀の経営方針が居場所中心的であることが円安の原因になっているのではないかという気がする。
・共存在の場所である世界の経済に与贈する形を取り入れていくことが、一国の経済の経営にも必要になってきているのではないかと思う。
・「地球は各国に分割された独立した居場所の集まりではなく、人間ばかりでなく多様な生きものの共存在の場所である」という事実を経営に取り入れていくことがこれからの時代には次第に必要になってくる。
→ 一国の経済も例外ではないと思う。
・自己中心的な資本主義経済は多くの面ですでに限界に来ている。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
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◎2023年12月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年最後の12月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、第3金曜日の12月15日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。(参加費は無料です。)
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年12月1日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
11月になりました。朝晩の寒さがすがすがしい気持ちにさせてくれます。世の中は戦争が相変わらず続いていて、双方とも憎しみの連鎖がおこり、底のない泥沼に入っていくことに何もできない自分の力不足を感じています。
そして、コロナに加えインフルエンザについても、残念ながら感染拡大傾向ですので、是非、体調管理をして行きましょう。
さて、場の研究所の第40回「ネットを介した勉強会」は、10月20日(金曜日)に開催いたしました。「楽譜」のテーマは『AIの論理を超える場の理論』でした。この勉強会も40回を数えることができ、大変嬉しく思っております。これもご参加してくださった方々、優しく見守ってくださっている皆様のおかげだと感謝しております。
今回の「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。
そして、11月の「ネットを介した勉強会」の開催は第3金曜日の11月17日を予定しております。よろしくお願いいたします。清水先生の「楽譜」のテーマは『場所と居場所』の予定です。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
・2023年10月の勉強会の内容の紹介:
◎第40回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:『AIの論理を超える場の理論』
◇フェイク情報から守る方法について
・Chat GPTをはじめ生成系のAIが、性格的に合うのか岸田首相をはじめとして、日本の社会では広く受け入れられていくように見える。
・しかしその反面、生成系AIによって、フェイク情報が溢れる社会が生まれることも心配されている。
・そうなれば、フェイク情報によってかき回されるような世界を生きていくことになる可能性がある。
→そのような場合に、場の理論は人間の心を溢れるフェイク情報から守る方法を示してくれる可能性がある。
◇前回の勉強会の振り返り(「〈いのち〉のドラマ」)
・先月の勉強会では、場の理論と「〈いのち〉のドラマ」の関係を取り上げ、私たちが存在している場所を「舞台」とし、私たち自身がその「舞台」で「〈いのち〉のドラマ」を演じていく「役者」になって生きていく形をつくるということを取り上げた。
・その「ドラマ」は私たちの〈いのち〉を場所へ与贈することによって〈いのち〉の与贈循環とともに場所に生まれる円環的時間によってもたらされる活きである。
・場所における私たちの「役者」としての存在は、その「ドラマ」の主題をホストとすると、そのホストに対するゲストに相当する。
・我々が様々な場所において「〈いのち〉のドラマ」として人生を生きていく上で、その主題であるホストの発見は最も重要な課題になる。
◇「〈いのち〉のドラマ」を円環的時間とAIの直線的時間
・「〈いのち〉のドラマ」を円環的時間とともに示すことこそ、私たちの存在にとって重要な活きになる。
・私(清水)がもっとも心配していることは、いま大きな話題になっている生成系のAIには円環的時間をつくる活きがないために、人生の真実から離れたフェイク情報に人びとが振り回される状態が生まれなければよいが・・・ということである。
・AIの論理を調べると、ニューラルネットを何段階にも使って、全体を細かく「分けていく」という分解の操作と、分けて出てきた部分を与えられた条件のもとでニューラルネットの活きで今度は統計的に最も確かな関係にしたがって結びつけていくという統合の操作によって答えを出していく2種類の操作の組み合わせでできている。
・これらの操作に必要なのは、コンピュータを前へ進めていく直線的時間であり、円環的時間はその活きの発生を邪魔してしまうのである。
・生成系AIの活きと「〈いのち〉のドラマ」とは、ミヒャエル・エンデの童話『モモ』の時間貯蓄銀行の活きと女の児モモの活きの関係のように、互いに論理的に矛盾してしまうので、一緒に使うことはできないのである。
◇「〈いのち〉のドラマ」の最も短い日本語表現としての俳句
・このことをもう少し、具体的に考えてみることにしよう。
・「〈いのち〉のドラマ」の最も短い日本語表現として、私は松尾芭蕉の俳句を頭に浮かべる。それはホストとゲストそして両者を「舞台」としてつなぐ場所の活きから構成され、「〈いのち〉のドラマ」全体を僅か17文字で表現するのである。
・たとえば、先ず
古池や 蛙飛び込む 水の音
閑かさや 岩に染み入る 蝉の声
夏草や 兵どもが 夢の跡
を例にとって考えてみると、「古池」、「閑かさ」、「夏草」は「舞台」におけるホストであり、「ドラマ」のテーマに相当する。
また「水の音」、「蝉の声」、「夢の跡」はそれぞれゲストになる。
・そしてそれぞれのホストとゲストの間にあるのが、両者をつなぐ「舞台」の相互誘導合致の活きである。この活きは円環的時間によってホストとゲストをつないでいる。
・これを直線的時間によってつなぐと、ホストとゲストは原因と結果の直線的な因果関係になってしまうので、ホストをテーマとした「〈いのち〉のドラマ」を表現することはできず、表現に内部矛盾が生まれてしまう。
・このことは、円環的時間の上に成り立っている俳句は直線的時間の上に成り立つ生成系AIによっては生み出すことができない形となっているということを示している。
・芭蕉の芸術的な創造力はそれぞれの句のホストを見出すところではたらいたと思われる。これらの句のホストの深い意味はゲストからの活きを受けて現れるものであるから、円環的時間の中でなければ出現することはできない。
・たとえば、
古池や 蛙飛び込む 水の音
では、ホストの「古池」は池が生まれた久しい昔から続いてきた静寂な世界であり、その世界へ蛙が一匹飛び込むことによって立てた水の音はすぐかき消えて、また元の静寂な世界へ戻ってしまう。
これがホストとゲストが円環的時間の上でつながることによって表現できる「〈いのち〉のドラマ」である。
閑かさや 岩に染み入る 蝉の声
では、この静寂の世界を「閑かさ」として直接的に表現している。そして「水の音」に相当するのがここでは「蝉の声」である。蛙が古池に立てた「水の音」はすぐ消えて、静寂な世界が戻るが、「蝉の声」は「岩に染み入る」ことで「閑かさ」を生み出す。そう言う意味で、この句では円環的時間が直接的に表現されている。
夏草や 兵どもが 夢の跡
は芭蕉が平泉を訪れたおりに読んだ句であり、源義経とともに滅んだ奥州藤原氏一族のことを「兵ども」と表現していると思う。「夏草」はかって三代にわたって夢のように栄えた奥州の場所にそれ以前の静寂な世界が戻った状態であり、「夢の跡」は「水の音」に相当する。前の二つの句と共通する哲学がこの句の根底にも流れている。それは「〈いのち〉のドラマ」の根底を流れる円環的時間の思想から生まれる哲学である。
・ここに上げた三つの句は共通した存在の哲学から生まれているが、しかし例えば
山路きて 何やらゆかし すみれ草
という句や
草臥れて 宿借るころや 藤の花
という句では、「すみれ草」と「藤の花」がそれぞれ別の思いをホストとしたゲストとして、ホスト-ゲストの関係をつくっている。
◇「いま」、「ここ」の思いを懐いて創造された俳句が現代まで伝えられる
・これらの句とは内容的に離れた「〈いのち〉のドラマ」を表現しているが、有名な
旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る
という句は旅先で亡くなった芭蕉の辞世の句と言われている。「たった一回だけの人生を生きて「いま」、「ここ」に確実に存在している」という思いは、昔から人びとが懐いて生きてきたものであり、それだからこそ、人類の歴史とともに宗教が見られるという事実が生まれている。
・その「いま」、「ここ」の思いを懐いて創造的に生まれるのが、芭蕉の俳句の重要な特徴になっているのだが、「枯野」を「かけ巡る」とは、その確実な「いま」、「ここ」が見当たらない世界を駈けるようにしてあちこちと存在を探している頼るもののない自己の状態である。
・したがってこの句は旅先の病床で、「いま」、「ここ」にあるべき自己の存在を失っている限界的な状態を表現していると思う。
・これは人生というたった一度だけ経験する「〈いのち〉のドラマ」の最後に近い状態である。「〈いのち〉のドラマ」を人生の最後までこのように表現した芭蕉の創造性はこの句を現代にまで伝えていると思う。
◇生成系AIのはたらく直線的時間には「〈いのち〉のドラマ」は生み出せない
・私がここで書きたいことは、松尾芭蕉のよく知られている俳句を例にして、人間の創造的活動そのものが円環的時間の上に「〈いのち〉のドラマ」の形をとって現れることの説明である。
・生成系AIがはたらく直線的時間は、ものごとの客観的な表現には適しているが、人間の創造的活動そのものである「〈いのち〉のドラマ」を生み出すことはできない。
・このことは場の文化の日本に限定される話ではない。たとえばプラトンの『饗宴』では、饗宴の場に最後に登場してエロスの哲学的な思想を生み出していくソクラテスの創造的な姿がいきいきと描かれている。
・また童話『モモ』の作者のミヒャエル・エンデの思想も、このようなことを踏まえていると思う。人間が活き活きと生きていくために必要なことは、円環的時間の上で出現する「〈いのち〉のドラマ」にどのようにして近づくかということである。
◇AIは活用するが人間が従うものではない
・もしも生成系AIの活きが心配な状態になってきたら、私たちはホストとゲストの相互誘導合致の活きから「〈いのち〉のドラマ」を創造的に生み出していく場の思想の理論に立って世界全体を眺めて、直線的な時間の上での競争を超える創造的な活動を目指すべきである。
・生成系AIは人間の創造性にネガティブな影響を与えない範囲で活用すべきものであり、人間がしたがうものでは絶対にない。
・そのために、場の活きを直接考える場の思想の理論は、今後ますます重要になってくると思う。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
〇清水先生からのコメント:
生成AIは今後も発展して、広く使われていくでしょう。しかし、それは「意味の世界」を外れたところで論理的に組み立てられた一種の情報機械ですから、便利である反面、その便利さ故に人々は常に充たされない思いをいだくことになるでしょう。そこで、存在の「意味」を深める動きが必然的に社会に現れ、そうした人々はホストを求め、それを社会に表現していく「場」を求めるでしょう、
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◎2023年11月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年11月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、第3金曜日の11月17日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。(参加費は無料です。)
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年11月1日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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皆様
10月になりました。暑かった9月も彼岸を過ぎて急に朝晩が涼しくなり、一気に秋へ向かっていると感じております。
コロナに加えインフルエンザについても、残念ながら感染拡大傾向で、どちらも自己防衛対策をするしかないですね。是非、皆様も体調管理をしっかりなさってください。
さて、場の研究所の第39回「ネットを介した勉強会」は、9月15日(金曜日)に開催いたしました。「楽譜」のテーマは『〈いのち〉のドラマと時間』でした。ご参加してくださった方々、ありがとうございました。
なお、「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースの内容を是非参考にして下さい。
そして、10月の「ネットを介した勉強会」の開催は第3金曜日の10月20日を予定しております。よろしくお願いいたします。清水先生の「楽譜」のテーマは『AIの論理を超える場の理論』の予定です。話題のAIをどう捉えるか議論できると思います。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
・2023年9月の勉強会の内容の紹介:
◎第39回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:『生命の誕生と場』
◇共存在という概念
・ここで言う「〈いのち〉のドラマ」は、多様な生活体が同じ場所を共有して、共に存在して調和的に生きていくことである。
・たとえば、私たちの身体の腹腔には、互いにまったく異なる活きをする様々な臓器や器官が存在している。でも、互いの活きを邪魔し合うことなく、身体全体の活きを通して助け合いながら調和的に存在している。
・この状態のことを、私は「共存在」と名づけてきたが、様々な生活体や場所にも拡張できる概念だと思う。
◇「〈いのち〉のドラマ」生成の重要性
・存在している場所をドラマの「舞台」とし、そこで生きている多様な生活体をそれぞれ「役者」として実現していく共存在状態が「〈いのち〉のドラマ」である。
・この「〈いのち〉のドラマ」が生成するためには、「舞台」としての場所に生まれる場の活きが必要であり、しかもその場の活きがホスト━ゲスト問題を実現する形で生成される必要がある。
・人類にとって、今や地球を場所とする共存在は最大の課題であるから、地球を「舞台」とし、多様な人びとがそれぞれ異なる「役者」となって演じていく「〈いのち〉のドラマ」の生成こそが、現在実現を強く待たれている人類の夢であると言ってもよいと思う。
・では、そのために私たちは、どの様に生きていけばよいだろうか?
・〈いのち〉のドラマで必要なのは「舞台」の時間の共有である。空間としての「舞台」を共有していることは前提であるから、多様な「役者」が時間としての「舞台」の活きを共有すれば共存在状態が生まれることになる。
・その方法が、ホストを一定に決めて、それぞれがゲストとなってホストに対して〈いのち〉の活きを与贈して、〈いのち〉の与贈循環によってホストから場の活きを受けて、その活きにしたがって生きていくこと、すなわちホスト━ゲスト問題を実現するように生きていくことなのである。
◇「生きている」から「生きていく」へ
・自己が自己の場所に「生きている」という状態と、自己の場所において「生きていく」という状態は異なっている。
・前者では自己の意志は必要ないが、後者では、どのように生きていくかについて、自己の意志が必要になるからである。
・それでは、一般に私たちはどのようにして生きていく方法を発見しているのだろうか?
