メールニュース

※ このメールニュースは、NPO法人場の研究所のメンバー、場の研究所の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

※ 「メールニュース」は、場の研究所メールニュースのバックナンバーを掲載しています。



2024年分

場の研究所メールニュース 2024年05月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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5月になりました。ゴールデンウイークでお休みの方もいらっしゃると思います。先月は桜の開花が遅れていたのに、このところ急に暑くなり、初夏のような気候になってしまいました。

さて、4月の勉強会は皆様の協力でGoogleシステム変更にも対応もでき、ほぼトラブルなく開催できました。ありがとうございました。

 

4月の勉強会は第3金曜日の4月19日に開催いたしました。

テーマは『人間の進化と共存在』でした。ご参加してくださった方々、ありがとうございました。

 

4月のテキスト(楽譜)の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

 

そして、5月の「ネットを介した勉強会の開催は第3金曜日の5月17日を予定しております。よろしくお願いいたします。

清水先生の「楽譜」のテーマは『与贈・与贈循環』の予定です。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

(場の研究所 前川泰久)

 

・2024年4月の勉強会の内容の紹介:

◎第46回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

 

★楽譜テーマ:『人間の進化と共存在』

 

◇人間は服と同様に社会に包まれて生きていく存在

・人間は自分たちでつくった服を着て生きている生物である。しかもその服装は歴史的に変化をしていく。他の動物と異なって人間は服を捨てて生きることはできない。したがって、服が破れてしまうと、生きていくことができない。

・これと同様に、人間は社会をつくり、その社会に包まれて生きていく存在である。その社会の活きが壊れてしまうと、その社会で生きていく生物として生きていくことができない。したがって社会の活きが壊れてしまわないように、人間は創造によっては社会を歴史的に進化させていく。

・文化人類学の研究によれば、社会の歴史的な進化に失敗した数多くの民族は急速に絶滅して地球から姿を消している。

・このようにして、社会の進化そのものが、その社会と非分離な形で生きていく人間の生物学的な進化に含まれているのである。人間の身体も生物学的に進化をしていくと思われるが、それ以上の速度で社会が進化をしている可能性がある。

 

◇、社会的な共存在ができる新しい社会の必要性

・このように人間の社会の存在は個人の存在と非分離な存在であるから、人間の〈生命〉には社会の状態が含まれている。創造はこの社会を進化させる活きであるから、個人の創造は社会の他の人間によって認められて、新しい共存在の形を生み出していく。

・共存在の形に変わらない発明や発見は創造とは言えない。人間の〈生命〉が他の動物の個体の生命に相当するのである。

・したがって、〈生命〉が厳しい状態に置かれると、社会的な共存在ができる新しい社会の形の創造が求められて、〈生命〉の与贈循環によって生物学的進化の機会が生まれる可能性が生まれるのである。

・このような状態で生まれるのが次の時代を開いていく新しい宗教や思想である。例えばフランス革命がその例である。

 

◇厳しい時代に生まれた宗教や文学の意義

・日本では、歴史的に見ると鎌倉時代は最も厳しい時代であり、鎌倉を調べた人類学的な調査では、その時代の日本人の平均年齢は18歳であったと言われている。人々の心もすさんで、関白の息子が御所に放火をしたと言われている。

・この鎌倉時代に現在の日本の宗教の骨格となっている法然による浄土宗、道元による曹洞宗、日蓮による日蓮宗、親鸞による浄土真宗が生まれているのである。これらの宗教は〈生命〉に関するそれぞれの固有の思想と共に現代まで受け継がれて続いている。

・また運慶による国宝である無著菩薩と世親菩薩の立像仏が奈良の興福寺(法相宗)に納められており、自己の〈生命〉をかけて道を求めた人々の面影を現代まで伝えている。

・さらに世界最古の「災害文学」と言われる鴨長明の方丈記は、古くて新しいさまざまの災害を詳しく文学的に伝えて、それらと共に社会的に存在していく人間の生き方を示している。

 

◇〈生命〉の与贈循環とそれに続く〈いのち〉の与贈循環の必要性

・これらの創造は宗教や思想の領域に生まれるものであるために、それだけでは社会的にいつまでも自立していくことができない。そこでさらに、社会全体に広がって人間の日々の生活に結びつく文化面での創造が必要になる。

・それを実行するのが社会を場所とする〈いのち〉の与贈循環である。それは〈生命〉の思想の創造によって生まれた「高い皺」を社会全体にアイロンをかけて広げていく作業である。

・生活に関するさまざまな新しいアイデアが創造されて、「日本の場の文化」と言われているものが生まれたのはこの場面である。もしも、この〈いのち〉の与贈循環がうまくいかなければ、共存在の場所である社会としては生きていけないので没落して消滅してしまう。民族として継続的に生きていくためには、どうしても〈生命〉の与贈循環とそれに続く〈いのち〉の与贈循環による創造的な共存在活動を成功させなければならない。

 

◇二種類の与贈循環を繰り返すことによる〈生命〉の進化

・〈いのち〉の与贈循環が何百年も続くと、それなりの強者と弱者が生まれて社会的矛盾が生じ、社会における人々の共存在を困難にする。

・もしも政治的にその矛盾を乗り越えることができず、その強弱が固定化されてくると、方丈記に書かれているように社会が不安定化されていき、その矛盾を乗り越える新しい思想が求められる状態が生まれて、新しい思想を〈生命〉の与贈循環に戻って創造することが求められるのである。

・このようにして、人間は二種類の与贈循環を繰り返しながら、社会を創造的に進化させ、その進化に乗って自己の社会における〈生命〉を進化させていくのである。

 