・自己が自己自身の状態を目的として、生きていく方法を直接的に決めようとすると、自己が自己自身を言及していかなければならない形になり、自己言及がつくり出す論理的な矛盾にぶつかってしまうので実行できない。
・そこで自己自身とは異なる目標(ホスト)を場所に決めて、場所においてそのホストとホスト━ゲスト問題を実践していくゲストとして自己が生きていくという方法をとることになる。これが場所における与贈循環の方法である。
・そのためには、個室にしろ、家庭にしろ、職場にしろ、地域社会にしろ、国家にしろ、自己が存在している場所が「舞台」となって、自己がその「舞台」において「〈いのち〉のドラマ」を演じていく「役者」となって、「生きていく」ことになる。
・自己言及の矛盾を避けるためには、これ以外の生き方はできない。
→言いかえると、その何れにしろ、自己はホスト━ゲスト問題がつくる〈いのち〉のドラマの場において生きていくことになる。
◇場がもたらす時間について
・自己言及の矛盾を避けるために、どうしてもまず場所にホストを決めて、そしてホスト━ゲスト問題の形をつくって生きていくという形が必要になるが、ここから必然的に生まれる活きとして「時間」がある。
・それは〈いのち〉のドラマという自己の歴史が場所に現れることに伴って生まれる不可逆な時間であり、一生という歴史的時間を自己にもたらす活きをする。
・私たちが場所において生きていくという存在のあり方が私たちに歴史的時間をもたらすのである。それは居場所に生まれる場がもたらす時間であると言ってもよいであろう。
◇時間はなぜ生まれるか?
・このようなことと関係して、「時間はなぜ生まれるのか?」という問いがある。
・ミヒャエル・エンデの童話『モモ』では、灰色の自動車を運転し、灰色の服装をして、絶えず葉巻をくゆらしている人びとが働いている時間貯蓄銀行という組織が社会で働く様々な人びとからそれぞれの人生の時間を、その銀行に貯蓄させるという形で人びとから〈いのち〉のドラマを奪っていく。
・しかし、その組織の活動にとって邪魔になるのがモモという女の児である。その児は古い円形劇場の跡に一人で住んでいて、他の人の話を聞く暇がたっぷりあるばかりでなく、話の聞き上手で、しかも一緒に存在する居場所をつくるために必要なホストを発見する才能にも恵まれている。
・そこで、その児の周りでは何時も〈いのち〉のドラマが生まれ続けているために、時間貯蓄銀行にとって敵という存在になってしまうのである。
◇ミヒャエル・エンデの「モモ」における時間について
・「時間貯蓄銀行が人びとに貯蓄させる時間とはそもそも何か?」、そして「その時間はどのようにして生まれるのか?」、また「その時間がある間は、人びとが生きていけるのは何故か?」ということが、この『モモ』という童話を読んでいる間に、暗黙の前提として大きな問題になってくる。
・つまり、時間貯蓄銀行が狙っている人びとの時間はどのようにして生まれるのかということが中心的な問題になるのである。ドイツで生まれたこの童話でも、ホスト━ゲスト問題が中心的な活きをして〈いのち〉のドラマを導いていることは間違いない。
・最終的には、モモは時間を司る超越的な存在者に助けられて、時間貯蓄銀行の金庫に蓄積されていた時間を取り戻して、銀行のシステムを壊したために、人びとはその日常の生活における〈いのち〉のドラマを取り戻すことができたのである。
◇俳句におけるホスト━ゲスト問題
・時間の生成を場の活きに結びつけて理解しようとして気がついたのであるが、松尾芭蕉の俳句の5,7,5の表現は「ホスト、場所の相互誘導合致の活き、ゲスト」の形をしている。
たとえば
古池や 蛙飛び込む 水の音
という句では、ホストは(古池の)閑かさであり、ゲストは(蛙がたてた)水の音である。そして(ホストである閑かさの)場所は古池である。そして俳句のテーマはホスト━ゲスト問題によるホストとゲストの相互誘導合致(時間的な調和)である。
・また
閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声
という句では、ホストは(山寺の)閑かさであり、ゲストは蝉の声である。
・そしてホストが存在する場所には岩があり、「岩にしみ入る」という形でホストとゲストの相互誘導合致がおきている。
・また
暑き日を 海にいれたり 最上川
という句では、ホストは暑き日であり、ゲストは最上川である。そしてホスト━ゲスト問題によるホストとゲストの相互誘導合致は、場所である暑き日の海に流れ込む最上川の(自然としての)活きである。
・また
山路きて 何やらゆかし すみれ草
という句では、「山路」がホスト、「すみれ草」がゲスト、「山路きて何やらゆかし」がホストの居場所におけるとゲストとの相互誘導合致に相当すると思う。
・この単純な表現の中に、間接的な形で〈いのち〉のドラマの「時間」が詠まれていることが、表現に深みを与えている。
・5,7,5という日本語の単純な表現形式の中に、ホストとゲストの相互誘導合致によって生まれる〈いのち〉のドラマの時間を表現しているところが、松尾芭蕉の俳句の素晴らしい所だと思う。
→したがって、「時間」を生み出す活きをしている場が様々な形で表現されることになる。
・たとえば、
花の雲 鐘は上野か 浅草か
夏草や 兵どもが 夢の跡
旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る
には、それぞれ場が詠まれている。
◇「〈いのち〉のドラマ」の時間と思い出
・子どもの頃の懐かしい日々を思い出すと、その思い出にはその時経験した心に深く感じた場の活きが付いており、そのことが再び経験することがない過去の〈いのち〉のドラマの時間に心にしみいるような懐かしさを与えている。
・特に今はもう存在しない父母や祖父母そして親友と経験した〈いのち〉のドラマには、その時に深く心に感じた場が結びついて思い出され、そのことが心に深く、そして温かい活きを与えて、過去の日を現在に伝えているのである。
◇人生の良い体験とホスト━ゲスト問題
・人生のよい体験とは、心に深く結びつく場の活きを〈いのち〉のドラマにおいて感じることであり、そこにはホスト━ゲスト問題による場の活きが出現して、その体験を深く心に結びつけているのである。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
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◎2023年10月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年10月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、第3金曜日の10月20日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。(参加費は無料です。)
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年10月1日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
9月になりました。今年は台風も多く豪雨での各地の被害を心配しております。また酷暑も続き、涼しい秋が早く来てほしいですね。
コロナについては、感染しても重症化しないようですが、まだまだ終息には至っていません。5類感染症の扱いになってますが感染リスクには自己防衛していきたいと思います。
さて、8月の場の研究所の「ネットを介した勉強会」は夏休みをいただき開催いたしませんでしたので、今月の第3金曜日の9月15日を予定しております。よろしくお願いいたします。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
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◎2023年9月の「ネットを介した勉強会」開催について
・第3金曜日の9月15日に開催予定。
・清水先生の「楽譜」のテーマは『〈いのち〉のドラマと時間』の予定です。
よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。(参加費は無料です。)
◎なお、場の研究所の会員の方で、新たに「ネットを介した勉強会」に参加希望の方は、
是非ご連絡をください。参加メンバーに登録させていただきます。
contact.banokenkyujo@gmail.com
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年9月1日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
8月になりました。毎日暑い日が続いています。何とか熱中症にならないように頑張りたいと思います。
コロナについては5月以降、規制緩和となっていますが、徐々に感染拡大もあり、リスクに対しては自己防衛と体調管理しかないようです。
さて、場の研究所の第38回「ネットを介した勉強会」は、7月21日(金曜日)に開催いたしました。「楽譜」のテーマは『生命の誕生と場』でした。ご参加してくださった方々、ありがとうございました。
なお、「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースの内容を是非参考にして下さい。
そして、8月の「ネットを介した勉強会」の開催ですが、今年は特に暑いということもり、夏休みを取らせていただきたいと思います。従って、次回は9月になります。開催日は第3金曜日の9月15日を予定しております。よろしくお願いいたします。清水先生の「楽譜」のテーマは『〈いのち〉のドラマと時間』の予定です。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
・2023年7月の勉強会の内容の紹介:
◎第38回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:『生命の誕生と場』
◇「場とは何か」ということの捉え方について
・前回の勉強会では、「場とは何か」を生命から引き出す理論をつくることはできないが、〈いのち〉から出発してホスト━ゲスト問題の形をつくれば、場とは何かを普遍的な形で明らかにすることができるという説明をした。
・それは、生命から出発して場を説明できないのは、場の活きによって生命が生まれるからであり、論理的に順序が逆になるからである。
・このことは、場の活きを使えば、ホスト━ゲスト問題の形で、生命の生成を論理的に考えることができるということを意味している。
◇生命におけるホスト━ゲスト問題について
・このような形で生成される生命は、細胞から始まって、多細胞の動物や植物、さらにはたとえば私たちの家庭、企業、国家、そして最終的には地球そのものというように、様々な分野とレベルに広く存在している。
・前回考えた私たちの家庭であるが、昔はいざ知らず、少なくとも現在の社会的状況では、夫と妻の内のどちらかを居場所におけるホストとして考えることはできない。そこで両者がよく話し合って、「ホスト」の活きを家庭につくり出し、それぞれはその「ホスト」の下での「ゲスト」として、家庭という〈いのち〉の居場所を中心に振る舞っていくということになると思う。
・そしてその「ホスト」が家庭生活という「〈いのち〉のドラマ」の「監督」に相当することになる。その形は、憲法という「ホスト」の下における国民の生活に少し似ている。
・新しい家庭の生成は新しい生命の誕生であり、そこにその生命の歴史が生まれていく。「舞台」に場という状態が家庭に生まれなければ、〈いのち〉のドラマは継続して行かないので、生命の誕生はおきないということになる。
◇円環的時間について
・「ドラマ」が生まれるということは、時間が生まれるということを意味している。
・それは場所の歴史的時間に相当するが、直線的に進行する物理的な時間ではなく、未来の方に生成的に進行するばかりでなく、生成されていく状態が過去の状態とも整合しているかどうか━つまり、歴史的に整合しているかどうか━を確かめながら進んでいく未来と過去の間を円環的に循環しながら進んで行く円環的時間である。
・この〈いのち〉のドラマの円環的な進行は、親鸞の浄土真宗の往相回向と還相回向の循環と同じ形をしているのである。
◇時間差相互誘導合致について(場を介して互いに関係することで調和的につながる)
・〈いのち〉の活きから生命が生まれるということの基盤には、このように歴史的時間の絶え間のない生成ということが存在していなければならない。また歴史的時間は円環的時間でなければならない。その円環的時間は場所における場の活きによって生成されるものである。
・私たちは過去の勉強会で「時間差相互誘導合致」を取り上げたが、それは次のような事実とも関係している。
・私たちの腹腔という場所には、性質が相互にまったく異なる多様な臓器が一緒に調和的に存在している。そのような存在ができるのは、それぞれの臓器が腹腔(身体)という場所を媒介にしてつながっているからである。直接的につながろうとすると、性質がまったく異なるために、互いに反発して共存在できない存在者が、場所を介して互いに関係すると、調和的につながることができるのである。
・それは、場所に場の活きが生まれ、それによって円環的時間が生まれるから共存在できるのである。「一即多、多即一」(西田哲学)の矛盾的自己同一で表現される状態に相当する。
・円環的時間のなかで生まれるこの相互誘導合致状態を「時間差相互誘導合致」と名づけている。
◇場所的共存在を進めていく活きとしての時間差相互誘導合致
・生きている限り、臓器は様々な病気にかかる。深刻な状態では、手術や臓器移植もおこなわれる。このようなことから分かるように、身体という場所における臓器の共存在は、最終的には安定した調和に向かわなければならない。
・そのためには、相互誘導合致のように安定した状態に向かって〈いのち〉のドラマを進めていく活きが身体(場所)に必要になる。
・そこで現在における存在状態(相違)を出発として、多様な「役者」が同じ「舞台」(場所)において円環的時間のなかで場所的共存在を進めていく活きを時間差相互誘導合致と名づけて勉強してきた。
・繰り返しになるかも知れないが、時間差相互誘導合致の一番重要な点は、歴史的時間である円環的時間がホスト━ゲスト問題の形で生まれるということ、つまり時間差の生成である。
◇円環的な時間の流れと共に起きる変化
・〈いのち〉のドラマを流れる時間は、場所の過去と未来を円環的につなぎ続ける歴史的時間である。
・この円環的な時間の流れとともに、場所の旧い状態が消えて、新しい状態が生まれることが歴史的時間の生成に他ならない。
・言いかえると、場所の歴史的な変化がおきるのである。その歴史的変化では過去が消えて未来が生まれるので、旧い物質的な状態が消えて、新しい物質的な状態が生まれる物質的な面での新陳代謝がおこる。そのことがあって歴史が進み、〈いのち〉のドラマが進行していくのである。
◇〈いのち〉の与贈循環によりおきる流れ
・場所に生命が生まれて「〈いのち〉のドラマ」が進行していくことを、〈いのち〉と場の活きから考えていくためには、ホスト━ゲスト問題の場所に〈いのち〉の与贈循環によって〈いのち〉のドラマが生まれて、歴史的な時間や物質の流れがおきることが中心になる。
・さらに具体的には、情報やエネルギーの面でもこの場所的変化を具体的に出現させるために必要な変化がおきて、それが歴史的に継続して行くことが必要である。
◇高齢者(清水自身)の円環的時間について
・人生を長く生きて、私のように90歳を越えると、〈いのち〉のドラマも終わりに近づき、未来の夢を考えることができなくなり、これまでのように円環的時間が生まれにくくなってくる。
・ほんの僅かしか残っていないにしろ、「残されている未来における自己」を気兼ねなく思うことができたのは、私の場合は88歳までである。
・90歳の現在では、「残されている未来」はもうほとんど無くなったという思いが強くなり、元気で生きていられる間に自分に課せられている責任をできる限り果たしていこうという思いで生きている。
・私の〈いのち〉のドラマには、現在までの生と近い未来における死の間に円環的時間が生まれて自己を前に進めているのである。
・私の場合は場の活きは大きく変わらず、むしろ深まっていくが、90歳になった頃からモノとエネルギーと情報の活きが自分から急速に失われていき、生命を支えている力が無くなっていくことが実感されている。
・その変化がこれまで自己の人生で体験した生命の変化のなかでも、最も速いものであることが未来に向かってどこまでも夢をいだいて生きていく自信を失わせていく。しかし、その自己に未来に向かって生きていく気持ちを与えて、支えている活きがある。
・それはホスト━ゲスト問題の形でおこなわれてきた〈いのち〉の与贈循環によって生まれた場の活きであり、私の場合は、それは家庭という場所における妻との生活、そして場の研究所を中心にした場所における何人かの人びとからの支え合いの活動によって生まれてくるものである。
・その〈いのち〉の与贈循環が円環的時間を私に贈ってくれるのである。それらは人生における最高のプレゼントである。
・言いかえると、人生は最終的には〈いのち〉の与贈循環によって支え合うものである。
・一般に場所を生命の拠り所として何人かの人が生きていこうとする時には、先ずその場所における「ホスト」を見出して、ホスト━ゲスト問題の形をつくって一緒に生きていくと、自然に〈いのち〉の与贈循環が場所に生まれて、場の活きによって〈いのち〉のドラマが自然に進行する。
◇生命は消えても〈いのち〉はなくならない
・死は生命の終わりを意味しているが、それを〈いのち〉の活きから考えると、地球という場所の〈いのち〉からいただき、そして場所によって支えられてきた生命を、もとの場所に〈いのち〉として返していくことである。
・地球という場所に場所の〈いのち〉が続くかぎり、生命は消えても、〈いのち〉がなくなることはない。その〈いのち〉は数えることができない〈いのち〉、すなわち無量寿である。
・そして、そこに地球を「ホスト」として生まれる時間差相互誘導合致の活きが続くかぎり、生命も何らかの形で続いていくと思われる。
◇無量寿経の解釈と私(清水)の生命論
・このような観点から自己の存在をその生と死を含めて考えていこうとすると、「ホスト」としての地球の〈いのち〉を阿弥陀如来と見立てて、ホスト━ゲスト問題の物語的表現として無量寿経を見ることは無意味ではないと思う。
・信じるか、どうかは別として、親鸞の無量寿経の解釈は、上記の私の生命論と論理的には同じ形をしている。それは日本の場の文化が生み出した宗教であると思う。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
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◎2023年9月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年9月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、8月は夏休みで開催せず、9月の第3金曜日の15日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。(参加費は無料です。)
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年8月1日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
7月になりました。いよいよ夏本番となり暑い日が続いています。最近の梅雨はシトシトではなくて、豪雨になることもあり備えが必要な状況ですが、お変わりございませんでしょうか?
コロナについては規制緩和となって、社会に活気が戻ってきており、海外の方々の日本旅行も増えてきています。しかし、一部で感染拡大もあり、やはりまだワクチン接種が必要かと思います。どちらにしても自己防衛、体調の自己管理で頑張りたいと思います。
さて、場の研究所の第37回「ネットを介した勉強会」は、6月23日(金曜日)に開催いたしました。「楽譜」のテーマは『場をホスト━ゲスト問題として考える』でした。
20人を超える参加をいただき、また新たな勉強会にご参加くださった方、ありがとうございました。
なお、「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースの内容を是非参考にして下さい。
そして、7月の「ネットを介した勉強会」の開催は、第3金曜日の7月21日を予定しております。よろしくお願いいたします。清水先生からの「楽譜」のテーマは『生命の誕生と場』の予定です。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
・2023年6月の勉強会の内容の紹介:
◎第36回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:『場をホスト━ゲスト問題として考える』
◇茶室におけるホスト━ゲスト
・日本の伝統的な場の文化の本質を最もよく表現しているものとして、茶道がある。茶道は亭主(ホスト)が自分の居場所である茶室に客(ゲスト)を招いて茶を接待するという形をとっているが、〈いのち〉の与贈によって、亭主の〈いのち〉とその存在の居場所としての茶室の〈いのち〉とが非分離となっているように工夫が凝らされている。
・そこへゲストとして招かれる客人も、自己の〈いのち〉以外の活きを外の世界から持ち込まないように、自己の〈いのち〉を場所に預けるようにして、にじり口から自己の〈いのち〉を茶室に与贈させていくのである。
・客人が亭主から茶の接待を受けることは、ゲストの存在が〈いのち〉の場所である茶室の〈いのち〉を通じて、〈いのち〉の与贈循環をつくってつながる形をつくるということである。亭主と客人の存在を包んで与贈循環を生み出している「〈いのち〉の場所」である茶室の活きが場である。
・このことは、場の活きによって、ホストとゲストの存在がつながることを意味しているので、日本の伝統的な茶道は、大きくは「ホスト━ゲスト問題」と言われる場所的〈いのち〉の創造を最も純粋な形で表現しているということができる。
◇免疫現象におけるホスト━ゲスト問題について
・ホスト━ゲスト問題は日本に限らず、〈いのち〉の世界に広く見られる現象である。
・たとえば、新型コロナのワクチンですっかりなじみになった免疫反応がそうである。この場合は、抗原(新型コロナウイルス)が客人、ワクチンがつくる抗体が主人、そして主人と客人の存在がつながる〈いのち〉の場所が私たちの身体である。
・ワクチンの接種を受けた後で、私たちの身体に主人が生まれて、身体がその居場所に変わる変化がおきるので、その変化にはある程度の苦痛を伴う。それを嫌ってワクチンを認めない方もおられるようである。
・免疫現象は、抗原を「鍵」としたときに、その「鍵」の形にぴったりと合致する「鍵穴」の形をした抗体が身体に創造されて、「鍵」の活きを取り除く変化であると考えられていたが、分子レベルでの研究がいろいろ進んでいくと、鍵と鍵穴のように、ぴったりと合致する形ができるのではなく、恋人が互いに引き合うように、抗原の一部と抗体の一部が互いに引き合って「鍵」と「鍵穴」として双方から合致していく相互誘導合致 mutually induced―fit という変化がおきていることが分かってきたのである。
・この変化は、免疫現象ばかりでなく、酵素による基質分子の分解にも一般的に見られ、生きものの身体における〈いのち〉の選択的なつながりを創造的につくるホスト━ゲスト問題として広く見られる変化であることが次第に分かってきたのである。
◇オーケストラにおけるホスト━ゲストの関係
・ホスト━ゲスト問題は、主人とその居場所、その居場所に招かれる客人の三者の〈いのち〉と、その〈いのち〉の与贈循環によって生まれる現象であるから、日本文化に限らず、生きものの世界に広く見られる創造の現象であり、〈いのち〉の世界における場の活きの普遍的な重要さを示している。
・たとえばオーケストラでは、指揮者をホストとし、楽団員をゲストとし、演奏会場をホストの居場所とし、ホストとゲストの相互誘導合致によって〈いのち〉の与贈循環がおこって場が生まれ、指揮者と楽団員、楽団員と楽団員との〈いのち〉が互いにつながって場所の〈いのち〉が創造的に生まれて、オーケストラが一体になって、指揮者の指揮にしたがって「楽譜」が活き活きと演奏されていく。
・茶室における茶の接待と異なるのは、演奏を聴く外来の観客が大勢存在することである。
◇ホスト━ゲスト問題での重要ポイント
・ホスト━ゲスト問題で重要なことは、ホストの居場所において、ホストとゲストの〈いのち〉がつながるばかりでなく、ゲストが参加する形で与贈循環がおきて、そこに場所の〈いのち〉が創造的に生まれ、その〈いのち〉が場としてはたらくために、ゲストの〈いのち〉も、ゲストの存在の多様性を活かした形で互いにつながるという点である。
・分かりやすく考えると、相互誘導合致によって場所の〈いのち〉を表現する「ドラマ」が、ホストを「監督」とし、その居場所を「舞台」とし、ゲストを「役者」として生まれる「〈いのち〉のドラマ」の創造が現象としてのホスト━ゲスト問題である。
・その「ドラマ」の進行に重要な役割をする「舞台」の活きを生み出しているのが、「舞台」に生まれる場である。
・ただし、たとえば私たちの家庭について考えると、昔は知らず、少なくとも現在では、夫と妻の内のどちらかをホストとして考えることはできない。そこで両者がよく話し合って、「ホスト」の活きを家庭につくり出し、それぞれはその「ホスト」の下での「ゲスト」として、家庭という〈いのち〉の居場所を中心に振る舞っていくということになると思う。
・そしてその「ホスト」が家庭生活という「〈いのち〉のドラマ」の「監督」に相当することになる。その形は、憲法という「ホスト」の下における国民の生活に少し似ている。
◇「〈いのち〉のドラマ」と舞台について
・「〈いのち〉のドラマ」には、一般に、観客がいる。そしてその観客が存在することによって、「〈いのち〉のドラマ」は「舞台」の上でのできごとから、観客が住んでいる世界の歴史につながって行く。
→つまり、「舞台」の上のできごとが、世界におけるできごととなるのである。
・日本でも、歌舞伎が社会的に開かれ、成駒屋とか成田屋をホストの場所として、ホスト━ゲスト問題が成り立っていたのであるが、一般にヨーロッパに比較すると、社会一般における「〈いのち〉のドラマ」の開かれ方が少なく、その閉鎖性が日本の社会の特徴になってきたと思う。
◇浄土真宗におけるホスト━ゲスト問題
・先月(23年5月)の勉強会では、「生命と〈いのち〉」というタイトルで〈いのち〉の与贈循環を中心にした場の理論を紹介し、その形が浄土真宗の親鸞の救済論と同じ形をしているという説明をした。
・そのことは、浄土真宗における〈いのち〉の救済はホスト━ゲスト問題として理解することができるということであり、具体的には、ホストが阿弥陀如来、ホストの居場所に招かれるゲストが救済される信者、相互誘導合致によって生まれる「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」が浄土、〈いのち〉の与贈である念仏によって、「〈いのち〉のドラマ」に誘われて、その「役者」になるのが往相回向、そしてゲストが〈いのち〉の与贈循環の活きによって生まれる場として、人びとをその「〈いのち〉のドラマ」に誘うのが還相回向に相当することになる。
(キリスト教では、イエスが復活によって〈いのち〉を得て人びとを救済するので、救済の形が似ていても、ホスト━ゲスト問題の形とは異なる。)
◇清水の「場」についての研究経緯について
・私は40歳台で東京の大学へ転勤して、自分が大切に思っていることを手加減せずに、そのまま学生に話しかけるように教えることができるという教師としての幸せを感じていたが、ある日、講堂における生物物理学の講義で相互誘導合致の話をしているときに、突然、「相互誘導合致によって場の本質を理解することができるのではないか!」という発想がひらめいて、しばらく講義を中断してしまったことがある。
・それは「日本文化は場の文化と言われているが、場とは何か?」と外国の知識人に問われたときに、日本の代表的な知識人たちは、「場は西田哲学の場所と関係があるかも知れない」と答えることしかできず、恥ずかしい思いがしたということを、その会合に出席していた人から聞いていたからである。
・それで私は50歳になったのをスタートとして、家内に毎日弁当をつくってもらい、昼間は生命の研究と教育をし、多くの皆さんが帰宅を始めた後で、その弁当を食べ、12時を過ぎる頃まで相互誘導合致によって場を解明する研究を始めた。
・土曜日に自宅に帰るとリラックスしてしまうので、毎週土曜日はホテルに泊まって研究し、60歳で大学を定年になった後では、次に受け入れていただいた金沢工業大学では、毎週半分ほどは研究室に泊まり込んで、私なりのできるかぎりの努力を70歳までしたのだが、科学的にその本質が解明されていない生命の活きにこだわって相互誘導合致を考えていたために、それが理解の深さの限界になった。80歳に近づいた頃から生命にこだわることを捨てて、存在を継続的に維持しようとする能動的な活きとして〈いのち〉を定義して、〈いのち〉の居場所への与贈を中心に考え始めて、〈いのち〉の与贈循環をその重要な法則として考えることができるようになった。
・そのことで思索が進んだので、90歳になって、ようやくホスト━ゲスト問題として「〈いのち〉と場」を分子レベルから地球レベルまで応用できる普遍的な形で取り上げることができる「〈いのち〉のドラマ」として考えるようになったのである。
・様々なレベルで多様な〈いのち〉の活きを一つの調和した形に創造的にまとめる活きとして、場を考えることができると思う。
◇生命からではなく〈いのち〉から考えることの重要性
・生命にこだわって考えるのを止めて〈いのち〉から考えることを始めるまで、多様な生活体を包んで一つにまとめて、その個別な多様性を尊重しながら、集まりとしての集団的な活きを創造的に引き出す場の活きの本質に触れることはできなかった。
・それは━生命を与贈すれば生命体は死んでしまうので━ゲストの生命をホストの居場所に与贈することはできないが、ゲストの〈いのち〉は与贈できるので、〈いのち〉の与贈循環によって、ホスト━ゲスト問題を「〈いのち〉のドラマ」の形にまとめることができるからである。
◇「〈いのち〉のドラマ」には〈いのち〉の与贈循環が生まれることが必要
・この「〈いのち〉のドラマ」の形によってゲストの個別的な多様性を重んじながら、集まり全体を一つの形に創造的にまとめることができるのである。
・そのために必要なことは、時間差相互誘導合致に対応して円環的時間が場所に生まれるということであり、そのためには〈いのち〉の与贈循環が生まれることが必要である。
・時間差があるということは時間的な変化があるとうことであるから、場と時間とを結びつけるためには「〈いのち〉のドラマ」のような形が必要になるのである。
・生命にこだわっている限り、論理としてはどこかで飛躍して、西田幾多郎の矛盾的自己同一を受け入れなければならないことになってしまうので、時間が生まれない。
・したがって、分子レベルから地球レベルまで活用できる普遍的な科学的法則として、場の活きを考えることは不可能である。これからの時代に地球の上で生きていくためには、場を開いて、その活きを科学的にも考えていくことができることが必要である。
◇研究継続に対する謝辞
・私なりの人生における場の研究を振り返るときに、現在に至るまで引き続き多くの方々の交流と支援をいただいているが、忘れてならないのは、妻光子の献身的なサポート、本田技研工業社長の久米是志氏の長年にわたる温かいバックアップ、金沢工業大学の研究支援機構長岩下信正氏の強力なご支援である。
・さらにその後は、株式会社日本ソフトの代表栗原敏明氏の一貫したサポートがなければ、ホスト━ゲスト問題としての場を研究することは到底できなかったと確信している。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
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◎2023年7月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年7月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、従来通り、第3金曜日の21日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。(参加費は無料です。)
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年7月1日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
6月になり、今年は早めに梅雨になった地域も多いようですが、いかがお過ごしでしょうか?この季節は雨のおかげで新緑が輝いて見え、心が豊かになります。
コロナについては、5月から実質の規制緩和となっていますが、まだワクチン接種も継続しており、やはり自己防衛は欠かせないと思います。
さて、場の研究所の第36回「ネットを介した勉強会」は、5月19日(金曜日)に開催いたしました。「楽譜」のテーマは『生命と〈いのち〉』でした。勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。
なお、「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースの内容を是非参考にして下さい。
そして、6月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来とは異なり、第4金曜日の6月23日に予定しております。少々早めですが、よろしくお願いいたします。清水先生からの「楽譜」のテーマは『場をホスト―ゲスト問題として考える』の予定です。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
・2023年5月の勉強会の内容の紹介:
◎第36回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:『生命と〈いのち〉』
◇〈いのち〉を基盤にした考え方
・場の研究所の特徴は、〈いのち〉を基盤にして、場やその場によって包まれる私たちの存在を考えていることであり、場所への〈いのち〉の与贈とその与贈によって場所に生まれる〈いのち〉の与贈循環を、私たちが生きていくためにもっとも大切な活きとして考えていることである。
・〈いのち〉を基盤にして考えていくことは、まだ科学的に解明されていない生命を基盤にして、私たちの存在を考えていく社会一般の傾向と異なって論理がはっきりしているので、理論的(科学的)に考えを進めやすいという重要な特徴がある。
◇生命と〈いのち〉の違い
・〈いのち〉は生活(生活体の存在)を継続するようにはたらく能動的な活きとして定義されている。