◇「二種類の与贈循環と場所的共存在」の法則の重要性

・このように考えていくと、「二種類の与贈循環と場所的共存在」は社会的生物である人間の生物的進化を考える上で、もっとも重要な法則であることが分かる。

・そしてその法則によって歴史的な変化を考察していくことによって、現代におけるさまざまな民族の運命を文化人類学的に考えていくことができると思う。

・日本民族について言えば、場の文化を広く支えてきた〈いのち〉の与贈循環を比較的安定に継続していくことに、政治的な努力をはじめ人々の問題意識が向かっていて深刻な矛盾は現在のところ見られないが、その反面、新しい思想を創造する〈生命〉の与贈循環への精神的準備がほとんど見られないという状態ではないかと思う。

・短期的には安定しているけれど、長期的には不安な状態―思想的に「鎌倉時代」を乗り越えられないような状態―である。

 

◇明るい未来が到来する可能性を示す新しい思想の必要性

・社会的生物として進化をしていく人間という概念をつかった「二種類の与贈循環と場所的共存在」という存在の法則を、国を場所と考えてその国の民族について上記の様に活用していくことができるばかりでなく、現代では、さまざまな国の人々が地球を場所として一緒に存在していくことが重要であると考えられる。

・そのように考えると、さまざまな宗教的対立と国境を広げようとする意図から生まれる様々な紛争を抱えながら、しかも地球における人間を含めたさまざまな生物の共存在の基盤をくずしていく温暖化現象を回避する明るい見通しが立っていない人間の〈生命〉の現状に気持ちが暗くなる。

・ここで必要なのは、世界全体のさまざまな人々に明るい未来が到来する可能性を示す新しい思想である。それは地球を場所として人間ばかりでなく、さまざまな生物が共存在する状態をつくり出すものでなければならない。

・したがって、地球という場所への人々の〈生命〉の与贈を踏まえていなければならない。国や宗教的場所への〈いのち〉与贈を超えて、地球への〈生命〉の与贈を実行することができるかどうかがその問題の根底にある。

 

◇社会的生物が共存在する場所として社会をつくる創造的な活きからの出発

これまで人間は個人という個の単位から出発して、その集まりとして社会を考えてきたが、社会的生物が共存在する場所として社会をつくる創造的な活きから出発して、〈生命〉の与贈を通じて個人の存在を共存在的に考えていくという、逆の方向の捉え方をここでは指摘したことになる。

・我々の目の前の深刻な共存在矛盾は個人の権利がぶつかって生み出している矛盾であるから、思想の出発点として個人に拘泥してその存在を考えている限り、乗り越えることができないのではないかと思う。

・必要なことは、人間自体が社会を通じて生物体として生物進化をすることである。

 

(資料抜粋まとめ:前川泰久)

              

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◎2024年5月の「ネットを介した勉強会」開催について

5月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、第3金曜日の5月17日(金曜日)に開催予定です。よろしくお願いいたします。

 

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。(参加費は無料です。)

 

場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

 

2024年5月1日

場の研究所 前川泰久

 

場の研究所メールニュース 2024年04月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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4月になりました。桜の便りが思ったより遅くなって、やっと花見の時期になってきました。

新年度になって、また新たなスタートとして気分を変えてお仕事に向かっている方もいらっしゃると思います。

先の3月のオンラインでの勉強会のことになりますが、利用しているメーリングリスト・サービスの仕様変更があり、勉強会の参加手続きを急遽変更する必要が起きました。

このことで、参加者の皆さまには、ご迷惑おかけすることになりましたが、皆さまに協力いただいたことで勉強会は滞ることなく開催できたことを感謝いたします。

しかし、数名、結果的に参加がうまくできなかった方も出てしまいました。

これらを踏まえて、4月の「ネットを介した勉強会」までには、今回顕在化された問題点について対応をとり、勉強会に集中できる環境を整えますので、今後ともよろしくお願いいたします。

 

さて、3月の勉強会は第3金曜日の3月22日に開催いたしました。

テーマは『数えられない存在』でした。ご参加してくださった方々、ありがとうございました。

 

3月のテキスト(楽譜)の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

 

そして、4月の「ネットを介した勉強会の開催は第3金曜日の4月19日を予定しております。よろしくお願いいたします。

清水先生の「楽譜」のテーマは『人間の進化と共存在』の予定です。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

(場の研究所 前川泰久)

 

・2024年3月の勉強会の内容の紹介:

◎第45回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

 

★楽譜テーマ:『数えられない存在』

 

◇余命の宣告における不安と〈生命〉(じつぞんせいめい)の考え方による安心感

・癌の患者が医師から余命何年とか何ヶ月とか宣言されると、当人もその関係者も、その期間を短いものと思って生きていくことになると思う。

・私自身のことを考えると、昔、胃がんの内視鏡手術を受けたときに、余命5年(事実上の安全宣言)と言われたことがあるが、事実、医師の診断を受けるような胃がんの再発は今日まで起きていない。

・私は現在91歳である。昔から、「自分は91歳頃には死ぬのではないか」と思って生きた。そして自己の死は地球のいう場所への〈いのち〉の与贈であると考えてきた。

・そう言う意味では、余命数ヶ月の状態であるが、癌の余命を受けた時のような切迫感は心におきていない。

・なぜそうなのかという理由を考えて、それはその期限がはっきり知らされないからだと思っていた。しかしそうではなく、私は〈生命〉をもって存在しているから、その死は地球という場所への自己の〈生命〉の与贈になり、そのことによって自分自身は地球の〈生命〉によって包まれてその存在の一部になるという安心感があるからだと思う。

 

◇数に切り分けて表現することができない存在:つながりのある存在

・つまり私が〈生命〉をもって存在しているときには、その存在は地球の歴史の中で生まれてきた無数の死によって支えられて、地球全体の動的な状態につながっているために、その存在を数に切り分けて表現することができないのである。

・「余命数ヶ月」という表現は生と死を切り分けることを前提にして存在を考えるときに作られた表現なので、〈生命〉を考えるときには使えないのである。

(先月の勉強会では、こばやしつよしさんも〈生命〉をもった存在は分けられない、したがって数えられないという趣旨のことを指摘している。)