→したがって、〈いのち〉の活きは生命の活きを包含するが、生命とは異なる。
・たとえば受精していない卵子や精子には〈いのち〉があるが、生命はない。
・〈いのち〉には、〈いのち〉の場所があり、〈いのち〉をもったもの(生活しているもの)がその場所において自己の〈いのち〉を場所に与贈すると、〈いのち〉の与贈循環が場所に生まれて、自己の存在が場所から与贈される〈いのち〉の場に包まれて、存在が継続的に維持される。そのために自己の存在が安定し、安心感が得られるのである。
◇〈いのち〉のつながりを求める生き方の広がり
・〈いのち〉が個人の生命の活きである生と死を越える能動的な活きであることから、不安定な生命の不安から逃れるために、〈いのち〉の場所へ一緒に〈いのち〉を与贈することで生成する〈いのち〉の与贈循環が生み出す〈いのち〉の場に共に包まれることで落ち着く生き方---多様な人びとの間に〈いのち〉のつながりを求める生き方---が最近は社会に広がっている。
→多分、皆さんご自身にも経験があると思う。
◇浄土真宗における〈いのち〉の与贈循環
・〈いのち〉が生命を包む活きであることから、生と死の不安から逃れる活きとして〈いのち〉の与贈循環は幾つかの宗教に救済の原理として取り入れられている。なかでも親鸞が説く浄土真宗の教えとは、一枚の紙の表裏のように直接的な対応関係があり、〈いのち〉を基盤にする科学的な論理によっても、その教えを説明できそうに思われる。
・対応関係からいうと、〈いのち〉の場所が浄土、〈いのち〉の与贈が「南無阿弥陀仏」、〈いのち〉の与贈循環が浄土との往相(おうそう:浄土に往生すること)と還相(げんそう:往生して仏になったのち、再びこの世にかえって利他教化のはたらきをすること)の二種の回向による救いに相当する。
→つまり、「南無阿弥陀仏」による存在の救済を無量寿経という経典に求めるという伝統的な方法に加えて、〈いのち〉の科学からも直接的な裏づけが得られることになったのである。
・親鸞の浄土真宗の救済の重要な点は、浄土真宗を信じて「南無阿弥陀仏」と唱えたときに、生きているその状態のまま浄土に救われることが確実になるという点である。
→つまり、浄土へ行くために死ぬ必要はないのである。
・さらに浄土へ向かう往相回向ばかりでなく、浄土からこの俗世へ戻って人びとを救済する還相回向が加わる形によって---与贈循環の形になることによって---南無阿弥陀仏に救済されるということである。
◇生命の場所から〈いのち〉の場所へ
・生命の法則がはたらいている「生命の場所」から〈いのち〉の法則がはたらいている「〈いのち〉の場所」に自己の存在を移すためには、どうすればよいだろうか?
→そのためには〈いのち〉の場所(つまり浄土)へ自己の〈いのち〉を与贈することが必要である。そうすれば、〈いのち〉の与贈循環に包まれて〈いのち〉の場所である浄土の住人になる。
・親鸞によれば、無量寿経の体(実体)は「南無阿弥陀仏」という念仏である。その「南無阿弥陀仏」が〈いのち〉の科学の〈いのち〉の与贈に相当するのである。
・無量寿経によれば、すべての存在の救済を願う法蔵菩薩は五劫という無限に長い時間の間考え続けて、自分自身が浄土への〈いのち〉の与贈である「南無阿弥陀仏」になることを思いついたことが認められて、その阿弥陀如来になったのである。
◇自己の存在の考え方について
・私自身の〈いのち〉を考えても、その能動的な活きはこれまで歴史的に存在してきた多くの〈いのち〉を往相回向と還相回向によってこの身に合わせるようにして受け入れてきたものである。
・また私の〈いのち〉は死によってすべて消えるものではなく、いろいろな形をとって続いていくものである。
・清澤満之は「自己とは何ぞや。これ人生の根本的問題なり。自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗託して、任運に法爾にこの境遇に落在せるもの、即ち是なり」と言っている。
→〈いのち〉という観点から自己を見れば、これ以外の見方はできない。
・ここで念のために強調しておくと、自己の存在を生命という観点から捉えようとする際は、清澤のような見方は生まれない。
・私たちが浄土真宗のような宗教を理解できず、社会的な常識を基盤にした自分自身の存在に合うか合わないかによって、宗教的真理の正否を判断しようとすることが多いのも、生命を基盤にして自己の存在を考えているからである。
・しかし、〈いのち〉を基盤にして自己の存在を考えることにすると、〈いのち〉をいただいて今ここに生きている自己自身の存在の理解が根本から変化する。
→その結果として、見えてくる世界が親鸞の浄土真宗の世界である。
◇〈いのち〉の与贈循環の重要性
・〈いのち〉をいただいて今ここに生きている自己自身の存在の理解が根本から変えるのが与贈循環である。この変化がおきるために必要なことは〈いのち〉の場所(浄土)への自己の〈いのち〉の与贈である。
・浄土真宗では、その〈いのち〉の与贈が「南無阿弥陀仏」という形で仏の方から与えられているということが大きなポイントである。
・この与贈によって世界が基盤から変化して、〈いのち〉の与贈循環が生まれる。その具体的な形が親鸞の発見による往相回向と還相回向の活きである。
・「南無阿弥陀仏」によって、これまで無限に続いてきた〈いのち〉の与贈循環のなかに自己の存在が位置づけられて続いていくことになる。
◇〈いのち〉の場所の変化について
・〈いのち〉の与贈循環のなかに自己の存在が位置づけられて続いていくことは、物理的な時間のように時間が直線的に進んで行く状態から、〈いのち〉の場所を円環的に変化していく状態に変わるということを意味している。しかしそのことは〈いのち〉の状態がまったく変化しないということではない。
・〈いのち〉の場所のなかでも、免疫現象や生物進化などで知られるように、歴史的な変化がおきていく。〈いのち〉の重要な性質は存在の継続であって、変化をしないということではない。
・その逆に、歴史的な変化が見られるということは、〈いのち〉の場所に存在しているということなのである。
◇時間的相互誘導合致の重要性
・存在の性質が互いにまったく異なる多様な生活体は、それらが共に存在しようとしている場所を未来の方から場所の〈いのち〉に一緒に包まれることによって、「一即多、多即一」の状態をつくって調和的に共存在することができる。(「時間差相互誘導合致」の原理)
・しかし、もしも未来の方から包んでくる場所の〈いのち〉がなければ、その存在が相互に異なる多様な生活体は一緒に存在できない。
→したがって、一緒に存在するということは、〈いのち〉の場所において自己の〈いのち〉を未来に向かって与贈するということになるのである。
・このことが〈いのち〉の場所に生物進化のような歴史的進化が未来に向かって生まれていく原因なのである。また私たちの身体に、相互に異なるそれぞれの存在をもった多様な臓器が一緒に存在していく共存在の原理にもなっている。
・幾つかの宗教の間で深刻な宗教的紛争がおきてきたのは、宗教的に定義される〈いのち〉の場所が狭すぎるために、この共存在の原理である「時間差相互誘導合致」が実質的に排除されてしまうことが原因なのである。
◇共存在の原理
・ロシアのプーチン大統領が始めたウクライナでの戦争によって、世界のあり方が大きく変わろうとしている。しかし、プーチンが仕掛けているこの戦争は、地球の未来に向かって多様な価値観をもった人びとがおこなうべき〈いのち〉の与贈を排除して、自己中心的に変えていくという特徴があり、その〈いのち〉の場所の狭さから、一種の宗教戦争のような形をつくっているのである。
・地球という〈いのち〉の場所において必要なのは、共存在の原理、すなわち〈いのち〉の場所である地球の未来へ向かって多様な人びとがおこなう〈いのち〉の与贈である。
・浄土真宗で云えば、「南無阿弥陀仏」である。そのことによって生まれる「時間差相互誘導合致」こそが、今後の世界文明をリードする原理にならなければならないのである。
◇広い視野の必要性
・浄土真宗も、また〈いのち〉の科学も、原理が実質的に変わらなくても、互いを知ることによって異なる世界の景色を見ることができる。
・これから地球の上で様々な価値観を持った人びとが一緒に生きていくためには、一つの見方に拘束されて世界観を固めてしまわないことが必要であると思う。
・遠くの方を広く眺めようとすれば、異なる景色の間に共通する何かを発見する必要がある。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
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◎2023年6月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年6月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、従来とは異なって、第4金曜日の23日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。(参加費は無料です。)
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年6月1日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
5月になり、初夏のような日や梅雨のような雨の日もあって季節の変化を感じるこの頃です。ただ、それも温暖化の影響も少なからずあって地球の悲鳴のようにも思います。
コロナについては、いよいよインフルエンザ相当の扱いになるようですが、まだ感染すると重症化の可能性もあり、自己防衛を継続して行く方が安全かと考えております。
世界情勢も相変わらずで、戦争もウクライナだけでなく他の国でも起きてしまい、早期の終結が見えない状況で残念です。
さて、場の研究所の第35回「ネットを介した勉強会」は、4月21日(金曜日)に開催いたしました。「楽譜」のテーマは『場所的編集力と逆編集力』でした。今回はより具体的な例も紹介されていたこともあり、議論が多く交わされたと思います。勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。
なお、「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースの内容を是非参考にして下さい。
そして、5月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の5月19日に予定しております。清水先生からの「楽譜」のテーマは『生命と〈いのち〉』の予定です。基本のテーマは「共存在と居場所」で進めてまいります。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
・2023年4月の勉強会の内容の紹介:
◎第35回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:『場所的編集力と逆編集力』
◇危機における大切な願いは「所有」から「存在」への変化
・大地震のような大きな災害にあったり、深刻なガンが疑われたりすると、何かを所有することよりも、ただ無事に在ることの方が大切な願いとして、心から望まれる。
→危機に出会うと、所有から存在へと心の願いが変化をするのである。
・現在のように地球という場所に〈いのち〉の危機が生まれると、長い間にわたって人間の願いであった生活における所有の拡大から、安定した生き甲斐のある存在へと人びとの願望が変化をしていくようになる。
→所有は自己の存在が確かめられた後で、人間の心に生まれる願いなのである。
・このことのために、所有の拡大を目指して進んで来た近代文明が転回を始め、存在の安定へと大きく方向を変えて進み出しているのが世界(地球)の現在の状態ではないかと、私(清水)は考えている。
◇場所に在ることの重要性
・自己が何かを持つということは他動詞であるから、人の活きは能動的になる。
・所有に向けての他動詞的な近代文明が地球規模で発達した結果生まれてきたのが現在のSNSやAIなどであり、このまま歴史が進めば、地球はAIによって動かされていく大きな自動機械になっていく可能性すらある。これは「生きもの」としての地球の存在の危機である。
・一方、存在することは自動詞であり、場所の活きを受け入れることによって、場所において生まれる自己の状態である。
若山牧水が
白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
と歌ったように、もしも人が場所において在ることを失えば、孤独な存在をかかえて人生の孤独を悲しく生きていかなければならない。
・「生きもの」としての地球という場所において人びとが在ることが地球の自動機械化を止めることができる唯一つの方法である。
◇共存在について
・家族が家庭という同じ一つの場所に共に存在しながら、その家庭の歴史を創造して行くように、同じ場所において歴史的に在ることによって多様な人びと(生活体)が調和的に共存在することができる。
・それは場所を「鍵穴」とし、多様な存在者(生活体)の存在が相互に自己組織的につながって、場所の歴史を創造していく活きをその「鍵」とする時に、時間差相互誘導合致によって「鍵穴」となる場所に誘導されて、多様な存在者(生活体)の活きに調和的状態が生まれるからである。
・このことは西田幾多郎の矛盾的自己同一「一即多、多即一」と関係がある。ここで「一」は場所、「多」は多様な存在者(生活体)の存在である。
・また私は場所が多様な存在者を調和的にまとめて包む活きが場であると考えている。時間差相互誘導合致は多様な存在者がその〈いのち〉の活きを場所に与贈することによって生まれる〈いのち〉の与贈循環によって、人びとを未来の方から場によって包むことによって生まれるのである。
◇編集力について
・言葉を変えて表現すると、場所としての「鍵穴」には、「鍵」の構成部分である多様な存在者(生活体)の存在を調和的に編集して一つの「鍵」を構成する存在の編集力がある。その結果、矛盾的自己同一の形が生まれるのである。
・この編集力は同じ一つの場所の歴史を多様な存在者(生活体)が受け入れることによって生まれる場所の歴史を構成していく活き---同じ〈いのち〉のドラマの舞台で多様な存在者(生活体)が多様な役者となってドラマを共創していく創造的な形態形成の活き---によって生まれるものである。
◇〈いのち〉のドラマの創造的な形態形成の例
・小学校に入学する前の家庭における私自身の生活を思い出してみると、そこには涙のこぼれるような親の愛が生み出す〈いのち〉のドラマがあったと思う。それは幼い私の未来に常に向けられている両親の温かい〈いのち〉の与贈であり、その与贈の活きが家庭という場所における〈いのち〉のドラマの形態形成の力を生み出していることが直観的に感じられて、両親への私の純粋な信頼感のもとになっていた。
・このようなことも一つの例となるが、場所が生み出す存在の編集力---矛盾的自己同一の構造をつくる活き---は、存在者(生活体)の場所への〈いのち〉の与贈が生み出す〈いのち〉の与贈循環によって生まれる〈いのち〉のドラマの創造的な形態形成の活きであると思う。
・場所の編集力を受けてこそ、多様な存在者(生活体)が一つの「鍵」としてまとまることができるのである。皆さんの周りでも、このような例はきっと幾つも見つかると思う。
◇逆編集力について
・免疫力を含めて存在者の場所における存在者(生活体)の存在の創造力(構成力)のようなもの---場所による編集力とその編集力を多様な存在者(生活体)の身体が逆に想定して対応していく活きのようなもの---を考えないと、たとえば新型コロナによる感染者数のここ数年の変化はうまく説明できないのではないかと私は思っているが、人間や動植物の寿命まで場所の編集力を存在者(生活体)が逆編集する活きの影響を受けているかも知れない。
・場所とそこで生活している存在者の〈いのち〉は非分離でつながっているから、場所の〈いのち〉のドラマを共創していく動植物の〈いのち〉の活きとその存在の間には何らかの創造的な構成関係がある可能性がある。
・そこで人間が自己の人生をふり返り、さらに死へとつながる先を思いながら、「自己にこの地球という場所に存在を与えている活きは何か」と考えることは、無意味とは言えない。
→つまり、自己が役者として創造的に演じていく〈いのち〉のドラマの舞台とは具体的には何かということである。
・そしてその舞台ではどの様なシナリオにしたがってドラマがこれまで演じられ、また演じられていくのかを、自己の歴史を包む地球という場所(舞台)の歴史として具体的に考えてみるということである。
・これは役者としての自己が「ここで〈いのち〉のドラマを演じていく舞台(場所)とは何か」を考える逆向きの編集、逆編集である。
◇勉強会における逆編集のはたらき
・私たちの勉強会でも、2通目、3通目のメールの時に皆さんがそれぞれ互いの表現を引用されて「オーケストラ」の内部で互いに「演奏」している形がつくられている。この活きが逆編集に相当すると思う。
・編集の活きと逆編集の活きがあって、舞台(場所)と役者(存在者)の間に相互誘導合致の活きが生まれるのである。どちらか一方だけでは、相互誘導合致の形にはならないから矛盾的自己同一の形(場所的存在の形)は生まれない。
◇編集力と逆編集力を生む与贈循環
・場所の編集力は〈いのち〉のドラマの舞台に役者の表現を合わせるようにはたらき、また逆編集の活きは役者の表現に合わせて舞台を進める活きをする。
・若者が人生の進路を決めるときには、社会を場所とする逆編集の活きが必要になるし、その後の人生をいきいきと生きるためにも、その活きは必要になる。
・それは逆編集と編集の活きは自己の〈いのち〉の場所への与贈と、それによって生まれる場所的〈いのち〉の与贈循環によって生まれる活きであるからであり、またそれによって開かれていくのが創造的な調和の世界だからである。
・また少し特別なものになるが宗教の世界もこの形をとっている。
◇今の地球における場所の捉え方の問題
・場所的逆編集と編集の活きは様々な分野における調和的な創造力の源になる。
・動植物一般にも場所的逆編集力があり、そのために存在している場所と時間差相互誘導合致をしながら調和的に生きていくことができるが、人間が「この地球とはどのような場所か?」と考えて、その未来に合わせて〈いのち〉のドラマを創造的に演じながら生きていくために必要なものは、地球全体を場所とする逆編集力である。
・謙虚さがないために、その逆編集力が不足しておきているのがウクライナ戦争である。そもそも、「場所」の捉え方が間違っている。地球という場所の編集力の捉え方が誤っていることが根本的な原因であり、それは自動詞的な存在(在る)ではなく、他動詞的な所有(持つ)に目を付けていることに原因がある。
◇思想の根底に置くべきもの
・民主主義は国家という場所を逆編集する自由を個人に認める政治システムであり、専制主義ではその自由が認められず、絶対的な差を場所的な権力に置くシステムである。
・それは思想の根底に存在者(生活体)を置くか、それとも場所を置くかの違いがあるために生まれる差である。
→編集と逆編集のニュアンスの違いが人工的に生み出した絶対的な差であると考えてもよいかも知れない。
◇編集と逆編集としてのWBSの見方
・WBCで侍ジャパンが優勝した。全員の〈いのち〉のつながりによって生まれた温かい努力の結果だと思うが、最後は大谷翔平選手がエンゼルスで同僚のトラウト選手を三振に打ち取って優勝をし、大谷選手は大会MVPに選ばれた。
・この大会の表に見えた部分だけでなく、その裏に隠されている彼の素晴らしい逆編集の活きが大谷選手が主役となるような〈いのち〉のドラマのシナリオを書いたような気がする。
◇所有文明から存在文明への変化における重要ポイント
・所有(もつ)文明の時代から存在(在る)文明の時代への変化で重要になるのは、場所における〈いのち〉の与贈循環であり、それを引き出すのは、場所に対する謙虚な逆編集の活きだと思う。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
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◎2023年5月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年5月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、従来通り第3金曜日の19日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年5月1日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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皆様
4月になり、桜前線北上中で、東京をはじめ、桜が既に散ってしまっている地域もありますが、北日本ではこれから満開を迎えて楽しめる方もいらっしゃるかと思います。残念ながら花粉症の方には今年は厳しい飛散状態で辛い時期をおすごしかもしれません。
コロナについてはようやく感染者が減少し、マスクの装着ルールも緩和されましたが、まだまだ公共の場所では、皆さん自己防衛は勿論、他人に迷惑をかけたくないという思いからマスク装着が継続してるように感じます。急な変化に対して、疑心暗鬼になるのは妥当だと思います。
世界情勢は相変わらず戦争も終結が見えず、中国の動きも不安が伴います。早く明るい未来を語れるようになりたいと願っています。
さて、場の研究所の第34回「ネットを介した勉強会」は、3月17日(金曜日)に開催いたしました。「楽譜」のテーマは『「ネットを介した「矛盾的自己同一」』ということで、皆さんと行っている現在の勉強会についての議論となり、その中の人のつながりの重要性が主テーマとなりました。勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。
なお、「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースの内容を是非参考にして下さい。
そして、4月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の4月21日に予定しております。第35回となりますが、清水先生からの「楽譜」のテーマは『場所的編集力と逆編集力』の予定です。基本のテーマは「共存在と居場所」で進めてまいります。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
・2023年3月の勉強会の内容の紹介:
◎第34回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:『ネットを介した「矛盾的自己同一」』
◇「ネットを介した勉強会」で起きている人のつながりについて
・場の研究所のネットを介した勉強会は参加をしている人びとに温かいつながり感を与えるということで、その経験をした人びとから何時も次回を待たれている。
・その温かいつながり感はリーモート状態でのコミュニケーションで経験するものとは、まったく異なっているので、一体何がおきているかを少し詳しく考えてみたいと思う。
◇矛盾的自己同一という見方
・結論から言えば、ネットを介した状態で、参加者を「多」とし、そのネット上の場所を「一」とする西田幾多郎の矛盾的自己同一「一即多、多即一」が生まれているのである。そして参加者はその矛盾的自己同一をその内側から体験しているのである。
・これはネットを介して西田哲学の体験をしていることになるのである。そこで参加者(「多」)の間に感じているのは互いの存在のつながり感である。何故このような状態が生まれたかというと、参加者が無自覚の内に〈いのち〉の与贈を場所「一」におこなっているために、〈いのち〉の与贈循環によって場所の〈いのち〉(「一」の〈いのち〉)に包まれているからである。
◇「鍵」と「鍵穴」という見方
・このことを、少し別の方から眺めて見ることにすると、場所と多様な存在者(生活体)があるときに、居場所と多様な存在者が「鍵穴」と「鍵」の関係で相互に誘導合致して自己組織的に生まれる状態が矛盾的自己同一であり、その場合に多様な存在者は互いにつながって、「鍵穴」に合致する一つの「鍵」をつくるのである。
・勉強会の時に経験する温かいつながりは、「鍵穴」としての家庭に住む家族のように一つの「鍵」の関係になったときに経験する互いの存在の温かいつながり感によって生まれているのである。
◇情報の循環とその情報の意味について
・ここで相互誘導合致が自己組織的におきるかどうかは、自己組織的に〈いのち〉の与贈循環がおきる「場所」の活きをネット上でつくることができるかどうかがポイントになる。それはその「場所」に「場所の〈いのち〉」を与えることができるかどうかということと関係している。
・具体的に考えると、場所と存在者の間の情報の循環によっておきる意味の循環(〈いのち〉の活きの循環)が生まれることによるのである。情報の循環は「指揮者」のこばやしさんの活きによっておこなわれる。
・そしてその情報に意味を与えるのは私(清水)がつくる「楽譜」である。その意味は参加者の皆さんが与贈される情報の意味を自己組織的に包んでいくものでなければならない。
→したがって「楽譜」はテキストであってはいけないのである。多様な個体からの様々な与贈に応じられるように「生きている」必要がある。
◇ネットでも成立する矛盾的自己同一
・このように「楽譜」によって限定された範囲においてであるが、ネットを介して矛盾的自己同一をつくることができたのは、場の研究所としては非常に大きな成果であると思う。
・居場所における多様な個体の間の情報循環に最初に目をつけたこばやしさんの活きの意義は大きいと思う。
・それにつけ加えなければならないこととして、参加される皆さんの互いをつなぐ〈いのち〉の自己組織的な活きがあることは絶対的な必要条件である。その活きがあってこそ、ネットを介した矛盾的自己同一は生まれているのである。
◇「哲学カフェ」における課題
・少し飛躍するが、ネットを介して考える代わりに、同じ一つの場所的空間に集まって、たとえば哲学カフェの形で話し合ってみる方が矛盾的自己同一をつくりやすいのではないかと考えられるかも知れないが、問題は家庭のように全員が〈いのち〉の与贈循環をすることができるような〈いのち〉をもった居場所をその場所につくることができるかどうかということと関係していると思う。「楽譜」を予め与えられた上で、互いの存在を認め合うようにして話し合うことができるかどうかである。家族が互いの存在を知っているように、互いの存在が理解できているかどうかと関係している。
・一般的に言えば、参加者の互いの違いが目立ってしまい、ネットを介しておこなうよりも、かえって難しいのではないかという気がする。それは「待つ時間」を何処まで認めるかということと関係があると思う。
・こばやしさんの「指揮」でネットを介しておこなうときには、「楽譜」が先ず数日前に与えられ、その上で互いの意見を一日前に場所に送るので、参加者は様々な角度から考えることができるが、直接出会って話すときには、その時間を長くとることができないので、自己組織的に矛盾的自己同一の状態にもっていくことはかなり難しいと思われる。
◇自己組織的な「つながり感」の大切さ
・勉強会の時に生まれるつながり感は共存在の体験的な活きであって、知識を共有することで生まれるものとは異なっている。
・それは家族が互いの存在の間のつながりを体験することで、家庭という居場所に共存在していることを自覚することに似ている。それは「楽譜」を含めて、場所ができているからである。
・そのために、家族としての自覚が互いの間の共存在意識を強めて、家庭を暖かい場所にしていくが、勉強会で体験するつながり感もこうした温かさを与えてくれる。
→つまり「楽譜」の活きによって、参加者の間に自己組織的につながり感が生まれるように場がはたらくのである。
◇「楽譜」は参加者と感情的に〈いのち〉をつなげるもの
・そのためには、繰り返しになるが、〈いのち〉の与贈循環、具体的には勉強会の場所と参加者の間の情報の循環と、それにともなって生まれる〈いのち〉の活きの自己組織による場所的存在の自己組織が必要である。
・後者が生まれるためには、「鍵穴」の〈いのち〉の活きとなって「鍵」の自己組織的形成を進めてくれる「楽譜」が必要である。「楽譜」は客観的に知識を与える活きをするテキストとは異なっていて、それ自体が〈いのち〉の活きをもっていて、最終的には「鍵穴」(場所)と「鍵」(存在者)を矛盾的自己同一の形に相互誘導合致させることができるものでなければならない。
・そのためには、まず参加者と「楽譜」の〈いのち〉が主客非分離の形になることが必要である。(ここで〈いのち〉と生命の違いを確認しよう。)
→そのために、「楽譜」は参加者と感情的に〈いのち〉がつながることが必要である。実際の交響曲の演奏でも、楽譜と楽団員の演奏とが感情的につながらなければ、聴衆を感動させることはできないであろう。
◇「楽譜」とテキストとの違い
・「楽譜」をテキストとみて、一回だけ受け取り、その後は参加しないということは、時間のない方がやむを得ずおこなわれている参加の方法であると思うが、「楽譜」にはテキストとしての知識も与えてあるので、知識中心に考えると、これは一つの効率的な参加の仕方であるかも知れない。
・しかし、自己組織的な〈いのち〉の活きが自己のなかからも生まれて、居場所と矛盾的自己同一の状態になるということを実際に体験する機会があるのに、それを捨てて知識だけを考えるということは、情報の洪水のなかを人びとが孤独に包まれて生きている現代社会から抜け出る方法を知らない状態に自己を置いたままということになるので、別の見方からすると非効率的であり、できれば避けたいものである。
◇コミュニケーションにおける矛盾的自己同一の生成の難しさ
・哲学カフェのように、現実の場所で実際に出会って他者の話を直接聴くことは、もちろん意義は大きいのだが、その方法では矛盾的自己同一の形は生まれないのではないかと思われる。
・それは交響曲の指揮者のように、居場所の活き(楽譜)を独立して表現する人(「一即多、多即一」の「一」を表現する活きをする人)がいないからである。
・もしもそのような人が哲学カフェでも現れる方法があるなら、西洋の哲学でも矛盾的自己同一は言われていなければならないことになり、西田哲学を待つまでもないことになる。
・したがって、ネットを介した矛盾的自己同一の生成は、場の研究所の勉強会で生まれた新しいコミュニケーションの方法であると、私は考えてみたいのである。
◇温かい〈いのち〉のつながり感が大切
・ここでついでですので、私(清水)の経験を言うと、昭和と令和を生きてみて、一番大きく差を感じることは孤独感の強さであると思う。もちろん、孤独感の強さは令和という時代の大きな特徴である。