 

◇「いま、ここ」とは

・宇宙の「ここに、いま自己は確かに存在している」というのが、自己の存在の自覚だが、その「いま、ここ」を、自己に存在を与えている〈生命〉から考えると、地球の歴史とともに存在してきた無数の〈生命〉につながっている動的な状態であり、社会で使われているような物理的な時間と位置を示す「いま、ここ」ではない。

・その「いま、ここ」もまた、地球における実存的状態なのである。

 

◇〈生命〉の与贈循環によって包まれる場

・このこととも関係しているが、私たちがこの地球の上の特定の場所に自分の住みかを作って、そこで〈いのち〉の与贈循環の活きによって生活していくときにも、その住みかの場所における「いま、ここ」は地球における〈生命〉の場所のなかで、その与贈循環の影響を受けているために、〈生命〉の与贈循環に包まれた〈いのち〉の与贈循環という形をしている。

・私たちが自己の〈いのち〉の場所で感じていく歴史的変化は不可逆的であり、それは死を媒介とする〈生命〉の与贈循環によって場が包まれているから生まれるのだと思う。

 

◇場の文化について

・日本文化はその真ん中に生活という〈いのち〉の活きが置かれ、〈いのち〉中心的で死について触れることが少なく、無宗教的であるという特徴がある。

・場の文化としてそれを見るときには、〈いのち〉の与贈循環によって生まれる場とその影響を考えることが中心になる。

・しかしそれだけでは、まだ文化の歴史的発展に触れることがほとんどできない。さらに〈いのち〉の与贈循環を包んでいる〈生命〉の与贈循環がその内にある〈いのち〉の活きに影響を与え、その影響が歴史的に伝えられていく奥の深い活きを考えていく必要がある。

 

◇「分けて数えることができない新しい存在」の重要性

・また文化の創造を考えるときにも、〈いのち〉の与贈循環の影響は文化の社会的な拡散や流行を考える上では重要で、そのことは日本の社会の軽やかな流行のあり方を説明するが、文化の創造に自己の存在をかけて打ち込むような活きが社会に生まれるためには、さらに〈生命〉の与贈循環の影響がなければならないと思う。

・そしてその創造が「分けて数えることができない新しい存在」に到達しなければ、世界的なレベルでの創造とは言えないと思う。

・このようなことを考えると、〈生命〉の与贈循環は国際社会における日本の創造のあり方を反省的に考える上でも重要な活きをすると思う。

 

◇〈生命〉の与贈循環に包まれることから生まれる共存在

・最初の問題に戻り、91歳の私がなぜ明日の状態も分からない自分の存在を深刻に悩むことなく、今ここで生きていくことができるかということを考えてみることにしよう。

・私の答えは、既に考えたように、私の存在が〈生命〉の与贈循環に包まれているからである。

・このことは私だけに特別な事情があるからではなく、他の誰にとっても同様であり、またさらには人間だけのことでもないと思われる。この結果は地球に存在しているさまざまな生命体が〈生命〉の与贈循環に包まれて地球の上に共存在していることから生まれてくるのである。

 

◇〈生命〉と「南無阿弥陀仏」

・このつながりのある共存在を生み出している〈生命〉の与贈循環の状態を一口に表現する言葉はいろいろあると思うが、その一つが「南無阿弥陀仏」である。

・さまざまな生命体の共存在を生み出している地球の〈生命〉を「阿弥陀仏」とすると、その〈生命〉に包まれて共存在している生命体の動的な共存在の状態を表現する言葉が「南無阿弥陀仏」に相当する。

・それは「阿弥陀仏」に包まれて、この宇宙に歴史的に生きていく存在は、既に「阿弥陀仏」によって救済されて共存在していくことを表現していることになるのである。

・であるから私は自分自身が〈生命〉の与贈循環の形で死ぬときに唱える言葉としては、「南無阿弥陀仏」がもっとも相応しいと思っている。〈生命〉の与贈循環のイメージが生まれるなら、もちろん別の適切な言葉を使ってもよい。

 

◇つながりのある生命体の存在の重要性

・地球の〈生命〉から切り離して存在を数えることができない人々や動植物とともに私たちは自己の人生を送っていくので、互いの別れは悲しいのだが、自己と〈いのち〉のつながりのある人びとや動植物そして自己自身に対してはそのことを思いながらも、しかし同時にそのつながりのない生命体の存在は自身の存在から切り離して数を数えているという論理的に矛盾した人生を生きている。そしてそのことを当然としている。

・私たちはもちろんのこと、さまざまな生命体が地球の上で共存在していくためには、この生命の存在の論理した矛盾を生きることをある程度は受け入れなければならない。

・それは生命の関係がある程度矛盾していても、死の活きまでを含めて考えると地球の上で共存在が成り立つからである。

・でも、もちろん、許される矛盾の大きさには限界があり、その限界を超えると地球の〈生命〉そのものが消えてしまう。分かりやすく表現すると、たとえば「阿弥陀仏」が消えて生命体の存在を救済する「南無阿弥陀仏」の活きがなくなってしまうのである。

・現在、人類が直面しているのは、このような危機的状態の始まりではないかと思う。

 

(資料抜粋まとめ:前川泰久)

              

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◎2024年4月の「ネットを介した勉強会」開催について

4月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、第3金曜日の4月19日(金曜日)に開催予定です。よろしくお願いいたします。

 

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。(参加費は無料です。)

 

場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

 

2024年4月1日

場の研究所 前川泰久

 

場の研究所メールニュース 2024年03月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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3月になりました。今年は温かい日が多いので桜前線の北上も早いそうです。

しかし、三寒四温の言葉のように、まだまだ寒い日もありますので、皆様お身体大切になさってください。

 

さて、2月の勉強会は、16日の金曜日に開催いたしました。

テーマは『共存在と与贈循環』でした。ご参加してくださった方々、ありがとうございました。

 