・そして、これは日本だけの問題ではない。たとえばプーチン氏や岸田氏のあり方を考えてみると、この孤独感が地球の未来に暗い影響を与えることは確実である。
・私たち個人がこの孤独感を和らげる貴重な場を期待して、月々の場の研究所の勉強会が来るのが待たれる。
・勉強会の参加者が、「指揮者」としてのこばやしさんの「指揮」の下で、相互誘導合致によって「鍵穴」に合致する一つの「鍵」となって、「楽譜」の活きを表現していく。そこに生まれる活きに温かい〈いのち〉のつながり感を感じて、それぞれがつながって一つの「鍵」になろうとするのである。
→その〈いのち〉の自己組織的な活きこそが、私たちの心の底に潜む強い孤独感を消していくのである。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
(なお、上記の楽譜の内容は、清水先生がよりわかり易くするために加筆修正されました。)
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◎2023年4月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年4月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、従来通り第3金曜日の21日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年4月1日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
3月になり、ようやく春を感じる日々が増えてきました。
コロナの感染者が減少傾向になり、マスクの装着ルールも緩和の話が出ていますが、本来あるべき医学的、科学的な説明が今一つ明確でなく、やはり自己防衛して行くのが重要だと思はざるを得ません。そして戦争も終結が見えず、大きな地震まで発生してしまい、地球そのものの悲鳴が聞こえてくるように感じています。
明るい未来を語れるような時代になって、世界中の人びとが夢をもって生きて行くことができるように願っています。
さて、場の研究所の第33回「ネットを介した勉強会」は、2月17日(金曜日)に無事終了することができました。「楽譜」のテーマは『生死の無常』ということで、「居場所の生命的複雑性の深刻化」という今の時代に考えるべき内容で始まりました。
勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。
そして、3月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の3月17日に予定しております。(第34回)
清水先生からの「楽譜」のテーマは『ネットを介した「矛盾的自己同一」』の予定です。
基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。
「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
・2023年2月の勉強会の内容の紹介:
◎第33回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:「生死の無常」
◇居場所の生命的複雑性」の深刻化
・ロシアが始めたウクライナ戦争には終わりの形がなく、どちらかの側がもう戦えなくなるまで続けられ、世界の国々も直接間接この戦争に巻き込まれて、生活や経済や環境がすっかり変わってしまう可能性すらあると思う。
・もともと生死は無常であり、私たちは何がおきてもおかしくない人生を生きているのだが、地球の〈いのち〉の限界に近づきつつあり、さらにその変化とウクライナ戦争とがつながることで、ますます生死の無常を生み出している「居場所の生命的複雑性」の様子が深刻な状況になって来たと思える。
◇仏教における菩提心の伝え方の難しさ
・「居場所の生命的複雑性が生み出す生死の無常を生きる」という問題は、現在の我々だけの問題ではなく、遠くはその問題に悩んで釈迦は住みかであった城を出て、どの様に人生を生きればよいかを長年修行しながら考え続け、やがて菩提樹の下に座って明けの明星を見たときに、一瞬にして菩提心というその心のあり方を悟ったと言われている。
・それ以降、菩提心を釈迦から人へ、そして人から人へと伝えることが仏教の目的となったのである。
→また後でも言及するが、自分だけの独力で菩提心を掴むことができた人は、釈迦以外には歴史に現れていないので、このような伝え方が必要になっているのである。
・ここで重要なことは、菩提心は情報ではなく、自己組織的に生まれる身体の〈いのち〉の活きであり、こばやし(小林剛)さんが鍛冶の技を師匠から直接学ぶことによって身につけつつあるように、それを身につけた人から直接学ばなければ身につけることはできないものである。
・師となるその人がいなければ、自己の努力だけではそのことが不可能であることを悟ったことから、親鸞は法然の下で別の生き方を選んだのである。
◇道元の仏教の伝道に対する考え方
・1225年と言えば、今から千年前であるが、これは道元が中国曹洞禅の天童如浄から人から人への形で菩提心を授けられた年である。道元はすぐ帰国して、やがて日本に曹洞禅を広めるのであるが、彼が帰国してそれほど年月が経っていないときに書いた『学道用心集』には、「仏教は理解することで身につけることができるのもではなく、釈迦から菩提心を身に受けた人から「人から人への形」で直接的に学ばなければ身につけることはできない。しかし日本には菩提心を身につけた人がいなかったことは、これまでの仏教界の言動から理解できる」という趣旨のことを書いている。
・彼はやがて既存の仏教から迫害を受けて、福井に日本曹洞禅の永平寺を開くに至るのであるが、彼が如浄から認可を受けたのは「身心脱落・脱落身心」によってであると言われている。
◇生死の無常の原因を乗り越える考え方
・私(清水)は生死の無常の原因である「居場所の生命的複雑性」を乗り越える菩提心は、〈いのち〉の居場所としての地球への徹底した〈いのち〉の与贈と、そのことから生まれる〈いのち〉の与贈循環の活きを自己組織的に身体に生成する以外には直接的な方法はないと思っている。
・そのことを、〈いのち〉の居場所である地球を「舞台」にして、「役者」となって「〈いのち〉のドラマ」を演じきることができる状態と表現することにする。釈迦の場合は、長年の厳しい修行によって、この「〈いのち〉のドラマ」の「役者」となることができるだけの〈いのち〉の活きが身心に備わっていたものの、その「舞台」が分からないという状況にあったために、実際にどう生きていけばよいかが分からなかったのではないかと思われる。
・言いかえると、「舞台」が不明で「〈いのち〉のドラマ」のストーリーを与える内在的拘束条件が掴めなかったために、「役者」の形が掴めなかったのではないかと思われる。
・その釈迦に明けの明星が内在的拘束条件を示す状態になって、「この星が見える世界が舞台である」と「舞台」を教えたのだろうと思う。
・そのことによって、釈迦は一瞬にして菩提心(「〈いのち〉のドラマ」の「役者」としての身心のあり方)を自己組織的に身心に掴んだと思われる。
◇内在的拘束条件を掴むということについて
・道元の場合は、「身心脱落」という言葉が内在的拘束条件となって、「役者」としての彼の身心の状態「脱落身心」を掴んだことを、師である如浄が認めて、認可をしたと思われる。身心が脱落していれば、自己の〈いのち〉の〈いのち〉の居場所への与贈も、心理的な抵抗もなく自然におこなえると思われる。
・「役者」としての「〈いのち〉のドラマ」の演じ方は人によって異なる。そうでなければ、自己言及のパラドックスの形が生まれるから、それでは「ドラマ」を演じることができない。→ということは、内在的拘束条件は同じであっても、それを表現するサインや言葉は人によって異なっているということである。
・サインや言葉は異なっていても、それが同じ内在的拘束条件を表現しているかどうかが分かるのは、実際に内在的拘束条件を掴んでいる人(この状況の場合は天童如浄)しかいないので、彼によって確認して貰うしかない。
・それは、こばやし(小林剛)さんが修行によって鍛冶の「腕」を一歩々々上げながら、内在的拘束条件を何処まで掴んでいるかを、師匠によって確認されながら師匠の技を受け継いでいくことに似たステップアップが必要になる場合が多いと思われる。
・その修行が禅仏教の場合は、坐禅ということになるのである。このようにして、釈迦から人へ、その人から次の人へという形で、釈迦と本質的に同じ菩提心を身心につけていくためには、それを身心に付けた人から直接指導を受けながら、一歩々々の修行の結果を確認してもらうより方法がない。
◇人から人へ伝えていくことの重要性と難しさ
・釈迦によってインドに生まれた菩提心は達磨によって中国にも伝えられたことは知られているが、千年も以前にそれを知るためには、中国に直接渡って、それを受け継いでいる人に出会って、人から人への形でその人から受け継いでくる以外に方法がなく、その人がどこに存在しているかという具体的な情報そのものが十分伝わっていないわけであるから、中国に渡った後でも幸運に頼るしか方法がないことになる。
・道元の場合は天童如浄との出会いという非常に大きな偶然の幸いを得て、これがかなえられたのである。そこで道元に伝えられてきた世界は、彼自身の手になる『正法眼蔵』によって現代に伝えられている。
◇与贈の一つが念仏
・このような方法に恵まれない多くの人びとは、どのようにして救われたらよいのだろうか。実際、釈迦と同様に〈いのち〉の居場所へ自己の〈いのち〉の与贈が十分にできればよいのだが、そのためには与贈の方法が分からなければならない。
・道元のように人から人へと直接的に伝えられていく方法を聖道門仏教と言うが、仏教には、その方法に恵まれない人びと(凡夫)のために浄土門仏教が存在することを、無量寿経という経典は釈迦の言葉として伝えている。
・浄土門仏教におけるその与贈の方法は簡単で、阿弥陀如来を心に描いて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることなのである。その方法によって、菩提心を獲得できるかどうかは、結局は無量寿経を「真理の経典」として信じきることができるかどうかにかかっている。
→それができれば、自己の死後も、阿弥陀如来によって無意味な状態から救われることになる。
◇生死の無常を越えるための親鸞の行動
・当時の最高学府に相当する比叡山の延暦寺で8万4千と言われる大乗仏教のすべての経典を読んで、説教を聞き、議論をするなど、聖道門仏教にしたがって修行しているだけでは、(菩提心を直接伝えている人がいないために)菩提心は掴めない。
・比叡山で20年も真剣に修行してきたけれど、煩悩に足をとられて到底菩提心を得られないということを悟った親鸞は、すでに「専修念仏」を唱えて山を降り、浄土宗を開いて吉水に教団をつくっている法然の下に100日間も通って、その結果、遂に法然の浄土宗教団に移る決心をしたと言われている。
・結局は、法然に質問を100日間もぶつけてみて、生死の無常を越える活きをもつ〈いのち〉の与贈の力に匹敵する力が念仏にあることを、親鸞は彼なりに確かめることができたのではないかと思われる。
◇念仏と〈いのち〉の居場所への与贈について
・自己の〈いのち〉の活きが〈いのち〉の居場所の〈いのち〉の活きに包まれていることを感じる心が菩提心であり、その活きを得るためには自己の〈いのち〉の〈いのち〉の居場所への与贈が必要であるとするならば、念仏は少なくとも形の上でこの条件を充たしている。
・菩提心は与贈循環によって、〈いのち〉の居場所から自己が与えられる心の活きである。したがって、無量寿経を釈迦の言葉(真実)の記録として、その真実性を心から信じて念仏を唱える限り、菩提心を与えられることになる。
→このことによって無常がもたらす闇から救われてきたことを、浄土門仏教を信じた多くの人びとが示している。
・たとえば歎異抄第二段の親鸞の念仏に対する力強い信の言葉に活かされた(幼い頃両手両足を失った)中村久子の後半の人生にそれを見ることができる。
◇人びとの孤独感を和らげるための与贈循環
・温かい心だけが癒やすことができるのは、孤独になってしまった冷たい心である。与贈循環によって菩提心が生まれることで癒やされるものは人びとの孤独な心である。
・人から人への贈与には抵抗があっても、人から居場所への与贈はそのいやしのためなら抵抗なくおこなうことができる。
・人びとの心に住みついている救いのない孤独感は、何もしなければ、それ自体がその活きを自己触媒的に強めていき、やがてどこかで殺人や戦争の形で表現される。
・資本主義経済では、その原理ともなって、独占へ競争がますます強まっており、イノベーションの形では、もはやその競争を抜けられない。今後もAIの活用によって、独占への競争は世界的に強まり、ますます強い孤独感が人びとの心を占領して、世界に広く殺人や戦争の原因をつくっていく。
・私(清水)が経験してきた昭和と令和の時代を比べると、令和の現在では人びとの孤独感が非常に強まっている。この地球における生死の無常がそれだけ強まっているわけであるから、可能な場所で、可能な方法で与贈循環の形をつくって、人びとの孤独感を和らげていくことが私たちの最も重要な課題となっているのである。
◇与贈循環を基盤にした思想の表現
・道元にしろ、親鸞にしろ、形は異なっていても、〈いのち〉の与贈循環を基盤にした思想を新しく社会に表現して、伝統的な権力者から迫害を受けたのであるが、共に厳しい時代を生き残って、日本の代表的な思想として今日まで生きた形で伝えられていることは注目に値する。
・日本人が経験した最も厳しい時代で、日本人の平均寿命が18歳であったと言われる鎌倉時代を、創造的に生きた道元や親鸞から与贈循環の活きを学んで、今後の厳しい時代に活かすことができれば幸いである。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
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◎2023年3月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年3月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、従来通り第3金曜日の17日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外にイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年3月5日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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■場の研究所からのお知らせ
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皆様
2023年も2月になりました。
大寒波の到来もあり、雪での被害が出ている地域のメンバーの方はご苦労されているのではと心配しております。そして、全国的に寒い毎日がその後も続いていますが、いかがお過ごしでしょうか?
新年になってからもコロナの感染拡大や戦争の終結が見えないという忍耐力を試されるような悲しい状況が続いています。どちらも早く収束方向となり、明るい未来が予測できることを期待しております。
場の研究所の新年最初の第32回目の「ネットを介した勉強会」ですが皆様のおかげで、1月20日(金曜日)無事に終了することができました。テーマは『多様性と一様性』でした。現代の一様性の傾向が強い世の中にあって、多様性を重んじた居場所が拡大していくことを願っております。
勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。
そして、2月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の2月17日に予定しております。(第33回)
清水先生からの「楽譜」のテーマは『生死の無常』の予定です。
基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。
「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
・2023年1月の勉強会の内容の紹介:
◎第32回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:「多様性と一様性」
◇隷属化原理について
・社会をガウス分布によって、違いを表すことができるような一様な人びとの集まりであると仮定して、その統計的な性質をもとにして様々な社会的施策が考えられている。
・Hakenの自己組織理論で使われているSlaving Principle 隷属化原理も要素の一様性を出発にしている。
・もしもすべての生活体(自律的に生活している要素)が同じなら、現在形成されている秩序にしたがって生きるのが望ましく、隷属化原理が成り立つ。
→そして人びとは「べきの論理」に支配されるわけである。
◇隷属化原理が成立しない条件とは
・しかし人間の身体を構成している臓器や器官となると、たとえば心臓と肺臓と肝臓のように機能がまったく異なるし、また互いに異なっていることが大切であるから、他の臓器や器官に合わせて活動するというわけにはいかない。
・しかし互いに身体の一部を構成しているので、他の臓器や器官の活きを無視して活動することもできない。
→生活体が多様で主体的であると、隷属化原理は成り立たないのである。
・それでは何かの原理があるかと言えば、私が思いつくのは西田幾多郎の矛盾的自己同一「一即多、多即一」くらいであり、それで何かが明らかになってくるというわけにはいかない。
・私は多様で主体的な要素(生活体)の集まりには、これから紹介していく時間差相互誘導合致という新しい法則を原理として使うことができると思っている。
◇未来の存在する居場所の重要性
・以前、前川泰久さんが本田技研で排出ガスによって大気を汚さない新しいCVCCエンジンを載せた車が創造されたのは、「子どもたちに青空を残そう」という言葉によって、様々な部署の人びとが互いの違いを越えて協力したからであるという趣旨のことを書かれていた。
・つまり、多様な要素(生活体)が現在存在している違いを無視して、未来に存在する青い空の居場所に誘導合致されて働いたのである。
・ここで大切なことは、多様な要素(生活体)の現在の状態とそれらが存在する未来の居場所の間には時間差があるということである。
(現在の居場所における要素の間の関係は決められていない。無限定である。)
◇時間差相互誘導合致について
・時間差があるために多様な要素(生活体)は居場所の未来に形成されるであろうと思われる秩序に向かって、自己の判断で生きていくことができるのであり、またその居場所の未来の状態の方も、要素(生活体)生活体の未来への希望に影響を受けて決まるわけであるから、多様な要素(生活体)生活体と居場所の間の関係は時間差のある相互誘導合致(時間差相互誘導合致)の形になる。
→このために居場所が名詞ではなく、相互誘導合致の活きをもった動的な名詞(動名詞)としてはたらくのである。
・多様な要素(生活体)は互いに未来に向かって進むことで協力できるところは協力し、互いに妨げ合わないことが必要である。
→つまり、未来の居場所と現在の要素(生活体)の集まりという時間差がある相互誘導合致である。
◇「〈いのち〉のドラマ」には時間差が必要
・このように居場所の時間を多様な要素(生活体)の時間からずらした時間差のある相互誘導合致によって生まれるのが「〈いのち〉のドラマ」である。
・「〈いのち〉のドラマ」では多様な要素(生活体)が多様な「役者」となり、そして未来の居場所の状態が「ドラマ」が到達する「舞台」の最終的な状態である。
・「ドラマ」では、多様な「役者」が同じ「舞台」に共存在して、互いに助け合って演じることが一般的である。
・そこで「ドラマ」にとって必要なことは、多様な要素(生活体)が存在する状態と居場所の最終的な状態の間に時間差が存在していることであり、その時間差がなくなれば「ドラマ」は停止して終わる。
◇身体における「〈いのち〉のドラマ」
・私たちの身体でも、多様な臓器や器官が共に「〈いのち〉のドラマ」を演じているのであり、その結果、もしも居場所としての身体の状態と多様な臓器や器官との時間差がなくなれば「ドラマ」を演じることはできないから、臓器や器官は共存在できなくなって生きていけず、死ぬことになる。
・要素(生活体)の一様性を前提にして導かれた隷属化原理は時間差がない状態で導かれたものだから、「〈いのち〉のドラマ」を演じている「生きているシステム」には使えないことになる。
→つまり多様な要素(生活体)の共存在を考えるときには使えないのである。
◇「〈いのち〉のドラマ」に必要な〈いのち〉の時間差与贈循環
・このことから分かるように、到達すべき居場所の状態を未来にもっていることが生き続けていくための絶対的な必要条件になる。
→その必要条件の下で生きていく形を生み出すために必要なことが多様な要素(生活体)から居場所への〈いのち〉の与贈である。
・自己の〈いのち〉を与贈しない「役者」は「舞台」に上がれない。「役者」たちの〈いのち〉の与贈は居場所に未来の「夢」に向かって生きる形を生み出すのである。
→居場所の未来に「夢」があることから、「〈いのち〉のドラマ」の進行に必要な時間差が生まれてくるのである。本田技研の「青い空」は「本田技研の夢」だったのである。
・未来の「夢」からの居場所の〈いのち〉の与贈循環を多様な要素(生活体)が受けると、共に生きていく目的が生まれて、「〈いのち〉のドラマ」を共演していくことができる。「ドラマ」の共演が共存在の形である。
→多様な要素(生活体)の現在と、居場所の未来を具体的に結びつけているのは時間差を踏まえた〈いのち〉の与贈循環(〈いのち〉の時間差与贈循環)なのである。
◇スパイラルな円環的時間によって進行する未来へのドラマ
・多様な要素(生活体)からの〈いのち〉の与贈によって、未来の居場所の〈いのち〉の自己組織が進むために、その状態を多様な要素(生活体)に循環してくる時間差与贈循環は要素(生活体)の現在を居場所の未来につないでいく活きをする。
・多様な要素(生活体)の〈いのち〉が連続的に与贈されていく結果、〈いのち〉の時間差与贈循環が継続的に進行する。その時間差与贈循環によって、居場所に「〈いのち〉のドラマ」が生まれて進んで行くのである。
・継続的な時間差与贈循環にともなって循環しながら進行する時間はスパイラルな形をした円環的時間であるから、多様な要素(生活体)が「役者」となって居場所を「舞台」にした「〈いのち〉のドラマ」が進行していくのである。
・多様な要素(生活体)の活きは互いに独立しているので、それを横から見ると、「舞台」としての居場所への「役者」それぞれの〈いのち〉の主体的な与贈になっており、互いに妨げ合うことはない。
・そして、そのドラマによって生まれるスパイラルな円環的時間にしたがって多様な要素(生活体)の〈いのち〉は時間的に同調しながら未来に向かって「ドラマ」の形で進行していくのである。
・多様な独立した要素(生活体)の〈いのち〉はその進行にともなって自己組織的につながっていき、直線的な時間のなかにあるときのように互いに妨げ合うことをしないのである。
◇時間差与贈循環により生まれる「幸せな生活を送っている」という意識
・未来における居場所と生活体の相互誘導合致に向けて、生活体から居場所への〈いのち〉の与贈がおこなわれ、居場所における〈いのち〉の時間差与贈循環が生まれる。
・この時間差与贈循環によって生活体の存在が居場所の活きによって救われ、幸せな生活を送っているという意識が生活体に生まれるのである。
・その時間差与贈循環によって現在の自己と未来の居場所の間に時間差相互誘導合致が起きるのです。
◇新しい夢の発見による新たな与贈の開始
・「夢」が叶えられれば、「〈いのち〉のドラマ」は終わるので、もしも多様な要素(生活体)が存在をつづけようと思うならば、昆虫の変態のように、新しい「夢」を見つけて、〈いのち〉の与贈をまた新しく始めなければならない。
・生長は「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」に新しい「役者」が次々と参加をしていくことで、「舞台」が広がって、「ドラマ」を広げて同じ一つの「夢」を追い続けていくことに例えられる。
→では、夢が広がることに例えられるだろうか。
しかし居場所の〈いのち〉の自己組織の限界にぶつかれば、時間差与贈循環が行き詰まってスパイラルな円環的時間を生み出せなくなるので、「ドラマ」そのものを新しくする必要が生まれる。
◇居場所の未来の推定について
・日本の社会は多様な要素(生活体)が存在している社会に隷属化原理を押しつけようとしているように思われる。そのことから、「〈いのち〉のドラマ」を演じられなくなる人びとが多く、長い目で見たときにこの取り違えは、日本の社会の大きな弱点になる。
・時間差相互誘導合致のための居場所の未来の読み方だが、自分の分野の居場所には感情がはたらいて、冷静に読むことができないことが少なくないために、先ず自分と直接的には関係のない分野の未来を読んで、それを参考にして自分の居場所の未来を推定するのがよいと思う。
・あるいは世界全体の歴史的な変化を頭に置いてその原因を考え、そこから自分の居場所の未来を推測することもできる。
→自分が直接的に関係する分野のことしか関心を持っていないと、行き詰まることが多いのである。
・居場所の状態というものは、相互誘導合致によって、どんどん変わっていく。隷属化原理によって居場所を見ているときは、生活体(人びと)をみな同じ存在だと考えて、その存在の多様性を忘れている。
→であるから、自分が「どんな人間として生きたいか」ということが重要である。
◇身体における「夢」とは
・ここで居場所としての身体とそこで生きている多様な生活体としての臓器の関係に戻って考えてみよう。
・これは私たちの〈いのち〉がどのようにして終わるのかということにも関係しているので誰にとっても重要な問題である。
・身体の「夢」とは何であろうか?