2月のテキスト(楽譜)の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

 

そして、3月の「ネットを介した勉強会の開催は3月1日が金曜日なので、第3金曜日では少し早いかと思いますので、第4金曜日の3月22日を予定しております。よろしくお願いいたします。

清水先生の「楽譜」のテーマは『数えられない存在』の予定です。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

(場の研究所 前川泰久)

 

・2024年2月の勉強会の内容の紹介:

◎第44回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

 

★楽譜テーマ:『共存在と与贈循環』

 

◇2つの与贈循環について

・私たちの身体に幾兆個という細胞を共存在させるために、心臓が絶えず働いて血液を循環させていることからも分かるように、共存在と与贈循環とは結びついた現象である。

・事実、どの様な場所に存在者の共存在を生み出すかによって、その与贈循環の形も変わってくる。私たちにとって卑近な例としては、それぞれの家庭における家族の共存在と、地球における私たちを含めるさまざまな動物や植物の共存在とがある。

・これらの例では与贈循環をするものは、前者では家庭という場所における〈いのち〉であり、後者では地球という場所における〈生命〉(じつぞんせいめい)である。

 

◇〈生命〉(じつぞんせいめい)という新しい定義

・ここで〈生命〉とは、私が初めて定義をする概念であり、生命だけでなくその生命を支えているモノとしての存在をも含めるものである。

・例えば人が死ぬということは、その生命が無くなるということだけではなく、〈生命〉が無くなるということを意味している。

・地球における存在者としての生物の共存在を考えるときに、なぜ〈生命〉の与贈循環を考えなければならないのかを説明していくことにしよう。

 

◇林における楓を例にした与贈循環の活きについて

・広い林があって、さまざまな木がたくさん生えていると考えよう。その中の1本の楓に注目することにする。

・春の心地よい風に吹かれるとその枝からは、幼子のように初々しい浅いみどりが沢山芽を出し、楓の木という場所から与贈されてくるさまざまな物質を受けて成長していく

・その新芽の一つ一つにそれぞれの生命があり、その様子は家庭における家族の誕生のようである。

・やがて新芽がしっかり開いて、太陽の光を受けるようになると、光合成によって生み出した〈いのち〉の活きを沢山の葉が場所としての楓の木の方へ与贈し、そこで場所的な〈いのち〉を自己組織していくので、夏も過ぎるころには、活発な〈いのち〉の与贈循環によって楓は年輪を重ねて一段と成長する。

・楓の葉の与贈循環の活きに対して、秋には木の方から感謝の紅い色が送られて、その見事な美しさに対して地球に住む多くの生きものたちからの賞賛を受けるのである。

 

◇〈生命〉が消えていく過程の重要性

・しかし楓の葉も生命をもって存在している限り、何時までも場所にとどまっていることはできない。

・木から落ちて丸くなり、風に吹かれて林の中を転げていき、何処かの場所で昆虫やバクテリアによって分解させて物質化しながら林の土を肥やしたり、また雨に流されて最終的には海に出てさまざまな微生物や動物性や植物性のプランクトンの餌になったりして、貝や魚に食べられる。

・その貝や魚をさまざまな鳥や陸に住む動物たちも食べることから、楓の葉が木から落ちて、その〈生命〉が消えていく過程は、地球のおける生きものの共存在に対して非常に重要な与贈循環になっていると考えられる。

 

◇地球という場所での〈生命〉の与贈循環

・上に書いた例は、林における他の木にも、また動物たちにも当てはまる。もちろん、人間も例外ではない。

・まとめて言えば、地球という場所において、動物と植物、また陸生と水生のさまざまな生きものが共存在してきたのは、その共存在を支えている与贈循環が存在しているからであり、その与贈循環は〈いのち〉の与贈循環だけではなく、〈生命〉の与贈循環が中心であると結論される。

 

◇近代社会の生命に対する軽視について

・人間の社会では、昔は知らず、近代社会では人や動物の死を「生命が無くなること」とだけ考えて、モノとしての存在の面を軽視しているように思われる。

・しかし地球における生きものの共存在を成り立たせているのは、〈生命〉の与贈循環であり、死は存在者としての自己の〈生命〉を場所的生命体としての地球に与贈することなのである。

・そのことは同時に、場所的生命体として地球に自己組織される場所的〈生命〉から与贈される活きに包まれて、私たち人間は存在しているということである。

・そして、その自己の死が〈生命〉である自己の存在の地球への与贈なのである。この事実がある限り、宗教はさまざまな形で人間の社会に続いていくと私(清水)は思う。

 

◇存在と与贈の〈生命〉を生きることの重要性

・共存在の場所である地球の上で人生を送ることは、生命を生きることではなく、存在と与贈の〈生命〉を生きることでなければ、どこかで矛盾が生まれてしまう。

・そういう人生にも関係して、既存の宗教の対立を乗り越える新しい思想は地球における〈生命〉の与贈循環から出発するものでなければならない。

・また生命科学は、さらに一般的には〈生命〉科学でなければならない。

 

◇〈生命〉に基礎を置く人権の必要性

・親しい人が亡くなったときには、その生命を失ったことが悲しいばかりでなく、〈生命〉を失ったことがさらに深く悲しく、そして何時までもそれが続くのである。

・そこには、地球の歴史でたった一つだけの存在の喪失が含まれているからある。

・人権の尊さ、そしてさまざまな生きものの存在の尊さには、地球における生きものの共存在を生み出してきた地球という場所における〈生命〉の与贈循環の活きが含まれている。

・存在を含んでいない生命に基礎を置いて、近代思想の人権が定義されてきたとしたら、現在の地球が必要としているものは〈生命〉に基礎を置く人権である

 

◇場所における対話のありかた

・一つの場所における対話、それはオーケストラに例えられる私たちの勉強会もそうだが、〈生命〉すなわち互いの生命の存在論的な唯一性に基礎を置いておこなわれるものでなければならないと思う。

・それを経験することで、互いの〈生命〉の形が見えてきて、対話の場所における〈生命〉の与贈循環の姿が見えてくるものでなければならない。

・対話は、それが〈生命〉の対話である時に、人生の新しい経験となるのである。

 

◇藝術と〈生命〉の関係

・〈生命〉の与贈循環を基盤にして生まれる藝術は、その基盤が地球における共存在を生み出している活きであることから、それに自己と自然のつながりを深める活きがある。

・ガウディの建築の見事さに惹かれて、私(清水)は若い頃に数度バルセロナを訪ねたが、「なぜ惹かれたか」と言われれば、彼の建築を通して触れる自然の美しさに惹かれたからであった。

・私だけの経験かも知れないが、優れた藝術は、どのような形のものにしろ、心に深く懐かしさを感じさせる。

・それは〈生命〉の与贈循環が人生における〈生命〉の共存在の経験を生み出していくことに原因があると私は思う。

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)

 

場の研究所メールニュース 2024年02月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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2024年もスタートしたばかりと思っていましたが、もう2月になりました。

まだまだ寒い日が続きますので、皆様お身体大切になさってください。

 

さて、新年最初の勉強会は、1月19日の金曜日に開催いたしました。

テーマは『場所と阿頼耶識』でした。ご参加してくださった方々、ありがとうございました。

AIと仏教の全く違うものの捉え方についても学びました。

1月のテキスト(楽譜)の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

 

そして、2月の「ネットを介した勉強会」の開催は第3金曜日の2月16日を予定しております。よろしくお願いいたします。清水先生の「楽譜」のテーマは『共存在と与贈循環』の予定です。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

(場の研究所 前川泰久)

 

・2024年1月の勉強会の内容の紹介:

◎第42回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

 

★楽譜テーマ:『場所と阿頼耶識』

 

◇場所的存在感について

・旅行先から帰って、わが家に一足踏み入れたときに感じるホッと安心する状態は、住み慣れた自宅という場所に生まれる場所的共存在感(ないし場所的存在感)によってもたらされる。

・また自己の家庭で安心して生活できるのも、家庭という場所において自己に生まれる場所的共存在感のおかげである。

・さらに子どもの頃デパートで感じた豊かで温かいにぎやかさに包まれる場所的共存在感。また入学試験の試験場で感じた緊張した場所的共存在感。さらには高い場所において自己の存在に心許なさを感じる高所恐怖症も高い場所において自己に生まれる場所的存在感によってもたらされるものである。

・それらの共存在感ないし存在感は場所における自己の存在に場所的な意味を与える活きによって生まれるものであり、それはその場所において自己に生まれる場の活きによってもたらされる。

・そしてその場の活きは場所において自己の身心に自己組織的に生成する活きであるから、同じ場所においても人によってかなり異なるのである。

 

◇自己組織的な場の活きと阿頼耶識

・場所において自己の身心に相互誘導合致的に生まれる自己組織的な場の活き(身体を中心とした〈いのち〉の場所的自己組織の活き)によって場所的共存在感は生まれるのであるが、その〈いのち〉の自己組織的な活きを映しているのが阿頼耶識であると、私(清水)は考えている。

・唯識論にはいわゆる五感の活きに基礎をおく第五識までの活きと、それらを基礎にして一切の対象を認識し推理をする意識である第六識、そしてさらにその他に深層意識(無意識)と言われる第七識(末那識)と第八識(阿頼耶識)とがある。

・末那識は意識の背後ではたらく自我意識である。

・また阿頼耶識は場所における自己の身体の〈いのち〉の自己組織の活きを感じて、自己の存在に場所に生まれる場と相互誘導合致する活きを生み出していると私は考えているのである。

→つまり、場所における阿頼耶識の活きによって身体中心に場所的共存在感(場所的存在感を含む)が生まれるのである。

 

◇場所的存在の自覚と阿頼耶識

・自己が今、自己自身の「〈いのち〉のドラマ」のどの様な局面(「舞台」の場面)に「役者」として登場していて、これからどの様なことを演じていかなければならないかを直観的に自覚する活きとして、阿頼耶識の活きを理解することもできるのではないかと思う。

・自己自身の存在の自覚は、この活きから生まれるのではないかと思う。

・一匹の蚊も、場所的な意味の直観的自覚が優れていて、なかなか殺せない。蚊としての存在を守る「阿頼耶識」を備えているように思われる。

・場所的存在の自覚は、このような阿頼耶識の活きから生まれるのではないだろうか。

 

◇〈いのち〉の存在感を身体が直観的に自覚する活き

・たとえば高所恐怖症は「役者」としての自己は、「〈いのち〉のドラマ」を一歩先へ踏み出すために〈いのち〉の与贈循環が必要な状態にありながら、身体が高所に存在しているために、その踏み出しのために必要な場所への〈いのち〉の与贈をおこなうことができないことによる「存在の恐怖」ではないかと思う。

・自己の身体が安定した〈いのち〉の存在状態にあることが、場所において生きていくために必要であるから、阿頼耶識はそのために〈いのち〉の自己組織による場所的相互誘導合致によって生まれる〈いのち〉の存在感を身体が直観的に自覚する活きであると考えられる。

・つまり、〈いのち〉の場所的自己組織による身体の場所的共存在状態(自己が直面している「〈いのち〉のドラマ」の状態)を直観的に自覚する活きである。

 

◇AIには自覚できない場所的共存在の活きの重要性

・〈いのち〉と身体をもっていないAIに、このような活きをする阿頼耶識を与えることは構造上もできないので、AIは場所的共存在の自覚ができないのである。

・生成系のAIは意味の理解する活きと直観の活きがないと言われているが、それはAIが第六識までの活きを基礎にしてつくられているために、原理上、深層意識(無意識)をもっていないということ、例えば高所恐怖症をもったAIは存在しないということである。