それは多様な家族が非分離な状態で生活している家庭という居場所の「夢」と似ている。
→つまり、家庭と家族の存在が非分離につながっているように、私たちの身体と臓器や器官の存在も非分離である。
・そのことを前提として考えてみると、家庭の「夢」は家族を非分離に含めた調和的な生長であり、すべての家族の生長もそこに含まれている。これと同様に、身体の「夢」もすべての臓器や器官を含めた調和的な生長であると、私は考えている。
◇生長していくことと、生長が妨げられること
・生長は現在を未来につなぐ「終点を示されない〈いのち〉のドラマ」であり、すべての生活体を非分離に含めた居場所の時間的進行である。
→したがってそれは常に時間差相互誘導合致を原理とし、その法則にしたがって進行する。
・多様な家族を含めた調和的な生長が家庭にとって善であるように、身体にとっても、多様な臓器や器官を非分離に含めた調和的な生長が善である。
→したがって臓器や器官の深刻な病気や身体の老化によって、この調和的な生長を妨げるような変化が身体におきると、それは時間差相互誘導合致を否定する活きとなり、不善となって死の原因にもなっていくのである。
・まとめて考えると、居場所としての身体と、そこで生きている多様な生活体としての臓器や様々な器官の活きの調和的な非分離性が破れることが不善であり、それが死の原因になるのである。
◇人間の存在する地球について
・要素(生活体)の多様性とその居場所の状態の間には時間差があることが必要である。
・このことは人間と地球の関係にも当てはまる。それを考えるために必要な前提は、人間の存在と地球の状態の非分離な関係であると考える。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
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◎2023年2月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年2月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、従来通り第3金曜日の17日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
最期に、新年に際し、皆さまの健康とご多幸をお祈りしております。
今年も「場の研究所」をよろしくお願いいたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年2月5日
場の研究所 前川泰久
このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。
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皆様
新年あけましておめでとうございます。
昨年もコロナに翻弄されてしまった一年でしたが、場の研究所の「ネットを介した勉強会」は皆様のおかげで継続でき、12月にトータル31回を重ねることができました。
清水先生の楽譜(テキスト)をベースに、参加者で議論されてきたことは、特に地球という我々の居場所の大切さを改めて感じることや、今の世の中でまだまだ不足している与贈の重要性だったと思います。
2023年はまた新たな気持ちで、場の研究所として皆様と一緒に場の思想を深めていきたいと考えております。昨年末に清水先生から「2022年も場の研究所は社会のために活動することができました。今は限られた人びとの間にその活きが、限られた形で伝わっていますが、毎月、新しい問題が提起されて、その問題を解くことで、人びとがつながる方法が示されていきます。」というコメントを頂いています。人類がお互いを思いやる社会になり、争いのない共存在の世界を築き上げるために、少しでもお役に立てるように努力していきたいと思います。
さて、昨年12月の「ネットを介した勉強会」は12月16日(金曜日)に開催いたしました。
テーマは『生命と死』でした。
勉強会にご参加くださった方々、ありがとうございました。
そして、新年1月の「ネットを介した勉強会」の開催は従来通り、第3金曜日の1月20日に予定しております。(第32回)
清水先生からの「楽譜」のテーマは『多様性と一様性』の予定です。
基本のテーマは「共存在と居場所」で進めていきます。
「ネットを介した勉強会」の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。
もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。
contact.banokenkyujo@gmail.com
メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。
(場の研究所 前川泰久)
◎コーディネーターのこばやし研究員からのコメント:
2022年、一年間ありがとうございました、そして、2023年もよろしくお願いいたします。
コロナ禍となってから、対面での活動が制限されたまま約三年が経とうとしています。
このような中で、Eメールを使った勉強会である「ネットを介した勉強会」によって活動が継続できていることが嬉しく、そして、感謝しております。
また、今年こそ、対面での活動の再開が出来ればと期待して、どのようなことが出来るだろうかと模索しているところです。
今後とも「ネットを介した勉強会」また、再開出来るであろう対面での活動への支援、また、参加をお願いします。
「ネットを介した勉強会」毎月届く清水先生からの「楽譜」(勉強会では、論文資料をこのように呼んでいます)を読むとき、気をつけていることがあります。
「楽譜」は、分析的に読むと資料となってしまいます。
せっかく「楽譜」と呼んでいるのに、これでは「資料」に逆戻りです。
私自身は、例えばオーケストラなら「楽譜」は、「楽譜」を通して作曲者の世界を体験するものとして在ってくれる、と言えるのではないか、と思うので、私もこの「楽譜」を体験として捉えるよう心がけています。
ただ、体験ですから、自身のそれと照らせるときは、直観的に捉えられますが、それが無い、又は少ないときは戸惑いも生まれます。(2022年の12月の会は、自分としては、そんな感じでした。)
振り返って思うのですが、それは、それで構わないのだと思うのです。
迷って、彷徨っていいのだと思うのです。
そうしても(迷ったり、彷徨ったり)いいよ、と一緒に学んでいる皆が助けてくれる、見守ってくれる、この勉強会は、そういうところだと感じるからです。
毎回、「その安心な中で十分に徘徊したらいい」、そう言ってもらえている感じを受けるのです。
このことが、この勉強会の強みの一つであろうと私は思います。
又、このことは、確かめたわけではありませんが、私一人が思っている、というよりも、互いにそう感じているのではないだろうか、とも思うのです。
今年も、「楽譜」を通して体験を深めていけることを嬉しく感じています。
2023年がよい年となりますように。
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2022年12月の勉強会の内容紹介(前川泰久):
◎第31回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)
(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)
★テーマ:「生命と死」
◇生命と〈いのち〉との違い
・生命と〈いのち〉の関係は名詞と動名詞の関係である。
たとえば「永井陽子の生命」は名詞であるから、二つ以上に切り分けることはできない。したがって、「永井陽子」が死ぬときには、その生命も一緒になくなる。しかし「永井陽子の〈いのち〉」は動名詞であるから、生きている「永井陽子」から切り分けて、彼女の存在を包んでいる居場所へ与贈することができる。
・与贈された〈いのち〉は、本人が死んでもその居場所に残るから、歴史というものが居場所に生まれるのである。
・人の死に際して、その人が自分の〈いのち〉をどこかの場所に与贈していくことができれば、死の状況も変わることになる。ここに宗教や藝術が存在する原因がある。
・ただ、死に際して、死者当人がどこまで明瞭に〈いのち〉の与贈をしていくことができるのだろうかは不明である。
・念仏や「アーメン」と言った短い祈りの言葉が日頃から唱えられる理由がここにもある。科学と宗教とをつなごうと思えば、どうしても〈いのち〉の科学から出発していくことが必要になる。
◇〈いのち〉の三つの活き
・これまでも、繰り返し説明してきたことだが、名詞としての生命には存在しないけれど、動名詞としての活きをもっている〈いのち〉には存在する活きとして、「〈いのち〉の与贈」、「〈いのち〉の自己組織」、そして「〈いのち〉の与贈循環」がある。
・この三つの活きがあれば、自己の存在を円環的時間で包む居場所が生まれるし、さらに「くり込み相互誘導合致」(「くり込み与贈循環」)によって居場所に〈いのち〉の歴史が生まれ、時代を越えて継続されていく。
・表現を変えれば、「〈いのち〉のドラマ」を演じる必要条件が充たされるからである。
◇かけがえのない自分と「いま、ここ」
・「この広大な宇宙で二度とは得られない生命をいま自分は得て、たった一度だけの人生を生きている。この瞬間の貴重さを思えば、ほとんどの悩みは取るに足りない。」学生の頃からこのように思って、私は自分の悩みを幾度も乗り越えてきた。
・「果ての知れないこの広大な宇宙」における「〈いのち〉のドラマ」を、たった一度しか出現しない欠け替えのない「役者」として、「この広大な宇宙」の「いま、ここ」の一角で自分自身が演じているという状況を、どう理解したらよいだろうか。
・先ずは父母があって、その遺伝子を受けて、私という個人の生命が生まれたことは偶然的なできごとであり、私でなく、「私の兄弟」が生まれる可能性もいくらでもあったと思う。しかし、偶然の結果として存在している私の方から見れば、すでに生命を与えられて「いま、ここ」に存在していることになる。
・そのために、「何故、「いま、ここ」なのか?」という問いに私自身が答えようとすると、私はどうしても自分自身の生命を越えて、その〈いのち〉の存在を問わなければならないことになる。そして自分が「役者」として「〈いのち〉のドラマ」を演じていく「舞台」として、既に「この広大な宇宙」における地球という場所を与えられていることに気づく。
・「舞台」は時間に包まれた空間であるから、それは私自身の存在を円環的時間によって共存在状態にする「〈いのち〉の居場所」である。だから、それはその「〈いのち〉の居場所」の「いま、ここ」であり、したがって私の存在はその「いま、ここ」にいるように、すでに外在的拘束条件を受けているのである。
・しかし「私の〈いのち〉」が宇宙で一度だけしかおきない偶然のできごととして「いま、ここ」に存在しているということだけでは、私が宇宙における「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」に「役者」として登場して、その〈いのち〉を表現できること---「役者」として「〈いのち〉のドラマ」を演じられること---にはすぐならない。
・つまり「宇宙的なできごと」として自己の〈いのち〉をもらうだけでは、私が「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」に登場して、その〈いのち〉を「いま、ここ」で表現することはできないのである。
◇与贈することが一つの答え
・そこで必要になるのが、一つしかない自己の〈いのち〉を「舞台」としての場所的世界(〈いのち〉の居場所)に与贈することである。言いかえると、それは私自身の〈いのち〉を「舞台」に与贈することによって、私自身の存在の内在的拘束条件を充たすこと---「役者」としての「役」を「舞台」につくること---である。
・少し先回りをして説明すると、私が自己の〈いのち〉の存在を宇宙の「いま、ここ」で表現していくことは、このようにして外在、内在の両種拘束条件が充たされることから生まれてくるのである。さらに一般的に言えば、私は「いま、ここ」で自己の〈いのち〉を宇宙の歴史に表現しているのだ。
・内在的拘束条件の活きを受けて、私の存在はその「舞台」である「この広大な宇宙」でたった一つしかないものとなっていくのだが、それは同じ「舞台」に全く同じ「役」の「役者」が複数いることは自己言及のパラドックスを生み出すから、その可能性が内在的拘束条件によって排除されるためなのだ。
・このように考えていくと、「私の〈いのち〉」が「いま、ここ」に存在して「〈いのち〉のドラマ」を演じていることは、「この宇宙」にただ一度だけしか起きない偶然的なできごと---宇宙的な意味で偶然的なできごと---である。
・しかし、このことは「〈いのち〉のドラマ」を演じている他の誰の〈いのち〉についても同様に言えることであり、さらに人間を越えて存在の範囲を広げることもある程度できると思われる。
◇「〈いのち〉のドラマ」は生と死によって演じられていく
・「〈いのち〉のドラマ」は生きものたちの生だけによって演じられていく「ドラマ」ではない。生と死によって演じられていくものである。
・生と死が交差する地球という「舞台」で「〈いのち〉のドラマ」が演じられてきたことは、私たち自身が毎日多くの生きものの〈いのち〉をいただいて生きていることにも繋がっている。死と生との境を越えて〈いのち〉の与贈循環が「舞台」としての場所的世界でおきていることから、場所的世界としての地球から与贈される居場所の〈いのち〉に包まれて私たちは生かされているのである。
・そのことを次のようなことから理解していくことにしよう。
木の葉にはそれぞれ誕生があり、またその一生を終えると生命を失い、落ち葉になって木から落ちる。木の葉一枚一枚が〈いのち〉をもって生きているのである。木の葉が元気な間は活発に光合成をして、そして得た〈いのち〉の活きの多くをそれぞれの居場所である木に与贈して、木を生長させていく。それにともなって木から循環的に、葉の〈いのち〉の維持に必要な水分や栄養などの物質や生理的な状態の与贈を受ける。この与贈循環によって円環的時間が生まれて、木と葉を全体的に包んでいく。
・そして葉がそれぞれぞれの〈いのち〉を失って落ちるときには、それぞれがはたらいて木に与贈してきた〈いのち〉は木に残る。生活体が死ぬときには、与贈した〈いのち〉を居場所に残して死ぬのである。
・しかし死ぬということは、それだけでは終わらない。木の葉という存在そのものを森(地球)に与贈するという行為がその死であり、与贈したその葉にバクテリアがついたり、虫がついたり、それを小鳥が食べたり、そしてその状態が雨に流されて海に運ばれてプランクトンが発生して、魚の群れが生まれたりして、地球における類と種を越えた生命の循環が始まるのは死によって開かれる生命のドラマであるからだ。それは死によって開かれる外的拘束条件の更新である。
◇死の重要性
・私たちが毎日〈いのち〉をいただいて生きていることから考えても、この木の葉の例は少し形を変えて、一般化することができると思う。そのなかで死はこのように、それぞれの居場所に空間的に孤立していた時間を、地球全体に開いていく活きをしているのだ。
・その意味で、死は「〈いのち〉の超新星の爆発」に相当して、「空間が時間を包む構造」を「時間が空間を包む構造」に変えて、〈いのち〉の歴史である生物進化を地球につくっていく。
・死のない居場所には、それ故、〈いのち〉の歴史は継続的に続かない。「死のない地球」は地球ではないのである。私たちの死は、私たちの全存在そのものを地球に与贈し尽くしていく、それぞれ一回だけの大きなできごとである。
・その活きを信じる者には、これまでも私自身が「たった一度だけの人生を生きている存在の貴重さ」によって自己の悩みを救われてきたように、救いをもたらされる。
◇死を含めた全存在の与贈循環の活き
・「〈いのち〉のドラマ」のイメージには、このように死を通じておきる文字通りの全存在の与贈循環の活きを無視できない。実際、生命が地球に生まれて以来、全存在の与贈循環によって生物進化が「生命の歴史」として進み、現在の地球における生きものの状態に至っているのだ。そして私たち人間も、居場所としての地球から与贈される時間が空間を包む場所的な活きに包まれることによって、その存在を維持している。
・地球に生存している生きものとして、私たち人間自身もこのように生かされているが、私たち人間自身の死によって果たして居場所としての地球への全存在の与贈の活きがどこまで生まれ、そして地球を舞台とする生命の存在がどこまで更新されているのだろうか。
・先ずは、私たち自身の死によって生まれる存在の外在的拘束条件の変化がもたらす物理的な地球の変化の可能性をどう見るかである。次に内在的拘束条件の変化がある。
・「〈いのち〉のドラマ」の「舞台」における「役者」としての個人の「役」は〈いのち〉の活きの内在的拘束条件によって生成されるが、この「ドラマ」の「舞台」における「役」の表現に自己の死に方も含めて考えることにすると、自己の存在が死後に「舞台」としての地球に残す活きが生み出す〈いのち〉の与贈循環について考えることになる。
・その意味では、地球における多様な生きものとの調和的な共存在に向けた考えや、その考えを具体的に実行する方法を、自己ができる範囲で残していくことが大切であると思う。
◇人間の持つ大きな創造的な与贈力
・しかしそれだけではない。それは、人間は他の生きものには見られないような大きな創造的な与贈力をもっているために、その力を活用することができるからである。
・文字通りの自己の死によって、居場所としての地球にその全存在を与贈する以前に、自分がまだ生きている状態のまま、その活きを地球に与贈することを創造的に考え出すことができるのが人間である。
・人間だからこそ、生と死を越えてその様な与贈が可能になるのである。そのことを希望的に考えると、居場所としての地球の生命的な限界に厳しく接している現在だからこそ、人間の創造的な努力が強く求められるのだ。
・地球は新しい〈いのち〉の倫理を必要としている。私たちの勉強会がそのような意味で内在的拘束条件を生み出して、「舞台」としての地球への〈いのち〉の与贈になっていくことを、心から願いたいものである。
以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)
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◎2023年1月の「ネットを介した勉強会」開催について
2023年1月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、従来通り第3金曜日の20日に開催予定です。よろしくお願いいたします。
今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。
この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。
参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。
場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。
最期に、新年に際し、皆さまの健康とご多幸をお祈りしております。
今年も「場の研究所」をよろしくお願いいたします。
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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。
2023年1月5日
場の研究所 前川泰久