・つまり、場所的共存在感を生成してそれを感じるためには、〈いのち〉の場所的自己組織の活きを映す阿頼耶識の活きが必要であるが、第八識である阿頼耶識を第六識によって作られている科学技術の客観的な対象としてその活きを解明することは不可能であるために、AIに阿頼耶識を与えることは原理的に不可能である。

・このことは生成系AIが生み出すフェイク情報に振り回され、さらにはAIによって社会を支配されないためには、人間は〈いのち〉の自己組織による場所的共存在の活きの重要性を見直して、社会的にも活用していくことを考える必要があることを示している。

・具体的には、場の活きを通して〈いのち〉の自己組織による場所的共存在への理解を深めていくことが、地球を共通の場所として共に生きていくためにも、ますます重要になってくる。

 

◇場所的共存在感覚の低下について

・阿頼耶識の活きは存在者が自己の居場所へ長い期間引きこもることによって弱められ、その程度が次第に進行していくと、場所的共存在感覚をもって生きていく活きそのものが失われるのではないかと思う。

・事実、その様な可能性を示唆する事件が社会的にも頻繁に見られるようになっていると思われる。場所に対応するのは存在であり、居場所に対応するのが存在者であるということは、すでに私たちは勉強会で考えたが、生成系のAIが人間の存在者としての活きのみを強めて、その反面で身体の〈いのち〉の活きを基盤にしている人々の場所的共存在感覚を弱めてしまうことが心配になる。

・すでに人間の場所的共存在感覚の低下が、例えばウクライナやパレスチナに深刻な紛争を引きおこしている原因の一部にもなっている可能性があり、地球規模での問題解決の難しさから場所としての地球における場所的共存在感覚の低下は極めて深刻な問題であると、私(清水)は考えている。

 

◇阿頼耶識によって見いだされる場所的共存在感

・過去の勉強会では、松尾芭蕉の俳句を例にして、ホストとゲストの活きそしてそれらを自己組織的に結びつけている相互誘導合致の活きを説明したが、唯識の言葉を借りて説明すると、ホストは自己の存在に場所が与える活きを、第八識である阿頼耶識によって直観的に掴むことによって生まれる場所的共存在感であり、ゲストはその共存在感に包まれる対象を第六識によって掴む活きである。

・その結果、ホストとゲストは自己組織的に(相互誘導合致的に)結びつけられた形によって表現される。

たとえば、

 「古池や 蛙飛び込む 水の音」

では、「古池」は「円環的時間が意識を超える過去から歴史的に続いてきた」というような場所的共存在感が阿頼耶識によって直観的に見出されており、「水の音」はその共存在感と相互誘導合致する存在として対象意識の活きである第六識によってそれが具体的に示されている。

 

◇第六識(意識)と第八識(阿頼耶識)によって捉えられるものの違いについて

・第六識(意識)によって家庭における家族の状態を捉えると、居場所に「生きている」という状態として経時的に意識の対象として具体的に捉えられ、そこに第八識(阿頼耶識)によって捉えられる場所的共存状態を相互誘導合致的に加えると、共に「生きていく」状態として「〈いのち〉のドラマ」の円環的時間において歴史的に捉えられる。

・歴史的に捉えるということは、阿頼耶識の活きによって捉える家庭をホストにして、そこを場所にして共存在している家族の日常的な活動をゲストにして、この俳句のようなホスト━ゲストの形でその生活をドラマ的に捉えていくということである。

・阿頼耶識の活きである〈いのち〉の自己組織の活きが加わることによって、〈いのち〉のドラマが場所に生まれ、家族が家庭で共に生きていく歴史的な意味が現れてくる。

・場の活きが人々をつなぐのは、〈いのち〉の自己組織によって場が場所に現れて、人々の〈いのち〉を一緒に包むからである。

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)

              

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◎2024年2月の「ネットを介した勉強会」開催について

2024年最初の2月の勉強会ですが、最初にお知らせしましたように、第3金曜日の2月16日(金曜日)に開催予定です。よろしくお願いいたします。

 

今回も、場の研究所スタッフと有志の方にご協力いただき、メーリングリスト(相互に一斉送信のできる電子メールの仕組み)を使った方法で、参加の方には事前にご連絡いたします。

この勉強会に参加することは相互誘導合致がどのように生まれて、どのように進行し、つながりがどのように生まれていくかを、自分自身で実践的に経験していくことになります。

参加される方には別途、進め方含め、こばやし研究員からご案内させていただき、勉強会の資料も送ります。(参加費は無料です。)

 

場の研究所としましては、コロナの状況を見ながら「ネットを介した勉強会」以外に「哲学カフェ」などのイベントの開催をして行きたいと考えています。もし決定した場合は臨時メールニュースやホームページで、ご案内いたします。

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今後の、イベントの有無につきましては、念のために事前にホームページにてご確認をいただけるよう、重ねてお願い申し上げます。

 

2024年2月1日

場の研究所 前川泰久

 

場の研究所メールニュース 2024年01月号

このメールニュースはNPO法人「場の研究所」のメンバー、「場の研究所」の関係者と名刺交換された方を対象に送付させていただいています。

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■場の研究所からのお知らせ

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2024年になりました。

皆様いかがお過ごしでしょうか?

 

元旦から、能登を中心とした大地震が起きてしまいました。

被害も甚大で、まだまだ全容がつかめていない状況ですが、被災に遭われた方々へ、心よりお悔やみを申し上げます。

いち早い救済と復興をお祈りするばかりです。

 

場の研究所の活動ですが、昨年はいろいろ皆様にお世話になりました。ありがとうございました。

お陰様で「ネットを介した勉強会」は42回と長く継続させていただいています。

今年も、勉強会を中心に活動を進めて参りますので、是非よろしくお願いいたします。

 

さて、場の研究所の第42回「ネットを介した勉強会」は、12月15日(金曜日)に開催いたしました。

テーマは『生命の誕生と場』でした。ご参加してくださった方々、ありがとうございました。

このテーマは、12月の勉強会の際にご説明しましたように、昨年7月の勉強会と同じテーマ名ですが、清水先生から表現に曖昧な部分があり、より理解し易くした内容で皆さんと再度議論したいということで加筆修正されたものです。実際の勉強会では、新たに多くの意見が寄せられて良い議論が出来たと思います。

加筆修正された12月のテキスト(楽譜)の内容については、参加されなかった方も、このメールニュースを是非参考にして下さい。(オーケストラになぞらえて資料を「楽譜」と呼んでいます。)

 

そして、1月の「ネットを介した勉強会」の開催は第3金曜日の1月19日を予定しております。よろしくお願いいたします。清水先生の「楽譜」のテーマは『場所と阿頼耶識』の予定です。

 

もし、ご感想、ご意見がある方は、下記メールアドレスへお送りください。今後の進め方に反映していきたいと思います。

contact.banokenkyujo@gmail.com

メールの件名には、「ネットを介した勉強会について」と記していただけると幸いです。

(場の研究所 前川泰久)

 

・2023年12月の勉強会の内容の紹介:

◎第42回「ネットを介した勉強会」の楽譜 (清水 博先生作成)

 

★楽譜テーマ:『生命の誕生と場』

 

◇「場とは何か」を考える

・前回の勉強会では、場とは何かを生命から引き出す理論をつくることはできないが、〈いのち〉から出発してホスト━ゲスト問題の形をつくれば、場とは何かを普遍的な形で明らかにすることができるという説明をした。

・それは、生命から出発して場を説明できないのは、場の活きによって生命が生まれるからであり、論理的に順序が逆になるからである。

・このことは、場の活きを使えば、ホスト━ゲスト問題の形で、多様な「個の〈いのち〉」からその個が集まった「場所の生命」の継続的な生成による維持を論理的に考えることができるということを意味している。

 

◇生命におけるホスト━ゲスト問題について

・このような形で生成維持される生命は、細胞の集まりから始まって、多様な動物や植物、さらには、たとえば私たちの家庭、企業、国家、そして最終的には地球そのものというように、様々な分野とレベルに広く存在している。

・前回考えた私たちの家庭であるが、昔はいざ知らず、少なくとも現在の社会的状況では、夫と妻の内のどちらかを場所におけるホストとして考えることはできない。そこで両者がよく話し合って、「ホスト」の活きを家庭につくり出し、それぞれはその「ホスト」の下での「ゲスト」として、家庭という〈いのち〉の場所を中心に振る舞っていくということになると思う。

・そして、その「ホスト」が家庭生活という「〈いのち〉のドラマ」の「監督」に相当することになり、その形は、憲法という「ホスト」の下における国民の生活に少し似ている。

・新しい家庭のこのような生成は夫婦の〈いのち〉の活きからの場所の生命の生成による維持であり、そこにその生命の歴史が生まれていくのである。

・場という「舞台」の状態が家庭という場所に生まれなければ、〈いのち〉のドラマは継続して行かないので、このような場所の生命の誕生とその生成的な維持はおきないということになる。

 

◇円環的時間について

・「ドラマ」が生まれるということは、時間が生まれるということを意味している。

・その時間は場所の歴史的時間に相当するが、直線的に進行する物理的な時間ではなく、未来の方に生成的に進行するばかりでなく、生成されていく状態が過去の状態とも整合しているかどうか━つまり、歴史的に整合しているかどうか━を確かめながら進んでいくという、未来と過去の間を円環的に循環しながら進んで行く円環的時間である。

・この〈いのち〉のドラマの円環的な進行は、親鸞の浄土真宗の往相回向と還相回向の循環と同じ形をしているのである。

 

◇時間差相互誘導合致について(場を介して互いに関係することで調和的につながる)

・〈いのち〉の活きから場所の生命が生まれるということの基盤には、このように歴史的時間の絶え間のない生成ということが存在していなければならない。また歴史的時間は円環的時間でなければならない。その円環的時間は場所における場の活きによって生成されるものである。

・私たちは過去の勉強会で「時間差相互誘導合致」を取り上げたが、それは次のような事実とも関係している。

・私たちの腹腔という場所には、性質が相互にまったく異なる多様な臓器が一緒に調和的に存在している。そのような存在ができるのは、それぞれの臓器の存在が腹腔(身体)という場所を媒介にしてつながっているからである。

・性質がまったく異なるために、直接つながろうとすると互いに反発して共存在できない多様な存在者が、「存在の場所」に互いに与贈しあって関係すると、調和的につながることができるのである。それは、場所に全体を包む場の活きが生まれるからである。

・「舞台」の上の場を媒介にしてつながるために、性質の異なる「役者」が調和的につながることができるのである。これは「一即多、多即一」(西田哲学)の矛盾的自己同一で表現されている。

・この状態を次のように考えることができる。

→調和的な共存在状態が場所に生まれることを「目的」として、それぞれの臓器がその〈いのち〉をすべての臓器を含めた場所―自分自身を含めた場所―に与贈して、「場所の〈いのち〉」を自己組織的に生成して、その場所と相互誘導合致をしている。

その場所を存在全体として見ると、そこにはその場所に存在するすべての臓器が含まれている。

それは〈いのち〉のドラマの舞台(場所)を、ドラマという歴史が進行していく場所全体として見ると、そこにはすべての役者が存在しているので、その舞台ですべての役者がドラマを演じていくことは、少なくとも最終的には、自分自身の役柄とも合致した存在をその舞台に生成していくということである。

もしも〈いのち〉のドラマが歴史的に継続して未来へ向かって発展的に続いていくようなら、場所に「場所の生命」が誕生したと考えてもよいのではないかと思う。さらに厳密には、その死についても考える必要があるかと思う。

 

◇場所的共存在を進めていく活きについて

・生きている限り、臓器は様々な病気にかかる。深刻な状態では、手術や臓器移植もおこなわれる。このようなことから分かるように、身体という場所における臓器の共存在は、最終的には安定した調和に向かわなければならない。

・そのためには、相互誘導合致のように安定した状態に向かって〈いのち〉のドラマを進めていく活きが身体(場所)に必要になる。そこで現在における存在状態(相違)を出発として、多様な「役者」が同じ「舞台」(場所)において未来における場所的共存在を進めていく活きを時間差相互誘導合致と名づけて勉強した。

・繰り返しになるかも知れないが、時間差相互誘導合致の一番重要な点は、歴史的時間である円環的時間がホスト━ゲスト問題の形で生まれるということ、つまり時間差の生成である。

・それを可能にしているのは、多様な存在者である臓器からの〈いのち〉の与贈によって「場所の〈いのち〉」を元にして身体の生命が継続的に自己組織されて、その生命に多様な存在者の〈いのち〉が包まれるという事実である。

 

◇円環的時間の流れと共に起きる変化

・〈いのち〉のドラマを流れる時間は場所の過去と未来を円環的につなぎ続ける歴史的時間である。

・〈いのち〉のドラマの生成が続いていくことが歴史的時間の生成に他ならない。この円環的な時間の流れとともに、場所の旧い状態が消えて、新しい状態が生まれる。

・言いかえると、場所の歴史的な変化がおきる。その歴史的変化では過去が消えて未来が生まれるから、旧い物質的な状態が消えて新しい物質的な状態が生まれる、物質的な面での新陳代謝がおこる。

・そのことがあって歴史が進み、〈いのち〉のドラマが進行していくのである。歴史的時間の生成に他ならない。

 

◇〈いのち〉の与贈により起きる流れ

・場所に生命が生まれて「〈いのち〉のドラマ」が進行していくことを、〈いのち〉と場の活きから考えていくためには、ホスト━ゲスト問題の場所に〈いのち〉の与贈循環をベースにして〈いのち〉のドラマが生まれて、歴史的な時間や物質の流れがおきることが中心になる。

・さらに具体的には、情報やエネルギーの面でもこの場所的変化を具体的に出現させるために必要な変化がおきて、それが歴史的に継続して行くことが必要である。

 

◇高齢者(清水自身)の円環的時間について

・人生を長く生きて、私のように90歳を越えると、〈いのち〉のドラマも終わりに近づき、未来の夢を考えることができなくなり、これまでのように円環的時間が生まれにくくなってくる。

・ほんの僅かしか残っていないにしろ、「残されている未来における自己」を気兼ねなく思うことができたのは、私の場合は88歳までである。90歳の現在では、「残されている未来」はもうほとんど無くなったという思いが強くなり、元気で生きていられる間に自分に課せられている責任をできる限り果たしていこうという思いで生きている。

・私の〈いのち〉のドラマには、現在までの生と近い未来における死の間に円環的時間が生まれて自己を前に進めているのである。私の場合は場の活きは大きく変わらず、むしろ深まっていくが、90歳になった頃からモノとエネルギーと情報の活きが自分から急速に失われていき、生命を支えている力が無くなっていくことが実感されている。

・その変化がこれまで自己がこれまでの人生で体験した生命の変化のなかでも、最も速いものであることが未来に向かって生きていく自信を失わせていくのである。しかし、その自己に未来に向かって生きていく気持ちを与えて、支えている活きがある。

・それはホスト━ゲスト問題の形でおこなわれてきた〈いのち〉の与贈循環によって生まれた場の活きであり、私の場合は、それは家庭という場所における妻との生活、そして場の研究所を中心にした場所における何人かの人びととの支え合いの活動によって生まれてくるものである。

・その〈いのち〉の与贈循環が円環的時間を私に贈ってくれるのである。それらは人生における最高のプレゼントである。

・言いかえると、人生は最終的には〈いのち〉の与贈循環によって支え合うものなのである。

・一般に場所を生命の拠り所として何人かの人が生きていこうとする時には、先ずその場所における「ホスト」(場のテーマ)を見出して、ホスト━ゲスト問題の形をつくって一緒に生きていくと、自然に〈いのち〉の与贈循環が場所に生まれて、場の活きによって〈いのち〉のドラマが自然に進行する。

・問題を前にして、その場で対応を決めようとすると、互いの間に複雑な感情が生まれて、自己の〈いのち〉を場所に与贈しようという気持ちがなかなか生まれないので、問題が難しくなってしまうのである。

・私が90歳に近づいてから支えられてきたのは、家庭と場の研究所に自然に生まれてくる〈いのち〉のドラマ、つまり両者の生命である。

 

◇生命は消えても〈いのち〉は無くならない

・死は生命の終わりを意味しているが、それを〈いのち〉の活きから考えると、地球という場所の〈いのち〉からいただき、そして場所によって支えられてきた生命を、もとの場所に〈いのち〉として返していくことである。

・地球という存在の場所に「場所の〈いのち〉」が自己組織的に続くかぎり、個としての生命は消えても、場所の生命がなくなることはない。

・それは数えることができない〈いのち〉から生まれる生命、すなわち無量寿である。そして地球を「ホスト」として生まれる時間差相互誘導合致の活きが続くかぎり、その生命も何らかの形で続いていくと思われる

 

◇無量寿経の解釈と私(清水)の生命論

・このような観点から自己の存在をその生と死を含めて考えていこうとすると、「ホスト」としての地球の〈いのち〉を阿弥陀如来と見立てて、ホスト━ゲスト問題の物語的表現として無量寿経を見ることは無意味ではないと思う。

・信じるか、どうかは別として、親鸞の無量寿経の解釈は、上記の私の生命論と論理的には同じ形をしている。それは日本の場の文化が生み出した宗教であると思う。

 

以上(資料抜粋まとめ:前川泰久)